メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、・・・(3/4)  2018/03/09


[情報の評価]幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/敗者
と異論への寛容(思想)の回復が必須(3/4)

*お手数ですが当記事の画像は下記URLで御覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 



4 今に繋がる日本型「構造災」の系譜、勝者「独裁」ご用達の「錬金術」で満足する『日本型テクノストラクチュア』のジ
レンマ

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論文数1、2

・・・それは、明治維新政府が罹患した「政治的な勝者が敗者へ、制限された主権を与えるべきとする倒錯エセ民主主義(ダ
ミー市民宗教/顕密二元論=天皇の“密教的な政治利用”)の異常観念(これは、決して“思想”に非ず“他へ、その受け入
れを強いるイデオロギー”)」(リベラル共和“思想”の対極)の落とし子・・・

4−1 『臨機調事件』を端緒として“戦前〜戦後(高度成長期)〜現代(3.11フクシマ第一原発過酷事故)”へと引き継が
れた『日本型テクノストラクチュアの欠陥』

<注>テクノストラクチュア(technostructure)は、J.K.ガルブレイスが『新しい産業国家』 The New Industrial State
 (1967) で用いた言葉であり、国家経営または大企業経営の実際上の意志決定に参加する実力者の一群を指す。

一般に日本型の「構造災」といえば、それは<太平洋戦争の開戦間際に起こった『臨機調事件』を端緒として“戦前〜戦後
(高度成長期)〜現代(国策原発→3.11フクシマ第一原発過酷事故)”へと引き継がれた『日本型テクノストラクチュアの
欠陥』>を指す。

この問題は、松本三和夫氏(東大教授/科学技術社会学者)が著書『構造災、科学技術社会に潜む危機(2012)』(岩波書
店)で初めて取り上げている。以下は、同書の要点を参照しつつ私見を加え、重要と思しき点を纏めたものである。

・・・

「3.11フクシマ第一原発過酷事故」の引き金は千年に一度とされる大地震であるが、日本伝統の構造災という観点から見れ
ば、原子炉の本源的脆弱性が根底に潜むと言う意味で、この悲惨な過酷事故には、矢張り、それは起こるべくして起こった
と見なすべき前史がある。

それが、「臨機調事件」(臨時機関調査会事件)と呼ばれる、1938年8月に竣工予定の最新鋭駆逐艦の主要タービン翼折損
事故であり、具体的には「艦政本部式タービン翼折損事故」と呼ばれている(その艦政本部式タービン(艦本式タービン)
の詳細はコチラ⇒ http://urx.nu/3KrK )。

この前代未聞の大事故は、太平洋戦争開戦が間近な1937年12月29日に起こった。軍国主義時代の軍事技術は最大限の人材、
情報、資材、予算が投入されるが、何よりも当時の戦いにおいて特に開戦直後の戦況の方向性を決める最新鋭駆逐艦の建造
であっただけに、その特徴は「最重要国策である故に予算が戦時国債を裏付けとする青天井」だったという点にある(コレ
は、どこか今の安倍政権が煽りたてる時の政治・経済手法に似ているではないか?苦w)

1938年4月1日・制定『国家総動員法・第二条/(昭和13年法律第55号)』で、動員対象のトップに位置付けられたのは軍艦
で、その中でも最新鋭かつ高性能の機動力を求められるのが駆逐艦であった。そして、ともかくも国際的緊張が高まる中で
の開戦に備える切り札でもあり、かつ日本の独創的開発であると自負してきただけに、艦政本部式タービン事故は開戦直前
の日本にとって非常に深刻なものとなった。

それは、この時に日本海軍で標準化されたタービン技術の事故は、他のどの艦船でも起こり得ることになるからであり、事
実、同年12月29日から4日間の内に、同型艦の5隻で同様の事故が連鎖的に発生した。しかし、おざなりとも言える責任者
の懲罰だけで決着がつけられ、現在に至るまで、当事件の顛末についての詳しい調査は殆ど行われてこなかった。

しかし、この「開戦直前の時であったことを理由に隠蔽された大事故」が紛れもなく日本型の伝統「構造災」の典型である
ことは、以下の三つの事実(問題点)が明快に裏付けている。しかも、これらの点が余りにもフクシマ(3.11フクシマ第一
原発過酷事故)の問題点とソックリであることに驚かされる。

●秘密主義・・・注目に値するのは、海軍史上で最悪とされる別の「第四艦艇事件」(関連参照⇒ http://urx.nu/3KrY
 )が帝国議会・議事録に遺されているのに、当事件だけは帝国議会へ報告された形跡が一切ない(松本三和夫氏が調べた
限り、議事録に遺されていない/削除か?)。

