メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性(その二)  2017/11/12


[希望のトポス]愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の
現象学』から見える『感情の政治学』の可能性(その二)

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下のURLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109


1 M.アンリとフッサール現象学の差異


1−1 M.アンリ『実質的現象学』(情感の現象学)


(フッサールとM.アンリ/フッサール形相(視覚)、M.アンリ質量(情感)なる両作用因の差異)



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・・・フッサール現象学の概要については下の記事◆を参照乞う・・・

◆20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)、大前提
とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://urx.red/GTNP(人物画像はウイキより)


・・・


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我われ個々の人間は、自己なる存在の核心について深く気付いているか否かにかかわらず、日々に様々な感情と共に恰も揺曳す
る“かげろう”(陽炎)の如く生き続けている。また、我われが無意識も含む「記憶」から寸時も逃れることができないのも
現実である。(以下、M.アンリ著『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス)を参照しつつ、論を進めて行く/人物画像はhttp://urx.red/GTN5より)


また、仮に自分一人が、あるいは自らを含む一定数の人々が、仮に、いま突然に此処で死ぬようなことがあるとしても、自らの
周辺を含み、この世界に生きるその他大勢の人々は、やがて何事もなかったかの如く今までどおり生き続けてゆくだろう。が、
このように流れ去る世界の中で、個々人の「絶対的主観性」を保障する<現象学的実在性(真理)>とは何であるのか?


M.アンリ(Michel Henry/1922−2002/フランスの哲学者・現象学者)は、このような視座から論考を深めて行ったと思われ
る。そして、同じ現象学と呼ばれるものであっても、M.アンリは、<フッサール現象学における「形相(エイドス)、質料
(ヒュレー)」の作用因(アリストテレスによる)>と、<自ら(M.アンリ)の現象学における「絶対的主観性」に内在する作
用因>を全く異なるものとして峻別した。


<注>アリストテレスの言う4種の作用因

・・・形相因(エイドス)、質料因(ヒュレー)、始動因(起動因/アルケー)、目的因(テロス)の4つ。


・・・


従って、M.アンリの<実質的・志向的現象学/普通の意識では見えず、かつ理解不能な個々人の内奥にある真理の中核たる意識
作用(コギタチオ)の探求プロセス>におけるエイドス(形相)とヒュレー(質量)の両者に相当する概念は、フッサール現象
学とは異なり、外部世界の現象学的な形相的「与件/現出」以外の実在とも共鳴し得る多様な志向性(様々なベクトルを帯びた
意識)を獲得することになった。


言い換えれば、M.アンリの現象学では、作用因としてヒュレー(質量)が最も重視されていることになる。もっと分かり易く言
ってしまえば、M.アンリは、個々人の絶対的主観性の意識作用(コギタチオ)の実在性として視覚と結びつき易い形相(エイド
ス)よりも触覚・痛覚らとの親和性を十分に想像させる質料(ヒュレー)を採用していることになる。


そして、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を
措定する。その絶対的主観性の核心(自己性の湧出源)となる「与件」の背後、個々の絶対的主観性の中核には、その与件(現
れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴である。


つまり、「視覚」以外の知覚(内感の窓口としての触覚なども含む)を重視しているという点が、「視覚」という個々の形相的
な与件(現れ)と結びつき易いエイドス(形相たる意識内容(コギタートゥム/cogitatum))を重視するフッサール現象学(や
や設計主義的な理性の現象学)と、片や触覚を重視するM.アンリの現象学(“感情の海”の拡がりを想定する情感性の現象学)
の根本的な差異であると思われる。


なお、[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>に、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも
十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。


・・・


ところで、M.アンリの「情感の現象学」はゲーテ・ロマン主義を源流とするハイデガーの魔術的・悪魔的な「脱‐自」論(直線
的な時間の経過と形相のダイナミックな交差・介在で触発される、視覚に因る即効的・短絡的なエクスタシー覚醒/心的内容に
直接関わる強力なエイドス外在主義、形相因傾斜型のテーゼ)と異なり、そのような時間と交差するまでもなく先ず自己に内在
する“生”の本質が自らを受容し、自己自身を内感する現象学的なエクスタシー覚醒であり、即ちそれがM.アンリの「情感(affectivite)の現象学」の核心(自己性の現象学的本質)ということになる。


