メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須Ser.1(1/3)  2017/09/01


■愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へSer.1/大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 
 
 (プロローグ画像) アルテミジア・ジェンティレスキ『悔悛するマグダラのマリア』1620-1620

The Penitent Magdalene.c. 1617-1620. Oil on canvas. Palazzo Pitti, Florence. 146 x 109 cm 
 

・・・アルテミジア・ジェンティレスキ(1593 - 1652)は17世紀イタリア、カラヴァッジオ派の画家で、当時としては珍しい女性
の画家であった。彼女が被害者であるレイプ事件の訴訟の公文書が残ることからジェンダー研究の対象としても知られる。父が指
導者と指名した画家アゴスティーノ・タッシhttp://u0u1.net/Fmj1から性的暴行を受け、裁判の身体検査などでも暴行の立証責任
を理由に公的な屈辱を受けるなど悲惨な体験をした。その後の20年間は男性への嫌悪感と復讐心、激しいルサンチマンの情念を滾
らせて歴史画、女傑像などを描いた。


・・・『悔悛するマグダラのマリア』は激しい心の痛みとそれでも幸せな女性として生きようとする強烈な意志(裁判のあとアル
テミジアはフィレンツェの画家、ピエール・アントニオ・ディ・ヴィンツェンツォ・スティアテッシと結婚させられた)の間で引
き裂かれ怒涛の如く揺れ動く彼女の内心の真理の現出者たる自画像であり、又それはカラヴァッジオ・バロック風のアンビバレン
トに身を焦がす迫力ある「理想美のイデアと残酷な実在」が薄皮一枚でせめぎ合う凄まじい“共和”のリアルである。


(当記事の目的)「感情の政治学」を悪用する作為へのアンチテーゼ


・・・いま世界では過激セクトによる社会の分断化、例えば米国トランプ政権下の白人至上主義Vsアンチヘイト派の断絶、欧州各
国の過激移民排斥の拡大、または日本におけるマイファースト極右勢力の拡大傾向が問題視されているが、ツイッター、Facebook
などSNS等のWeb利用拡大に伴う「エコーチェンバー(Echo Chamber)http://u0u0.net/FuUt」が更にその傾向を加速すると懸念さ
れている。が、矢張り、これも見方を変えれば「感情の政治学」の問題である。 


・・・ところで、当記事(Ser.(1)、(2))の狙いは、今まで殆ど見過ごされてきた<「政治(経済)」と「感情(情念)」
の関係>を、両者の関わり合いと思しき切り口をほんの少しだけ掘り下げてその様子を冷静に観察することにある。そのプロセス
で民主主義の新たな地平と見なすべき「リベラル共和主義」の確かな手掛かりを探す試みでもある。


・・・また、最も純粋な意識の描写である現象学の視覚を援用しつつ内心とコミュニケ―ションの核心へと向かう「感情の政治
学」の視座からは、アルカイダやISのテロとも通底するイスラム・ワッハーブ派の問題(憎悪と欲動の情念に因る急進革命の意
志)http://u0u1.net/FlG2やイラン・シリアを巡る混迷、あるいは今や異様に燃え盛る北朝鮮ミサイル問題の如き「国際政治犯
罪」への減感作効果の模索という側面で些かなりとも何かヒントが得られるのではないか?とも思われる。


1「新自由主義」暴走の舞台、グローバル市場経済で「個の不安感情」と「ポピュリズム」が激化する背景


1−1近代以降の政治学が無視してきた、超越的なるものと共鳴する情念(感情)の問題


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−1/『悪の凡庸さ』とは何か?)