●想定に基づく対症療法の増殖(これが技術対応上の最大の欠陥)

●間違った先例の踏襲による、事故原因の隠蔽と先送り・・・政権関係者の内側で、真の原因とされる事実が一応確認され
たのは、対米開戦から1年半近くが経過した1943年4月であった。

この「臨機調事件」に関わる深刻な問題はそれだけにとどまらない。終戦後の日本では、敗戦への反省から「平和文化の重
視」と「科学技術振興による新国家づくり(高度成長へつながる目標づくり)」が目指されることになった。この目標その
ものに間違いはない。

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原子力マフィア1、2

問題は、<その“余りにも邪悪”な目標づくりに資する重要な経験>として<戦前ないしは戦中に形成された実に信用なら
ぬ、欠陥テクノストラクチュアが主導する日本型“構造災”のプロセス>が形を変えて、戦後から現代へ繋がる過程へソッ
クリ引き継がれてきた、という点にある。

このプロセスが、今や再び、ポスト・3.11フクシマのアベ自民党政権によって、バカばかしくも“実に見事!”に、労働法
制の改悪(オランダモデル(参照↓▲1〜2)と真逆の、“働きかた”を偽装した“働かせかた改悪への途”の設計!)と
相まって復元(取り戻)されつつあるかに見えるのが不気味だ。しかも、自覚がない?多数派の国民層は政府の為すがまま
に身を任せているかにさえ見える。

▲1 アベの<働かせかた改革>ではなくオランダ・モデル<働きかた改革>に学ぶべき1 ⇒ 「パブリック」には適切
な定義も和訳もない?日本は「公私二元論」の国【長坂寿久氏×武田隆氏対談1/D.オオンライン】http://diamond.jp/articles/-/156818 

▲2 同上2 ⇒ 日本の「働き方改革」は本当に正しいのか?オランダの成功から学べること【同上】http://diamond.jp/articles/-/159480 

4−2 今に繋がる『欠陥“日本テクノストラクチュア”』の淵源・・・加藤弘之、井上哲次郎、山川健二郎ら“忖度&欺瞞
アカデミズム”の問題

それは、おおよそ「幕末期」頃から列島へ徐々に浸透していた欧州啓蒙思想の核心である「ルソー市民宗教」への対抗軸の
構築を目的として、明治維新政府の中で権力を掌握した一派が内政における自らの体制固めのために着想した純日本型「ダ
ミー市民宗教」の問題である。そして、明治維新期〜戦前期にまたがり、政界と日本テクノストラクチュア、および一般国
民層へ大きな影響を与えた<学界アカデミズムの巨頭>と呼ぶべき学者たちが存在した。

<注>ルソー市民宗教について

・・・「ルソーの市民宗教」は、ルソー<社会契約論>の中で「立法者(それが“主権者たる国民”の意味)の対立項(市
民宗教の神)」とされる概念(いずれもJ.J.ルソーに因る)である。因みに、驚くべきことだが吉田松陰、井上 毅らもある段
階でその「立法者」の意味に自生的に気付いていた可能性が高い!また、フランス第三共和国の時に渡仏した井上 毅は、お
そらく教育勅語を自ら書く羽目となったことに大きなジレンマを感じていた節がある(関連⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107)。それは、その井上が後のライシテの先駆けとなるフランス型の“より厳
格な政教分離の観念”にも気付いていた節さえあるからだ。

・・・伊藤博文ら明治20〜30年代の権力者らは、日本伝統の国民性を強化し、かつ幅広い共感力の基盤として新しい政治体
制の中枢へそれを確実に組み込みたいと思い、この「ルソーの市民宗教」を意識しつつ国家神道の創造に基づく新たな天皇
制の定着化(顕教としての天皇信仰、および密教たる“天皇の政治利用”技術の確立)を図った。つまり、それがダミー市
民宗教の着想であり、その具体の形が「顕密二元論システム」(教育勅語がその技術の中核)なる実に巧妙な戦略であった。
因みに、この方向への着実な進行を謀る過程で先行したのが廃仏毀釈と呼ばれる仏教破壊の扇動である。

・・・そもそも、「ルソーの市民宗教」には、大革命後のプロセスでロベスピエール「理性の崇拝」などに因る大混乱が観
察されるとおり、その概念の曖昧さというアキレス腱(欠点)があったが、一方で、多くの人々が結束し共和するために何
等かの宗教的な、あるいは精神的な培地となる概念的、情念的な空間が必須となるのも現実である(この点は、クワイン
(米)のネオ・プラグマティズムと共鳴するところがあり、興味深いが『エピローグ』で後述)。

