メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済に備え“社会の茎”・・・!(4/6)  2019/03/07


■チェリーピンク・アベGDPの日本はAIロボ『人間の壁』経済に備え“社会の茎”、「新マクロ経済/Ex.BI型“社会的共通資本”」
金融への展相が必須!(4/6)

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

3 宇沢弘文「社会的共通資本」から学ぶ、自由原理主義(金融市場原理主義/サプライサイド論)の根本的誤謬の在り処

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 (社会的共通資本の前提と見るべき『スウェーデン学派、クヌート・ヴィクセルの北欧型人口論(最適人口論)』が意味すること)

(イ)「有効エネルギー(エクセルギー)、無効エネルギー、ミクロな日常生活」に見える<人間本位の経済学>の可能性

 先ず、一般に有効エネルギー(一定系内における、ある特定の目的に利用できるエネルギーの成分)と定義できるエクセルギー
(exergy/ギリシア語のex(外へ)とergon(エルゴン/仕事)から作られた)の意味を少し具体的に理解することを試みる。例えば、室
内での発光が目的の蛍光灯では、そこへ投入される電気エネルギーの100%が光とはならず、一定割合が光エネルギーとなるが残余の
部分は熱として放出されるので、その熱エネルギーとして捨てられる電気の成分はアネルギー(anergy/無効エネルギー)となり、
これが廃棄されるとエントロピー(entropy)が増大する。

 このエクセルギーを比喩的に捉え様々な人間社会の事象に当て嵌めると興味深いことが見えてくる。それは,電気等の物理量と同じ
に個々の社会的エクセルギーや同アネルギーを計算するのは殆ど不可能だが、我われが一般的には、日常的に「自分本位」という
<マイ欲望の行動原理/マイ・エクセルギー>で動きつつ非常に複雑で多様な判断を刻々と行っていることを率直に認めると、市場
経済のミクロな現場でそのことが特に重要な意味を持つことになる。

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このことを前提にしてと思われるが、著書『人口と日本経済』の吉川 洋氏は「GDPの定義(イノベーション
の結果である、新たに生まれたモノやサービスの価値を足し合わせたもの)から、その価値は人間の主観的な評価(つまりマイ・エ
クセルギー/←補足、toxandoria)の足し合わせ」だと述べている。

つまり、端的に言えば人間本位(つまり、限りなく湧出する欲望の意思)が経済社会の正体(それが初動エルゴン(活力源)となり
創造される生産性)であるが故に「GDPは人間の主観(漠然とした、大まかな、従って強欲へも急傾斜し得る意思+技術生産性!
/←補、toxandoria)の計数化」だということになる。但し。これは「新たに増える供給」と「新たに増える需要」(“消費・雇
用”)の両サイドから見た「GDPの姿」であるが、一般的には技術イノベーションを握る前者(供給/スキル偏向技術を占有する側)
が絶えず先行することに留意しなければならない。

しかし、マーシャル以来の伝統により価格を縦軸に取る需要曲線と数量を横軸に取る供給曲線を用いた分析は、それ(供給と需要の
二つのマイ・エクセルギー)が需給均衡点Eで必ず均衡すると“楽観的”に仮設している(関連参照/第6章‐1:近づく本格的な
「第4次産業革命」の時代に潜む超リスク、および/本章‐(次節/宇沢弘文による“新自由主義(ネオリベラリズム/先鋭的マネ
タリズム)の誤謬”の摘出))。

一方、前にも述べた通り業革命後の現実社会では技術イノベーションを握る前者(供給側)が絶えずマイ・エクセルギー的にも自ら
の意思(欲望)を先行させることが必然であるため、スキル偏向技術イノベーションに加えて「何らかの搾取の仕組み(いわば人為
的な格差拡大の仕掛け)を更に仕込まなければならなかったと考えられる。従って、これこそが、つまり供給側の「マイ・エクセル
ギーとスキル偏向技術イノベーションが足し合わさった形での“見かけ上の技術イノベーション”」がヒトの労働力をモノ見なす物
象化フェティシズムで1970年代以降のグローバル世界経済を席巻することになる新自由主義の核心(正体)ではなかったのか?

これを真逆に言えば、 仮に「供給」が広義のイノベーション(準汎用AIロボ技術、IOT、BD・Webサービス等)で純粋に活性化して
も、それが十分に有効利用(需要化(消費)/ヒトのために役立つエクセルギー化)されなければ、「供給⇔需要のアンバランス」
が様々な社会的・自然的な問題(抽象的な言い方になるが、例えば格差拡大の大きな弊害などで、結果的に経済社会全体のエントロ
ピー増大が助長されるような予期せぬ事態の発生(例えば、産業公害や重大事故、あるいは重篤な労働災害・人権侵害の発生など)
/一種の合成の誤謬!)が懸念される。つまり、ここにこそ現代世界を席巻する新古典派経済学(新自由主義、サプライサイド経済
学、マネタリズム)の限界が歴然化していることになるようだ。

 ところで、ここで「需要」面の分かり易い実例を一つだけ挙げておく。例えば殆ど同じ材料の料理でも、調理法・調味料らの工夫し
だいで完成した料理に関する顧客の評価は異なるだろうし、また同じ料理でも、その時々の客の好みの傾向しだいで評価が様々に異
なってくることがある。