<注>ゲーテ・ロマン主義(ドイツロマン主義の本格的始祖)について


・・・巨人ゲーテのロマン主義は両義的・多義的であるが、これは、例えば科学精神の成果であるはずの産業革命(産業技術革
命)がロマン主義精神(沸騰する情念)によって支えられたという側面もあることを想えば理解し易いと思われる。


・・・換言すれば、そもそも人間の「生命の発露としてのグノーシス神秘主義的な精神」そのものが本源的にロマン主義的な存
在(観念欲動的な“生”/欲動は欲望に非ず、それをも含む強い生命力と理解すべき)であるという、そのこと自体を全否定す
ることはできない。


・・・問題は、ロマン主義と限定合理主義との、いわば両成分のバランスを取ることの意義に気付くか否かである。つまり、科
学の進化にもかかわらず合理原理主義は、おそらく永遠に魔術のジャンルであり続ける可能性が高いということだ。


<注>合理原理主義(主観的合理性)が“魔術のジャンル!である(例えば、今の世界を席巻する自由原理主義(新自由主義)
の如き合理原理主義は魔術の罠に墜ちやすい)”ことについては、下の記事(◆)のホルクハイマーに関する部分を参照乞う。


◆20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提と
すべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 

 

・・・ワンポイント(主観合理原理主義)で全ての現実が説明可能で、それで人間の真理が確保されるという異常情念に因るア
フェクト(志向意識)に嵌り出現するのがマッド・サイエンティスト(シンギュラリティ、あるいはタイムマシンの実現などを
単純に信奉する人々)だが、それにはAI学者、生物学者、科学・物理学者ら自然系に限らず人文・社会系も含む人々が連なって
いる。


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・・・例えば、日本会議に共鳴するアナクロ「追憶のカルト」なる魔術派の人々、又は<『情念の現象学』など全ての現象学>
を<一種の錯覚に過ぎない“精神、信念、欲求らの命題的態度”に嵌った内的錯乱の非科学的な誤った表現>と見なす“心の哲
学系”の学者ら(例えば、『消去主義的唯物論』のポール・チャーチランド(米国の神経哲学者)ら)も、おそらくマッド・サ
イエンティストと同類の思考回路の人々と見るべきかもしれない。


・・・なお、現象学は<主観と客観世界のアウフヘーベンを志向>しつつ人間の精神と社会の持続的成長を探求するものである
と説いたヘーゲルの『精神現象学』を高祖としている。一方、ポール・チャーチランドらの『消去主義的唯物論』は、“AI研究
等と同期しつつ高度化する脳科学の進歩によって、いずれ“素朴心理学”などの説明過程は完全に破棄され、無用の長物となる
時が来るという“過激”な合理論を主張する。これは、ヒトらの『生命』と“生きる意味そのもの”を不経済な夾雑物と見なす
<市場原理主義と同類の悪魔的な合理原理主義>に他ならないと思われる。


・・・この様な由々しき傾向を反面教師的に見れば、それはリベラル共和(啓蒙)主義の精神をハートランドとしつつ絶えざる
日常生活(エトノス環境内での人間を含む生物の“生”)を重視する意識の維持と充実を求める市民層の多元的で強い自律意思
(共生志向の主権者意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望(アナクロニズムの対極)があるというこ
とである(Cf. ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』http://ur0.work/GXuf)。


・・・


(ダン・ザハヴィによるM.アンリの評価)


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ダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)は、著書『自己意識と他性/現象学的探求』(叢書
ウニベルシタス)の原著(1999)でコペンハーゲン大学教授の資格を得た、現象学的「主観性」研究の分野で世界をリードする
研究者である(人物画像はウイキより)。


いまザハヴィは、古典的デカルト的な立場での研究が絶対に承認しようとしない<ある一定のエトノス(『大文字の“生”(委
細、後述)』の影響下にあるという意味で“先反省”)的な複合性と多様性を自我の「生」(個々の生命力の核心)に、作用因
としてのヒュレー(質量)分析の手法で帰属させようとするM.アンリの実質的現象学(情感の現象学)>を高く再評価している。


更に、近未来を見据えるザハヴィは、無意識、催眠、記憶、倫理学・美学(レヴィナス、ガダマー、ディーター ヘンリッヒな
ど)、先端AI研究、脳科学などもその視野に入れつつある。