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・・・このため、井上 毅(中江兆民との交流、そして第三共和政憲法・時代のフランスへ留学・見聞の経験もあり、フラン
ス流“政教分離”の意味に気付いていた節がある!)らは激烈な苦悩を経て“万世一系の皇統”(天皇信仰)を市民宗教の
「座」へ据えたことになるが、所詮、それはダミーであり、やがてそれは雌伏していた『新論(国体論)/会沢正志斉』、
平田篤胤『顕幽論』らに回収され、遂には神国日本の暴走へと変質した。

・・・

なお、複雑な抗争プロセスを制し、結局、明治期の権力を掌握した政治勢力を単純に薩長一派だと見なすのは、却って、現
代の安倍政権にも繋がる<「幕末期」から「維新期」にかけて隠蔽されてきた白日(列島で自生した普遍観念)の問題>の
所在を見えにくくする可能性が高い(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107、および当記事の“第2章
:隠蔽された『吉田松陰の白日』の問題”)。 

ところで、ここで言う「ダミー市民宗教」とは<『明治十四年(1881)の政変』で勝者側に立った明治政府の策謀の賜物で
ある。つまり、それは“幕末期における吉田松陰ら草莽の獅子らの苦闘から芽生えた“自生的な『国民主権』意識”を隠蔽
するものとして着想され、それを伊藤博文(内閣制度の創始者にして初代総理大臣)が黙認したと思われる(密教的な“天
皇の政治利用”)>のことだ。

因みに、当時の日本政府は国内では「大」日本(“大”日本帝国憲法)で国民層を威圧する一方、対外的には東アジアで初
の民主主義憲法(伊藤巳代治・訳『The Constitution of the Empire of Japan』)を詠いつつ、その実は “顕密二元論に
よる皇国日本の支配システム”を隠蔽していたことになる。伊藤博文は、この事実を敢えて無視していた可能性が高い。 

そして、この「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)が戦前〜戦中期の<国家総動員体制>を効果的に演
出したことは周知のとおりである(関連参照↓◆)。

◆明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学
アカデミズムの土壌http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 

・・・

ところで、“構造災”史の概観で先ず分かったのは、技術段階での構造災の三要素、「秘密主義、想定に基づく対症療法の
増殖、間違った先例の踏襲に因る事故原因の隠蔽」が戦前において既に存在したことであるが、更にそれを<より重篤なシ
ステム構造災>へ濃縮する政・官・学・財(民)の戦前・戦中期の“官民”馴れ合い(より正確には“恫喝⇔忖度”)方式
までもが、そっくり<戦後日本の経済発展プロセス>へ引き継がれてきたのであった。

それは、「上位下達の国策を掲げる科学技術総動員の目的で設立された技術院(1942.1.31−1945.9.4/1942(昭和17)年1
月31日に勅令41号をもって設置された科学技術行政機関)の内側に「構造災の三要素」が潜んでいたのは明らかであるから
だ。

そのため、国策<隠蔽>の至上命令に資するための悪知恵として「修正・交渉・調整の過程で利害関係者の総意が当初の理
念から程よくかけ離れた地平で骨抜きにされる精妙な偽装政策の仕掛けを創り、仕込むために有効な政官学財民に跨る運用
経験」が、戦後の「高度成長期」〜現在の安倍晋三・政権に至る日本の行政プロセスで熟成されてきたことになる。

それは、輝かしき『日本テクノストラクチュア』の伝統と呼ぶには余りにもお寒い限りであるが、「勝者たる最高権力者が
右すれば右へ、左すれば左へと、いとも容易くなびく、科学技術ならぬ“忖度”方式の日本錬金術」とでも呼ぶべき、おぞ
ましく魔術化した「科学技術のあり方に関わる異様な伝統」である。

アイロニカルに言えば、それは時代を遥かに先取りした日本型コンシリエンス(人文・科学両知の融和的統合
(consilience)関連参照↓★)の殆どカルト信仰的な、別に言えば「ダミー市民宗教」の成果であった、とも言えるので
はないか?(苦w)

★客観「知」を心底で憎む追憶のカルト(日本会議が守護霊の安倍政権)、その靖国『顕幽論』是非の意識が日本の命運を
分けるhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 


