メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!(2/n)  2018/07/02


■[希望のトポス]ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク(2/n)

<注>お手数ですが当記事の画像は下記URLでごらんください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701 


1 Google‐Webネットワーク時代の「AI・BD‐Web情報」とリアル社会情報の根本的な差異の問題

1−1 その前提には、先ずa「あくまでもヒトがリアルに生きている文脈的世界の一環であるデータ(一般的な意味での抽象性とは異なるマッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶」ということがある

・・・両者はアリストテレスの潜勢態(デュナミス/dynamis)と現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する。なお、その潜勢態(可能性でもある!)を完全に実現して、その目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンのイデアに匹敵する)と呼ばれる。つまり、今の我われは、(1)社会活動的に見れば間主観性が日々に更新され続けるリアル側面にも相当する、一定の文脈的世界の一環であるマッハ感覚論的素材性(エトノス&感情の海を漂うエネルゲイア)、(2)巨大WebネットDB汎“知”が刻々と更新し続ける新たなクラウド的世界(増殖し続ける抽象的データ/デュナミス)、(3)ルソー「一般意志」に相当する普遍観念(絶えざる未来志向の理想/エンテレケイア)という、日々に我われが生きる環境世界のリアリズムに関する三つのフェーズを明確に意識しつつ生きるべき時代に入ったといえる。なお、例えば当記事で“反面教師的”教材として取り上げた東 浩紀『一般意志2.0』の如く、その筋の専門家でも「(1)と(2)」を混同するケース(マッドサイエンティストもこのジャンル?)が観察されるが、一般的には(1)、(2)、(3)が区別されず漫然と混同されているようだ。(以上についてのヒントを与えてくれた主な資料:大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)、p316・注記 ほか)・・・

端的に言えば、a「リアル社会情報=パースの“トークン”(関連参照↓◆)が代表する社会の諸活動(エルゴン/ergon)が日々に創造するリアル因果の連鎖=時間の流れに伴い永続更新するマッハ感覚論的素材が紡ぎ出すリアル現象」および b「Web情報=Webネットワーク内のデータ分布(ビット&抽象情報化した各データは一定のリアル文脈構造から切り離されている)が拡張しつつ創造する無限のヴァーチャル構造/Webネットワーク汎“知”DBが構築し続ける電脳空間」、として<根本的にaとbを対比して見る>ことでこそ両者が決定的に「断絶」していることの理解が可能となる訳だ(前段の文脈で言えば、(1)と(2)の断絶ということ!)。

◆20180503toxandoriaの日記/「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503 

ところで、量子コンピュータについては、それがスパコンの数億倍ともされる高速計算が可能とはいえども、不確定性原理による量子の状態変化を安定させる方法など(Ex.データ保持期間の長期化など)の課題が残されている。また、1古典量子ビット(1.0)と比べた情報量の大きさで見ると、現行の50量子ビット(2の50乗=1,125,899,906,842,624)から100同ビット(1.26765060022822940149670320537E+30)へ拡大する技術(古典コンピュータ50台分の計算の同時並行処理)が実現できたとしても、それを実用化するのは、そのままで理解不能な膨大な計算結果を人が読んで分かるよう処理するため、それは今も同じことだが、その各々の計算(情報処理)の結果を統合的に理解するため古典コンピュータによる解読(計算)処理が必ず必要である。

そこには「リアル世界」と「ビット情報が蓄積した抽象的ヴァーチャル世界」の決定的な「断絶」の幅が、古典ビット時代を遥かに超える膨大なスケールて益々拡大するという深刻な問題が潜んでいるようだ。無論、そのような「断絶」について、あまり深く考えず割り切って無視することも出来るだろう。が、そうすると今度はそこに「ヒトが生きる意味は何か?」という古くて新しい問いが、つまり<倫理と人道に関わる厄介な価値判断>が必ず浮上し影を落とすことになる。<日々に巨大化へと増殖し続けるWebネットDB汎“知”型ヴァーチャル世界>が、自分をも含むリアルの日常を圧倒しつつ飲み込み続けるというイメージが実に悍ましく見え始めることを只の杞憂として見過ごしてよいものだろうか?(関連/参考情報 ⇒スタ二スラフ・レム原作、アンドレイ・タルコフスキー監督・映画『惑星ソラリス』、http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html)

<補足1> 量子コンピュータとは何か? 実用化進む次世代コンピュータの基礎と仕組みを解説、https://www.sbbit.jp/article/cont1/34458 

