メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[希望のトポス]仏マクロンが感知したリベラル共和への希望(3/4)  2017/07/16


[希望のトポス]仏マクロンが感知したリベラル共和への希望/ノモス、文化資
本、エトノス・パターナリズムが“新自由主義(アンシュタルト)”克服のカ
ギ(3/4)

*お手数ですが、当記事の画像は下記URLで御覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713

3 そもそも「文化資本主義」とは?

・・・ノモス・エトノス観念でこそ理解し得る文化資本は、リベラル共和主義
の土壌!・・・

「文化資本(主義)」には確たる定義が定まっている訳ではない。が、ここで
は池上淳著『文化資本論入門』(京都大学学術出版会)などを参照しつつ、仮
説的に方向性を見据えるという、ごくゆるい視点に立って、近未来の日本のあ
り方をも考えてみたい。また、フレーム的な役割を担うと思われる素材の一部
として、それをめぐるヒントを幾つか纏めておく(池上淳:京都大学名誉教授
/財政学、文化経済学)。先ず、ここでは俯瞰的に「文化資本主義の革新的役
割」と思われる点について、稲葉振一郎の「フーコーの“リベラリズムの統治
理論”」の説明(『リベラル共和主義』より)などを参照して纏めておく。


●文化資本主義の革新的役割は、「外国人、観光客、都会人、ビジネスマン、
その他の庶民層など諸々の民族・性差・身分差・年齢・職業などの壁を越えた
多様な来訪者である外在性との触れ合い、つまり異質性と親密さの空間を共創
(造)することである。これは、<「我々の知識や信念の総体は、周縁部
(fringe)でのみ個々の経験と接しつつ、夫々の信念体系内の各命題に割り当
てられていた真理値を再配分する人工の構築物として変化し続ける」という、
あのウィラード.クワイン(米国の哲学・論理学者)の「ヒトのコミュニケー
ションを説明するメタファー」を連想させる(関連参照/
http://urx2.nu/EFpU)。


●また、文化資本とは、例えば池上英子『江戸期プロトモダニティhttp://u0u0.net/EyAB』の如き伝統・文化から生まれるスピリットを地域の伝
統産業などの中に取り込みつつ内在化させて、そこから新たな外在性(偏執的
なマネタリズム市場原理を超えた付加価値創造的な視点の発見など)を生み出
す、まさに「“リベラル共和主義”の時代に相応しく、ノモス・エトノスも十
分視野に入れた持続的で漸進的な経済活動の原動力となり得るもの」である。


●端的に言えば、文化資本主義は旧来の新自由主義(マネー市場原理主義の暴
走)の奔流に飲み込まれてしまった、大量画一生産とグローバルスタンダード
(世界標準化)なる、現代の世界でメジャー視されている「新自由主義に基づ
く資本主義経済」へのアンチテーゼである。


(文化資本主義の基礎構造について/三つの類型)


先ず、この『文化資本論入門』が示す文化資本の四つの類型からエッセンスを
敢えて三つに集約すると以下のとおりになる(ベースは池上淳氏による分類/
一部をtoxandoriaがアレンジ)。


(1)国や地域の総合イメージの母胎となる有形無形の「象徴型文化資本」
(集合意識も含む累積された歴史経験の象徴)

・・・日本の「象徴天皇制」はその最たるものと言えるだろう。委細は下記ブ
ログ記事◆を参照して頂くとして、上の池上英子『江戸期プロトモダニティ』
の記述を部分転載の形で、少しだけ此の問題に触れておくならば、それは「徳
川幕府は古来の歴史を背景とする皇室(朝廷)と京都の貴族文化が持つ象徴的
・美的パブリック圏(日本文化の核心たる“美と礼節”の領域)を大公儀のバ
ックボーンとして利用せざるを得なかった。これこそ、日本の歴史・文化の本
流と見るべき日本の権力と美学の<保守>に関わる絶対に避け得ない事情であ
った。それ故、日本の正統保守を定義する場合に避けて通れないのが此の意味
での皇室・朝廷文化にルーツを持つ美的パブリック圏(日本の文化と学芸の領
域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する有職に関わる知識・
教養・知恵の共有空間)の問題である。」ということだ。