映画『ハンナ・アーレント』(http://ur0.biz/FmDH )は、第2次世界大戦中にナチス収容所から逃れ米国に亡命した思想家であ
り政治哲学者でもあったハンナ・ア(-)レント(ドイツ在住ユダヤ人)の不屈の戦いの核心部分を描いた作品である。


◆映画解説、http://urx.nu/5PNI より転載。

・・・ナチスによる迫害を逃れ米国へ亡命したユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アレントを描いた歴史ドラマ。1960年代初頭、アレ
ントは元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、それは大論争を巻き起こし、アレントも激しい
バッシングを受ける。その顛末を通して「絶対悪とは何か。考える力とは何か」を問うとともにアレントの強い信念を描きだして
いる。


◆映画レポート『欧米におけるユダヤ人問題の底知れない根深さを提示(高崎俊夫:映画.com』より部分転載/全文はコチラ
  ⇒http://urx.nu/5PO4 

・・・ドイツ系の亡命ユダヤ人哲学者ハンナ・アレントの「悪の陳腐(凡庸)さ」という言葉は、1960年代初頭にナチス戦犯アイ
ヒマンの裁判を傍聴した彼女が「ザ・ニューヨーカー」誌に発表した長篇レポートで知られることになった。彼女は<アイヒマン
は冷酷非情な怪物ではなく、上官の命令を唯々諾々と遂行する『凡庸な能吏』の如き存在にすぎない>と喝破した。そして、その
<自ら思考する能力の欠如(←コレは現在の我われ日本国民一般の“無関心”と官僚の権力への追従の問題に通じる!
←toxandoria、補足)>こそが、未曽有のホロコーストを引き起こしたとする論旨は、この映画の中で引用されるアイヒマンの世
俗的で虚ろな表情(実際の裁判映像)を見るとリアルに納得させられる。


・・・


既婚であったマールブルク大学の恩師マルティン・ハイデガーと恋愛(不倫)関係のあと、アレントはフライブルク大学のフッサ
ールの下で一学期を過ごし、更にハイデルベルク大学へ移り、そこではヤスパースの指導も受けている。ハンナ・アレントは、自
らが経験したナチズム(全体主義)の衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実
だ!)』という言葉を残している。


2017年8月13日夜に放送された旧日本軍「731部隊」に関するドキュメンタリー『NHKスペシャル/731部隊の真実〜エリート医学者
と人体実験〜 http://urx.mobi/FjZq』が、いま中国でも反響を呼んでいる、と日経が報じた(↓*)。肝要なのは、これを機会
に我われ日本国民も、アレントの言葉「悪の陳腐(凡庸)さ」(どの人間にも上司の命令を黙々と遂行する凡庸な能吏の如く、現
状に安住する傾向が見られるというリアリズム)を再確認することであろう。


* NHKの「731部隊」番組、中国で反響呼ぶ 815日経http://urx.mobi/FjZI

・・・【北京=永井央紀】NHKが13日夜に放送した旧日本軍「731部隊」のドキュメンタリー番組が、中国で反響を呼んでいる。
中国国営中央テレビは15日昼のニュースで「細菌兵器や人体実験に関する兵士の証言テープを公開し、残忍な犯罪行為を異例に
も認めた」と紹介。中国外務省の華春瑩副報道局長は記者会見で「真相を明らかにする日本の知識人の勇気を称賛する」と語った。


・・・

日本の政治状況も、米国のトランプ現象(デジタル焚書型の“悪の凡庸さ”の出現!?)でも同じことだが、今や世界中が「反知
性主義」の典型とも言えるポピュリズム(大衆扇動型政治)による深刻な「社会の分断化」に飲み込まれつつあるかに見える。


<参考> デジタル焚書 

・・・反知性主義を批判するときに必須の問題意識。例えば長文の新聞記事、本、雑誌記事、論文、講演など一定の長い文脈で表
現される<人間の統合意識>よりも、<ネット上のツイート、レス等の断片>の方が真っ当な「真理」であると、権威的にor 作為
で人々を誤解させる悪質な行為。これはAI(人工知能)が創出する(正確には、と期待されている?)人工意識の問題(人間の意
識とAI(人工意識)との差異は何か?あるいは、シンギュラリティなる錯誤の概念について考え、正しく批判すること)にも関わ
る重要なテーマ。Cf. ⇒ http://urx.mobi/FknG


