メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:新コロナの警告/・・・(2/2)−3  2020/06/11


■新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」
で繋ぐ『日常』にある(2/2)−3

<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/06/04/155449

4−8 ミーゼスの資本主義への希望の底流

・・・それはオーストリアン伝統の「方法的個人主義」(感性・地域エトノス論的主観主義)・・・
 
ミーゼスは、オーストリアン(オーストリア経済学派)の始祖とみるべきカール・メンガーの流れを汲み、ウイーン大学(法
学を学ぶ傍らメンガー経済学の影響を受ける)で学んだあとアメリカ(ニューヨーク)へ移住した。また、事実上、ミーゼス
はネオ・オーストリアン(米国におけるオーストリアン)の創設者と見るべき人物でもあり、主にニューヨーク大学で活躍し
たが、ハイエクはその弟子の一人にあたり、ハイエクはミーゼスかラ大きな影響を受けている。

根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』によれば、新自由主義イデオローグ、すなわち「市場原理」主義なる「完璧に抽象
的な観念/余分なフリンジを一切排除する超“設計主義”ともいえるリバタリアニズム(完全自由主義)に基づく」に転向し
後のハイエクと共に、特に日本では“保守・反動の烙印”を押されてきた(個のハイエクのイデオローグが新保守主義と結び
付いたことに因る)。

・・・市場原理主義とは全く異質な、ミーゼスの「市場を重視する自由主義論」・・・

しかし、ミーゼスの「(人間のために)市場を重視する自由主義論」がシュンペーターへ大きな影響を与えたという事実を含
め、日本では一般的にミーゼスがあまり理解されてこなかったようだ。因みに、このミーゼスの「市場を重視する自由主義
論」は、ハイエク、ミルトン・フリードマンらの市場原理主義とは直接的には無関係であり、むしろ、それはメンガーに始ま
るオーストリアン伝統の「方法的個人主義」(感性・地域エトノス論的主観主義)に基づく主張である。

また、この点はハイエクとも共有する部分になる訳だが、たしかにミーゼスは「市場を重視する自由主義論」が経済(学)と
して現実化し得るのは自由社会においてだけであり、ファシズムあるいは、一党独裁の社会主義や共産主義の下でそれは絶対
に不可能だという固い信念をもっていた。しかし、ミーゼスの「人間のために市場を重視する自由主義論」については、“オ
ーストリアンの感性・地域エトノス論的主観主義”(農業経済論の感覚から、(レント)や過剰投資(投機)への警戒の視点
が潜む)に基づくことを想起すれば、後にふれることになるシュンペーターと共に、ミーゼスの経済イデオローグが単なる超
設計・抽象主義の“市場原理主義を超えており”、それは十分に普遍性のあることが理解できるはずだ。

ミーゼスの代表的な著書『人間行為学/ヒューマン・アクション』(1949、ユダヤ系であったミーゼスが米国へ亡命した直後
に完成した/人間行為学の基礎的地平から、市場、通貨、景気などの経済的命題を捉え直し、社会主義国家、福祉国家による
過剰な市場干渉の誤りを解明し、自由主義思想のメルクマールとなったミーゼスの代表作)は、市場・通貨など経済的命題を
再把握して社会主義国家、および完全な福祉国家による市場干渉の誤りを解明しており、その意味ではハイエクの新自由主義
に大きな影響を与えた。しかしながら、只ひたすらの安定(安寧)から発展(エネルゲイアたる付加価値創造)は生まれず、
所詮、市場は不安定なものであるが故にこそ発展を遂げざるを得ないものだ、というのはある意味で正鵠を得ていると思われ
る。
 
・・・ミーゼス『ヒューマンアクション(人間行為論)』の核心とシュンペーターへの影響・・・

しかし、そこで思考が止まればハイエクが究極的にリバタリアニズムなる完全な超設計主義(これしかない!というレベルの
概念飽和(というよりも概念硬化というべきかも!)に取り込まれた、つまりミイラ取りがミイラになる構図)に固着してし
まったハイエクとさして変わりがないことになる。ところが、シュンペーターと同じく、実際にミーゼスの慧眼の核心は、そ
こではなく『日常』(シュンペーターで言えば静態に相当する部分)の意義の解明という点にあったといえる。