 いずれにせよ、お客の好み(主観)がそのレストラン経営を、ひいてはGDPの諸データの多くの部分を提供していることになる。
つまり、AIロボ技術がいくら超人的なイノベーション力を発揮して高度な付加価値(スキル志向技術イノベーション)を大量に創造
し続けるとしても、自然・社会の両環境のなかでリアルに生きる“幸せ”なヒトが存在しなければ、供給面の重視だけで市場経済を
介し「ヒトが生きるために有効な経済成長」を持続させることはできないということである。

つまり、このようにミクロな日常生活という切り口から容易に連想されるのが、<A・シュッツ「日常性の社会学」、またはK・ラ
ワース「自然界の繁栄を支えるネットワーク」とリアル<GDPデータ>の深い繋がり>ということだ。又、先に少し触れたとおりだ
が、この観点は準汎用AIロボ時代の潜在的な高度生産性(抽象的デュナミス)を如何にリアルな人間の需要(具体的エネルゲイア)
と繋ぐことが可能か?の問題とも絡むことになる。

(ロ)<人間本位の経済学>のカギとなる人口論/機械(準汎用AIロボ)経済の時代にこそ再考すべき、「ヴィクセル/最適人口
論」の問題

ところで、さしあたり重要なのはこの余りにも当然すぎるような「人間本位」の考え方(多くの人々が日常的に「自分本位」という
<マイ欲望の行動原理で動きつつ非常に複雑で多様な判断を刻々と行っていることを率直に認めること;但し、それが供給面でも技
術イノベーションに劣らぬ程の大きな動因となっていることが19世紀末頃から明確に認識されるようになった)が、「スウェーデン
学派の人口論」(人間本位の最適福祉水準を視野に入れた最適人口規模論/ミクロで多様な経済循環の動学的な分析を重視)と「米国“新自由主義”の人口論」(移民立国のための新自由主義(リバタリアニズム・競争原理主義)的な規模拡大の人口論)との大き
な違いをもたらしたと考えられることだ。

 しかし、誤解のないように補足しておけば、「20世紀初頭の米国における“そもそもの新自由主義=いわゆる制度経済学派”の台頭
は公正資本主義(Reasonable Capitalism/非マルクス主義的な経済発展段階説)を目指すものであった。だから、ここで言う“新自
由主義”とは、ミルトン・フリードマンに始まり(厳密にはハイエクらの前史がある)、現代グローバル世界を席巻する新自由主義
とは異なるものである。

 つまり、19世紀末〜20世紀初頭(第一次世界大戦へ参戦する頃まで)のアメリカでは、「政治の革新」と「経済への政府干渉」の必要
を説く運動が興り、この時代は「革新主義(Progressive)の時代」と呼ばれる。そして、この時代の経済思想の特徴は、その「新自
由主義/ニュー・リベラリズム」という言葉で代表されている。

 また、この時代のニュー・リベラリズムは、米国のもう一つの“良識派の深層潮流”と見るべき文化資本主義(フランクリン・ルー
ズベルトのニューディール政策が典型)あるいはネオ・プラグマティズム(限定合理主義の哲学/関連↓★)との共鳴をも感じさせ
る。

 ★1 ネオ・プラグマティズムは米国型リベラル共和の培地/W.V.O.クワイン『ネオ・プラグマティズム』の斬新な視点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503  

f:id:toxandoria:20190215141133j:plainそして、吉川 洋氏によれば20世紀までのスウェーデン学派で議論をリードしたのがクヌー
ト・ヴィクセル(J. G. Knut Wicksell/1851- 1926)である。理論経済学者として名高いヴィクセルだが、そもそもは人口問題への
関心から経済学者になり、名著『経済学講義/1901』で“人口の理論、人口構成および人口変動”を論じている。そして、ヴィクセ
ルの最大の特色は国家(G.シモンドン『個体化の哲学』風に言えば、いわば“生命個体”に比肩し得る各国家)にとっての「最適
人口論」を論じたことであり、それは現在でも欧州諸国へ大きな影響(例えば、欧州連合(EU)内における“権限⇔権限”問題など
の形で)を与えている(ヴィクセルの画像はhttp://www.eumed.net/cursecon/dic/dent/w/wic.htm より)。

 また、ヴィクセルは「子育て支援」の源流でもあるので、将来年率0.6%(現時点で、年当・約70万人強)という<急速な人口減
の“マイナス加速度”>に襲われている日本が、最も参考とすべきが、このヴィクセルの「最適人口論」と、その考え方に近いA・シュッツ「日常性の社会学」、そしてK・ラワース「自然界の繁栄を支えるネットワーク(生物圏モデルの経済学)」(https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2018/03/30/080000)であることは言うまでもないだろう。

