メルマガ:【 明治維新 】の閑話休題 
タイトル:【 明治維新 】の閑話休題 第6章  2007/01/20


@人@・・・@人@・・・@人@・・・@人@・・・@人@・・・@人@

          【 明治維新 】の閑話休題     


      第六章  【【 龍馬暗殺の謎 】】

☆人☆・・・☆人☆・・・☆人☆・・・☆人☆・・・☆人☆・・・☆人☆

子どもが留学したいと言った時、費用がなくて断念させました。

親として、本当に不甲斐ない思いでいっぱいでした。

どうしても諦めきれず、何とか方法はないかと
インタ−ネットを検索しているときに、このHPに出会いました。
http://z.la/siwsq

それから1年後、1年遅くなりましたが子どもを留学させることができ、
次男は私立の医学部に進学させてやれました!

親として、最高に幸せです。

このHPに出会ったことに、本当に感謝しています。


明治維新に関心のあるみなさん、こんにちは。
このメルマガの発行人、山中です。

年末年始は、随分とお休みしてしまいました。
申し訳ありませんでした。
12週間ほど、ドイツのあちこちを回っていました。
素晴らしい思い出になりましたが、時差ぼけなのか、
体がだるくて、まだ疲れが取れません(笑)

今回のお話は、誰もが興味のあるお話。
そして、有名なお話です。
すでにご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、
ぜひもう一度読み直してみてください。
意外な発見があるかもしれません。


第六章  【【 龍馬暗殺の謎 】】

○維新前夜、夢半ばにして倒れた龍馬

坂本龍馬が京都の醤油商近江屋で暗殺されたのは
慶応3年(1867)11月15日夜のことであった。

そのころ京都市中は、「ええじゃないか踊り」の狂気乱舞で
騒然をきわめ、しかも、1ヶ月前に大政奉還があったとはいえ、
まだ討幕派の動きに鋭い監視の目を光らせる新選組や
貝廻組がうろついていた。

そうした京に福井からもどってきた龍馬は、
はじめ西木屋町寄りの材木商方に潜伏していたが、
3日前から近江屋に身を寄せていた。

その日、龍馬は風邪ぎみで、裏の土蔵から母屋の二階に移っていた。
午後七時ごろ、中岡慎太郎が訪ねてきた。
二人は火鉢を囲み、これからの政局について、熱い議論を交わした。
薩長同盟を成立させた同じ土佐の脱藩志士ではあったが、
穏健な龍馬に対して、中岡は尊擁急進派で、
その意見は時として噛み合わないことがあった。

やがて空腹を覚えた龍馬が、居合わせた菊屋の峯吉に
軍鶏(しゃも)を買いに行かせた。

血の惨劇が起こったのは、その直後であった。

十津川の郷士と称する3人の男が、龍馬を訪ねてきた。
下男の藤吉が取り次ぎ、二階に上りきったとき、
男たちはいきなり藤吉の背後から斬りつけた。

その物音を聞いた龍馬は、自分を襲いにきた刺客とも知らず、
思わず「ほたえな(騒ぐな)」と叫んだ。
労せずして声の主の所在を知った刺客たちは、
階段を上った左側の六畳間と次の六畳間を駆け抜け、
態馬と中岡のいる奥の八畳間に白刃をかざして躍り込んだ。

かって寺田屋で襲われたときは、
高杉晋作からもらったピストルで応戦した龍馬だったが、
あっという間に前額を横なぎに斬られ、床の間の愛刀をとろうと
身をひねったところを、右肩から袈裟がけに斬られた。

刺客が去ったあと、龍馬は、
「脳をやられた。もういかん」とうめいて絶命した。
中岡も、10か所以上を斬られ、翌々日の夕方、息をひきとった。
龍馬33歳、中岡30歳であった。


○龍馬暗殺の黒幕はだれか?

