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タイトル:“晩秋”の南都に漂う身体化された心(唯識的エナクティヴィズム)の風景(2/n)  2018/12/18


【“晩秋”の南都に漂う身体化された心(唯識的エナクティヴィズム)の風景】幼生期(古墳〜奈良時代)列島の住人は現代と異なり「自分と違う存在を見ようとせぬ人々」ではなかった!(2/n)

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2018/12/17/044810


 1 日本人の身体化された心(エナクティヴィズム)の胎盤/そもそも黎明(古墳〜奈良)期「列島」の住人は「自分と違う存在
を見ようとせぬ人々」ではなかった!

 (渡来系文化との繋がり1/天武・持統・聖武天皇の仏教『鎮護国家』政策の“源流”)

  そもそも、7世紀後半の天武・持統天皇の時代の大官大寺・薬師寺などの造営の背景にも鎮護国家の性格があったが、それが本
格化するのは奈良時代の聖武天皇の時代(724〜749年)である。その理由となったのが、大飢饉・疫病の流行と戦乱による社会不
安の増大である。つまり、それらの災いと不幸がもたらす不安を仏教の力、特に密教の呪術的な力によって鎮め,国家を安定させ
ようとした訳だ。

  そして、その聖武天皇の東大寺盧舎那仏、国分寺・同尼寺、大安寺らの建設は、中国(唐の時代)の一時期に君臨した則天武
后(唐・高宗の皇后であった中国史上で唯一の女帝)が統治した国家、周(or武周:都=洛陽、690〜705/飛鳥時代末の持統・文武
・元明期にほぼ重なる)の「仏教の呪術的要素、特に“密教”を活用する鎮護国家」という古代イデオローグの大きな影響を受け
たものと考えられる。

 因みに、中国には、今も洛陽市の郊外にある「龍門洞(石)窟」で最大規模を誇る寺院、奉先寺(ほうせんじ)の「奉先寺大
仏」(盧舎那大像龕)が現存しており、これが東大寺盧舎那仏のモデルになったと考えられる(画像は、元神戸山手大学教授・河
上邦彦/連載コラム『中国における日本文化の源流』、
http://withinc.kobe-yamate.ac.jp/univ/course/kawakami/episode_08.shtmlより)。

 
(渡来系文化との繋がり2/“古密教”の伝来)

  一般に、日本「密教」の始まりは唐から帰国した伝教大師・最澄が伝えたもの(天台宗が取り入れた台密)とされており、それ
が本格的に日本へ紹介されたのは唐の密教の拠点「青龍寺」に学んだ弘法大師・空海が806年に日本に帰国してから伝えたもの(東
寺に由来する東密)であるとされているが、これらは密教成立史の概念で言えば密教として宗派を形成するようになる中期密教で
ある。

  一方、既に中国では唐・太宗(李世民)の時代、つまり玄奘三蔵(602−664)が活躍した頃から密教が無視できぬ存在となっ
ており、その時期から初唐の終わりまで(唐初の618年から玄宗・即位の前年(712)に至る約100年)の間に「密教」経典(初期密
教)の殆どがサンスクリットから漢訳(当時の中国語へ翻訳)されていた。

  そして、それらの約1/4に相当する130余部に及ぶ初期の密教経典は、飛鳥時代にほぼ重なる時期に、つまり聖徳太子が摂政に
なった推古天皇元年(593)から藤原京への遷都が完了する持統天皇8年(694)にかけての間に列島へ渡来していたと考えられる。
そして、一般に、この初期密教は雑密または古密教と呼ばれてきた。

  但し、奈良時代の密教の流布形態や、これらの経典の具体的な招来者・招来僧については「続日本記」などの正史に記載がない
ため殆ど分かっていない。しかし、幸いにも『正倉院文書』(関連参照/↓◆)の中に極めて多くの写経名が記されていたため、
専門家の調査と研究によってそのかなりの内容が分かってきており、それが上で述べた130余部の密経典に該当する。

 ◆正倉院文書を調べる/国立国会図書館、https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-735.php

  しかし、そもそも雑密とも呼ばれてきた古密教は「論、法相、成実、俱舎、華厳、律」の諸宗派とは異なり、未だ一つの宗派を
なすものとしては取り扱われず、主に仏教の呪術的(実用効果的、現世利益的)な受容の役割を分担していたと思われる。そのた
め、飛鳥時代〜奈良時代の初め頃にかけての古密教の受容は、様々な古来の土着的な呪術宗教とも融合しつつ列島に拡がっていた
と思われる。

  既述のとおり、天武・持統期以降の仏教受容の仕方は中国・周(則天武后)の「鎮護国家思想」の影響を大きく受けることとな
ったため、本格的に密教の呪術性(呪術効果への期待)が国策たる「仏教イデオローグ/鎮護国家」の中心と見なされるようにな
った訳だが、このような奈良期「古密教」(及び仏教)の受容史の中で特に重要なのが奈良・大安寺の「(高市郡(飛鳥)の大官
大寺からの)移転と造営」で力を振るった道慈(?−744)である。

