メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[希望のトポス]仏マクロンが感知したリベラル共和への希望(2/4)  2017/07/15


[希望のトポス]仏マクロンが感知したリベラル共和への希望/ノモス、文化資
本、エトノス・パターナリズムが“新自由主義(アンシュタルト)”克服のカ
ギ(2/4)


*お手数ですが、当記事の画像は下記URLで御覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713

2 あるべき必然の流れとしてのリベラル共和主義へ(H・アレント、フーコー
のノモス・エトノス観念)


(“産業社会論→同組織論”の変遷で見える資本主義(20世紀以降)の変質)


・・・そこに透けるのは、“国家理念不在(というより、戦前型『軍事国家主
義』への回帰をカルト狂信(追憶のカルト)的に願望する異常な政治意識下で)
のアベノミクスなる経済政策は見せかけの雇用増加なる、根本的な政策意識
(健全な国家理念)の不在による労働生産性の劣化をごまかすという悪意に満
ちた「印象操作」だった、という恐るべきリアル!・・・


およそ、「19世紀帝国主義の時代」から「東西冷戦終焉の時期」(ソビエト連
邦の崩壊:1991年)頃まで(その日本のピークは1960年代の高度成長期)の時
代に、社会経済のパラダイムとして世界を支配していたのが「産業社会論」で
ある。


それは、ガルブレイス、W・W・ロストウらを代表者とするものだが、端的に
言えば「テクノロジー万能」信仰が<「市場原理」と「所有重視論」(ストッ
ク論)>に優越する時代であった。また、その時代の特徴は、米国の産軍複合
体が西側諸国の国民を睥睨する環境の下で、米ソの二大軍事大国が競合する時
代(戦後日本は米国の傘の下で平和主義を素直に主張できた時期)であった。


この産業社会論の時代に続くのが、今度はゲーム理論や情報科学などの新しい
分析手法を取り入れつつ、「市場原理」を<「テクノロジー」と「所有」>の
上に置いて「金融、法人、労働力、福利厚生、技術研究・開発力など全ての要
素費用」を商品(神の見えざる手の操作対象)と見なすネオリベラリズム(新
自由主義)」の時代に入り、今に至っている。


換言すれば、これが長期的な完全競争市場に「企業組織の要素」(金融、法人、
労働力、技術力など)と「企業そのもの」の代謝と同化(スクラップ&ビルド
/M&Aらの市場原理による効率化)を任せる「産業組織論」の時代である。因み
に、この考え方のリーダー格はハーバード学派とシカゴ学派の二派であるが、
後者の方がより厳格な市場原理主義の方向へ傾斜している(参考/http://ur0.work/Exlj)。

しかし、上で見た「市場原理」主義の暴走の為すがままに任せていれば、やが
て、その矛盾で格差拡大が持続的に拡大するに止まらず、トマ・ピケティが
『21世紀の資本/r(資本の収益率)>G(GDPの成長率)』で指摘したとおり
資本主義そのものが崩壊(終焉)する恐れがある。


つまり、誤謬の「流動性の罠からの脱出論」に因る異次元緩和(アベノミクス
のベースキャンプ)が日銀(安倍政権)によって、更に強引に続けられること
になれば(金融資産増加と不動産価格の上昇がGDP増加率より高い状態が長く
続けば)、財政破産リスク(ベイル・イン(min.一定の預金額削減)、株価・
不動産等の減価(min.3〜5割程度?))の確率が高まる。


そのため必須となるのが、大胆な軌道修正の決断で「市場原理」を<所有(ス
トック)、労働力、福利厚生、技術研究・開発力(テクノロジー)など諸々の
要素費用>の下に置くこと、いわば<市場原理を様々な要素費用のツールとし
て明確に位置づけたうえで、井手英策『経済の時代の終焉』(岩波書店)が提
示する“相互扶助・再分配等で市民生活へ安心感と信用を取り戻す、斬新な国
家財政・戦略への変更http://ur0.work/ExEq”を併せて実行する>という根本
的な発想転換である。


換言すれば、それは「ネオ産業組織論」の時代へと船出するため、勇気を奮っ
て大きく舵を切り方向転換をする「政治的な決断」だ。中でも特に重要なのは
稲葉振一郎『政治の理論』に倣いつつマルクスの用語で表現すれば、「ルンペ
ン・プロレタリアート/超格差社会で続々と生み出される無産者層/そもそも
マルクスの用語で、資本主義社会の底辺部で主権者意識が希薄化し無産化した
貧民層」のストックを確実に底上げできるよう、財政・金融・税制・成長・福
祉に関連する諸政策を具体化する」ことだ(参考:ストック型社会論、
http://foss-stock.org/home/stock1)。