つまり、ミーゼス『ヒューマンアクション(人間行為論)』で最も重要なことは、それが“不確実な未来に対処しつつ、今を
生きるリアルな生命のための経済論”であったということに他ならない(均等循環経済論)。このような考え方(ミーゼスの
均等循環経済なる思考実験)が、後述する「シュンペーターの動態論」を先取り的に準備した(シュンペーターに影響を与え
た)ことも記憶すべきである。

だからこそ『資本主義はいかに衰退するか』の著者根井雅弘は、ミーゼスが、オーストリアンの方法論的個人主義にならった
代表的な著書『ヒューマンアクション(人間行為論)』のなかで、“人間の行為とは選択することであり、不確実な未来に対
処することだ”と書いたのは当然のことだったと述べている。

それは、「ドイツ歴史学派の「先験主義」(アプリオリ、すなわち感覚的・経験的な理解に先立つ先験的・自明的(既定概念
的な)な認識を重視する立場/=いわば一定の強固な普遍的概念)」を、極力、受け入れ難かったオーストリアンの方法論的
個人主義の立場からすれば、ミーゼスにとりそれは当然のことと考えられるからだ。因みに、このミーゼスの立場をすらハイ
エクは先験的(概念基底的)だと見て批判している(@根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』)。
 
4−9 資本主義の未来を左右するシュンペーター

・・・その「イノヴェーション」の新たな可能性、それは「潜性イノヴェーション」の問題・・・

オーストリア・ハンガリー帝国、モラヴィア(後のチェコ)生まれの経済学者であるシュンペーター(Joseph Alois 
Schumpeter/1883 - 1950)も、れっきとしたオーストリアンと呼ぶべきであるが、オーストリアンの中で誰よりも早く、ワル
ラスの一般均衡理論が「純粋経済学」の確立に貢献したことを高く評価していた。
しかし『資本主義はいかに衰退するか』の根井雅弘によれば、それを高く評価していたものの、シュンペーターは、
生産(product service)、生産物(products)、価格と生産費(price and production-cost)が同時に成立する方程式の均
衡解を求める、つまり時間の要素を捨象した『静学』)であるワルラスの一般均衡理論(一般的に理解されている意味でのワ
ルラス)だけでは、リアル「時間」を通じて変化する資本主義の『動態』(リアル動学としての経済)に切り込むことは不可
能だと考えた。

また同書によると、そもそもフランソワ・ケネー『経済表』(重農主義、農業経済)、マルクス「単純再生産」およびメンガ
ー、ミーゼスら伝統オーストリアンの世界を取り込みつつ、経済「発展」の根本を解明しようとしていたこともあり、更に肝
心の「経済発展」への観察が可能な現象についての契機が欠落していることに気付き、シュンペーターはワルラスと異なる観
点から『静態』を構想したとされる。

(1)シュンペーターの『静態』

シュンペーターの『静態』の意義は先ず「静学」理論で決まる全ての経済数量を『日常』の時間の流れからいったん切り離し
(より正確に言えば、仮に切り離し)、それが年々、歳々に同じく繰り返され続けるという意味での「静態」を構想(思考実
験)したことにある。だから、ヒトを含む生命個体または各企業等に関わるミクロなリアル時間は仮に捨象されている。そし
て、その「静態」を破壊(革新)し、リアル時間での「動態」を始動するのが、企業家のイノヴェーション(革新、新結合)
の遂行である。

このことにいついて、根井雅弘は「シュンペーターが描いた「動態」イノヴェーションでの英雄的な企業家像に心酔し舞い上
がる経済人は多いのだが、「動態」の前に、先ず「静態」の基礎がなければ、そもそも「動態」での「発展理論」を体系的に
指示することができないから、その基礎には、シュンペーターがオーストリアンから学んだ理論の一部が使われていることに
注目したい。」と述べている。