・・・


しかし、だからこそアレント「悪の陳腐さ(凡庸さ)」が、必ずしも文字通りに「知性が劣る人々、“知能が低いのでバカだ”と
見なされる側の人々」のことだけを指すものではない、という歴史と現実に気付くべきなのだ。それどころか、知能・学識・見識
ともに優れた人々が、いとも容易く「悪の陳腐さ(凡庸さ)」に嵌り、積極的に又は唯々諾々とファシズム(全体主義)に協力し
た悪しき事例の枚挙には暇がなく、それは今の安倍政権下の日本でも進行中のことだ。


例えば、旧日本軍「731部隊」の“細菌兵器を開発した科学者たち”のあの真に忌むべき問題であり、あるいはハイデガー、カール
・シュミット(ドイツの思想家、法学者、政治学者、哲学者)ら超一流の知能と見識をもつ知識人・インテリ層の人々のファシズ
ムへの協力(ナチス入党)の問題である。無論、カール・ヤスパース(1883-1969/哲学者・精神科医)のように頑としてナチスへ
の協力を拒み続けた事例もある。


そして、これらファシズムへ協力した第一級の知識人らの専門分野は自然科学・科学技術、人文・社会科学という具合で、それは
凡ゆるアカデミズム(ロゴス)分野に拡がっている。


因みに、ヤスパース(ハイデルベルク学派http://ur0.pw/FxXFの中心人物/哲学者・精神科医)には、妻がユダヤ人である故のナ
チスに対する抵抗姿勢の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りの圧力では自宅に2人で立て籠もり通したエピソードがある。
結局、ヤスパース夫妻は自殺する以外に打つ手がなくなるまで追い詰められたが、強制収容所への移送予定日も残すところ数十日
のところで、辛うじて連合軍のハイデルベルク占領となり移送を免れた


このようなエピソードを持つヤスパースは「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせ主体的
に考えるべきだ」という前提を明確化する偉大な功績を遺した。ヤスパースはナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストなどの
「罪」を四つの次元、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪に分けたが、これで漸く「政治的・法律的な責任」
(前二つ)と「内面的な責任」(後二つ)を峻別して考えることが可能となった(出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦
後思想』光文社新書)。


これで、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合う自覚の程度に応じて「人道に対する罪」を具体的に理解することが可能とな
り、自分はそれに対する反省の行動を是非とも実践すべきだという人道に関わる意志を一般のドイツ国民が共有できるようになっ
た。

このように見ると、戦後ドイツ人の人道に関わる責任意識が日本と比較にならぬほど高いレベルに達していたことが分かる。この
ことは<ドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因>ともなって長く尾を引くことになり今に至っている。但し、現在、その
ドイツでも「極右Afd、議席獲得?」の問題が急浮上している(Cf./添付画像)。


ところで、ハイデガーやカール・シュミットの如く、今でも世界で第一級の知能を備えた知識人と見なされる学者らがなぜ易々と
ナチスに入党し、そのファシズム政治の協力者たる『悪の凡庸さ』(既に見たとおり、これはアレントの命名であり、彼らがナチ
ス権力の命令を黙々と遂行して独裁的な政治権力の言いなりになる“凡庸な能吏”のごとき存在に徹したことを意味する)に甘ん
じたのか?については、依然として、今も深い謎となっている。


この問題への答えの一つには、「ハイデガーのナチ関与が彼の哲学思想、特に『存在と時間』(Sein und Zeit/1927年初版/解釈
学的現象学の核心を論じた)と深く内的に関係していることが判明した!/ヴィクトル・ファリス著、山本 尤訳『ハイデガ−とナ
チズム』(原著1987,名古屋大学出版会1990)のような、一見、これは尤もだと思わせてくれる解釈がある。しかし、これはハイ
デガーの業績全体、特に解釈学的現象論を全否定しかねぬこととなり、かなり無理があるようだ。


なお、ハイデガーの解釈学的現象論とは<フッサールが 「現象学の枢軸」である 「志向性の問題」として「純粋意識」を取り出したこ
とに対し(委細、後述)、ハイデガーが「その意識そのものへの問いは立てられているのか?」と訊ねたことで始まった議論である。