いわば“生命個体”としての国家の重要性を気づかせてくれる「機械(準汎用AIロボ)経済(純粋スキル志向技術イノベーション)
の時代」が、愈々、「第4次産業革命」によってリアル化しつつあるからこそ、喫緊に再考すべきが「ヴィクセル/最適人口論」
の問題である。それは、本格的な「機械(準汎用AIロボ)経済(純粋スキル志向技術イノベーション)の時代」に入ると、人口の大
小というよりも、如何にすれば、その準汎用AIロボが創造する「潜在的付加価値(デュナミス高度生産性)」を人間化(ヒトをどう
すれば本当に“幸せ”に)できるか?が問題となるからだ。

  

(宇沢弘文による“新自由主義(ネオリベラリズム/先鋭的マネタリズム)の誤謬”の摘出)

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 宇沢弘文(1928−2014/マクロ・ミクロ経済学、環境経済学などの分野で先駆的な業績を残した理論・数理経済学者)によると、今
もグローバル世界を席巻している新古典派経済学(特に最も先頭に立つマネタリズム理論、およびそれを口実とする新自由主義(ネ
オリベラリズム))には重大な欠陥がある(出典:宇沢弘文、花崎正晴編『金融システムの経済学』―東京大学出版会―/宇沢弘文
の画像は『20041120朝日/アーカイブ:行動するリベラルを貫いて』https://www.asahi.com/articles/ASG9V56VTG9VUEHF00N.html 
より

 つまり、1870年代における反ケインズ主義の風潮の台頭に際し「合理的期待形成仮説」が基本的に最重要と理解されることに因り最
も厳密な理論的整合性を備えると見なされた「ルーカス論文(理論)」が重要な役割を果たすこになったが、そのあとグラモン(Jean-Michel Grandmont/1939-/仏の経済学者)ら多数の研究者の検証作業の努力で、<そのルーカス理論>には、形式論的整合性の観点
から(ここでは、とりあえず倫理的な批判は置くとして)大きな誤謬(論理的欠陥)を含むことが判明したのである。

 因みに、「合理的期待形成仮説」(Rational Expectations Hypothesis)とは<人々は現時点で入手できるすべての情報を駆使し、
最も合理的・効率的に将来を予測できるという仮説>で、R.ルーカス(1995年ノーベル経済学賞受賞)、T.サージェント、R.バロ
ーら多くの経済学者によって提唱されたものだ。それによればケインズ的な金融政策は意味がなく、経済活動を調整するための政府
に因る総需要管理も有効ではないとされる(いわゆる“小さな政府”の論拠)。

・・・

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そして、この<経済理論上の大誤謬>こそが現在にも繋がる「グローバル市場原理主義の暴走⇒“水道民営化”等の民営化万能論と
いうネオリベ・ドーパミン(+偽装極右シーズニング(調味料))の拡散・散布・跋扈・席巻、et挙句の果ての財政破綻リスクと格
差拡大に因る中間層以下の困窮化」、果てはその“行動変容病態のジャンル”である“今だけオレ様だけ幸せ〜!病”、こと超ポピ
ュリズムをベースとする「マイファースト変態権力(Ex.米トランプ、JPNアベら)」の《“非常(異常?)事態(“忖度”強要)宣言”》式の<大暴走>をめぐる世界的な混迷の元凶である。

 

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https://twitter.com/shinkaikaba/status/1097217025158479874

因みに、「・・・ネオリベ・ドーパミン(+偽装極右シーズニング(調味料))の拡散・・・席巻、挙句の果ての財政破綻リスクと
中間層以下の困窮化」と比喩的に表現したのは、今の日本が巨額の借金(国債発行1100兆円/事実上、その連帯保証人)を抱え、も
はや止めようもなく少子高齢化が進む中で、そもそも稼ぎ頭であった貿易力(自動車・携帯関係など)が凋落しつつあるという末期
的な状況であるにも拘わらず、安倍政権が戦前・戦中期の“軍事・公安警察”による強権統治方式、いわば“大本営”発表型の国家
主義統治モデルに倣って、益々、独善的な<錯誤>アナクロ政策に拘り続け、恐るべきことにNHKら主要メディアの“弾圧”をすら
臭わせ始めていることを意味する。

そして、その「偽装極右」政策の典型が「輸出政策の総崩れと核燃サイクルのデッドロックをものともせず、今や“破滅状態”の
「原発」政策をベースロード電源と位置づけてムリクリ推進する一方で、もはや手遅れ!ともいえる、地域分散型の自然エネルギー
利用(市場経済的な理由からも、事実上、これが世界エネルギー利用の大潮流となっている!)については消極的な態度を採ってい
る」ことである。

 ともかくも、ある意味では「中国Vs米国対決の構図を益々煽る一方のマイファースト・トランプ旋風、欧州における“一国主義”極
右政党の台頭とデッドロックBrexit、仏ジレジョーヌ大格差問題の拡大、神憑りJPNアベノミクスの狂走(アナクロ・フェイク統計式
“大日本帝国と新自由主義”がミックスしたハチャメチャ!苦w)など目前の“見境”を喪失した権力亡者or超ポピュリズム扇動によ
る大混迷の第一義的な火種」は<そもそもルーカス理論の誤謬を抱え込んできた新古典派経済学とネオリベラリズム>であったと見
なすべきかもしれない(関連情報↓★)。

★トランプ大統領、世銀総裁候補に米財務次官を推薦=対中強硬派/20190207時事、https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190207-00000004-jij-n_ame