それは、現在の「市場原理型の格差拡大構造」を放置した儘の分配論とは全く
異次元のことであり、現在、この新たな方向へ舵を切る可能性が最も高いと思
われるのが、冒頭でも触れた仏マクロン政権であろう。それは、そもそも市場
原理主義者と見なされてきたマクロンが、元“緑の党”の活動家ニコラ・ユロ
をNo.3の重要ポスト・環境大臣に抜擢した決断に表れている。

然るに、安倍政権は、バブル崩壊とリーマン・ショック後の日本の凋落トレン
ドへの歯止めを意識してか(あるい『追憶のカルト』妄想の囚われにより)、
今や、堂々と軍事大国路線(19世紀型の古色蒼然としたアナクロ産業組織論/
その手法は新自由主義と野合するだけの戦前ソックリの国民調教&同主権剥奪
式の国家経営/アベノミクス失敗を隠蔽する暴政)へと更に舵を切りつつある。


因みに、服部茂幸『偽りの経済政策/格差と停滞のアベノミクス』(岩波新
書)は、アベノミクスなる経済政策は見せかけの雇用増加なる労働生産性の劣
化をごまかすための悪意に満ちた「印象操作」だったことをリアルに摘出して
いる。


特に、同書の中で服部茂幸が「深刻さではそれらに匹敵するにも拘らず、いま
も持続する“格差と貧困”の問題は大恐慌や金融危機に比べ余り目立たないの
で“そんな問題は昔からあった、いつの世でもあることだ”という説明で簡単
に騙されてしまう、と指摘しているのが印象深い。


つまり、アベノミクス下の日本経済は“格差を抱え込んだ見かけだけの低成長
が長期化する”という一種の難病に罹患している。その見かけだけの低成長が
持続する環境の中で、一応は雇用状況が改善している(と、見えるだけ!)。


が、ここで“一応”の言葉を加えたのは、デフレ脱却にも実体経済の回復にも
失敗した日銀異次元緩和(リフレ派のマネー増刷/マネーばらまき原理主義)
の下、トータルの延べ就業時間が微減か横ばいである一方で就業者数が増加し
たのは主に短時間就業者数が増加したこと、いわば労働生産性上昇率がほぼゼ
ロであったことを含意する。


労働生産性の上昇は、低いとはいってもリアル経済成長を進める上でも最も重
要なファクターである。特に、少子化傾向が続くと見込まれる日本での労働生
産性の上昇(同時に、その上昇を如何なる産業分野に振り替えつつ、それを効
果的に分担し合うか)は死活的に重要な問題である。だから、中長期的に今の
ままの状況(アベノミクスなるインフレ政策一本やりのマネタリズム)が続け
ば、日本の経済成長はほぼ絶望的になる、と服部茂幸は指摘する。


また、文化資本主義という用語こそ使わないが、同書の中で、服部茂幸は世界
大恐慌の時に米ルーズベルト大統領が行った「ニューディール」(1933〜1936)
に、もう一度、率直に学ぶべきだとも主張する。この政策に関わる議論は今も
続いており、極端な例では「結局、ニューディールは無効だったが第二次世界
大戦へ向かう戦時特需がポスト大恐慌の世界経済の救世主になった!」という、
殆ど暴論に近い「戦争救世主論」(戦争リアリズム経済論)もある(ニューデ
ィールの柱の一つ、TVAについては第三章で触れる)。


ごく冷静に考えれば、実は、大恐慌や金融危機の時には、自由原理主義(アダ
ム・スミス“市場の神の見えざる手”の短絡的理解に因る誤解!)の決定的な
弱点(マネー原理主義故にノモス的(ノモスの委細は後述)な意味で非常に重
要な元手(資本/付加価値として創造されるマネーの元手)の存在を完全に見
落としていること)が赤裸々に露呈している訳であり、その希少な機会を利用
しない手はないのだ(文化資本主義については、第三章で詳述する)。


(そもそも共和主義とは何か/先見的なH・アレントのノモス観念の再発見)


共和主義(古代ギリシアの都市国家の如く市民・国民の全員が政治に参加する
か、あるいは現代フランスの如く選挙で選ばれた代表者が国政に当たり、国民
全員の利益と厚生のため国を統治すべしとする政治思想)は民主主義と同一視
されがちだが、必ずしもそうとは限らない。