そして、ハイデガーは「フッサールの純粋意識への問いは立てられておらず、 それは恰もアプリオリな対象事物の如く見なされて
おり、結局、意識そのものの解釈がなおざりにされている」と見ており、「そもそも存在に時間が加わることでこそ生の実存が現れ
るのであり、純粋意識とは生のそのような時間の解釈を加えた覚知(気づき)であるべきだ」と主張した(出典:ハイデガーのフ
ッサール批判/加藤恵介・神戸山手大学紀要第14号 (201212)http://urx.mobi/FkNm)。


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−2/再認識すべきアレントの言葉『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”』)


昨今の「グローバル経済」時代における新自由主義の暴走をすら予見できる水準まで、非常に鋭くかつ的確に「資本主義の本質的
欠陥」を抉り(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』P252〜、他)、その解決策の処方箋たる「リベラ
ル共和主義」の可能性にまで触れていたカール・シュミット(1888‐1985/一時、ナチスに協力した思想家・法哲学者)の仕事
(稲葉振一郎『政治の理論』‐中公叢書‐、Cf. http://urx.mobi/FkDk)を全否定することも困難なことである。


つまり、シュミットは、第一次大戦後のワイマール政権における議会制民主主義と自由主義の限界と脆弱性を鋭く、忌憚なく批判
したため、結果的にナチス政権樹立に有利な(別に言えば、人間世界のギリシャ悲劇的な“両義性のリアリズム”を見抜いた実に
厳しい)法理論を展開したことになり、今でも両義的で苛烈な評価が付き纏う天才的なドイツの法学・政治哲学者である。


いわば、シュミットは超人的でエソテリック(esoteric/深遠)な視点で“人間存在の根源を見据えつつ“性悪・性善の双方がせ
めぎ合う両義性のリアリズムを重視する観点”から、政治権力の源泉が“超越的でエトノスとも共鳴する情念の海に浮かぶ暴力的
なもの”(古代共和制ローマの象徴であるファスケスで統制されたむき出しの斧or刃に相当する/関連参照 ⇒ 
http://urx.nu/4szD )であることを見据えていた。


因みに、このシュミットの“敵=友理論”http://urx.blue/FtgLを、安倍晋三らが好む<お仲間(クローニー)orおともだち政治>
と同一視するのは浅薄な誤解である!w ともかくも、そのシュミットの冷徹なリアリズムの眼は、混迷の只中に巻き込まれつつ
ある現代であればこそ通用する<法哲学・政治哲学上の卓見>と理解するべきものであろう。


また、ハイデガーにせよ、シュミットにせよ彼らが前提していたのは、おそらく<人間社会を統べる政治は、そもそも恐怖、恐
れ、歓びなどの感情で最深部が支えられており、それはリベラル民主制でも、君主制でも、ファシズムでも変わらない。だからこ
そ、たとえ現代民主制であっても、国民の感情を介しつつ超越的で神的なエネルギーと繋がる回路を潜伏させている>という信念
であったと考えられる(関連参照⇒デュルケーム『宗教生活の原初形態』http://ur2.link/FqO4)。


無論、これが現代民主主義(立憲君主制)の「政教分離の原則」の否定に直結するものではなく、むしろ、議会制民主主義を採る
多くの国々では、これは全く逆説的な理解(つまり、だからこそ自然も含めた超越的なものへの恐れを前提としてこそ生ずる倫理
観の上に構築された間主観性で繋がるリアル人間社会が重要になる!)となる訳だ。従って、そうであればこそ我々は民主<憲
法>の上で厳格な「政教分離の原則」を謳っていることになる。


ところで、我々が想起すべき問題は、一時期、ハイデガーと恋愛(不倫)関係にあったハンナ・アレントが、自らが経験したナチ
ズム(全体主義)に関わる衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』とい
う言葉を残していることだ。