・・・

但し、ここで留意すべきは、「aグローバル市場原理主義の暴走」への“批判”を急ぐあまり「bグローバリズムそのもの」を全否定
する反グローバリズム運動が展開されているが、そこにaとbの混同がみられることだ。それは、「生命モデルの経済」(例えば既
述のK・ラワース『自然界の繁栄を支えるネットワーク』)を連想すれば理解できるはずだが、bそのものは中立的な“地球環境の
トポス”であり、問題はそのグローバル・トポス環境のなかに棲ま(その環境のなかで生き)ざるを得ない個々の生命体、地域社
会、国家などの“振る舞いのあり方=G.シモンドン『個体化の哲学』の意味での生命個体の生き方”の問題だということになる。

 ともかくも、このような経緯から、 宇沢弘文・花崎正晴編『金融システムの経済学』によれば、特に2008年のリーマンショックご
ろから、「合理的期待形成仮説」と「反ケインズ主義の空気」に対する反省の機運がアカデミズムや良識的な各国政府やグローバル
金融界関係者らの中で生まれてきたが、残念ながら“時は既に遅し!”の状態となっていた。それは、疾うに「過激なマネタリズム
を伴う新自由主義」のフィーバー(熱病)が、それこそ遍くグローバル世界へと、まるでパンデミックの如く拡散してしまっていた
からである。

そして、ここで忘れてならないのは冒頭で書いた『スウェーデン学派、クヌート・ヴィクセルの北欧型人口論(最適人口論)』が意
味する(人口問題に関わる生命論的な理解とも考えられる!)ことである。 社会的共通資本とヴィクセルの北欧型人口論(最適人
口論)を直接的に結び付けて論じてはいないが、宇沢弘文は「社会的共通資本」が19世紀の終り頃にソースティン・ヴェブレン
(19世紀・20世紀初頭期の米国の経済学者/マルクスと異なる視点で現代産業社会を分析した、制度経済学派の創始者)が唱えた制
度主義の考え方を具体的なかたちで表現したものだと書いている。

つまり、[社会的共通資本(宇沢弘文)、北欧型「社会福祉国家」の基盤となったヴィクセルの北欧型人口論(最適人口論)、制度
経済学(米国の公正資本主義の伝統/参照、↓<補足>)]は、その土壌(一種の生命論的な経済学思想?)が共通していることに
なる。

<補足>制度経済学派または制度派経済学(Institutional School)

・・・アダム・スミス、デヴィッド・リカード、マルサス、ジョン・スチュアート・ミルなど英国の経済学者に代表される労働価値
説を基礎とする古典派経済学を批判し、社会的な行動様式や集団的活動形態などの切り口から市場経済のあり方などを理解する経済
学研究の一手法。ドイツ歴史学派の影響を受けつつ、ダ―ウイニズム(進化論)とプラグマティズム(Pragmatism/具体的な事象に
即した有効性・有益性を重視する学派でアメリカを代表する哲学)の知見も取り込んでいる。

・・・19〜20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期は、レオン・ワルラス(Marie E.L. Walras/1834- 1910/スイス、新古典経済
学派の祖)が活躍した時代にほぼ重なる。一方、その時代のアメリカは「プラグマティズム」と絡みつつ「制度経済学派」が台頭し
た時でもあり、その中心的存在がソースティン・ヴェブレン、ジョン・ロジャーズ・コモンズらであった。

・・・「制度経済学派」の創始者と呼ばれるソースティン・ヴェブレン(Thorstein Veblen/1857- 1929)の特徴は、「私的所有」よ
りも「社会資本」の充実を重視する立場であり、一部の階層が“金ぴか生活”をするための“単なる金儲けの手段”としての営利企
業は“一国の産業体制そのものを管理し消費者に消費財を公正に分配する任務”(国民に一定の生活水準を保証する“社会的十分
性”を担う役割)には適していないと考えた。

・・・一方、ジョン・ロジャーズ・コモンズ(John Rogers Commons/1862- 1945)も「制度経済学派」の代表者の一人とされるが、
彼の社会改良主義的な経済思想の特徴は“アメリカ伝統の自由主義的フレームを重視しつつ、強力な労働組合運動・独占的巨大企業
・公益企業などに関する諸改革の実行について、その時代の州と連邦レベルの立法・行政(Law Makers)へ大きなな影響を与えた”
という点にある。そして、ロジャーズの到達点は「集団民主主義」(集団内での“個別的衡平性”の実現)で社会改良を促進する
「公正資本主義」 (Reasonable Capitalism)ということ(=非マルクス主義的な経済発展段階説)であった。

・・・いわば、これら19〜20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期に一世を風靡した“現代アメリカ経済思想の源流”とも見なすべ
き「制度経済学派」に属する経済学者に共通するのは、「社会に公正をもたらす資本主義」を実現しつつ、アメリカ建国いらいの伝
統である“個人の自由原理に基づく個人の行動領域を最大限に解放し、それをより一層拡大する”ということであった。

 

(『宇沢弘文による“新自由主義の誤謬”の摘出』を補強的に裏付ける『日本製造業における“搾取のワニ口(売上高>限界
利益)”急拡大トレンド』の観測)