  三論宗の僧であった道慈の俗姓は額田(部)だが、この額田(部)氏は渡来(技術者)系の可能性が高いとされる氏族である。
唐の西明寺で三論を学び、仁王般若経を講ずる高僧100人の内の一人に選ばれたとされる道慈は、養老2年(718)に遣唐使船で帰
朝するとすぐに律師〈僧尼を統轄する官職〉に任じられ、大安寺の造営に力を振るっている。

  その後、国の筆頭寺院となった大安寺は約900人もの学僧が集まる奈良仏教アカデミズム(古密教系の)の中心となった。そこ
には多くの碩学と学僧が集中しており古代中国語、古代半島系言語(百済・新羅・高句麗語)等も使用されていたことが窺われ、
その意味で大安寺は“渡来僧”らを含む内外の俊秀を集めた佛教大学アカデミズムの様相を呈していたと考えられる。そのため、
平安遷都後も大安寺には天長6年(829)に空海が別当〈寺務統轄者〉となり着任している。

  つまり、そのような訳で奈良時代・後半期の「大安寺の最盛期」は空海・最澄らが平安期に入ってから本格的な中期密教の成立
を実現するための文字通りの胎盤あるいは揺籃期であり、更に、見逃すべきでないのは、そこで非常に活発な「語学教育も含む東
アジア漢字文化圏」における先端的な学術交流活動が実現していたということだ。

 そもそも、更に時代を遡りつつ古墳〜飛鳥〜奈良〜平安初期の内外交流関係史を概観すると、〜仁徳天皇期(5世紀初頭?)に
は、すでに半島・中国文化が盛んに渡来しており、難波宮(元飛鳥)の頃から仁徳天皇陵(百舌鳥古墳群)を中心に阪南・難波〜
堺〜斑鳩〜飛鳥あたりに点在する非常に多くの未検証の遺跡等の調査が進めば、その頃から奈良・平安初期にかけての時代に「大
陸・半島系文化」として移入した胎盤に列島土着の倭人文化のタネが着床し始めた時期」であることが明らかになるのではなかろ
うか。

 因みに、倭五王期(5世紀半ば〜後半?)には引き続き半島、大陸との交流はかなり活発であったし、神道ないしは諸神社の源
流となる様々な神事(中国系、半島系)、および儒教・道教系など様々な土着文化と諸宗教が多様なルートで日本列島へ流入して
いた。が、当時の列島には日本なる国家意識は存在せず、倭語、加耶語、扶余語、百済語、新羅語、高句麗語ら諸語系の部族集団
が西日本〜半島一帯に部族意識のまま群住?した時代でもあった

 だから、 特に半島南部〜九州・西日本辺りに群住した諸語系統の人々は伝統ある各部族集団としてのアイデンティティー意識は
持っていたものの、確固たるナショナリズムとしての国家意識は希薄で、せいぜいのところそれは「部族連合に因る疑似国家的な
意識」であったと考えられる。  

  また、「新撰姓氏録」(平安時代初期、嵯峨天皇の本系帳提出命令に端を発する)に編纂された古代氏族名鑑)なる“自己申
告”記録によれば、当時の貴族・豪族の約3割が渡来系とされる。が、それどころか実際には畿内辺りの貴族・豪族は庶民層以上
に渡来系が占めており、前渡と今来を合わせれば7〜8割程度までが渡来系の実態ではなかったかと思われる。なお、委細は後述
するが奈良末期〜平安遷都期あたりの推定人口は高々で700万人程度であったようだ。

 ともかくも、このような黎明期の日本列島史を概観すると、突如として平安初期に空海・親鸞らのスーパー天才が輩出したとさ
れること、そして特に1年足らずの「入唐」経験で中国語と万巻の密経典をマスターし帰国したという空海伝説が今も独り歩きし
ていることの方が不自然に感じられる。

 それよりも、それはプロローグ(弘仁寺(高野山真言宗)に関する記述)で触れたとおり空海の出自が中国語系の一種の大陸渡来
系コロニーであったことに因るのではないか?また、それは大安寺らを始めとする奈良の仏教寺院、つまり東アジア漢字文化圏の
一翼を担う仏教系アカデメイア(学問・語学修練場)の賜物ではなかったのか?