言い換えれば、これは(純粋かつ理詰めで物事を考える潔癖な方々には、おそらく承服しかねることかも知れぬが)『アドルフ
・ヒトラー、安倍晋三らのファッショ的な独裁者、あるいは日本会議などの極右グループに所属するか、それに何らかのシンパシ
ーを感じる人々と、我われその他一般の日本人との間には、人間としての本質において、それほど大きな違い(差異)はない!』
ということである。


更に言えば、その両者は殆ど同じ成分を共有しているのであり、そこに差異があるとしても、物理量的な比喩で言えば、それは高
々で薄皮一枚、というところであるだろう。


しかしながら、その比喩的な意味での「高々で薄皮一枚の差異」とは何か?実はコレに気付き、コレを自覚できるか否かが人類社
会の、特に日本国民の近未来を決定づけることになる可能性が高い(関連参照↓◆)。


◆【ホモ・サピエンスだけが、少なくとも今まで自然生態系の頂点に立ちつつ文明・文化を繋ぐことができた理由】


・・・ライプニッツのモナド論を取り込んだAIシミレーション(西川アサキ『魂と体、脳』‐講談社選書メチエ‐』)では、仮想
エージェント(最小単位の論理回路)が多数派に対して例えば相転移の如く「同調する振る舞い」が観察されるが、より驚くべき
ことに同じことが自然界の原子・分子レベルでも起こっている。


・・・が、ヒトの意識を司る脳機能の観察では、例えば脳科学者・金井良太(意識の研究で国際的に活躍する認知神経科学・脳科
学者、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の『政治的信条に関わる脳構造』(著書『脳に刻まれたモラルの起源』
岩波書店)の脳の情動部位に関する観察によれば、タカ派(極右・超保守派)は恐怖心や臆病な性質との相関が高く、逆にハ
ト派(リベラル)は太っ腹や鷹揚な性質との相関が高いことが観察されており、薄皮一枚の後者のリードがヒトの社会を辛うじて
持続させてきたと考えられるようだ。


・・・つまり、自然現象ではベクトルの流れに任せ放置すると、人間社会の虐殺(全滅)へ至るプロセスとソックリのこと、例
えば「相転移」の如き物理的変化が起こる。しかし、個々人が「自由意思」(コレが薄皮一枚の差異の中身!/政治学に置き換
えれば、コレが『リベラル共和主義』の意味、http://u0u1.net/FlkF)を持つ人間社会では、どんな環境下でも最後の瞬間まで誰
も奪うことができない精神の自由(実存選択の意思=未来への希望)が残されている(フランクル『夜と霧』‐みすず書房‐、大
岡昇平『野火』‐新潮文庫‐/ここでの“野火”は他者の存在のシンボルと考えられる)。よって、人間は無機質な原子・分子の
世界とは異なることを最認識すべき!ということになる。Cf. ⇒ http://u0u1.net/FlkE 


1−2市民的自由主義の深層に潜む「ラカン鏡像の逆説」(無限後退するアイデンティティ・パラドクスの罠)


(グローバル化に因る個々人の不安感情の湧出源は『ラカン鏡像』のアイデンティティ・パラドクス!)


◆グローバル化に因る個々人の不安の感情は「ラカン鏡像」型のアイデンティティ・パラドクス!Cf.↓★1〜2 ⇒『シュレー
ディンガーの猫を追って』 『原理 ハイゼンベルクの軌跡』813朝日http://u0u1.net/Flld /記事内容(書評)はコチラ 
⇒「ブック朝日コム」http://u0u1.net/Fll6 


★1「安倍的なもの」の存在こそ存立危機事態!∵ 再帰的近代化↓(*)なるグローバリズムの余病(近代化はその目的・対象を
吸収し尽くしてフロンティアを喪失したため、個人が自己を近代化していく段階に入ったとする、エトノス観念の対極にある一種
の人間改造論!性悪説・主観的合理主義・自己責任論への傾斜で激烈な個人感情への内向化が必然となる!)を煽る手法へ没入!
⇒ グアムへの北ミサイルは存立危機事態ではない! 安倍首相が支持率回復のために日本国民を危険にさらそうとしている813リテ
ラ5:01 - 2017年8月14日http://u0u1.net/Flle 