また、これを翻訳した中村拓也氏(同志社大学文学部准教授)の同書“あとがき”によれば、特にザハヴィの<無媒介的認知的
自己意識(先反省的自己意識)>は、往々にして哲学的思考などで見られる難解な概念の捏造ではなく、それは体験的な偏在性
として誰にでも日常的に起こり得る主観的「自己-顕現」(個々人の内感フィールドにおける自己覚醒)レベルの問題、つまり個
々人の「主観性の核心」を抉り、それを『感情の現象学』的な立場で説明し得る堅牢な言葉である。


例えば、近年、世界的に問題となりつつあるネオ・ナチズムなど極右政治勢力(欧米各国の極右派、日本における日本会議(周
知のとおり、それは靖国顕幽論の取り戻しと国家神道への回帰を謀る安倍自民党政権の守護神!)などが急速に台頭しつつある
政治状況の深層には、M.アンリの「情感の現象学」のテーマとも深く関わる問題が潜む可能性があり、特にザハヴィの<無媒介
的認知的自己意識>が重要なテーマとして注目されている。


因みに、「自己意識(self-consciousness)」は自己に向かっている意識そのもの(つまりノエシス)だけを指し自己がそれを
意識しているか否かは無関係である概念なので、「前反省的自己意識(prereflective self-consciousness/ザハヴィの言葉で
言えば無媒介的認知的自己意識)」は、<自己自身はそれを意識はしていないが前意識(無意識・深層意識)は自己を確実に志
向(無意識に意識)していると思われる状態>を指す。


この「無媒介的認知的自己意識」は、<いわばヒトを含む個々の生命体には“自らの破滅をももたらしかねない自己破壊的リス
クとエントロピーを増加させる自滅(無限背進・後退)型のマイファースト利己主義への没入、あるいは自然&文化破壊、歴史
修正主義(時間性の錯乱)、ファシズム、殺人、テロ、猟奇・残虐嗜好などへの激烈な衝動をもたらし続ける前意識の系譜(エ
ス/das Es)”が普遍的に存在している可能性が高い>という、非常に厄介な事態(現実)を示唆している。特に、人間の場
はそれが権力者を“政治権力の暴走”へ誘導するリスキーな情念、ということになる。そして、安倍晋三、トランプ、金正恩ら
の暴政は紛れもなくこの魔術(悪魔)信仰のジャンルに入るだろう。


だからこそ、今や「政治思想史」と「感情の政治学」はこの非常に悩ましい問題(無媒介的認知的自己意識)との対峙が避けら
れなくなっている。因みに、“二つのエス”の内容を具体的に見ておけば、それは<(1)『必要であればファシズム(個の生
命を破壊する)もエトノス破壊(戦争あるいはファシズム独裁・テロ・ヘイト・殺人・猟奇行為等の犯罪)も当然視する “狂
想”』および(2)『不均衡解消作用としてオートポエーシス的な根源的生命力の基盤を提供する“健全”な意思』>、という
<「二つのノエマ」の前意識>である(関連参照⇒『エス(das es)と純粋経験について』http://ur0.work/GXxn)。 


そして、これら「二つの前意識」は夫々が「情念(前意識に潜む)のノエマ/いつでも意識化され得る情念の内容」として自覚
的な意識に大きな影響を与えることになる(更なる“二つのエス”の委細は下の記事◆を参照乞う)。


◆20170320・toxandoriaの日記/安倍・トランプ・ルペンら極右「オレオレ反知性主義」に代わる「民主主義Stage2」の土壌、
エトノス、マイクロバイオーム、コンシリエンス、AI活用は、EUが苦闘する「新世界」へのプレゼンス!http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320


・・・


例えば、古典的な自由平等の「建国の精神」への回帰を標榜するウルトラ保守層(Rust Belt白人層、人種差別主義者)らの熱烈
なトランプ支持層が、そもそも自らを困窮化させた元凶である「自由原理主義(新自由主義、小さい政府)なる“格差”拡大が
ホンネの偽イデオローグ」を未だに篤く信奉しリベラル共和派(限定自由主義派)を厳しく批判する姿は大きな「自己矛盾」だ
が、この重篤な「米国分断」病の寛解のためにもM.アンリ『感情の政治学』由来の知恵(ヒュレー/触覚等の内感をより重視す
る)を生かし、その「前意識」の病理を摘出して衆目に曝しつつ、そのこと自体を広く啓蒙する工夫が求められる。