だから、モデル概念(思考実験)とはいっても「静態」(恰も、ワンショット日常の言い換えとも見える)が全くの抽象概念
であると理解するのは間違いだと思われる。それは、医学における「人体解剖の意義」を考えれば分かる。というか、そもそ
も資本主義の理論が成立するよりも遥か前から、資本主義的な経済活動はヒトの歴史と共に存在してきたわけだからでもある。

例えば、死体となった解剖の対象は紛れもなく「静態」(死体の一部分)であるが、だからといってそれが単なる思考実験の
抽象概念ではない。それどころか、確固として、その死の直前まで生命個体の一部であったものであり、その多角的(ミクロ
・マクロの)な検証から、その死体(静態化した個体)の生前における生命活動の有り様がリアルに実証できる。しかも、そ
れに止まらず、場合によっては、その静態から今後のヒトの生命活動一般に関わる新たな発見や新たな知見(可能性、ヒント)
までもが得られるはずだ。

シュンペーターの「動態」における「最終需要財」と、「静態」(≒『日常』)における「生産」には深い関りがある。この
様に入れ子的に“ミクロ⇔マクロ”で循環する考え方は、シュンペーターに限らず例えばミーゼスの均等循環経済など、メン
ガー以降のオーストリアンが特徴とする迂回生産論(ヒト・道具・機械らの生産手段を媒介させた消費財の生産波及効果を強
調する立場)に加えて、彼らが共有する基調となっている。
つまり、『日常』の片側で(生命個体内の『日常』ではミクロな生命活動に支えられることによって)人々は生産財ストック
(需要側から見れば消費財)の生産活動に携わっているというリアルな現実を見据えているからこそ、シュンペーターの「静
態」モデルには重要な思考実験の意義があることになる。

すなわち、シュンペーターの静態と動態の関係についての、この循環構造という理解の仕方は、資本主義(生産・市場経済)
の出発点であるシュンペーターの「静態」が、只の「抽象的・観念的」なものではなく生身の人間(個々の生命体)が生活
する「日常」を第一義的に重視しつつ想定したものであると理解すべきであろう。

それ故、「静態」における生産要素は「労働」(生命個体であるヒト)と「土地」(エトノス自然環境)の所有(分有)者
である「労働者」と「地主」しか存在しないとされ(18世紀ケネーの重農主義に近い考え方)、企業家(経営者)、資本家
(金融業)、投資家(投資)は「動態」において初めて現れることになる。

だから、モデル概念ではあってもシュンペーターの「静態」(ワンショット日常の言い換えとも見える)が全くの抽象概念
であると理解するのは間違いであるようだ。
例えば、人間を含む個々の生命(その定義については、ひとまずマクロ・ミクロの別を問わぬ夫々が接触する諸環境との間
の関係性としておく)では、動・植物の別を問わず「エネルギー通貨であるATP(アデノシン酸三燐酸)」(委細/下記★参
照)を介した、生命活動(個体の成長を持続させるための新陳代謝/metabolism)が活発に行われており、同時にそこには
外部経済(当事者以外に±の影響がおよぶエコロジー、エントロピーなど)の問題が必ず併存する。

★細胞内におけるオルガネラ(organelle/ミトコンドリアら微小器官)のATPに関わる機能分担“再配置”の如く動物と植
物ではATP(アデノシン酸三燐酸/IUPAC命名法ではアデノシン5-三リン酸)の役割分担は異なる。・・・しかし、必ず個々
の生命体の内部での『エネルギー通貨』(生命活動のためのエネルゲイア)の役目は共通しており、先ず、そのATPがひたす
らリアル(日常の生命活動)を維持する仕事に専念しているように見える。

<参考>個体生命(真核生物)内における「エネルギー通貨(ATP)」の基本的な働きhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

1 ATP(高エネルギーリン酸結合/酸無水物による酸無水結合)には2つの高エネルギーリン酸結合があるが、生体内
のエネルギーとしては末端の1つが主に利用されている。ATPはATPaseという酵素で加水分解されADP(アデノシ
ン二リン酸)とリン酸になり、この時にATP1モル(グラム分子)当り7.3kcalの高エネルギーが放出される。 http://y-arisa.sakura.ne.jp/link/yamadaka/animal-cell/gene/ATP-1.htm 