・・・(*)アンソニー・ギデンズの「再帰性/再帰的近代化」の概念について/萩原優騎 日本学術振興会特別研究員 http://u0u1.net/Fllk 


★2 ラカンの「鏡像段階論/2〜3歳頃の幼児は母親に代表される他者を鏡(可視世界への入り口)として自我形成するという
「発達段階」仮説」http://u0u1.net/Fllf 

・・・『シュレーディンガーの猫を追って』の著者からは、悲劇に見舞われた者が問わずにはいられない<他にもあった可能性の
中でなぜ今のこの現実なのか、という切実な思い>が読み取れる。また、『原理 ハイゼンベルクの軌跡』の著者は、ラストで、
例えば「原発推進派のあなた」と、それが変容・転換してしまった「反原発派のわたし」との合わせ鏡的な左右が真逆の反映に、
つまり「ラカン鏡像」型(=合わせ鏡型)のアイデンティティ・パラドクスに嵌り、遂にはそのパラドクス鏡像が感情の海面の上
で無限後退して戸惑う自分を発見することになる。


『感情の政治学』(講談社選書メチェ)の著者・吉田 徹は「完璧な合理的イデア(固定した形相美、エイドス)を政治に求め、そ
れが常に実践(感情・情念で揺らぐリアル意識の実存)を伴うものであったことを忘却する「市民的自由主義」(方法論的個人主
義/合成の誤謬を無視した原子論的個人主義)は誤りである。それは、それこそがミルトン・フリードマンの新自由主義なる合理
主義(マネー&物欲合理主義)をのさばらせることに繋がったからだ。」との考えを述べている。


また、吉田 徹は、政治における情念を問う数少ない政治学者である斎藤純一(早稲田大学教授)が「政治は、利害のみならず愛情
や忠誠などの情念(敢えて断言すれば、それこそラカン鏡像型のアイデンティティ・パラドクスに戸惑いつつ感情の海面で無限背
進(後退)する自己の再発見、ということ!/補足、toxandoria)の要素を含む価値観・世界観の抗争でもあり、コミュニケーシ
ョンの媒介でその情念を民主的回路に繋ぐことで政治はより良いものとなる」と主張することに注目する。


それは、デッドロック化した資本主義経済(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』/
補足、toxandoria)の下で、今や人々の行動を規定していた「無限のフロンティア―を前提する安定的な価値観」が成り立たなく
なっている現代では、感情面も含めた個人の判断が意識的な選択として絶えず吟味され、そのうえで選び取られ続けなければなら
ないという、アンソニー・ギデンズ(英国の社会学者)の「再帰的近代化」(グローバル環境下における時間・空間感覚および感
情表現など、人間主体側の改造必要論)が全面化していることと関係しており、この「再帰的近代化」のテーゼは<現代政治に批
判的に適用すべき解釈枠組みの一つ>だとも吉田 徹は述べている。


(新自由主義アンシュタルトの暴走に追い込まれた『ラカン鏡像』幼児期ナルシズムがヘイト・人種差別やテロリズムの主要な苗
床である可能性が高い)


更に視点を少しズラして見れば、新自由主義(≒果てしなき格差拡大装置としてのアンシュタルトhttp://ur0.work/Fugd、/再帰
的近代化のテーゼ、主観的合理主義)に取り込まれた「市民的自由主義」は、あの古代ギリシャの市民が当然視していたノモス観
念(ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前/委細、後述)から最も遠い存在と化していることが分かる。


つまり、益々グローバル化が進む中で頑強な統制的権力だけを握りつつ安定的な公共財の市民への提供の義務(←カール・シュミ
ット、アレントらの指摘/Cf. http://ur0.work/Fugd)を放棄した「小さな政府」が個々人の不安感情を煽ることになるのは当然
のことであろう。