実は、<ナチス・ドイツでも、今の安倍政権下の日本でも、トランプ政権下の米国でも、肝心の“格差”を押し付けられ最も騙
されている筈の国民層が中心となり、その“格差”を押し付ける偽イデオローグ(現代日本でいえばアベノミクス)を篤く支持
し続けている(支持し続けてきた)>という、絶対に見逃すべきでない現実があることに、もっと我われは注目すべきである
(エピローグで、これと関連することとして、現代日本における若年層の選挙行動に関わる興味深いデータを記述する)。


ともかくも、ザハヴィは、現象学者としてはじめて『・・・脆弱性(個の“生”にとっての決定的な弱点)を内蔵する前意識の
系譜』が、「無媒介的認知的自己意識」の絶対に避け得ない大きな成分であること、いわば“このような自己意識(コギト/
cogito)の最深部の意識作用(コギタチオ/cogitatio)へ影響を及ぼすと考えられる未知の感情メカニズム)の暴発”に直結す
る脆弱な意識の成分であることを明確に示したと言えるだろう。


なお、先に見たとおり、ザハヴィは無意識、美学・倫理学、先端AI研究、脳科学などの所謂コンシリエンス(consilience/人文
社会・科学両知の融和的統合)http://qq3q.biz/FpPZ)のフィールドをも自らの研究の視野に確実に取り込みつつあるが、必然
的に、そこには「目下、AIと脳科学がクロスするフィールド」等で研究が進む、個々の生体内ネットワークの一環であるRAS
(ヒューリスティック(限定的)な合理性、意識統合!」のために必須の盲点)の問題が絡んでくると思われる。


<注>RAS(脳幹網様体賦活系)について【意識のみならず全ての生体機能は“オッカムの剃刀”(思考節約の原理)方式で「程
ほどの効率」と「ほぼ満足できる安全」の両面を同時に実現する】


・・・意識に限らず、ある身体システム(知覚作用など)が十分に情報統合的・限定効率的に、そしてほぼ満足できる安全を確
保し機能している時には、例えばそれが「視覚」の場合では脳幹基底部ゾンビ(無意識作動のフィールド)の情報遮断フィルタ
ー(脳の盲点(Scotoma)に相当するRAS(脳幹網様体賦活系http://urx.mobi/GM1m)作用による「Blind spot/盲点」の発生
で、敢えて「ヒューリスティック(限定的http://urx.mobi/GM1x)な合理性/つまり、統合合理性!」の実現(目的に応ずるベ
スト知覚機能の確保/ここでは目的の物を見る視覚)と同時に、その人間(個々の生体)の「個体生命の安全も確保」している
ことになる(出典:ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―/委細は
下の記事◆を参照乞う)。 


◆20170518-toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量
子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている、http://urx.mobi/GM1a


(『情感の現象学』の共同体論/“M.アンリの現象学”の特質)


M.アンリとフッサール現象学の差異については、当(1−1)の冒頭で既に触れたので、ここでは、M.アンリ『実質的現象学』
(叢書ウニベルシタス)などを手がかりに「情感の現象学」の特質である、M.アンリ「共同体論」について整理しておく。なお、
エイドス(形相)偏重のフッサール現象学の批判的継承が、M.アンリにヒュレー(質量)重視の“感情の現象学”の発見をもた
らしたと考えられる。


そこで先ず留意すべきは、往々にしてこれらは混同され易いのだが、M.アンリは「情感性(感情)」と「感覚(感性)」を全く
の別物であるとして区別することだ。フッサールは感情を<精神的な知覚作用としての“考える作用”>と同じノエシス(因み
に“考える内容”はノエマ)と見る一方で、M.アンリは「感情は常に自己感情(自己が自己感情を内感するもの)である」と見
ている。


<注>ノエマ(noema)とノエシス(noesis)