16世紀〜18世紀に現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン)に存在
したネーデルラント連邦共和国(1581年のオランダ独立宣言で成立)は貴族代
表制の共和主義であったし、理論上は君主国の共和政もあり得る。例えば、こ
れは安倍政権が内心で崇めているらしい(?w)“名バカり&国民主権・完全
否定”の特殊事例だが、「北」もれっきとした共和国(朝鮮民主主義人民共和
国)である。


一般的には仏大革命(1789)の3年後に出された「共和制宣言」(1792)で成
立したフランスの「第一共和制」(1792−1804)以降の時代になってから、選
挙で選ばれた代表者による共和主義(共和制)が普通のことであると、広く世
界で認識されるようになった。しかし、ここで忘れてならないのは、古代末期
〜中世〜近世初期においては君主制が普通であり、歴史的に共和主義のリアリ
ズムを見出すには一気にギリシア・ローマの古代・古典時代へ遡る必要がある
ことだ。


そして、その古代ギリシア時代のアテナイ、スパルタらの都市国家(直接民主
主義の共和制)の中に、「非常に厳格な共和主義のルーツ」を発見したのがC.
シュミット(法学者/ワイマール体制の議会民主主義、自由主義を批判し、一
時、ナチに協力)、ハイデッガー(現象学を確立し実存主義へ大きな影響を与
えた哲学者/同じく、一時、ナチに協力/ハイデッガーとナチの関係は下記★
を参照乞う)、H.アレント(独出身、米国で活躍した哲学者、ポピュリズムと
ファシズムの関係等の研究で重要/Cf. http://urx.blue/Eufz)らである。


アレントは、特にスパルタを重視しており、そこには例えば“そもそも民主主
義と自由主義は原理的に相反関係にあるということ”など、今や止まるところ
を知らぬかにさえ見える日本政治の極右化トレンド(“安倍&小池”「両ファ
ッショの深部共鳴など)、あるいはトランプに翻弄される米国らにも相通ずる
アポリアの発見があり、その儘そっくり現代世界にも通じる非常に困難な問題
点”を発見している(稲葉振一郎『政治の理論』)。


<補足>ハイデガーとナチズムの関係

・・・ハイデガーは、西洋文明の巨大化に危機意識を持ったことから、ナチス
へ入党した。しかし、論文で田野大輔氏が指摘するとおり(参照/下記URL)、
「結局、本質的には過剰な道具的理性(ある意味で偏狭な科学合理・還元主義
の視点で自然を見下す近代人間社会の傲慢さの極み)の支配に加担することに
すぎない」と理解する。このナチズム本性を見抜いたハイデガーは、やがてナ
チズムと距離を置くことになった。http://urx.blue/EuhB


(ノモス観念的なアレントの「社会」から見えてくるリベラル共和主義の可
能性)

そもそも、エトノス内におけるエントロピー解放手段としての暴力装置(暴政、
戦争、財政危機など)を内蔵せざるを得ない国家(統治パターナリズム)の基
盤である「法」の根源が、C.シュミット、ハイデッガー、H・アレントらの如く
ノモス(nomos/ノモス法/あるいは、そこに住む住民が平等に与えられる
“ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前”だと見る位置に立てば、
アレントの「社会」の先に、政治・経済が協働して当たるべき真の役割(アレ
ントの難解さをフーコーの視座で再構成したもの/同上『稲葉振一郎』)が見
えてくる。


これこそが、そこから浮上する「リベラル共和主義」(リベラリズムと共和主
義の十分な均衡による貧困問題などの根本的解決)という新たな方向性だ。そ
こでは<「現代の民主主義国家における統治権力(パターナリズム)と個々の
労働者の間を仲介する「労働組合の役割」をノモス法の原点と照らして本格的
に見直す>ことが最も重要な課題である。つまり、一般の国民・市民層の『日
常生活の営み』という日常経済のリアリズムの活性化に関わる政治活動に、常
時、取り組むことが最も重要な労働組合の役割であり、特に無産化したルンペ
ン・プロレタリアートの有産化への取り組みが急務である。


別にいえば、「只の既得権と利権の「保守機関」と化している労働組合を“社
員(市民)の日常生活とビジネス現場の活性(政治)化”を支える有効な組織
へと、その位置づけを見直す)」ことである(同上『政治の理論』。


「労働組合」は、リベラル共和主義の時代にこそ、貧困の根本的な解決のため
に必須の“産業民主主義(産業組織論)のベース・キャンプ”となるべきだ。
そこへ、もう一つ加えるべきは(委細は後で触れるが)、内外の市民層が主役
となるアソシエーションの問題(日下部 史郎『新自由主義に抗して―スーザ
ン・ジョージと世界市民運動―』)である。