要は、“ビット情報に因って伝わるWeb情報は、たとえそれが見かけ上で文脈的な体裁となっているものであっても、それは純粋に抽象化した「データ」(潜勢態/デュミナス)であり、リアル・コミュニケーションにおける会話や文章(がもたらすアナログ情報)は、必ず何らかの特定の目的(や意図、何らかの世界観など)と結びつく「インテリジェンス情報」(現勢態/エネルゲイア)であるということになる。これを真逆に言えば、<リアル世界でのデータ>は、たとえそれが数字等の抽象的データであっても、それがこの世界に出現した瞬間(何らかの数字や記号やコトバが話したり書かれたりした瞬間、あるいは書棚の本やそこに置かれた新聞が読み始められたりした瞬間など)には、それらは必ず何らかの生きたエトノス環境(内外の自然&文化環境)に包摂されているという意味でリアルな「マッハ感覚論的素材性」を帯びることになる。

つまり、<Webネットワーク汎“知”DBが構築する電脳階層に格納され続けるデジタル情報>と<リアル世界という大海原を漂い、泳ぎ、潜水と浮上を繰り返し、あるいは交流する社会フィールドを駆け巡るアナログ情報>との間には、このような意味で<宿命的、かつ決定的な断絶>があり、その両者を仲介するのが「エトノス観念(同環境論)」(最広義の自然・文化環境に包摂され同期し続けるリアル意識の総体であり、それが今を生き続けようとする生身のヒトの意思の源泉でもある)ではないかと思われる(関連/エトノス環境の委細はコチラ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503)。


1−2 AI・BD‐Web時代にこそ注視すべき、セカンドオーダー・サイバネティクスとしてのヒトが創造する“余剰etwas”(意志を含む)の問題



f:id:toxandoria:20180624072735p:image:w300:left・・・H.v.フェルスターのノントリビアル・サイバネティクス(セカンドオーダー・サイバネティクス)がもたらす“余剰意志”(アンガンジュマン等の始動因(モチベーション)となる)についての理解が、「間主観性の連鎖」と「多次元的な倫理感」についての再覚醒をもたらす。・・・ 



f:id:toxandoria:20180620153221j:image:w250:right 東 浩紀『一般意志2.0』(講談社)を一読した限りでは、本格的なAI・BD‐Web時代に入ってしまった現代では、J.J.ルソーの一般意志に牽引されてきた近代啓蒙思想も、あるいはアーレント、ハーバーマスらが果敢にその研究に取り組んだ「間主観性」論(手続きの普遍性を重視する立場)の現実社会面での役割も、これらの悉くがAI・BD‐Web周辺の情報技術の深化で今や無効化したと見なされている。

しかし、果たしてそう言い切れるのだろうか?実は、いま起こりつつある事態はそのような悲観的(orそのような見方を一種のシンギュラリティ論への翼賛の心情と見なせば甚だしく楽観的だともいえる?苦w/その委細は、第2章へ譲る)な観察とは真逆ではないのか?

(セカンドオーダー・サイバネティクス)

そこで、先ず注目すべき重要なファクターはH.v.フェルスター(↓補足2)のノントリビアル・サイバネティクスだ。つまり、それは従来のファーストオーダー・サイバネティクスを「普通のサイバネティクス」(トリビアル・サイバネティクス/下図1)とすれば、セカンドオーダー・サイバネティクス(普通ではない2nd.オーダー・サイバネティクス/下図2)型の自己言及システムがあり得ること、それがヒトを含む生命体のそもそもの起動因となっている可能性が高いという発見である。



f:id:toxandoria:20180620153613j:image:w230:left<補足2>Heinz von Foerster(1911–2002)Austrian American scientist combining physics and philosophy, and widely attributed as the originator of Second-order cybernetics. https://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_von_Foerster 

4、5

f:id:toxandoria:20180620153349p:image:w250f:id:toxandoria:20180620153437p:image:w250

図1Trivial machines(上) 図2Nontrivial machines(下)

Trivial machines :As shown in Figure 3, trivial machines are driven by their inputs. Describing something as a trivial machine is to focus on the predictability of its behavior, o, from the conditions that impinge upon it, its input i. This is accomplished by formulating a relation between the two observables, ideally in the form of a mathematical function F : o = F(i). Functions do not offer choices.・・・http://web.asc.upenn.edu/usr/krippendorff/secorder.html 

周知のとおり、サイバネティクス(1st.オーダー・サイバネティクス)は20世紀中ころにノバ―ト・ウイナー(Norbert Wiener/1894-1964/米国の数学者)らにより情報と通信に関する制御理論(自己言及的フィードバック・システム)として定式化されたものである。

この1st.オーダー・サイバネティクスの特徴を端的に言えば「それは、結果をインプット(原因)側に戻すことで原因側を自己言及的に調節し続けることであり、例えば電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能などを挙げることができる」ということになる。因みに、この1st.オーダー・サイバネティクスをモデルとする西川アサキ(AI研究・情報哲学者)らの「意識創生に関わるコンピュータ・シミュレーション」では(2nd.オーダーでないことに注意!!)、そこで創生された“コンピュータ上の意識もどき”(最小単位のモジュール)が「対外部的に秘密化(過激なまで暗く内向化)する性質」が観察された、という報告があることを特に注視すべきである(参照⇒『西川アサキの基礎情報論』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104)。 