 
 (参考1)飛鳥〜奈良期の渡来系と思しき僧侶・学僧・学者についての概観(一部)

・・・飛鳥時代の法相宗の僧・道昭(629 -700)は百済系渡来氏族である船氏(河内国丹比郡)の子孫である。出家して元興寺で
戒行を修したあと、白雉4年(653)に入唐して玄奘に師事し、その高弟である窺基とも親交を結んだ。天智1 年(661) に元興寺の
境内に禅院を創立し持ち帰った経巻を安置し法相宗を広めた。 

・・・道璿(どうせん/702-760)は、鑑真に先行し唐(中国)から来訪し北宗禅を広めるため大安寺に禅院を設置した人物だが、
天台宗にも精通していたとされる。その弟子の行表は最澄(中国(後漢)渡来系氏族の子孫?)の師である。 

・・・日本律宗の開祖で唐招提寺を創建し、そこに戒壇を設置した鑑真(688 - 763)は唐(揚州)から渡来した中国人であるが奈
良仏教界の充実・発展に大きな貢献をした人物である。来朝後は東大寺で授戒と伝律に専念し聖武上皇ら多くの人々に菩薩戒を授
けた。

・・・菩提僊那(ぼだいせんな/704 -760)は唐(中国)を経て渡来したインド人(バラモン階級)であるが、東大寺大仏殿の開
眼供養法会で婆羅門僧正として導師をつとめたことが知られている。九州・大宰府を経由して、行基に迎えらて平城京に入り大安
寺に住したとされる。華厳経の諷誦にすぐれ呪術(おそらく古密教)にも通じており、聖武天皇、行基、良弁と共に東大寺の四聖
と称えられた。

・・・義淵(643-728)は飛鳥〜奈良時代の法相宗の僧であるが、物部氏(徐福と共に来訪した?中国系)と同祖の渡来系・阿刀氏
の可能性が高い。天武天皇により皇子と共に岡本宮で養育され、出家して元興寺に入り唯識・法相を修めた。行基・隆尊・良弁・
道慈・道鏡らは義淵の弟子であったとされる。

・・・奈良時代の法相宗の僧・ 玄昉(げんぼう/? - 746)の俗姓は義淵と同じく阿刀氏であり、やはり中国渡来系の人物である
可能性が高い。学問僧として入唐して在唐 19年に及び、経論五千余巻と諸仏像を将来した。帰国後は僧正に任じられ橘諸兄・吉備
真備らと結び政界で活躍した。盛唐の文化を移入し国分寺の創建にも関与したとされる。

・・・奈良時代末期の法相宗の僧・道鏡は義淵の弟子であるが、その本貫(本籍)が河内国志紀郡弓削 であったため弓削道鏡とも
呼ばれる。なお、弓削(弓月)氏は渡来系の秦氏(半島経由の前渡り中国系?)と同祖とされる。葛木山で修業してから東大寺に入
り、孝謙上皇の病気を癒やして以来信任されて昇進を続け、恵美押勝 (藤原仲麻呂)の失脚後は仏教政治を取り仕切って太政大臣禅
師に、更に法王へ上り詰めた。

・・・奈良時代の学者・政治家である吉備真備(693/695-775)の出自、吉備氏は吉備国(今の岡山県全域と広島県東部らに跨る一
帯)を本貫地(先祖来の根拠地)とするが、そこは「突蕨(とっけつ)国/6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国
家」からの渡来者集団が建国したとの説があり、ともかくも大陸(中国)系渡来人の子孫であろう。

 (参考2)奈良時代におけるカナ文字の誕生/それは、排外思想ならぬ文化ナショナリズム(平安前期に誕生する国風文化)のルー
ツとして芽生えた、

・・・古代インド仏教の権威を借り中華思想(漢民族に伝統的に潜在する優越意識)に対抗しようとする、いわば高度文化ナショ
ナリズム意識(これを排外的な偽装極右意識に直結させるのは短絡で、むしろ個々人と同じくアイデンティティー尊重(個の尊
厳)という正統保守的な観念の中核と見るべきもの)の高まりから成立したのが我々に馴染み深い「漢文訓読」の方法(漢文(中
国語)を日本語で読む工夫/推古期にもその痕跡はあるが、カナ文字を援用するヲコト点および返り点の“訓読形式”が現れるの
は奈良末期〜平安初期とされる)である。

・・・朝鮮半島でも、李斯朝鮮王朝の王・世宗が庶民教育の必要性から表音文字ハングル(訓民正読)を制定した時(1446)より
前の時代には、語順符と漢字の略体(日本のカナに相当)などを使った訓読(朝鮮では釈読という)が行われており、同時に、日
本の万葉仮名と同じく漢字の表音的利用も行われていたので、この辺りが何らかの形で日本の奈良〜平安期の交流のなかで影響し
合った可能性が高い。

・・・そして、その肝心の日本のカタカナ(カナ文字)の起源は、9世紀初めの大安寺・東大寺・興福寺らの奈良の学僧の間で漢文
を和読するための訓点(記号)として、借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したことに始まると考えられる。また、日本
の「漢文訓読」と朝鮮半島の「釈読/口訣」(万葉仮名に似た使い方、朝鮮語の読み下し文である順読口訣(音読口訣)もあった)
との間には何らかの関係性が窺われるが、その詳細は未発見・未検証となっている(以上の出典:金 文京『漢文と東アジア』− 
岩波新書−)。

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