・・・その意味でも、戦前型への「追憶のカルト」(安倍政権が執拗に謀る現
人神天皇制の取り戻し=正統保守を騙る、偽物ウルトラ保守の意味で偽装極右
と呼ぶべき!/リベラル共和主義と真逆の暗黒世界への退却!)は、日本の未
来の運命に関わるオール政治・文化・経済を破壊する致命的な誤謬である。


◆盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏
教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている/
2017-05-18toxandoriaの日記、http://urx2.nu/EFlf


(2)目に見える見えないかの別を問わず、地域固有の「空気」に触れる中で
、職人、商人、顧客(市民と来訪者)が生み出す地域固有の伝統や習慣、リピ
ーターらとの対話による商談システムと品質デザイン等の創造開発、生産・流
通・消費システムの開発など。


(3)(1)象徴型文化資本(換言すれば、正統保守的な価値観/補足、toxandoria)を媒介とした「目に見える広義の文化遺産」と「目に見えない広
義の文化遺産」の統合が生み出す、「都市と農村・地方の交流」、「広義の社
会人大学など地域アカデミズムの立ち上げ」、「広域公共文化圏の育成」など。


(エンドレスに文化資本のタネを発見し続けるためのプロセス/池上 惇氏に
よる)


(a)旧来の資本主義における経済資本は「マネーを増やす元手」であるが、文
化資本は「文化そのものを生み出す元手」である。>


(b)最も重要な「文化資本」のベースは「象徴型文化資本」の理念の理解を深
めることだが、リアル経営体が持つ「組織名」、「企業名」などから着手し、
具体的活動を先行させることが先ず肝心である。

・・・この方針のもと、池上氏は遠野(岩手県)、高山(岐阜)、京都などで
文化政策・まちづくり活動を実践してきた。


(c)次のステップとして大切なのは、(b)の経験を介しつつ地域固有の(a)「象
徴=シンボル」の背後にある集合意識的な深層を探求することで、具体的な文
化資本に基づく個々のアソシエーション的な活動の中で「目に見えない新たな
文化資本」を発見してゆくこと。

・・・つまり、あくまでも文化資本は「マネーではなく、文化そのものを生み
出す元手」であることを忘れないことが大切であり、マネーの増加(旧来の経
済で言えば付加価値創造、経済成長)はその結果とみるべきである。


(リベラル共和主義への希望の土壌、文化資本が育む“アソシエーション経済”
のネットワーク創造への期待)


今や、全世界は事実上の主流経済派である新自由主義(ネオリベラリズム)の
錦旗の下で生き残りをかけた激烈なグローバリズム競争が進行中であるが、そ
の最先端は国際金融市場である。そして、その新自由主義のトレンドはIOT、
AI(人工知能)らの進歩と相まって日々にムーアの法則を遥かに凌駕するほど
の驚愕すべき勢いで急激に加速しており、その激烈な副作用である格差の拡大
が止まるところを知らずの恐るべき状況となっている(ムーアの法則:インテ
ル創業者の一人、ゴードン・ムーアが唱えた“半導体の集積率は1年半で2倍に
なる”という経験則)。

その新自由主義が如何にして何時に誕生し、如何なる戦略下でグローバル展開
がなされてきたかについては、「戦後の米国一極支配体制の成立史」と「多国
籍コンソーシアム」の二つの切り口から分析・批判して、新たな可能性の方向
である「社会運動家スーザン・ジョージのアソシエーション(トランスナショ
ナル世界市民運動)の可能性」を報告する注目の書、日下部 史彦著『新自由
主義に抗して スーザン・ジョージと世界市民運動』(SSBパブリケーション
ズ)が6月末に刊行されているので、ここに併せてご案内しておく。是非、一
読をお勧めする。


さて、池上淳著『文化資本論入門』によると、それは逆説的な現象であるが、
近年はIOT、AI(人工知能)ら情報処理技術がますます高度化するにつれて
「画一的な製品を大量生産する形」から、まったく正反対に「各顧客の多様で
個性的なニーズに合わせることを得意とする多品種少量生産の体制」が可能と
なってきている。