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以下では、“人文社会・科学”両知の領域を越え『日本テクノストラクチュア』の伝統に大きな影響を与えた、そして明治
期におけるこの悪しき伝統のスターター(始動用電動機)の役割を果たした代表的な人物として、今も日本の科学技術アカ
デミズムに影響力を及ぼす加藤弘之、井上哲次郎、山川健二郎の三名を取りあげておく(そのプロフィール描写の情報につ
いては、中野良平『幕末的思考』(みすず書房)から主なヒントを得た)。なお、彼らの多くが東大アカデミズム関係者で
あることから、あるいは“東大バカ論”なるあんちょこなドグマに誘われる向きがあるかも知れぬが、それは明治維新期の
“白日”隠蔽の責任を薩長一派論で一括りして“真犯人”を取り逃がす短絡と同轍である。だから、過激陰謀論に与しない
のと同意でその類の論を張るつもりは毛頭ない。それは、何らかの意味で我われ末端の一般国民が、その“バカな東大アカ
デミズム”信仰なる空気のお零れを紛れもなくありがたく頂戴している“バカの仲間である”ことが現実でもあるからだ。
どのような類の人間だ!と相手や特定集団を揶揄しようが、所詮はみな同じ人間なのである。

(牽強付会な自然科学の論理で天賦人権論を否定しつつ『ルソー社会契約論の思想』を帝国大学アカデミズムの名で葬り去
った初代東大総長・加藤弘之)

まず、帝国大学令が1886年(明治19年)に公布されたことに注目すべきである。これによって1877年(明治10年)創立の東
京大学(事実上、(1)開成学校と(2)東京医学校の連合体)が同令に基づき「(東京)帝国大学」へ改称された。なお、
開成学校は明治時代初期に東京府に設立された文部省管轄の洋学研究・教育機関で、その源流は安政4年(1857年)江戸幕府
が新設した蕃書調所(直轄の同上機関)である。

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この時、東京開成学校(法理文三学部)の「綜理」(医学部綜理は池田謙斎)であった加藤弘之が初代東京大学「総理」(後
の総長に当たる)となっており、そのため加藤が事実上の初代東大総長(学長)とされている(加藤弘之の画像はウイキ)。

ここで想起すべきは(関連後述)、帝国大学令・公布が「明治十四年(1881)の政変」の後に大日本帝国の骨格として成立し
たプロイセン・モデル官僚体制(幕末〜維新初期における“主権”闘争の“勝者側”公式論理)の定着と共に、事実上、戦前
日本の「ダミー市民宗教」である「顕密二元論システム」の着想がほぼ同期して出現したという歴史的「事実」ある。

具体的に言えば、その“勝者側”の公式論理(特異イデオロギー・皇国史観に因る)とは「“勝者側”が設計したシステム護
持は“善”、それを根底から厳しく批判し転覆を図るものは“悪”と決めつけるイデオロギーの体系化」である。因みに、一
般に思想とイデオロギーは同義として殆ど問題はないが、厳密に言えば勝者側(or敵対する双方)の支配的「思想」はそれが
敗者(敵対者)側に教条的に強制されがちとなるので、その意味で思想とイデオロギーを使い分ける立場がある。従って、終戦
時まで日本を一色に染め尽くした「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)はイデオロギーと呼ぶのが適切で
ある(この点も、クワイン(米)のネオ・プラグマティズムと共鳴し、興味深いが『エピローグ』で後述)。

そして、初代東京大学「総理」加藤弘之は、そのような「顕密二元論システム」イデオロギーの奔流の中でも特に「自然科学
系学術用語・用法」に関わる公式の厳密な定義で<勝者に対する敗者の不可侵性>を、言い換えれば<天皇に対する臣民の不
可侵性>を規定することに貢献した。そもそも加藤は旧出石藩(いずしはん/但馬国の藩、現在の兵庫県豊岡市)の兵学指南
の家柄で徳川政権に忠実に使えていたが、同時に佐久間象山に洋学(蘭学・自然科学・啓蒙思想など)を学んだ知識人でもあ
る。

維新後、その才能を見込まれ明治政府の官僚となった(一回目の転向!)加藤は、著書『人権新説』で、それまで肯定してい
た<天賦人権論>を全面否定(180°転換/二回目の転向!)し、外来のダーウイニズム進化論、又は優生論(但し人種改良
の必要性は認めたが白人優生には反論)を口実とする<優勝劣敗に因る権利発生論/勝者側が敗者へ賦与するのが国家主権だ
とする不可解なイデオロギー>を発表し、「顕密二元論システム」を推進するため「ルソー社会契約論の思想」そのものを帝
国大学アカデミズムの名の下に葬った。