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出典:財務省/法人企業統計季報(編集   財務省財務総合政策研究所)

・・・<注>(第1章のグラフ/『名目GDPと雇用者所得の関係』)と同じく当資料は2010年以前のデータに基づき財務省が作成した
古いものであるが、安倍政権下における渦中のフェイク?統計データと異なり、まさか恣意的にチェリーピンク操作を行っていると
は考えられないので(苦w)、そのままこれらを「マクロな傾向」を観察する有意な資料として使用した。また、(第1章のグラフ)
についても同じことだが、それぞれの最終年号から現在までに至る各「ワニ口が開く」という大きな傾向(トレンド)は、ほぼ変わ
らぬものと想定して、当記事は書いている。

(上のグラフについて)結論から先に述べると、それは大企業(製造業)についてスポットを当てて見た場合でも、全般的な雇用者
所得(一人当たり)の分析で理解されたのと同じく(参照/第1章)、<2002年から日本の大企業(製造業)における「搾取のワニ口」、いわば[売上高↑(上昇傾向)>限界利益↓(下降傾向)、という恰もワニが大きな口をゆっくり開きつつあるような形のト
レンド線の開き]が急拡大しているということだ。つまり、それは「現代日本の製造業では売上高が右肩上がりで順調に伸びてきた
が、それと真逆に雇用者所得(人件費)は右下がりで低下してきた」という「ワニ口」拡大のジレンマに嵌っていることを意味す
る。」ことである。

これは、先に[第1章-1(グラフ2)]で見た<米国における、GD(Great Decoupling/スキル偏向技術進歩-技術イノベーショ
ン)に因る“雇用一人当たり生産性向上(GDP総額増加)と一家計当り所得減少”の大<乖離>問題(特に中間層の没落に繋がる主
な原因)」を示すグラフ>のトレンドとほぼ共鳴している。

別に見れば、「限界利益=固定費(人件費等)+営業利益」の定義から、トータルの限界利益が減少すれば当然の帰結として「人件
費(雇用者所得)⇔営業(企業)利益」の分配の(言い換えれば両者の厳しい奪い合いが日常化したという)問題となる。然るに、
労働組合への関心低下の傾向(関連参照/↓◆)、非正規雇用数の拡大(正社員数シェアは低下傾向!)、自立・競争力強化を口実
とする「福祉政策の劣化」等を背景として、雇用者側と経営側の力関係が後者(経営者側)へ有利に傾くことは必然だ。そのため、
2002年以降は「営業(企業)利益>雇用者所得」という<雇用者側にとって不利益な「ワニ口の拡大」>が続いてきたということに
なる。

◆わが国では、そもそも企業別組合が多かったところへ特に製造業の退潮傾向とほぼ同時進行した産業構造の変化(サービス産業
化)と、ネオリベラリズム(新自由主義)的な経済思想が政官財学を席巻してきたことから労働者の非定期雇用化が促進し、それも
労働組合組織率の低下の主な原因となってきた。

・・・(資料)日本における労働組合組織率低下の規定要因https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/20259/1/keizaikenkyu04501053.pdf

 このグラフは製造業に限った分析であるが、いずれにせよ、この傾向が顕著となってきた背景には、上で見た“新自由主義(ネオリ
ベラリズム/先鋭的マネタリズム)の誤謬”を前提とする主流アカデミズム(今も安倍政権下で内閣日本経済再生本部産業競争力会
議(民間)議員、内閣府国家戦略特別区域諮問会議(有識者)議員などを務める竹中平蔵氏はその典型!)の影響下に甘んじてきた
日本政府・財界らトップの政策的な意味での大きな意思があったと見て間違いはないと思われる。

しかも、同じ傾向は、サービス業など日本の凡ゆる産業領域に拡がっており、それは[第1章:グローバル新自由主義の現代に特徴
的な『二つの“ワニ口”』/“名目GDPと雇用者所得の関係”]でも見たとおりである。つまり、この売上高とGDPが幾ら伸びても雇
用者所得への配分が持続的に低下する傾向、ないしは停滞する傾向こそ“際限なく格差が拡大”する第一義的な原因となっている。
しかも、恐るべきことに準汎用AIロボやIOT関連技術等の出現によって、その傾向は更に加速度を増して急拡大する懸念が高まって
いる。

(補足)当グラフについての説明(詳細)

製造業における限界利益=売上高−変動費(中間投入物)=固定費(人件費等)+営業利益≒一般的(仕入業態)企業の粗利益

・・・

日本における「大企業・製造業の売上高と限界利益」の変遷を見ておくと、図3(出典、財務省/上の曲線が売上高、下が限界利益)のとお
りである。売上高は名目GDP(その年の物価にその年の生産量を乗じた付加価値)と連動する。なお、実質GDPは基準年の物価にその年の
生産量を乗じた付加価値であるので純粋に生産量の増減を把握できる(経済成長率は実質GDP比であり、名目GDP÷実質GDP=GDPテ゛フレーター(限界利益との相関が強い)。