龍馬らを暗殺したのはだれか。

真っ先に疑われたのが新選組だった。
現場に残されていた下駄と刀の鞘。
下駄は新選組なじみの料亭瓢亭(ひさごてい)のもの、
のちに鞘も新選組の原田左之助のものとわかった。

さらに事件直後、近江屋に駆けつけた土佐藩士谷干城は、
虫の息の中岡から、刺客は「こなくそ」と
叫びながら斬りかかったとていた。
これは四国の方言で、この野郎という意味だ。
原田が伊予松山の出身であることから、
新選組犯行説はますます濃厚となった。

ところが明治3年(1870)、
みずから真犯人だと名乗る男が自首してきた。
旧幕府の見廻組の一員だった今井信郎である。
今井は、隊長の佐々木只三郎以下、七人で襲ったと供述、
見廻組の犯行を認めたのである。

だが、この今井の供述を鵜呑みにしてもよいのだろうか。

新選組の犯行を匂わせる下駄と鞘、そして「こなくそ」という言葉……。

それ以降、見廻組説と新選組説の双方が伝承され、
いずれにしても勤王派の龍馬を殺害したのは、
当然、佐幕派の者だろうと考えられてきた。

ところが、のちになって、幕府は「龍馬を殺すな」と
指令を出していたことがわかった。

将軍慶喜を首班とする政体、大政奉還を
幕府にすすめたのは土佐藩主山内容堂であるが、
その建白書のもとになった「船中八策」を、
容堂の腹心・後藤象二郎に授けたのは、龍馬である。
龍馬は、武力を用いず、新時代を開いたほうがいいと考えていた。

幕府は、龍馬に対して恩義があったのである。

ここにきて、にわかに浮上してきた人物がいる。
殺害現場に残されていた鞘を新選組の原田のものと証言した、
伊東甲子太郎だ。

伊東は、もともと新選組に属していたが、
脱退して高台寺党を結成し、
龍馬と接触したばかりか、ひそかに薩摩とも通じていた。

武力討幕派の急先鋒であった薩摩は、
目ぎわりな新選組に龍馬殺害の罪を着せようと、
伊東に新選組の下駄と鞘を残させた。

苦労の末に「討幕の密勅」を手に入れた薩摩は、
それに水をさす大政奉還の因をつくった龍馬に恨みをいだき、
この先、龍馬が何をしでかすか、不安でならなかった。
すなわち、龍馬の存在が邪魔になったのである。

そのころ、武力討幕を唱える薩摩の実力者は、
西郷隆盛と大久保利通である。

もし、龍馬暗殺の黒幕が薩摩だとすれば、
その指令を出せるのはこの二人のどちらかだ。

龍馬と付き合いのなかった大久保のほうが怪しいが、
龍馬とは友情で結ばれていたという西郷にも不審な点がある。

「討幕の密勅」の存在を知らなかった龍馬は、ある日、
新政府の人事を書いた文書を西郷に見せたことがあった。
そこには、元首の欄だけが「○○○」と空白になっていたが、
西郷にはそれが「慶喜公」と読めた。

さらに、わずか三年で釈放された見廻組の今井は、
自分が死刑にならなかったのは、西郷のおかげだと告白した。
龍馬がほんとうに刎頚の友であったのなら、
暗殺者の今井を助けたことは解せない。

また、大政奉還のあと一躍出世した後藤は、
それが龍馬のアイデアであることを誰にも語らなかった。
動機としては十分だろう。

いずれにせよ、暗殺の黒幕は歴史の陰にの中に身を隠し、
真相はまだ闇の中にある。


毎月10万円の赤字を抱える2児の主婦です。
 
一日千円でやり繰りし、自分の物なんてとても買えない生活・・
押しつぶされそうになるほどの【厳しい現実】
悲しいまでの【お金のない生活】
 
どうしても【ライフスタイル】を変えたかったんです〜〜!!

無理して買った一台のPCからこんな【ライフスタイル】が
得られるとはその時は思ってもみませんでした。。。
http://z.la/bth52
 
初めてすぐに赤字分の収入がありました〜〜〜!!
今では赤字の【3倍】の収入になってます。

ほんの少しの勇気と行動が人生を変えてくれました \(^O^)/


@人@ メルマガ名称 【 明治維新 】の閑話休題 
@人@ 発行人  山中 正敏
@人@ 意見・感想・質問 yamcyu@yahoo.co.jp

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。