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タイトル:「民主主義=永久の課題であること」を理解し、・・・日本国憲法の新たな役割を・・・(2/3)  2018/05/05


「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナ
ルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・ア
ベの課題r
(2/3)

* お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503 



2 ポストモダニズムの日本でも必須と思われるネオ・プラグマティズム(“米国型
リベラル共和”志向)の視点


2−1 プラグマティズムの現代的意義


19世紀後半にアメリカで誕生したプラグマティズムついて、日本で知る人ははまだ
あまり多いとは言えない。そのうえ「実用性だけを追求する、アメリカ的な目先の
カネメに好都合な道具主義だ!」という見方が根強く、それが固定観念化してい
る。そして、圧倒的な実利第一の戦勝国アメリカには“強固な日米同盟”で追従す
るのが一番だ!という割り切った空気が漂うのも確かだ。

果ては、嘘・改竄・隠蔽が垂れ流すウソに塗れた大スキャンダルの巣窟(それは、
まるで出口ナシの“汲取便所”状態?)と化した安倍政権が、それでも非常に強固
な3割支持層(目下のところ!特に男性の中堅ビジネスマンと就活前後の若年層に
この傾向が強く現れている)によって支持されるという不可解な現象の背景にある
のが、この“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という倒錯した意識ではな
いか?とも思われる。

ところで、生涯にわたり哲学書は一冊も書かなかったが、「形而上学(メタフィジ
カル)クラブ」のメンバーの一人で、かつプラグマティズムで著名なウィリアム・
ジェームズらと親交があったオリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニア博士(19
世紀後半〜20世紀初めに活躍した米国の法律家・連邦最高裁陪席裁判官)は、「南
北戦争」に参戦し米国民同士の残虐な殺戮戦を生き抜いた経験から、『思想は決し
てイデオロギー(他の人々へ強制する)に転嫁してはならない、戦争はどのような
思想もイデオロギーも無力化する只の殺し合いだから!』という重要な殆ど経験的
な信念を手に入れたとされる。

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因みに、同名書の著者ルイ・メナンドによれば「メタフィジカル・クラブ」のネー
ミングは、形而上学へ過剰に傾斜する哲学や思想の危険性を危惧するという意味で
付けられたとされる。また、ホウムズと親交があったウィリアム・ジェームズはデ
ューイらと並ぶプラグマティズムの創始者のひとりで、ジェイムズ・ジョイス『ユ
リシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えつつ特にパースを支援して世に広め
た人物として重要である。

付言すると、ここでホウムズが命がけの戦争経験で理解したのは「様々な開かれた
考え方の一つである思想と、他者に対し無条件でそれを受け入れるように強制する
イデオロギーは全く別物」ということだ。しかし、ほんの少し留め金が外れるだけ
で、いとも容易くイデオロギー化する思想はその取扱い次第で残虐な殺戮戦争の条
件となり得るのだ。たとえ、そこに論理的・合理的(rational)な理由があるとし
ても。そして、このことがプラグマティズム哲学を貫く伏流として流れ続けている。


2−2 プラグマティズムの概要(通史ではなく主要論点に絞り込む)


(プラグマティズム創始者の一人、パースの慧眼『道具主義』が意味すること)


エピローグで取り上げたルドンが言う「中間の媒介的生命」(幻想的なものに見え
る現実であると同時にその幻想の主役でもあり得るもの/言い換えれば、論理と普
遍性(精緻な概念規定)の対極にあるリアリズム)とほぼ同じ対象(または現象)
と思われる「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」に注目したのが、プラグマテ
ィズムの創始者の一人とされるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce/1839- 1914)だ。

無論、論理哲学者パースが注目した「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」とは、動・植物のジャンルに限ることだけではなく、生物・無生物を含む自然のすべてと
人間社会そのものをも含む森羅万象の一部、つまり「因果リアリズム」(絶対“観念”の真理ではなく、エトノス環境と深部共鳴しつつ、それなりの正しさを現出さ
せる限定合理的な意味での実在の因果的な塊り)のことである。

パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・
論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点をも提供しており、
これは「超類型化AI社会」(AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代
へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要であり、その視点から新しい
「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

パースが言う「プラグマティズムの格率(基準)」が意味するのは、“例えばカン
ト流の明晰な概念規定は、いわば精密な観察に基づく諸データの統計処理から得ら
れる中心点、ないしはその表象”なので、それがリアルな意味を持つか否かは別問
題であり、あくまでも実証実験(実践活動)の結果を見なければ分からないという
ことだ。