 そこで、注目すべきは売上高のトレント゛線(・・・)の動向だ。それは2002年度まで限界利益とほぼ平行に並び右下がりだったが、2004年あ
たりから右上がりに変化して限界利益のトレント゛線から乖離し(右向きのワニ口になって)現在に至っている。ということは、いわゆる常識
的な意味での需給キ゛ャッフ゜によるテ゛フレが続いたのは2002年までで、およそ2003年以降はそれまでと全く異なる要因によって起こるテ゛フレが
続いてきたことになる。これこそが、<ク゛ローハ゛ル市場原理主義への過剰傾斜による異常経済の姿(売上高増に見合う限界利益全体の伸び
が期待できないネオリヘ゛ラリス゛ム(新自由主義)型搾取経済(搾取のワニ口)の出現という恐るべき現実)>である。

 その「搾取のワニ口」に食いつかれた悲惨な現実(ク゛ローハ゛ル金融市場主義時代における量的金融緩和政策の機能不全、ホットマネー暴走による中
小企業主体の内需経済の空転化、輸出型大企業とメカ゛ハ゛ンクの一人勝ち ⇒ 必然的に、これらが貧困層と格差の拡大をもたらすという問
題もさることながら、特に<今の日本で起こっているテ゛フレ現象の具体像は、企業の売上高は増えても限界利益が減り続けるという意
味>で異常なのであり(喩えれば、100円ショッフ゜が値引き競争に巻き込まれたような状況!)、更にそれに<縮小し続けるハ゜イ(限界利益全
体の縮小傾向)の帳尻合わせが、雇用側の賃金縮小(人件費カット)へ一方的に背負わされている>という異常さが加わっている訳だ。

 しかも、現在の安倍政権下で起こっているのは、この“輸出型大企業とメカ゛ハ゛ンクの一人勝ち”すらが、国民のなけなしの年金原資の
犠牲まで伴う異次元金融緩和の超リスクを冒したにも拘わらず《原発推進&輸出一本槍という決定的なアナクロ産業政策の錯誤(原
発輸出全滅&核燃サイクル・デッドロック)》に因って凋落傾向に嵌っていることだ!

 従って、この点(新自由主義経済の欠陥=ネオリヘ゛型搾取経済の現実)を理解せぬままでの従来型巨大インフラ投資等の対策(土建型、ある
いは巨大フ゜ラント輸出型へ過剰傾斜すること)は無効であるばかりか格差拡大を更に助長するばかりになりかねぬという意味で有害です
らある。ここにこそ、全世界の新自由主義経済化トレント゛の影響下にあるとは雖も、日本としては、そのあまりにも特殊な経済・金融・財政運
営上の欠陥構造を直視すべき理由があるのだ。

  つまり、その理由とは、既述の<社会の超格差・二層隔絶化(中間層没落と拡大する貧困層のエンクローシ゛ャー化)をもたらし多数派下層民
が縮小するハ゜イを奪い合うという意味で呑気な花見酒経済構造>の見過ごしがあるということに加えて、<輸出型大企業と労働貴族化
した連合・電機労連等の大労組に対する、売上高増に見合わぬ形で縮小する限界利益の中から更なる傾斜配分を与え続けること、言い換
えれば一方的な対富裕層過剰優遇に繋がる所得税・法人税等の欠陥徴収構造の放置>ということである。なお、雇用所得へ限りなく劣化
圧力がかかる背景にはク゛ローハ゛リス゛ム市場原理主義による「要素価格均等化の定理」(貿易相手国の低賃金が自国の賃金を劣化させること)
も作用しているが、ここでは詳細を省く。

 そして、当グラフの「日本における1998〜2002年のトレント゛」には未だハッキリ現れていないものの、この傾向を[第1章:グローバル新自
由主義の現代に特徴的な『二つの“ワニ口”』/“名目GDPと雇用者所得の関係”]のトレント゛と併せてみれば、<およそ1998年以降にお
いて、全世界的な新自由主義の跋扈(各国政府が本格的に採用し、それがワニ口の暴走傾向を強めてきたこと)によって「貧困層と格差が
拡大する傾向」が拡がり、深化してきたことが理解できる。

そして、この観点からみれば、“前任者の民主党政権を上から目線でニタニタ嘲り嗤い、かつ下卑た口調で罵倒しながら
(↓◆/w)”安倍政権が今やりつつあるのは、まさにそれと《目クソ鼻くそ》の類であり、<小泉政権時代の超過激な新自由主義
(ネオリヘ゛)政策+戦前型“追憶のカルト”(青天井財務式の大日本帝国流軍国主義)>を、“チェリー・ピンク風味”を効かせながら
足して2で割るという<実に奇怪でハチャメチャな「政治・財政・経済政策ことフェイク・アベノミクス」>の更なる深化に他なら
ない。

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https://twitter.com/shinkaikaba/status/1098464149552619521 https://twitter.com/shinkaikaba/status/1093217473606778880

◆【森羅万象「サル神」総理大臣】と化した?安倍晋三氏/<安倍“フクシマ”アンダーコントロール!>のウソを彷彿させ、まさ
に<悪魔>ないしは「靖国」顕幽論の<悪霊>の如き、日本国アベ首相の国際的に大いに恥ずべき発言! → 悪夢のような民主党
政権発言、「言論の自由ある」=安倍首相20190212ロイター https://reut.rs/2tenYg6