ところで、マーサ・ヌスバウム(米国の政治哲学者http://ur0.work/Fugs)は、ラカン「鏡像段階」に重なる幼児期の子どもが
<「ナルシズム」→「他人の手で処理されざるを得ない自らの排泄物が自分の意の儘にならぬことで『自己愛』ナルシズムの自尊
心が深手を負う」→「強い不快感が発生し沈着する」→「その不快感の弱者らへの転嫁の欲求が生まれる」>のプロセスで身に
付いた倒錯の満足感が「ヘイトや差別攻撃」の苗床となり、ひいては新自由主義(主観的合理主義)で脅迫的に凝縮され、それが
激烈なヘイト・人種差別やテロの一因となっている可能性がある、と指摘している(出典:吉田 徹『感情の政治学』)。


2 フッサール現象学の概要(および、その現代的意義)


2−1“現象学誕生”の時代背景/それは現代にも重なる危機の時代であった


オーストリア帝国(1804-1867)の末期に生まれたフッサール(Edmund G. A.Husserl/1859- 1938年)がオーストリア(ウイーン)
とドイツ諸都市(ゲッティンゲンなど)での研究生活の最盛期をオーストリア史に照らせば、それはオーストリア=ハンガリー
(二重)帝国(1867-1918/ハプスブルク君主国の一つ)の末期〜オーストリア第一共和国の時代に重なり、又それをドイツ史で見
れば19世紀後半の欧州に「強固な覇権国家体制」を敷いたビスマルクが君臨するドイツ帝国(1871-1918)の時期にほぼ重なる。


また、その時代の欧州では、第一次世界大戦後の復興の完成を先取りするかにも見えた「ワイマール共和国」(ドイツ・ワイマー
ル憲法体制/1919-1933)が出現していた。しかし、その末期には早くも資本主義の限界が露呈し、そこから派生した世界経済恐慌
(1929‐1932)の不安を突く形(第一次世界大戦(1914‐1918)の敗戦で受けた巨額賠償等へのドイツ国民のルサンチマンも
一因)で出現するヒトラー・ナチス政権(1933〜)、ファシズムの闇に飲み込まれる予兆を感じさせる時代でもあった。


このような意味での不安が漂う世界史的な「大きな危機」の只中にあった19世紀後半〜20世紀初頭の「ウイーン・アカデミズム」
では、エルンスト・マッハ、エドムント・フッサールらの科学哲学者たちが、これとは些か異なる危機意識の下で(そのような時
代背景に加え、数学・論理学・物理学らが現実離れした可能性を求め天空へ舞上がり過ぎていることへの危機感から)、あの「超
越論的還元の視座」の先鞭をつける決意を持つに至ったことを再認識すべきと思われる。


それは、上で見たような意味で19世紀末〜20世紀初頭の「資本主義経済がデッドロック」した時代にフッサールが現象学(現象学
的還元論)を着想したことの意義は、「新自由主義(一種の過剰合理主義仮説http://urx3.nu/FnRn)に席巻されたグローバル資
本主義」の暴走が、再び、世界規模で人類を脅かしつつある現代でも十分に有意性を持つと考えられるからだ。


つまり、苛烈化する一方の人間社会の今と未来を見据える上でも、フッサールの現象学は十分に有効だと思われる。そのためか、
21世紀に入った頃から人文・社会科学系の研究分野では、特に人間の非合理性と合理性の折り合い方、着地点を見極めようとす
る研究が活発化しているようだ。また、一時期はナチス(ファシズム)にも傾倒したカール・シュミットが「資本主義の正体は、
そもそも海賊資本家による略奪資本主義であった」と喝破していたことは、まさに慧眼であったと言えるだろう(出典:水野和夫
『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済』)。


それに現象学と関連させつつ考えてみれば、「リベラル共和主義」の原型を古代ギリシャの都市国家、特にスパルタの厳しい政治
(ファシズム的共和とリベラル共和の両義的ドラマツルギ―のせめぎ合いのトポス)に見ていたニーチェ、ハイデガー、ハンナ・
アレントらの視点の中に、未発見の興味深い隠れたヒントを発見できるのではないかとも思われる。

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