この場合に前者がタイプ(明晰な概念規定)、後者は個々の個性的トークン(因果
の個々のリアル/それは必ず中心点からバラついて分布する個性的な存在というこ
とになる!の意味で多様性を持つ)に対応することになり、この観点こそプラグマ
ティズムが重視する限定合理主義の意義(無限の道筋(プロセス)で、それなりの
正しさの有意性の評価を重視すべきということ、つまりその意味でプラグマティズ
ムは乗り物の如きリアルな道具である!)を支えることになる。

つまり、リベラル共和の実現を志向する米国モダニズム社会の胎盤というべきプラ
グマティズム(厳密にいえば、クワイン、ローティらのネオ・プラグマティズム)
には、最先端のエトノス環境論をすら先取りする「さしあたりの生き方としての民
主主義」(逆に言えば、“普遍”と“法の支配”を掲げる“民主主義”観念に因る
リアルな道筋では“永遠に未了”(エンドレス)の努力が求められる!)という重
要な視点が潜むと思われる(エトノス環境の委細はコチラ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160504 )。


(民主主義の根本たる“普遍”観念に関わる重要な格率を提示したデューイ『プラ
グマティズム道具論』)


・・・今や世界中で閉鎖系の壁をもたらしつつあるとさえ見える<民主主義の基本
たる“普遍”観念>に対し、それを再び開放系へ転換するためのヒントとなる可能
性が高い!・・・

デューイは、自らのプラグマティズム哲学の出発点として、独仏「大陸哲学」と英
米「分析哲学」の根本的な差異を重視する。それは、前者が<古代ギリシャの小規
模都市国家の直接民主制を理想と掲げる/現代の事例で言えばハイデガー、ハンナ
・アーレントら/関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109>のに
対し、後者は<今の日常における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視
する/ヴィットゲンシュタインの論理実証主義はその終着点と言える>という違い
である。

独仏「大陸哲学」のカント流の精緻な概念規定から(無論、哲学史・思想史を概観
すれば何がしかの影響を分析哲学からも得ている!)、大革命などの歴史を経たう
え<法の支配、自由、平等、博愛、基本的人権>など現代民主主義に必須の「普
遍」観念が導出された反面で、大衆社会がグローバルに巨大化し、更にそこへネッ
ト環境の深化等の新たな要素が加わることで、今や古代ギリシャ都市国家がモデル
の「普遍」観念だけでは、到底、それに抗うことができない状況となり、そのため
深刻な分断が拡大しつつあると見ることができるようだ。つまり、新たに「普遍」
とは何か?が今や再び問われていることになる。

一方、経験主義をベースとする英米「分析哲学」も還元主義の限界という深刻な壁
に突き当たっているものの(ブレークスルーを量子物理学の世界へ求めつつあるよ
うだが…)、特に建国(独立)後のアメリカでは、「南北戦争」の経験(強制イデ
オロギー化した思想をめぐる同じ国民同士での殺戮戦という悲惨な経験)から生ま
れた<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/デュー
イ>というプラグマティズム哲学が、トランプ大統領なる<分断王>の登場で混迷
する今のアメリカでこそ、その本格的な再評価が期待されているともいえる。

そこでデューイのプラグマティズムで絶対に忘れるべきでないのが「保障された言
明可能性」という考え方であり、これは「凡人の正しさ」を保証する問題とも呼ば
れる。それは<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”とは、言っ
てみれば『聖人・君子ならぬ、国民層の大多数を占める“凡人”の正しさの保証手
段をシッカリ確保して社会的信用を維持すること』を最大限に重視すべきだ>とい
うことだ。

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当然、このことから導かれるのが、例えば<公文書・ドキュメント資料、民間のビ
ジネス文書あるいは歴史資料類は法に基づいて厳重に保管・保存すべき>だという
『公文書管理(法)』の大原則である。だからこそ、目下のところ<アベさまのウ
ソの山>を糊塗するための<公文書に関わる改竄・廃棄・隠蔽>大スキャンダルで
揺れる日本は肝に銘ずるべきである。