・・・両者とも古代ギリシャ語のnoeo(見る)に由来する言葉。ノエシスは<考える作用それ自身>、反対にノエマは<ノエシ
スが考える内容>である。


・・・


感情とは自己の内側で自らを志向(アフェクト)する存在であり、例えば、愛の感情とは自己(自己の愛)そのものが“内側で
自己の愛それ自身を受容し内感する”ものだ。故に情感性と他者を知覚する感覚(感性)は構造的に全く異質なベクトルを持つ
知覚の二つのジャンルである」とM.アンリは説く。


従って、どれほど二人が愛し合っているとしても、つまり、双方がそれぞれ相手(相方の他者)へ深い愛情を感じている(と一
般に思われる)熱烈な恋愛の場面でも、「感情の現象学」的に見れば、その双方が共に<自己が他者の内側へ入り込み、他者の
内側に宿った自己の愛を、他者の内側で直接的に内感すること>は絶対にできないということだ。つまり、M.アンリの現象学的
に言えば、個々人の「自己の愛」は何処までも孤独であることになる。


しかし、M.アンリは「絶対に体験(内感)し得ない他性の意識(コギタチオ)の中核(上で見たとおり、個々人のそれは永遠に
孤独である)に寄り添うことは誰でもができる。但し、そのためには自己が絶対的“生”(エトノス(自然・生命・文化・歴史
環境)に相当すると思われる、大文字の“生”/補、toxandoria)の意味に覚醒することが絶対的な条件になる」とも説いてい
る(関連参照⇒M.アンリの受肉の存在論、共‐パトス/出典:松下哲久『現代フランス哲学における感情と共同性の問題』http://u0u1.net/GN8q)。 


・・・


つまり、M.アンリは個々人の肉体の身体性を<エトノスとも共鳴する圧倒的に奥の深いパトス(情感性)>と捉えていることに
なり、それがM.アンリの「自己‐触発」、換言すれば「情感の現象学(超越論的内的経験)」の基底である。言い換えれば、こ
こでの現象学的「触発」とは、自己自身(自己の真理と同時に自己の“共‐パトス”の大きな可能性)に関わる<自己の身体的
な情感性についての覚醒的で画期的な発見>とも言えるだろう。


また、M.アンリで留意すべきは、個々人の「生」(生命)の核心にあるものがストレートに他性(他の人々の意識の核心)と結
びつくものではなく、それは何処までも孤独な個性(個々の意識/コギタチオ)であり続けるということだ。但し、感情(自己
感情)による自己自身(自己の真理)の発見は、より大きな“生”が介在する関係性を志向する意識(アフェクト/超越論的情
感性、つまり生の内に存在する“共”-パトスの作用因)となり他性との共感を創る回路が保障されることになる。


つまり、そのような回路を提供する、より大きな“生”の条件は何か?ということになるが、M.アンリはそれを個々(人)の
「生」を超えた<絶対的で大きな生>と呼ぶ。この<絶対的で大きな生>は分かりにくく聞こえるが、例えば冒頭(エピローグ)
で触れた「エトノス」を連想すれば理解し易いのではないか?


それは、あくまでも個々人は孤独で孤立した存在であるとはいえ、<絶対的な生(エトノス環境内の“小文字の『生』”の意
義)>と「情感の現象学(超越論的内的経験)の可能性」についての気づき(発見)によって、我われは、共感・共鳴・共存
し、互いに寄り添う共同体(共―パトス/人々が寄り添うことによる情念の共鳴)の中で生き続ける可能性が絶えず拓けるので
はないか、という希望である。 


但し、忘れてならないことがある。それは、ハンナ・アーレントがハイデガーとヤスパースの間での確執の体験で気づいたよう
に(関連委細は後述)、M.アンリが現象学的に抽出してみせたヒトの自己性(その中核は前意識を含むコギタートゥム
(cogitatum)/自己の中核となる真理の領域)には、“共―パトス”だけでなく、ハイデガー哲学にその典型が覗われる“魔術的
な闇の成分”も存在する可能性が高いということだ。


因みに、ヤスパースは「ハイデガー哲学には魔術(悪魔)的なものが潜む」と述べている(Cf.当記事『1−1 M.アンリとフッ
サール現象学の差異(ダン・ザハヴィによるM.アンリの評価/二つのエス)』、小森謙一郎『アーレント最後の言葉』et 早稲田
レポジトリ・博士学位論文『ヤスパース倫理学の射程/実存倫理〉から〈理性倫理〉へ』http://ur0.biz/GOuK)。つまり、啓蒙
主義もこのような意味で前意識と感情の現象学の関連性から改めて捉え直すべき時代に入ったと思われる。