・・・

つまり、安倍政権には「まず何よりも未生の世代が“幸せ”に生きられる日本を創るという確固たる意識」と「真の世界の潮流と時
代の先を見据えたPotenz政策(展相のマクロ&ミクロ経済)の観念」が全く不在であるということになる。Potenz経済が重要であることの一
例を挙げると、例えば<仮に準汎用AIロボで高度生産性が実現>する頃になれば「人口成長論」よりも、確実に「最適人口論」
(ヴィクセル)の方が重要になるはずだ。

しかし、残念ながら安倍晋三・首相を筆頭とする政権トップの精神環境にシッカリ巣食っているのは戦前・戦中期型の<アナクロで
古色蒼然とした、あの悪しき伝統《構造災》と強く親和する「追憶のカルト」>だけである(なお、これらの論点は必然的に
準汎用AIが本格化する時代にこそ必須と思われる「マグダウエル的なリアリズム倫理」の問題と繋がることになる)。

 

 (宇沢弘文『社会的共通資本』の現代的意味/それは“格差拡大(搾取)の『ワニ口』(新自由主義)に取り憑かれた”マクロ経済
が相転換するための基本条件と考えるべき)

・・・社会的共通資本の役割は『準汎用AIロボ機械経済』の出現で想定される『三つ目のワニ口』拡大への防波堤となること!いわ
ば社会が市場経済を包摂するための必須条件である“社会の茎”となること。・・・

 宇沢弘文によれば、合理的期待形成仮説とマネタリズムら反ケインズ主義経済学では「すべての希少資源が私有化された理想の資本
主義的な市場経済制度の下において雇用は常に完全雇用の状態であり、実質的な所得分配は一定に保たれており、しかも貨幣の流通
速度も一定である」ということが無謬の前提条件となっている。が、既述のとおり、この絶対的なはずの前提に誤謬があったのであ
る(出典:既述の著書『金融システムの経済学』)。

  しかし、マネタリズムら反ケインズ主義経済学(新自由主義)の信奉者たちは未だに自らの誤謬を絶対に認めようとしない立場を
貫いており、それ故にこそ彼らは私有化を阻害する「社会的共通資本の存在」そのものを否定しており、政府の役割は司法と警察の
分野だけに!と最初から限定している。

 だから、国の経済政策は「資本主義的な資本市場ができる得る限り円滑に機能するように、すべての規制を撤廃するべきだ!」と
いう、ただこの一点を彼ら(例えば、日本の竹中平蔵らは)は頑強に主張することになる。しかし、根本的な誤謬(理論上の欠陥)
を抱えたままで、この様に強硬に主張する姿は経済学の議論というより、まるでカルト信者のそれではないか?

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  ともかくも、このような新自由主義(換言すれば、ルーカス理論の根本的な欠陥)へのアンチテーゼとして、宇沢弘文は「社会的
共通資本」を提起したことになる。.なお、宇沢は著書『社会的共通資本』(岩波書店)の中で、「この考え方は、もともと19世紀の
終り頃にソースティン・ヴェブレンが唱えた制度主義の考え方を具体的なかたちで表現したもので、21世紀を象徴するもので
ある。」と書いている。

ところで、同じく宇沢の同著書によれば、その具体的内容は「森林・大気・水道・教育・報道・公園・病院・金融制度・司法」など
住民生活にとって必要不可欠な基盤となる社会的装置とされているが、それは「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、
ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会
的装置を意味する」と定義されている。

従って、これは一般的な意味でのインフラストラクチャーより広い概念であり、同書に因ればそれらは「自然環境」「社会的インフ
ラストラクチャー」「制度資本」の三つに分けられ、それらに属する全てのものは、国家的に管理されたり、利潤追求の対象として
市場に委ねられたりしてはならず、職業的専門家によってその知見や規範に従い管理・維持されなければならないとされている。 但し、 宇沢弘文は、著書『金融システムの経済学』で読み取れる限りでは、“職業的専門家”だけに社会的共通資本の管理・維持を任
せることへの懸念も持っていたように思われる。

 従って、『準汎用AIが創造する抽象的デュナミス(あくまでも潜在性の次元に止まざるを得ない高度生産性/委細後述)=AIロボ機
械経済が創造する高度生産性』が、愈々、現実的にリアルに市場原理主義の弊害(今や歯止めが効かなくなったかにさえ見える超格
差拡大や、新たな“AIに因る人間阻害”の問題)と直接的に関わる(マクロ経済学の仮面を被った新たな搾取の仕掛けが施され
る?!/今や彼らの所得だけでは現実的に消費活動が不可能なまで超困窮化した多数の超貧困層が出現するため!!)可能性すら懸
念されるようになってきた昨今では、<「生命モデル」の経済学など全く新たな方向性とも絡みつつ、国家あるいはグローバル連合
的なネットワーク社会が、何らかの倫理的な観点から「社会的共通資本」の問題に再び積極的に関わるべきである>という考えが浮
上しつつある。そして。その流れは、例えば『社会の茎』などとの概念的な統合の工夫が求められているように思われる。