因みに、この「凡人の正しさ」を確保すべきという問題は当記事の冒頭(プロロー
グの末尾)で書いた<(2)政体の別を問わず、常在的に多数派である「凡人」
(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証す
るのが政治権力の役割だ!これこそポピュリズムのそもそもの意義だ!)というこ
とに関わる、国家統治の基本中の基本であり、現下の安倍政権が唾棄すべき程に由
々しい限りであるのは、この大原則を完全に無視して公文書・ドキュメント類を弄
(もてあそ)んでいることである。

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例えば、第一次世界大戦中のウォルター・リップマン(著書『世論』(邦訳/岩波
文庫)、『幻の公衆』(邦訳/柏書房)で名高いアメリカのジャーナリスト)は、
同様の危機意識を前提としつつ「ポピュリズムを悪用するナチズムが必ず出現する
ので、各民族の自治権は確立してもハプスブルクを解体してはならない」とウィル
ソン大統領に進言することで表現していた。

それは、科学・合理的な理念(素描と透視図法的視点へ傾斜した美術様式を好む美
意識)と反素描的なスピノザ流の観念論的理念(例えばフェルメールの如く17世
紀オランダ市民社会で好まれた独特のクオリアを求めるような美意識)という、西
欧の伝統化した二つの相矛盾する世界観の葛藤が様々な問題を抱えつつありながら
も、未だ良い意味でハプスブルクが育んできた歴史・文化に関わる“限定的ではあ
ったにせよ寛容な態度”が一定の信用を繋いでいたからだ(具体的に言えば、それ
は1871年10月13日の“オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の寛容令の発布”で、事実上、
帝国内の信教が自由となったことに因る)。

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17、18

逆に言えば、どのような政体を採るにせよ、ルソーの「市民宗教」に相当する
<「大衆、凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>の観念をつなぎ留
め得る(言い換えれば、その“所詮は関係者らのネポティズム(おなかま政治)へ
依存してしまう気まぐれ”な凡人たち(この傾向は、情報化・大衆化社会が深化す
るほど強くならざるを得ない/リップマン)が安住できる文化・公共的な意識空間)
は最低限の条件になるということだ。

市民革命・仏大革命・独立革命後の、否、それどころか現在の欧州やアメリカ合衆
国といえども、それが必須であるのは理解されていても、理想のルソー「市民宗教」と“普遍”を完璧に保証する制度は実現されていない。その弱点を突くのがナチス
的なもの、つまり安倍晋三「国体論」等であり、それらに共通するのが公文書・ド
キュメント・歴史資料等の改竄・廃棄・隠蔽・偽造という多数の草莽が暮らす社会
の岩盤と国家統治の体制自身を崩壊させる実に卑怯で愚かな蛮行である。


(今こそ再認識されるべきクーン『パラダイムの転換』の意義)


「パラダイム転換」論で名高い科学史家トマス・クーン(ハーバードで理論物理学
の博士号を得ている)はプラグマティズムの哲学者とは見られていないが、その思
想(考え方)はまさにプラグマティズム的である。例えば、クーンは、アリストテ
レスの「質的変化の運動論」(運動は、原因と目的を持つ質の変化であると考え
た)が全く正しいことに気づいていた。

それは、重力の法則(重力方程式)が正しいことは実証実験と重力方程式で確かめ
られるにも拘らず、“重力が神の意志(目的を与える何らかの存在に因るもの)で
あるのか否か?”を、実は現代科学でも、その根本的な部分についてはアリストテ
レスの方法以外では説明できないからだ。しかも、重力だけでなく時間について
も、やはりアリストテレスが説くとおりで、我々は今でも目に見える空間や物質の
位置的な、あるいは質的な変化としてしか、その変化そのものを認識できないので
ある。

クーンは、「基礎的概念(前提となる考え方/アリストテレスの運動論では“すべ
ての根源は質の変化にある”という考え方)と基礎的用語法」しだいで、現代にお
いてすら、たとえそれが同じ真理について語り合っている場合であるとしても、何
時でもどこでも、認識や理解についての深刻な「分断」が起こり得ることに気づい
たのであった。

つまり、アリストテレスが運動の「真理」について知らなかったのではなく、その
ための前提となる考え方が、近代以降の物理学と全く違っていたため、アリストテ
レスと近代人・現代人との間で共通認識を持つことができなかったことになる。そ
して、これと同じ現象が社会科学のフィールドでも起きていることをクーンは体験
した。

