メルマガ:小説『さなだむしの自画像』
タイトル:NO40  2009/04/18


『さなだむしの自画像』


「さなだむしは巧みな方法で自らの形を変えながら過ごしていた。

環境に適応して、そこへ溶け込んでしまうためには、自分の今の生活をもそれに合うように変化させてしまうこともいとわない。

しかし次第にもうここでは生きていけないのでは、と思い始めていた。



寄生虫は宿主に悪いことをし、しばしば命さえも奪う怖いイメージを持っている人がいる。

しかしそれには大きな誤りがある。

宿主の命を奪えば寄生虫自身も死ぬ。

寄生虫は本来、宿主に住みつくことによって、自らも生きていく生き物である。

彼らは自分自身、その環境に同化するために、すさまじい適応力を持っている。

つまり、本当は寄生虫がいても宿主は決して迷惑をしないものだ。

人や動物に致命的な害をするものもいるが、それは、本来寄生すべきではない動物に寄生虫がいってしまった場合である。

本来、宿主と寄生虫の間には、一つの信頼ができている。

ただ、さなだむしはここで、満たされたことがあるるだろうか。



最近のさなだむしにイライラする日々が続く。

勉強と人間関係。

周りのものすべてをうっとうしく感じていた。



さなだむしは「学校は何のために行くのだろう。」とよく考えてしまう。

しかし学校は何があっても絶対行かなければならない場所だった。

さなだむしにとって、学校に行かないということはマークシートで
「1〜4のどれかを選べ」
と書いてあるのに、解答用紙の枠の外に自分で5という番号を作って、
それを塗りつぶすみたいなものと考えていた。

それでも、この退屈な学校生活と全く自由に振舞えない人間関係の中で、その問いは避けては通れなかった。

暑い朝、汗びっしょりで40分自転車をこいで学校に行っては、
朝礼で先生の長い話を聞き、つまらない授業を受け、友達関係では駆け引きの連続。

「何のために学校に行っているのだろう」という問いは
「何のために生きているのだろう」という問いにもなり、
この単調な生活そのものに何の意味も見出せずにいた。
 


「何のために学校に行っているのか分からない」

とさなだむしはいつも思っている。

大人は「将来」、「社会」という言葉を使って、
子ども自身にこれからの人生を考えさせることで、
その問いにもっともらしく答え、自分自身も最良の答えだと思っている。

世間を知らない今のさなだむしでもその大人の言う言葉は
「もっともだ」とその時は思う。

しかしどこかでうまくかわされたような気がして、何か後味の悪いものが残る。

それでも、「将来」「社会」というその言葉をさなだむしは、
心の根本的なところで支えにして、
何とか、高校だけは卒業させてくださいと、
毎日帰り道に神社に寄っては、賽銭を投げていたものだった。


(この続きはまた今度・・・。)

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