(牽強付会な“観念論”創始者の名の下にダミー市民宗教たる「顕密二元論」を自然科学も視野(現象即実在論)に入れつつ
遍く国内に定着させる役割を担った東大教授・井上哲次郎)


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初代東大総長・加藤弘之と同じく、帝国大学アカデミズムの名の下に明治政府の「顕密二元論システム」を国中に普及し、そ
れを定着させるための露払い役を担ったのが東大教授・井上哲次郎である。つまり、井上は体制側イデオローグとして明治政
府の道徳主義(顕密二元論システムの論理)の思想界での役割実行を率先した人物である(画像はウイキ)。

一方、井上は、欧米哲学の多くを日本に紹介し、帝国大学において日本人として初めて哲学の教授となり、かつ新体詩運動の
先駆者としても貢献しており、哲学用語「形而上」(メタフィジカル/Metaphysical)の初訳者としても名高い。従って、その
欧米哲学に関わる啓蒙家としての側面は高く評価すべきであるが、国体的宗教論と国体護持の政治潮流に飲み込まれたという
か、自ら率先してそれを鼓舞する方向へ傾斜したと見るべき人物である(参照↓▲関連資料)。

▲井上哲次郎における宗教と国民道徳/哲学的宗教・倫理・国体http://repository-old.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/58444/1/B17871_summary.pdf

加藤弘之が「自然科学系学術用語・用法」に関わる厳密な公式の定義で<勝者に対する敗者の不可侵性>を、つまり<天皇に
対する臣民の不可侵性>を規定することに貢献した(いわば“密教”に関わる国民の具体的活動である産業興隆の側面の強化
を分担した)のに対し、井上哲次郎は「道徳用語」の分野で、その役目を果たした。いわば“顕教”に関わる国民の文化的な
側面の強化を分担したと言える。  

(同じく牽強付会な論理の下で、現代の安倍政権にまで繋がる“富国強兵”目的の錬金術”、国策「科学技術」を定義した
九州帝国大学初代総長・山川健次郎)

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結論を先に言ってしまうなら、今の日本でも、自然科学アカデミズム(特に科学技術)が、例えば安倍政権の如き「偽装極
右」権力の<“愛国”を騙る富国強兵政策なる国策「錬金術」への迎合・忖度の要求>という異常なポリシーに対し殆ど頭が
上がらないのは山川健次郎の伝統下にあるからとさえ言える(画像はウイキ)。

山川健次郎は明治から昭和初期にかけての物理学者、教育者であり、会津藩時代は白虎隊の兵士として明治政府と「戊辰戦
争」を戦った経験がある。が、戦後は維新政府に才能を認められ国費で米国留学をしており、そのあと東京帝国大学に登用さ
れ(日露戦争の時には既に東大総長)、更にその後は九州帝国大学の初代総長に就いている。

この山川については、<「戊辰戦争」に敗れ敗者となった壮年期以降には、会津藩に対する当初の忠誠心が勝者たる国家(維
新政府)への「愛国心」へ一気に転じ、日露戦争の時には既に東大総長であったにも関わらず、陸軍に対して「一兵卒として
従軍させろ!」と山川自身が押し掛けたという>異様なエピソードも残っている。

それは、“生涯にわたり自分は考え方を首尾一貫させた”(山川浩(健次郎の兄)の著書『京都守護職始末』の中で健次郎・
本人が語っているとされている)と固く信じ切っていた健次郎自身の論理には<敗者の復権と引き換えに勝者への強い依存を
深めざるを得なくなるというパラドクス>が宿っていたからだと考えられる(出典:中野良平『幕末的思考』)。要は、山川
も加藤弘之に負けず劣らずの“ジコチュー型の変節の人”であり、現代風に言えばサード・オピニョンの視座が眼中に一切な
かったことになる。

かくして、山川健次郎は総力戦としての第一次世界大戦が始まると、挙国一致の国防体制(特に国策科学技術の必要性)を熱
心に説き、大正期のリベラル・民主文化はダミー市民宗教「顕密二元論」にとって危険と見なし、大正末期以降は「国本社」
(極右団体/会長=検事総長・大審院院長の平沼騏一郎)の副会長として「教育勅語」を讃え、「忠死」や女たちの「殉節」
(節操のため率先して死を選ぶこと)も語るようになっていた。これこそがストレートに日本会議や安倍晋三・首相の“異
元的で面妖な穴クロ価値観”にストレートに繋がっているのではないか?と思われる。余談だが、このような意味でも「長州
派Vs会津派なるネトウヨ・レベルの内ゲバ闘争」が観察されるのは奇怪かつ笑止である。

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