そこで、クーンは「基礎的概念(理論)と基礎的用語法」を経験的に共有すること
で、人々の議論はかみ合うようになるので、特にアカデミズムの世界では、「ある
領域の研究者たちが基礎的な理論とモデルとなる考え方」を共有することが最重要
であると見て、その「専門家が共有すべき考え方」をパラダイムと名付けた。

また、クーンは、このようなパラダイムは必ず複数のものが生ずることになるの
で、自然科学か社会科学であるかの別を問わず、それらは古代から現代に向かって
決して直線的に発展してきたのではなく、それどころか、基礎理論との乖離が起こ
るたびに些かの修正か加わり、絶えず数多のパラダイムが変奏曲の如く生まれ続け
るため、パラダイムの発展のイメージは必ずスパイラル(螺旋状)のものとなると
見たのである。

まさに、このイメージは、W.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムの核心部
分、「人間のリアル因果の説明=それは、環境との新たな共鳴が連続する中で絶え
ずエンドレスに修正され続けなければならない」という観察とピタリと符合している。 


(ネオ・プラグマティズムは米国型リベラル共和の培地/W.V.O.クワイン『ネ
オ・プラグマティズム』の斬新な視点)


ところで、英米「分析哲学」の終着点はヴィットゲンシュタインの「論理実証主
義」とされているが、その「論理実証主義」に厳しい批判を加え、その壁を乗り越
えた哲学がW.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムであるが、先ず「分析的真
理(個別的真理)と総合的真理(普遍観念的真理)は区別できない」というクワイ
ンの主張が重要である。逆に言えば、クワインは「個々の分析的真理(意識の対象
となる個々のリアル因果/パースのトークンに相当?)と総合的真理(意識の対象
となる観念・表象/パースのタイプに相当?)は区別できる」とする立場を「論理
実証主義の第一のドグマ」として批判したことになる。

そして、「此の点」は人間の意識の問題と深く関わっていると思われるうえに、そ
の「分析的真理と総合的真理」に関わると見るべき、プロローグで取り上げた『中
間の媒介的生命(東野芳名氏)』を連想させて興味深い。因みに、現代哲学の多く
は人々が広く共有する言語をベースに認識や価値観の問題を捉え直そうとする試み
に挑戦しているが、このように分析対象を意識自体から言語へ再び転換する研究を
言語論的転回と呼ぶ。

これは余談だが、おそらくヒトに限らず、基本的という意味では言語を持たぬ動物
も同じく「分析的真理と総合的真理」をどう理解すべきか?という問題と深く関わ
っていると思われるうえ、実に興味深いことだが、AI・ビッグデータ研究および脳
研究の深化・共鳴と共に此のこと、およびヒトと動物の意識の違い(言い換えれば、
言語の役割)が深く理解されつつある。

クワインは「言語論的真理」も還元主義であり、それは人間のリアル(リアル因
果)を捉えてはいないと見て批判したが、これは「論理実証主義の第二のドグマ」
と名付けられている。要するに、クワインによる「論理実証主義の二つのドグマ」
に対する批判から、新たに理解されたのは<環境(正確に言えばエトノス環境)
との日々新たな共鳴のなかで人間のリアル(リアル因果)は永遠に未了であり続け
るのが必然で、それは絶えず内外環境と共鳴しつつ修正され続けている、というこ
とになる。

そして、この辺りは、ネオ・プラグマティズム、正統保守主義(歴史修正主義ならぬ!)、トマス・クーン『パラダイム転換』などと奥深くで反響し合っていること
を感じさせる。因みに、クワインは自らの哲学を次のようなメタファーで要約して
いる。

・・・すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や
信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」な
いしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるので
ある。この描像の下では、理論(あるいは“思想”としてのイデオロギー)と合致し
ない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、
その信念体系内の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、絶えず、
そこには多くの選択の余地が残ることになる。(言い換えれば、本物の“思想”は
無限の可能性が絶えず拓ける状態にあり続けることになる!←補、toxandoria)》
(中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88))


2−3 米国法思想史の概観/プレモダニズム、モダニズム、ポストモダニズムの流
れはプラグマティズムの深化と共に歩んできた


・・・プレモダニズム、モダニズム、ポストモダニズムの流れ・・・

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ごく普通に考えてみれば人間の意識の営みの中枢にある諸概念がそれ自身の力だけ
で変化することはあり得ない。それどころか普段の我われが常にそれを意識するか
しないかはともかく、まさにクワインが指摘するとおりであるが、各々の信念体系
内部ではエトノス環境との間での共鳴が発生しており、その内部の各命題に割り当
てられていた真理値の再配分が絶えず行われている。これは米国法思想史の流れも
でも矢張り同じことであり、それが西欧哲学の流れと共鳴しつつ変遷してきたこと
が観察される。