ともかくも、M.アンリの<絶対的な“生”=大文字の“生”(委細、後述)>の視界に入るのは我われホモサピエンスにとどま
らず、人間以外の生命全般でもある。その意味で、M.アンリの哲学(情感の現象学)はキリスト教的な観念というよりも、むし
ろa『原始アニミズム的な伝統神道』(安倍政権が取り戻しを謀る、明治維新期に捏造された国家神道(b靖国顕幽論に因る)は
これと全く異質!)、あるいは神仏習合下の仏教文化(特にb『法相宗』系統の大乗仏教)に馴染んできた日本人にも親しめるア
ニミズムの空気を感じさせる(a、bについての委細は下の記事◆を参照)。


◆20170114toxandoriaの日記:第四章/伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大
化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求めていた!http://ur2.link/GRZ8

◆20170114toxandoriaの日記:第二章/日本会議・神社本庁らが国民の無意識層で再発現させた戦前型「客観“知”への激し
い憎しみ」、それは異常な平田篤胤仕込の「顕幽論」(インテマシ―過剰)http://ur2.link/GRZ8


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因みに、現代に遺る純粋な法相宗・寺院は奈良の興福寺と薬師寺の二寺だけとなっており、その肝心の始祖である中国の法相宗
は途絶えている。ただ、今も日本では東大寺(法相宗系の華厳宗)、あるいは慈恩寺(山形県・寒河江市、http://urx2.nu/GPf7)
など真言系などと習合した形でその看過すべきでない希少な精神が細々と伝えられている(慈恩寺『寒河江市』は行基が開山し
聖武天皇の勅願で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある/一枚目の画像は維摩居士坐像(定慶作/興福寺)二
枚目の画像は慈恩寺三重塔(山形県指定文化財)、出典=http://urx2.nu/GPfr及びウイキ)。


<参考>法相宗の核心である「維摩経」の要点


・・・「維摩経」の主人公である維摩詰(維摩居士)は在家菩薩の代表とされる。大乗仏教の最も基本的な考え方が「空(空観
/くうがん)」と「人間の平等観」であり、それが「般若経」で説かれ、更にそこから派生的に「華厳経」「法華経」「阿弥陀
経」「無量寿経」「維摩経」などの経典が作られた。特に留意すべきは、維摩経の「空」の考え方が般若経よりもより現実的で、
生身の人間(人生、小文字の“生”)の機微を重視することだ。


・・・見逃すべきでないもう一つのポイントは、在家の長者(商業・交易に携わる有徳の富豪)である維摩詰の活躍した時代が、
およそ紀元前後頃のインド北部で実際に存在したヴァイシャ―リーと呼ばれる「共和政体の商業都市国家」(貨幣経済が発達し
東西交易で栄えたグローバル商業都市/マガダ国の首都パータリプトラの繁栄と並び立っていた)であったということだ。そし
て、「維摩経」のエッセンスを集約すれば以下のとおりとなる。


<“しょせんは「我空法有(がくうほうう)」のみで、人間の真我(アートマン/おそらく、これはデカルト、フッサール、M.
アンリらが言うコギト(cogitoに重なる?)も含めた意味での森羅万象の永続的な形相(エイドス)は存在しないので、我われ人
間は一瞬一瞬の出会い(「縁」で生じる個々の「法」の繋がり)を共有して一期一会の今を真摯に生きつつ固有で伝統的な真の
文化を未来へ伝える努力を継続すべきだ。同じ意味で人間は本来的に平等な存在であるから、苦しみも、新たに創造される経済
価値も、でき得る限り平等に分かち合い、広くリアルな社会と世界での良循環が実現するように努めるべきである。有徳の長者
らリーダーは、これら大乗の考え方を基礎とする人間社会での「信(信用)」(富める者は喜んで与える、貧しいものは努力し
て豊かになれる)をベースとする良循環社会(不平等と格差を前提とする『悪循環社会』ではなく)を築くよう努めるべきだ。
また、菩薩・天女らの神通力を別とすれば、我われは一瞬一瞬の出会いを共有しつつ現実を生きるしかないのであるから、未来
予知や予言の類はあり得ないとして否定する。>

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