このように新たな生産工程(生産工場)が誕生する可能性が拡大するトレンド
の萌芽は、過疎化など周辺環境の劣化に伴い急速に失われつつある日本古来の
伝統産業や伝統工芸技術、あるいは個性的で希少なエトノス・自然環境も含む
歴史遺産などを再発見し(当然、日本だけとは限らないが)、いよいよ本格的
にそれらを再活性化するか、あるいは内外の人々との繋がりを最重視するアソ
シエーションへと高度化するチャンスが次々に生まれるようになるとも考えら
れる。


無論、この場合のアソシエーションは、政治・経済的な市民の連帯・提携運動
というよりも、地域産業や地域の個性的魅力に関わる問題意識の共有化、類似
の伝統工芸技術等に関するアイデアの創造、又は広域観光事業などについての
非常に幅が広い連携とネットワーク活動の意味である。ところで、この伝統産
業・伝統工芸技術などに関わる多品種少量生産については次のような特徴がみ
られる。


例えば、ある優れた職人の仕事の制作工程では、AI装備等の機械に任せられる
部分と、機械では実現できない精妙かつ精巧な熟練した人間、つまり職人の技
巧、判断力、感の発揮などが繰り返され深化する工程の中には、その技術(者)
自身が絶えず成長して行くファクターが混在していることが多いとされる。そ
の意味で、これは芸術的価値や芸術世界の創造性との接点とも見えてくる。


一例を挙げると、近年は韓国・中国で日本伝統の「木造家屋」建築技術(クギ
を使わない木組み技術)と優れた日本産の森林(家屋建築)材への関心が高ま
っており、日本自身が見失いかけている木造伝統技術を再生し、それを輸出産
業化するチャンスでは?と期待が膨らんでいる。そもそも木組み技術は古代に
半島・中国から伝来したものだが、これら両先輩国では殆ど関連技術が消滅し
ており、日本が得意とする一定の少量特注生産へのAI技術を活かした対応など
に期待が集まっている(関連/参照↓◆)。


◆韓国でヒノキブーム 日本の木造建築学ぶ20170526岐阜新聞
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20170526/201705260917_29731.shtml


大量生産の論理・工程をこれら伝統産業の中で内部化する(そのためのビッグ
データ等の判定・評価はAIが得意!)ことによって、どのような顧客ニーズに
も臨機応変に応えることが可能な製品を一定量ごとに適量生産する体制が整う
と同時に、それら仕事の受注により、一人ひとりの優れた職人の仕事そのもの
が更に磨かれる機会が増え、より優れたものとなる可能性が高まる。しかも、
その代替が困難な特殊な技術をやる気がある後継者へ確実に伝えることも容易
となる訳だ。


そのような形で伝統産業の遺産が潜在する日本全国の町や村、あるいは諸都市
の中に点在する旧市街地や津々浦々に埋もれ消えかかりつつある伝統産業、伝
統工芸技術などを意欲的に発掘し、あるいは再発見し、それらに関わる新たな
ベンチャー投資や、新たなニーズを掘り起こし、又それらの生産活動にに取り
組むことで、人口減・過疎化・高齢化・後継者難・シャッター通り化などで悩
む地域経済の活性化も可能となる。


一方、これらを内外の観光事業とリンクすれば、そこから波及する産業と経済
活動の範囲が格段に拡大することが期待できる(関連/参照↓◆)。


◆岐阜県(高山市など)には外国人観光客が集まる!

http://www.connect-to-world.com/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C/ 


◆フォト・ギャラリー/高山市などの風景、アラカルト

https://goo.gl/photos/yhyhCdeMd4WyiQYg8


(リベラル共和主義の土壌、文化資本主義へ覚醒した歴史上の先進事例)


・・・ヒントは、<マネー資本主義(市場原理)が暴走するか又は大恐慌の時
に顕著に意識化される、マネーならず「特に地域におけるノモス、エトノス
(自然・文化環境)」こそが我々の共通の元手(持続を保証する資本)だとい
うリアル>についての気付き・・・