一方、ある広範で、時には大変革を伴う社会的事件が知的変化を促す結果として、
法思想が変遷してきたことが理解できる。その意味での重要な事件としては南北戦
争、ベトナム反戦運動、公民権を巡るブラックパワー運動などを挙げることができ
る。中でも特にメタフィジカル・クラブのメンバーの一人、オリバー・ウェンデル
・ホウムズ・ジュニアのプラグマティズム意識の誕生を促した南北戦争の影響が重
要である(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )

それは、米国史で最大の62万人という戦死者を出した「南北戦争」(同じ国民同士
の非常に残虐な殺し合い)へ参戦した過酷な経験がホウムズに対し「些かでも油断
すると、穏当な思想であっても、それは教条的イデオロギー(他人へそれを強制す
るもの)へ変質し易いこと、いったん殺戮戦争が始まってしまえば、その戦場では
如何なる思想もイデオロギーも全く無力化すること」を知らしめた。そして、その
ことが「それなりの正しさを重視して今を生抜く」ための哲学、プラグマティズ
(それは米国法思想の核心となっている)の誕生を促したのである。

スティーブン・フェルドマン著『アメリカ法思想史―プレモダニズムからポストモ
ダニズムへ―』(信山社)の著者・猪俣弘貴氏によれば、プラグマティズムを法哲
学の核心と見る米国法思想の特徴は「思想と社会的利益は複雑で弁証法的な関係に
おいて相互に作用する」と考える点にあるようだ。

従って、米国における「法」は、公正な利益を実現するための道具(パースの道具
主義の意味/それは限定合理主義のそれ(無限の道程の中で、それなりの正しさの
有意性の評価を最重視し、それを実現する道具/参照⇒2−2)であることにな
る。そして、そのような意味で、「法」が常に米国の最も重要な社会制度の背骨で
あることを全否定する米国民は殆どいない。

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そのため、事実上、今や国家そのものがグローバルOTT産業化(https://www.hivelocity.co.jp/blog/27343/)しているので(無論これは比喩的
な言い方だが)、従来型製造業と同じ感覚でトランプが中国IT企業を敵視するあま
り過剰攻撃すると、天に唾を吐くの謂いで、その敵視“貿易”政策が米国自身の憲
法問題(特に、米国民の生存権に関わる)に変質してトランプをブーメラン攻撃
(支持率低下へ直結)することもあり得ると考えられる(参照/添付、一枚目の画像)。

・・・同書に従って、以下に米国法思想史の流れを纏めておく・・・

[プレモダニズム期](米国独立〜南北戦争)

・・・欧州と同じく、自然法思想に忠実であった時代。市民革命と独立戦争を指導
した自然法思想が米国法体系の基礎であると考えられていた。

[モダニズム期](ポスト南北戦争〜1960年代前半)

・・・プラグマティズム(メタフィジカル・クラブ/関連参照⇒(2−1))の影
響を受け始め、それが定着した時代。言い換えれば、憲法が、パース流の「公正な
利益(限定合理主義の果実)を実現するための道具」として、日常的に適用され続
ける裁判規範として捉えられることが定着したことになる。

・・・世界大恐慌のあと、このプラグマティズム流の「公正な利益」に加えてフラ
ンクリン・ルーズベルトのニューディール政策に反映された「社会的な公正」(特
に、個人の尊厳と生存権に関わる適正な分配の意味でのディールを重視する!)の
考え方が憲法の基礎に流れ込んだ。

・・・それは、大恐慌や金融危機の時に、自由原理主義(アダム・スミス“市場の
神の見えざる手”の短絡的解釈に因る誤解!)の決定的な弱点(マネー原理主義故
のノモス的(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 )な欠
陥)が必ず露出することを学んだからである。

[ポスト・モダニズム期](1960年代後半〜現在)

・・・クワインおよびローティ(委細、エピローグで後述)らのネオ・メタフィジ
カル、および分析哲学者・ディヴィッドソン(委細、後述)らの影響を受け始めた時
代。大きく捉えれば、欧州の自然法思想の弱点を更に修正するネオ・プラグマティ
ズムの考え方が深く影響しつつある。

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