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タイトル:“晩秋”の南都に漂う身体化された心(唯識的エナクティヴィズム)の風景(1/n)  2018/12/18


【“晩秋”の南都に漂う身体化された心(唯識的エナクティヴィズム)の風景(1/n)】幼生期(古墳〜奈良時代)列島の住人は現代と
異なり「自分と違う存在を見ようとせぬ人々」ではなかった!(1/n)

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2018/12/17/044810

(プロローグ)南都“晩秋”、日本人の身体化された心(エナクティヴィズム)の原風景

 <注1>身体化された心(エナクティヴィズム/enactivism)とは?

・・・これは仏教の唯識(知)に接近しているとも言えそうである。唯識論では、現世の事物と現象は客体の実在に非ず心の根源
である阿頼耶識(あらやしき/8つの意識の最深層に位置する無意識)が展開し生じたものと理解する。これは法相宗の根本とな
っている。・・・

・・・生存の限界に直面した生命が新たな適応力を展開し得る条件は何か?に関わる現象学的な方法論(別に言うなら、フッサー
ル“相互主観性=間主観性、共同主観性”の本格的な復権)を探るごく新しい概念。特に、ダン・ザハヴィが「現象学の自然化」
(アバウトに言えば、コンシリエンス(“人文・社会知”と“自然科学知、特に神経生理学”の融合/実在論と観念論の中間の
道)の研究で此のenactivismを重視しており、新たな認知理論の地平の展開が期待される(委細は、注5で後述)。

 <注2>今の日本は内向化した“茹でガエル”状態であり「自分と違う存在を見ようとせぬ人々」が若い年代を中心に多くなっ
ている!(参照、添付画像)

・・・20181207寺島実郎 「未来先見塾」は、<株高トレンドを除き日本経済は着実に悪い方へ向かっており不安はあるものの、
外国人受入・財政・社会福祉など社会・経済・財政等に関わる重い政策的な課題や社会問題には関わりたくなく、今の生活が程々
に満たされれば政府の指示に従って何も面倒なことは考えず生きてゆきたい!という「常温嗜好でイマ・ココ・ワタシに向かう
生活者」という一般の日本人の心の恐るべき実像が読み取れる!>と分析している。つまり、コレは<今の日本では、「自分と違
う存在を見ようとせぬ人々」が多くなっている>ことの何よりの証拠であろう。しかも、ギャラップ調査によれば、このような意
味での「国民の消極的傾向」は「139カ国中で132位!」と最悪である!

関連で要参照!【20181207「未来先見塾」動画】⇒ https://vod.bs11.jp/video/insideout-miraisenkenjyuku/20181207/ 

【しかも、直近のギャラップ調査の結果には、“現実逃避(無関心への逃げ=“空虚感を抱えたイエスマン”なる“イマ風で格好
が良い”?)の生き方を選ぶ日本人(一般国民)の悪しき傾向”が特に若者層を中心に現れている!】

・・・矢張り、実に恐るべきことだが、今や我われ日本国民は、社会現象学者A・シュッツが指摘する、あの<たしかな未来へ向かう
“もう一つの緩やかな時間と豊潤な日常生活”>の再発見とは全く真逆ベクトルの途を歩みつつあるようだ。戦後期の政治学者・
橋川文三がかつて鋭く抉り出した<戦前・戦中期の異常アイロニー(内外の憎むべき敵対勢力と国賊探し、そして“やんごとなき安倍晋
三&日本会議”サマら超然権力の御意向のままに現実逃避(無関心への逃げ/“空虚感を抱えたイエスマン”化(森達也氏、内田
 樹氏)なる“イマ風で格好が良い”?生き方/↓▼)が只管拡散するバカリのプロセス>を取り戻し、あの大敗戦と総国民玉砕へ
の途という“美しい?虚構の生き甲斐”プロセスを再現するという、実に悲惨な日常の最中にあるようだ。https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2018/11/12/060933

 ▼  ギデンズ、ニューエン両氏の指摘は慧眼!気懸りは青年らの意識が欧米と日本(空虚感抱えたイエスマン)で真逆なこと!日
本はアベ&政官財トップの<背中>の上書きで満足なのか?w ⇒(耕論)蒸発する欧州の「中道」 アンソニー・ギデンズさん、
クリストフ・ニューエンさん1208朝日https://twitter.com/shinkaikaba/status/1072037253440913408

 ・・・以下は、「南都“晩秋”の風景、アラカルト/大安寺、新薬師寺、元興寺、高円山百毫寺、正暦寺、弘仁寺」・・・

f:id:toxandoria:20181216074226j:plain f:id:toxandoria:20181216074656j:plain(『十一面観音立像』重要文化財:奈良時代
の像は大安寺HPより)

大安寺(だいあんじ/真言宗)
・・・日本最古の寺院の一つで、東大寺や西大寺と並び南大寺と称されるほど偉容を誇った大安寺の創建は、聖徳太子が大和国平
群郡額田部(奈良県の生駒郡、大和郡山あたり)に建てた「熊凝精舎」まで遡る。その後、639年に舒明天皇がその精舎を百済川河
畔に移し「百済大寺」とし、更に天武天皇2年(673)に高市郡に移され「高市大寺」となったが、次いでそれは677年に天武天皇に
より「大官大寺」と改称された。