一方、H.v.フェルスターの2nd.オーダー・サイバネティクス(ノントリビアル・サイバネティクス)の活動モデル(エルゴン)は、その起動因を先ずシステム内“観察者”に仮設することで得られることになり、そこでは<外部環境(それはカント的な普遍、ないしは最広義のエトノス環境とも言える)というフリーハンドの多様性(つまり、外部から)の影響があればこそ、その起動因は常に自由で開放的な自己言及が確保できる>ことになる。この2nd.オーダー・サイバネティクスの生体活動における具体的な事例は、最新のマイクロバイオーム研究などの成果に見られる(委細、後述)。

因みに、カント的な普遍は必ずしも絶対的に固定されたものと見なす必要はないと思われる。それは、それがデータ表象ではなく観念である限り、そこでは一定の振幅が許される筈であるからだ。又、その内部の“観察者”(observer)については、特にヒトを含む生命体の場合は入れ子的・重層的に存在する各システム内の固有値(observer)が、つまり三次元空間内でのゼロ点から突然に個性的なものが出現すると考えるのは甚だ困難である(存在と非存在が重ね合わさる“無限次元での複素数ベクトルの確率分布(波動関数)の力学”が支配すると思しき量子力学ワールドならいざ知らず!苦w)。だから、特に生命活動(生体活動)における2nd.オーダー・サイバネティクスの場合の「内部観察者」は生命論的な意味で時間の流れと同期しつつ目前の三次元世界で進行する「内外世界の因果連鎖」に関わるリアル感覚(リアル意識)そのものと見なすべきであろう。

だから、そもそも如何に始原的な個性であるとしても(最初の一撃に相当する始動因は化学反応的なものかも知れぬが)、それは最広義のエトノス的な環境との相互作用の下で、漸次、しだいに培われて文化・伝統的に馴化・変容・継承されてきたものだと見る“正統保守的”な意味での個性)に相当すると考えられる。いずれにせよ、特にヒトを含む生体活動では閉鎖的な1st.オーダー・サイバネティクスと開放的な2nd.オーダー・サイバネティクスの双方が、何らかの法則に従いつつ実に巧妙に夫々の役割分担を果たしている(究極的には2nd.オーダーがやや優越していると思われ、そこに生命誕生の核心も潜む可能性がある)ことが窺われるのは興味深いことだ。


(ノントリビアル・サイバネティクス(同・マシン)としてのヒトが創造する“余剰etwas”とは?)



f:id:toxandoria:20180621035955j:image:w250:rightR.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著・刊)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界(宇宙規模!)の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの生理機能を調整し個体のアイデンティティ(2nd.オーダー・サイバネティクスで言うobserver?)を持続させていることが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある(委細は↓◆参照)。

◆20170320toxandoriaの日記/マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義、レイシズム=非合理”http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 

その分野の研究の中で最も注目べきものに、我われ個体内に馴染んで棲みつく多くの細菌が発達させてきた『クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)の有意性』の発見ということがある。それは、「未だ正体が知れぬ相手(細菌・異物など)に対し仮の名づけ(見立て上のタグ貼り、名詞化)を行い、その見立て上のネーミングに応じて自らのシグナル伝達分子、あるいは自由誘導因子(オートインデューサー)などの分泌をコントロールするシステムのことだ(関連参照 ⇒ グラム陽性細菌のクオラムセンシング研究の最前線、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslab/21/2/21_2_95/_pdf )。




f:id:toxandoria:20180621063814p:image:w320:leftこのクオラムセンシングで、ヒトの体内にある細胞と、あるいはそこに棲む細菌類と他の内外細菌ら異分子・異端・外来種(最広義の内外環境に潜む)との間で、基本的には寛容な共鳴・共振・交流・交換・結合が、つまり<ミクロ(微量)な余剰>部分の交換が絶えず行われており、そのプロセスで自己細胞の側でのバイオフィルム(ヌメリらの構造体)形成や、あるいは真逆に有害病原性・有毒性などの侵入許容範囲の制定機序が生成されたりしていることになる。

従って、近年では病原体の感染も従来考えられていたほどストレートなものではなく、より複雑で多面的な「クオラムセンシング」(2nd.オーダー・サイバネティクス機構=ノントリビアル・サイバネティクス)と「免疫系」(1st.オーダー・サイバネティクス機構)の絡み合いの帰結であることが分かりつつある(単純に、“病原菌感染=病状発現”になるとは限らぬということ!)。