2 ATPに蓄えられたエネルギーが放出され、生物の緒活動、例えば蛋白質等の合成、輸送、運動、発光、発電、発熱、
発音などに利用される。一度ATPがADPとリン酸に分解・消費されると直ちに呼吸代謝系(光合成、呼吸・食物/+酵
素(触媒))からエネルギー供給を受け、逆反応でATPが生成される。そのためATPは生体内での通貨に喩えられ、余
分が生ずるとクレアチンリン酸などで貯金される。但し、この貯金(エネルギー物質)の割合は非常に小さいので、絶えず
食糧(酸素、糖質、脂肪など)の形で外部からエネルギー源が供給される。
http://y-arisa.sakura.ne.jp/link/yamadaka/animal-cell/gene/ATP-1.htm

3 ATP合成酵素については未知の領域が多く、無論、ATPアーゼ(アデノシン三リン酸分解酵素)」を人工的に作ることは
できないが、特に複雑極まりないF型ATPアーゼ(分子量50万以上)はほぼ全生物に共通してATP合成に用いられる普遍的な
酵素であることが知られており、そこには進化の痕跡が垣間見られない。https://numon.pdbj.org/mom/72
・・・
因みに、ケネー(Francois Quesnay/1694 -1774)に始まる「重農主義」(通商・交易(市場経済)の利潤ストックを重視
する重商主義の対語)は、日本語で無理に「重農主義」と訳さず、そもそもの用語である「physeos kratesis(physiocracy
/ギリシア語由来で自然の秩序により統治する経済)」で表記した方が、より正しくその意味が理解できるのではないか?
それを現代的に表現すれば「エトノス自然環境を重視する経済学」(内外の“潜性イノヴェーション”の世界をも視野に入
れた経済学)ということに他ならないからだ。

(2)シュンペーターの『動態』

当記事の最大の関心事である「潜性イノヴェーション」とはあまり関係のないことかもしれないが、ここでシュンペーター
の『動態』についても簡単に触れておく。それは、ケインズと同じくシュンペーターも、資本主義の本質を追求する目的で、
絶えず「社会主義計算論争」(↓▼)を参照しつつ『静態』と『動態』の両側面への目配りをしていたと思われるからだ。
▼社会主義計算論争とは?https://cruel.org/econthought/essays/paretian/socialcalc.html
・・・
シュンペーターは、誰よりも素早く新しい可能性を優れた眼で発見した者が「企業家」となり資金的な援助を「銀行家」か
ら受けながらイノヴェーション(新結合)を実現することで「静態」の世界は破壊されそこで「動態」の世界が出現すると
述べる。また、そもそも『静態』には企業家がいなかったのだが、イノヴェーションするまさにその瞬間に銀行家とともに
企業家がリアル経済である『動態』のステージに出現し、その役割を終えればステージから企業家は消えるとも説明してい
る。

つまり、シュンペーターの「企業家」を何時でも存在する<経済主体>と理解するのは誤りで、その「企業家」は機能面か
ら理解すべきだということになる。そして、更に一歩踏み込んで考えると、実は、その「動態」の舞台における<経済主体
>は『日常』で生活する多くの人々、つまりそこでの圧倒的な多数派である、ごく平凡な一般の人々こそが「動態」の<経
済主体>だということになる。

そして、ごく平凡な多数派の人々こそが「潜性イノヴェーション/エルゴン(死勢態・潜性態)=プレ・デュナミス(プレ
可動潜性態・プレ可動潜在性)」の大きな宝庫ではないかと考えられる。

まず、ごく平凡な多数派の人々が「動態」における発展的な推進力エンジンの意味での<主体>であることを理解しなけれ
ばならない。それは、彼らこそが『日常』なる「静態」(ここは静態モデルではなく現勢態の側面を意味する)において基
礎代謝的な消費(エネルゲイア消費活動=自然エトノス環境との代謝交換+etwas(潜性イノヴェーションの開発・蓄積・
拡充・再生産など))を繰り返して生き続ける<経済主体>であるということだ。