 

(宇沢弘文『社会的共通資本』と共鳴するH・アレント『ノモス社会論』)

 

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・・・アレントの画像はhttp://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100510arendt.htmlより。・・・

稲葉振一郎『政治の理論‐リベラル共和主義のために』(中公叢書)によれば、そもそもエトノス(自然・社会・伝統・文化・相互
主観性らを含む広義の地球環境)内におけるエントロピー解放手段としての暴力・暴政・戦争・財政危機などを内蔵せざるを得ない
国家の基盤である「法」の根源が、H・アレント(あるいはC.シュミット、ハイデガー)らが主張する如く「ノモス」的なものだと
すれば、そのアレントの「ノモス社会論」の先に、政治・経済が協働して当たるべき真の役割として「リベラル共和主義」(有産者
市民による政治体制)が見えてくる。

因みに、このような「統治パターナリズムの宿命的性格」を十分に承知の上で、統治者(立憲主義で政治権力を国民から委任され
た)と国民(その国家の主権者である)の両者が、決してめげずに微細な修正の努力を継続するのがリベラル共和主義、換言すれば
正統保守の立場である。

ところで、ハンナ・アレントの「社会」から見えてくるリベラル共和主義の可能性を明確に視野に取り込むためには、ノモス
(nomos)についての理解が最も重要なカギとなるが、そもそも最も根源的な「法」としてのノモスは古代ギリシアの社会概念であ
り、より古い時代には「神々と父祖伝来の伝統(現代風に言えばエトノス、つまり自然・伝統文化環境の総体である)が定めた行動
規範としての「法」、あるいは同じく、そこに住む住民が平等に与えられる「ノモス法で定められた社会環境とインフラストラク
チャ―の一定の分け前」を意味していた。

従って、ノモス法は現代的な理解である客観的な社会規範を文章で表現した「法」の内容だけではなく、一定地域の自然環境、土
地、建物、市街地、橋、道路など目に見えるモノとしての公共財(インフラ)と離れ難い存在であった。現代風に言えば、それは
エトノス自然環境とも離れ難い存在であり、フーコーの“統治理性”を理解するための必須概念となる。

エトノス(ethnos)とは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して
“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となる開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化
(マイクロバイオーム世界の理解など)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケール個体の全体性の“持続”を最
も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。

一方、そのethnosは古代ギリシア語に由来しており、それは村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その
「民衆」以外の部族集団のことを意味していた。従って、エトノスの意味は、そこに居る人々の立ち場が変われば正反対になり得る
ものであり、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉ではなかった。だから、それは「生命」そのものと同じく永遠に揺らぎつつ
も持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるのかも知れない。

また、フーコーの統治理性(短く言えば“どれほど社会理論や科学・科学技術が進歩したとしても常に国家(政府)の統治権力と市
民社会の自律的運動法則(関連して、特に労働組合のレニュアルが喫緊の課題!)は対等であるべき!とする非常に厳格な”考え
方)の対象には、このようなノモス・エトノス的な意味で非常に危ういとも言える、地球上の全ての生命環境が明確に視野に入って
いたと思われる。又、フーコーの慧眼は「いま我々が体験しつつある準汎用AIロボの時代のマクロ・ミクロ経済論の展相の必然性」
を実に的確に視野に入れていたことになる。

しかも、その対象は“国家とその国民層(法的統制)”だけに止まらず、法的統制と共鳴するエトノス環境とマイクロバイオーム等
に繋がる多様な生命世界(生政治/『監獄の誕生』)、果ては“家政⇒市場原理主義の過程で歴史的に変遷してきた”経済・財政・
社会(アダム・スミスの『見えざる手』=市場なる匿名的権力)に翻弄され続ける市民社会に至るまで、という具合で非常に広範に
及ぶ。

ともかくも、そこで我々が注目すべきは、アレントとフーコーの両者が、共に取り組んだ仕事のテーマが「人間性の歴史、つまりリ
ベラリズム(より厳密に言えばリベラル共和主義を志向する努力)の歴史」への高い評価という点で共通していることだ。そして、
この視点こそが、いま最も先端的な“生命論モデル”の「リベラル共和主義」、あるいは「Potenz経済学」の可能性の問題に繋がる
ことになる。

そして、アレントが重視するノモスの“そもそもの意義”が「ノモス法で定められた、その地域の環境(自然・伝統文化・インフラ
ストラクチャー)の平等な分け前(取り分)を地域の住民に分け与えることだ」という理解を援用すれば、「新自由主義が暴走し格
差が拡大するばかリの恐るべき資本主義社会の現況」に辟易している我々にも、改めて、希望の方向へのヒントを与えてくれると思
われる。 

つまり、そのような意味でノモス法的に考えれば、愈々、準汎用AIロボが出現する新しい時代になりつつある今だからこそ、雇用者
の生存権を守り、新自由主義(新古典派経済学に関わるルーカス理論)なる誤謬の副作用である「格差」拡大のジレンマを解消しつ
つ、彼らをれっきとした有産市民へと育てる回路を確保するためのツールとなり得る宇沢弘文の「社会的共通資本」の重要性が理解
できるのではなかろうか。

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