また、些かの空想を交えつつ敷衍すると、このことは本格的なグローバル時代における「国家アイデンティティ」の議論を連想させる。それは、<これからも民主主義は主権を確保するための「知」の体系(その保全システム)であり続けられるか?>という問題に関わる『ドイツの哲学者マルクス ・ガブリエル氏と國分功一郎・東工大教授の対談』(↓◆)の中に出てくる「国家の役割の有意性」にも大きなヒントになると思われるからだ。

つまり、それは「AI・BD-Web高度情報化」を前提とする本格的グローバル時代に対応すべく「新たな国家の役割」を具体化できる民主主義の形に転換するのが必然ということだ。そこで重要となるのは国民国家を超えたグローバル・シチズンシップ(多次元的な倫理観が段階的・拡大的にに求められるようになること)であるが、それは、今や<アベ様の民族派系“偽装極右”こと“国庫&利権私物主義”一派(ネポティズムお仲間一派)による強権かつ犯罪的な“異常倫理観”強制の典型>と化した日本政府、あるいは独善的『民族派“国庫資本主義”』を強行するハンガリー・オルバーン政権らの如き<超閉鎖主義>の対極にある<開放的な連帯意識>の可能性である。

◆哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談/20180620朝日、https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html 

このため、今や“民主主義と両立しない国民国家”(特に民族主義にこだわる)が維持困難なのは明らかだが、それにも拘わらず一定の倫理・道徳的な基礎(多次元的な倫理観/グローバル化の世界トレンドの流れに沿って“国家→国家連携→地域共同体→・・・→地球共同体”の段階的ボーダレス化を経験するため一地域内の道徳はやがて無効となり、更により広域的な視野の倫理・道徳へと多次元化するのが必定である)を持つ国家フレームは必要になる(それ故、正統保守こそが本命でありアベ様の日本を支える日本会議らの民族派極右or極左らが出る幕はないことになる!w)>という論点が、愈々、本格化する「AI・BD‐Web情報」時代に必須となる「コンシリエンス“知”/consilience=人文・科学両知の融合」の創造と深く関わることになると思われるからだ。因みに、コンシリエンスはウィリアム・ヒューウェルの造語だがE.O.ウイルソン、アレックス・メス−ディ、ツヴェタン・トドロフ、ヒューバート・ドレイファス、チャールズテイラーらも同じ考え方を主張する。つまり、彼らは、「それによる啓蒙主義の再定義が可能であり、人類はそれを目指すべきだ」と考えている(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20161107)。

これからの時代は「コンシリエンス“知”」による啓蒙主義の再定義が必須であり、そこで重要になるクリティカル・パスが、“事実上、そして戦略的にノントリビアル・マシンの方向へやや傾斜しつつ(or 1st.オーダーを含めた生体トータルが2nd.オーダー・サイバネティクスに包摂されつつ?)進化してきた”ヒト(人間の個体と意識)が日々に創造する「余剰etwas”」(意志を含む)になるのではないか?また、これは一部で期待されているコンピュータによる意識創造、ノントリビアル・エコノミクス(“AI・BD‐Web情報”時代に相応しい新たな経済学へのパラダイム転換)などの問題にも関わってくることが予想される。但しtoxandoriaは、マッド・サイエンス的な意味でのシンギュラリティ信仰は決定的な誤り!と、見る立場である。

ともかくも、本格的なグローバルシチズンのための「多次元的な倫理観」と共に絶対に忘れてはならないのは、(1−1)で述べた<高度情報化時代にこそ明確に自覚すべき三つの世界構造>の問題であり、それは「(1)マッハ感覚論的素材性のエネルゲイア、(2)巨大WebネッットDB汎“知”が刻々と創造するデュナミス、(3)ルソー「一般意志」(普遍観念)が表すエンテレケイア」という三つの世界が鼎立する構造である。

従って、本格化する高度情報化時代に立ち向かう我われが意識すべきは、これら(1)、(2)、(3)の鼎立構造に対して十分なバランス感覚が維持できるよう、それに相応しい多次元的な倫理観も構築し、それを日々に更新する必要があることになる。因みに、(1−1)で書いたとおりだが(2)は「可能性」(潜勢態/デュナミス)でもあるので、それを活かすか殺すか?は飽くまでも人間しだいなのだ。ゆめゆめ、(2=閉鎖的抽象性)が(1=リアルの生命連鎖)と(3=開放的抽象性)を圧倒し、一方的にそれらを包摂して屈服を強いることは絶対に許すべきではない。そして、この方向性について最も先進的な取り組みを展開しているのがEU(欧州連合)であるのは周知のとおりだ(関連参照↓◆)。

◆20180503toxandoriaの日記/刮目すべき欧州(EU)GDPR(EU一般データ保護規則)の先進的規定、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503

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