第1章のアンシュタルトに関わる説明でも触れたが、統治パターナリズムとし
てのリベラル共和主義の可能性は、その暴走についての冷静な観察の中でこそ
発見できることになる。例えば、私的な統治権力である市場原理主義が暴走し
た時に出現する<格差>の不条理を、逆説的に気付かせるのもその暴走するア
ンシュタルト自身だ。そして、その気付きへどう対処すべきか、という政治的
な思考の地平から浮上するのが「リベラル共和主義」への希望の問題である。


ところで、稲葉振一郎『政治の理論』によれば、フーコーは精神医学・刑事司
法などについての様々な言説の詳細な歴史的・文化的・学問的な分析によって、
従来は「権力」と見なされてこなかった社会的な営み、つまりその文化・歴史
・学問・技術的な体系の中に「権力」の作動と動因が観察されることを発見し
ている。従って、フーコーの政治哲学には必然的に次第に科学史探求的な色彩
を帯びて行くという特徴がある。


このようにして、フーコーの政治哲学(統治理性)に関わる視野の範囲は人文
・社会科学という狭いドメインに止まらず、マイクロバイオーム的な視野も含
むアプローチによる生物学、医学、生理学、生命科学、環境・生態学などの所
謂「生政治」(凡ゆる生命・社会環境と個体生命を一元体に集約統治する権力
/カトリックのヒトの“内面・生命現象”に関わる管理構造からヒントを得た
司牧者権力、バイオポリテクス)のフィールドへと拡がって行くが、恰もそれ
は東 浩紀が「環境管理型権力」と名付けたノモス・エトノス的な、あるいは
アンシュタルト的な概念に重なってくる。


その「環境管理型権力」は人々が自らの意志で楽しく行動する(繰り返しテー
マパーク施設を訪れるリピーター型思考に因る)ことで、結果的に容易には可
視化し難い強力なノモス(ネオ・ノモス?)的、アンシュタルト的な権力に管
理・操作されてしまうという未来社会に想定されるイメージだ(出典:東浩紀、
大澤真幸『自由を考える』−NHK出版協会−http://ur0.link/EBcE)。


見方を変えれば、我々が、AI・IOTらの進化と共にこのフーコー「生政治」的
なアンシュタルト統治の世界の中心に向かって、やや一方的に取り込まれつつ
あるのは間違いがないと言えるだろう。だからこそ、いま最もリアルに意識す
べきものが、先に触れたエトノスとコンシリエンス(人文&社会両知の親和的
融合)の認識という革新的な方向への発想転換である。なぜなら、それこそが
民主主義のミニマム条件である「自由」と「生存権」を主体的(主権者的)に
守り続けるための必須条件と思われるからだ。


更に重要なのはそのような意味で我々の日常性の次元が決定的な「生政治」の
方向へ展開するという意味で全く異次元なアンシュタルト社会の到来に備える
ため求められるのが、いまや無効化した「新自由主義」に代わるものとして位
置づけるべき「文化資本」と市民生活の「日常性」に関わる政治・経済的なイ
メージの確立である。それは、我われ命ある者の「日常性」(文化資本に基く
日常生活リアリズム経済論/国民層の日常性、つまり日々の生活の営みこそが
持続的な経済成長の元手であることへの覚醒!)こそが「リベラル共和主義」
のベースであり、それこそが持続的な経済成長の必須要因であるからだ。


(1)マネー資本主義(市場原理)の機能不全、「大恐慌」下の米国で出現し
たTVA「Tennessee Valley Authority/テネシー川流域開発公社」の文化資本
主義の観点からの再評価


第一次世界大戦後の軍縮期を経て起きた大恐慌(マネー資本主義(市場原理)
の機能不全)の泥沼から脱出するため、それまでの古典的・自由原理的な経済
政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換した米F.ルーズベ
ルト大統領のニューディール(1933〜1936)は、当時から今に至るまで、その効
果に関わる評価では様々な議論が戦わされてきた。しかも、世界で初めてケイ
ンズ乗数理論を取り入れたとの定説そのものまでも疑う(同理論とは無関係だ
とする)議論まで現われている。