・・・やがて、再びそれは霊亀2年(716)に平城京に移され新伽藍が建設された。唐から帰国し律師〈僧尼を統轄する官職〉となっ
た道慈が(移転と)造営の役を担った「大安寺」は、三論宗の道場となり学問寺として隆盛し、奈良時代には国の筆頭寺院となり
約900人もの学僧(多くの渡来系学僧がおり、古代中国語、古代半島系言語(百済・新羅・高句麗語)等も使用されていたらしい)
を擁す、奈良仏教アカデミズム(特に古密教の/委細、後述)の中心となっていた。

新薬師寺(しんやくしじ/華厳宗)

・・・新薬師寺は、天平19年(747)に聖武天皇の病気平癒を祈願する光明皇后が春日山の南に続く高円山(聖武天皇の離宮があ
った場所)の麓で創建した。天平勝宝3年に聖武上皇のための続命法(病人を救うため薬師如来に祈ること)が新薬師寺で行われ
たあと、同4年(752)に東大寺の大仏開眼供養が行われた。

・・・奈良時代は南都十大寺の1つであったが、平安時代以降は規模が縮小した。国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ多く
の文化財が伝わる。本堂(奈良時代)、木造薬師如来坐像附 法華経(白点本)8巻、塑造十二神将立像(宮毘羅大将像を除く)
(所在本堂)が国宝である。

元興寺(がんごうじ/中院町にある元興寺極楽坊と称していた西大寺の末寺で宗派は真言律宗)

・・・蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京内に移転した寺院(法興寺も飛鳥
の地に残り、それが現在の飛鳥寺)。この元興寺極楽坊の他に奈良市芝新屋町所在の元興寺(東大寺の末寺で宗派は華厳宗)も存
在したが、現在は1935年頃再建された小堂が建つのみである。

・・・本堂(附:厨子及び仏壇、棟札(寛元2年))、禅室および五重小塔(収蔵庫に安置/奈良時代)が国宝。東門、著色智光曼
荼羅図(板絵)(附:絹本著色智光曼荼羅図)、木造阿弥陀如来坐像などの重要文化財(国指定)があるが、著色智光曼荼羅図は
日本で最古の曼陀羅図とされる。また、本堂の屋根瓦の一部は飛鳥時代の古式瓦が使われている(画像は、本尊・知光曼陀羅(奈
良時代)の裏にある複製)。

 高円山百毫寺(たかまどのやまびゃくごうじ/真言律宗)

・・・百毫寺は、奈良市の東部にある山なみ、若草山・春日山に続く高円山の麓あたりに建つ。一説では、この地にはかつて天智
天皇の第七皇子・志賀皇子の離宮があり、その山荘を後に寺としたとされる(天智天皇勅願寺の説もある)。今は、約100段の石段
を上り詰めると、眼下に奈良の町が、そしてその遥か向こうには信貴山、生駒山などの山々を見渡すことができる。

・・・鎌倉時代に大宗一切経の摺本がこの寺に伝わってからは、一切経寺とも呼ばれた。宝蔵に安置する本尊の阿弥陀如来坐像や
閻魔王坐像らは国の重要文化財指定。因みに、白毫は仏の眉間にある白い巻毛のこと。五色椿(奈良県指定天然記念物)は東大寺
開山堂の糊こぼし、伝香寺の散り椿と共に奈良三名椿の一つとされている。

 
正暦寺(しょうりゃくじ/菩提山真言宗(大本山))

・・・正暦寺は、992(正暦3)年に一条天皇の勅命を受け兼俊僧正によって創建され、創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔
頭が渓流を挟んで建ち並び勅願寺としての威容を誇っていた。が、平重衡の南都焼き討ちの時にその類焼を受けて全山が全焼し、
寺領は没収され一時は廃墟と化した。

・・・1218年には興福寺一乗院大乗院住職信円僧正が、法相宗の学問所として再興し、再び、昔に勝る隆盛を極めた。江戸時代以
降は衰退し、殆どの堂塔・伽藍は失われ、今は福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなっている。当地(奈良市菩提山町)は奈良
市街から東方へ約8キロメートルの近さながら、深山幽谷の如き趣がある。

・・・因みに、古くから正暦寺では荘園米で「僧坊酒」が作られており、当寺院は日本酒発祥地の一つとされる。しかし、そもそも
当寺院の清酒(日本酒)づくりは中国系僧侶が紹興酒の製法を伝えたことから始まったとされる(紹興酒(黄酒/老酒は長期熟成
したもの)と日本酒の

弘仁寺(高野山真言宗)

・・・正暦寺から比較的近い立地(奈良市虚空蔵町)にある弘仁寺は、弘仁5年(814年)に嵯峨天皇の勅願で空海が創建したと伝
えられる。空海は自ら彫った虚空蔵菩薩像(本尊/国宝・文化財には未指定)として安置したとされる。また別に、小野篁を創建
者とする説もある。元亀3年(1572年)に松永久秀の兵火で伽藍の大部分が焼失たが、寛永6年(1629年)に宗全が再興した。

・・・注目すべきは、弘仁寺の近傍に今も地名が残る和爾(わに)氏、小野氏、春日氏、大宅氏、柿本氏などの古代氏族が弘仁寺
の周辺山麓に本拠を占めていたことで、彼らの殆どは渡来系の古い氏族である可能性が高い。また、これら氏族の中でも小野氏が
山口寺願興寺(廃寺)と共に弘仁寺を建てた可能性が高くなっている。因みに、讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で生まれ
た空海は郡司・佐伯直田公(さえきのたぎみ/母は阿刀氏)の子であるが、佐伯氏も阿刀氏も古い渡来系氏族であり、多度郡屏風
浦辺りには渡来(中国)系の氏族が多く集住し、そこでは古代中国語も併用されていたとの説もある。

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