従って、『潜性イノヴェーション』を理解するためのキーワードとなるのが、エルゴン(ergon/死静態・潜性態・潜在性)
、デュナミス(可動潜性態・可動潜在性/dynamis)、エネルゲイア(現勢態・可動態/energeia)、およびエンテレケイ
ア(未生態/entelecheia)ということになるだろう(いずれも、そもそもはアリストテレスの用語)。
可動潜性態(デュナミス)は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレ・エネルゲイアの謂いで)
する。エルゴン(ergon/死静態・潜性態・潜在性)は、ヒトの内心(および社会関係あるいは自然との関り)の中で普段
は休眠状態(死静態)にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的性質をもつ情念・表象または何らかの複雑な
関係性を意味するのに対し、それがリアル活性化すると「±」両者(又は中間的な性質)の何れかを表現する表象的・言
語的なヒトの意識活動となる。
つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動であるエネルゲイア=現勢態・可動態)は、「エルゴン(死生態/潜性
イノヴェーション)⇒デュナミス(プレ・エネルゲイア)⇒エネルゲイア(現勢態・可動体)⇒エンテレケイア(未生態)」
のプロセスに支えられていることになる。
しかし、潜性イノヴェーションとほぼ同義のエルゴン(死生態)と異なり、デュナミス(プレ・エネルゲイア)は、例え
ば機械力やAIロボ等がもたらす高度生産性(高付加価値)の謂いであるが、これらはリアル・マネー又は同等価値として
分配されぬ限り多数派の人々のエネルゲイア(現勢態・可動体)としては無効(只の可能性として1%派の占有対象)で
あり続ける。

換言すれば、(+)デュナミスが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(意識)的に、あるいは経済活動的に表現
され、それが形式化され(例えば契約などの形で)リアル化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュ
ナミス(潜在性・潜性態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須
の富の形成力(エネルゲイア/現勢態・可動態)となる。

なお、歴史的に見ておくと、19世紀のプロイセン時代ドイツの言語学者であるW.フンボルトは、普段は休眠状態にある
「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことを表す特別の用語としてエルゴンを使った。

それがリアルに活性化すると、±両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。近年の生(命)化学、量子物理学ら
先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管
(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつ
ある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想
像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

ところで、シュンペーターは「動態」におけるイノヴェーション(新結合)と
して五つを挙げている(@根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』)。
(1)新しい財貨や新しい品質の財貨の生産
(2)新しい生産方法の導入
(3)新しい販路の開拓
(4)原料や半製品の新しい供給源の獲得
(5)新しい組織の実現

ここで分かるのは「シュンペーターのイノヴェーションが只の機械化や広義の技術革新」だけに止まるものではないとい
うことだ。しかも、これら五つの項目のすべては、その前提として「潜性イノヴェーション」、いわばヒトの『日常』
(日々のリアル生命活動)の中に存在る「エルゴン⇒デュナミス(プレ・エネルゲイア)⇒エネルゲイア(現勢態)」の
内の前段二つのプロセスを前提にしてこそ成立するということだ。

これが「『日常』は潜性イノヴェーションの宝庫」ということの意味である。更にいえば、そうであるからこそ、『日
常』において「歴史性、および内外の自然環境(ミクロ〜マクロに拡がる)との関係性」を意識できる、圧倒的な多数派
層の平凡な人々が、“潜性・現勢”両イノヴェーション(潜性イノヴェーションとリアルイノヴェーション)の<主人
公>だと見るべきだ!ということになる。

従って、シュンペーターの「動態」における一過性の<経済主体>である「企業家」(比喩的に理解すれば、これは漫然
と『日常』で暮らすサラリーマン経営者は経営者に非ず!ということ)と、『日常』(静態・動態の両者から成る)のれ
っきとした経済主体である「圧倒的な多数派層の平凡な人々」が、「人間の壁」の分配問題の解決に取組みつつ、共に手
を携えて協力できる関係を創ることが肝要である。

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