いずれにせよ、ルーズベルトはグラス・スティーガル法の制定(銀行法とも呼
ばれる対金融活動の規制法/連邦預金保険公社・設立と“銀行⇔証券”の分離)
と金融緩和策の緩急の組み合わせで金融収縮(取り付け騒ぎ)に終止符を打ち、
米国の景気回復への道筋を敷いたことは間違いがなく、それは第二次世界大戦
後の資本主義諸国の経済政策にも多様で大きな影響を与えたとされる。


なお、1999年11月に共和党が多数を占めた上・下院は「グラス・スティーガル
法を廃止」し、銀行・証券・保険を兼営する総合金融サービスを自由化する法
律を可決、クリントン大統領(民主党)が署名して同廃止法が成立した。この
ため新自由主義が金融をも自由競争に曝すこととなり米国経済は、その後、金
融工学(コンピュータ・マネーゲーム)商品が暴走し、リーマン・ショックな
どの問題を引き起こすことになった。


ともかくも、マネー資本主義(市場原理)の機能不全である「大恐慌」下の米
国に出現した、一連のニューディールの主柱の一つであった「テネシー川流域
開発公社」の仕事は、欧米史上で初めて「文化資本の理念を身につけた民間人
(財界人、学者、弁護士ら)」が、政府の所有する放置されていた資産・資本
を基礎に、「金融(マネー)市場での投機」経済から、機能不全と化した「資
本(信用崩壊で殆ど無価値化したマネー)活用の場」を、「ルンペン・プロリ
アート化した雇用者マネーのフロー&ストックを増やす場」へ転換したという
意味で、まさに「文化資本主義」を実行したプロジェクトとして高く評価すべ
きであると、『文化資本論』の著者・池上 惇氏が指摘している。


(2)日本/明治維新政府が特に日露戦争以降に悪しき精神主義の原理として
<印象操作>で悪用した幕末前期の経世家、二宮尊徳の「仕法」(文化資本経
営)に関わる再評価


二宮尊徳(通称/金治郎)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家であり、
明治期以降に各地の小学校などに建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩
く姿(負薪読書図/ルーツは中国の朱買臣図http://urx.mobi/EBSnで、これが
狩野派の伝統的な画題として定着していた)の記述は、明治14年(1881年)
発行の『報徳記』が初出であるとされるが、これは尊徳の実像ではない。


報徳の地域再生構想や実践は「報徳仕法」と呼ばれるが、同じく池上 惇氏は
このシステムは現代にも十分に活かせる、まさに「文化資本主義」の実践であ
ったことを指摘している。「報徳仕法」のエッセンスを端的に言えば以下のよ
うになる。


「農業にせよ、商業にせよ、工業にせよ、あるいは公(幕府・諸藩ら)の財政
であっても、およそ凡ゆる事業・公共事業は地域資源(環境も含めた自然、伝
統文化、ヒト)の有効活用と合理的な計算を基礎としつつも、常に関係者全て
の支持と共感を得ることが大前提で、近江商人と同じく三方よし(自分、相手、
世間)を忘れず実践することにあり、余剰の金銭(付加価値創造としてのマネ
ーの増加)はその結果である」


しかし、この二宮尊徳の先進的な「文化資本主義」の理念は、特に僥倖の勝利
(まぐれ勝ち!)に過ぎなかった「日露戦争」以降には「国軍の父」とも称さ
れる山縣有朋らを中心とする人脈によって、軍事国家主義を支える偏った精神
主義の方向へ著しく捻じ曲げられ(仕法オリジナルの文化資本主義的なエトノ
ス観念的(≒リベラル共和主義的)な経営の実践は禁止となり)、結果的にそ
れは一般的にも「富国強兵国家」の精神的な原理としてだけ見られるようにな
り、まさに<印象操作>的に悪用されてしまった(参考⇒京都学園大学経済学
部教授・川田耕『道徳と主体』http://urx.mobi/EBSN)。

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