今や、「左派Vs右派」の対立意識をここに持ち込むのは只のアナクロニズム
であろう。そして、アレントが「貧困は、“公益と私益の、又は民主主義と自
由の相反関係”から生ずる」と言いながら、その解決先を示していないかに見
える点も難解さの原因ではないか。


また、古代ギリシアのポリス(特にスパルタの共和政)を理想とするアレント
の“リベラリズムへの厳格な批判”が、一面では超保守主義(過剰パターナリ
ズム)にさえ見えてくることもその難解さの原因かも知れないが、このアレ
ントの「社会」の難解さ(それは政治・行政に関わるアレントとフーコーの視
野対象の差異に起因する)からこそ、リベラル共和主義の可能性が見えてくる
のだ(同上『政治の理論』)。


(リベラル共和主義に必須のインフラとして文化資本主義、ノモス、エトノス、
フーコーの統治理性、マイクロバイオーム、クオラムセンシングが共鳴する)


・・・文化資本主義とノモス・・・


先に結論を言ってしまえば、リベラル共和主義の理解には、文化資本主義、ノ
モス、エトノス、フーコー“統治理性”、クオラムセンシングなど、先進的な
人文社会・自然科学の両分野に跨る概念の統合的な理解(両者の客観統合のト
ポス/コンシリエンス(consilience)、http://u0u0.net/EyJ6)が必須と思
われ、その統合的な理解の中から「政治と経済に関わる創造的でユニークな観
点」が続々と湧き出すと考えられる。その委細は最終章(第4章)に回すとし
て、ここはその主要キーワードの定義の説明に止める。


アレントの「社会」から見えてくるリベラル共和主義の可能性を明確に視野に
取り込むためには、ノモス(nomos)についての理解が最も重要なカギである。
文化資本主義については次章(第3章)に任せるが、先ずここではエトノス、
フーコーの統治理性、クオラムセンシングについて簡単に触れておく。


・・・ノモス(nomos)・・・


「法」としてのノモスは古代ギリシアの社会概念で、より古い時代には「神々
と父祖伝来の伝統(現代風に言えばエトノス、自然・伝統文化環境)が定めた
行動規範」としての「法」、あるいは同じく、そこに住む住民が平等に与えら
れる「ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前」を意味していた。


従って、ノモス法は現代的な理解である文章で表現された抽象的な「法」の内
容だけではなく、一定地域の自然環境、土地、建物、市街地、橋、道路など目
に見えるモノとしての公共財(インフラ)と離れ難い存在であった。現代風に
言えば、それはエトノス自然環境とも離れ難い存在であり、フーコーの“統治
理性”を理解するための必須概念となる。


・・・エトノス・・・


エトノス(ethnos)とは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のロ
ーカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ
繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未
来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界の理解)を常に受け入
れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視
する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカ
ルの風土』を意味する。


しかし、そのethnosは古代ギリシア語に由来しており、それは村や都市に集住
する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団
のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が
変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉で
はなかった(関連、http://u0u0.net/EyB6)。おそらく、それは「生命」現象
そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも持続性を必死で繋ぎとめるべきもので
あるのかも知れない。


・・・マイクロバイオーム・・・


R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店
/2015原著・刊)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバ
イオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、
それは超100兆個の新世界、宇宙規模!の発見を意味する!)であり、彼らの
全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接
的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの身体の
生理機能を調整し持続させていることが、ここ数年来の研究で急速に解明され
つつある。


因みに、今でも先端科学知の典型と見なされているものの疾うに2003年に全
DNA解読が完了した「ヒトゲノム・プロジェクト」では、従来型の科学観の範
疇のままではその更なる医学的・社会的応用の側面で限界が見えている。そ
のため、愈々、DNA研究でも、これからは「エトノス(マイクロバイオームの
新世界を視野に加えた新たな自然主義の視点)、コンシリエンス、AI活用」な
どによるビッグデータ解析型への脱皮が求められている。


・・・クオラムセンシング(定足数感知)・・・


同じく、R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊
國屋書店/2015原著)によると、近年のマイクロバイオーム研究で多くの細菌
がクオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)のシステムを進化させ
てきた。


クオラムセンシングは、ある一部の細菌が「正体が知れぬ相手に対し仮の名づ
け(ネーミング)を行い、その見立てに応じ自らのシグナル伝達要素(分子)、
又は自由誘導因子(オートインデューサー/同種菌が生産するシグナル物質)
などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシス
テムのこと。


我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りにも、
これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないことが
分かってきた。


むしろ自己アイデンティティーの保全(政治理論の分野と、この科学知を比喩
的な連結を試みると、例えば国民主権を保全する意義とその必要性がリアルに
理解できる!)は強靭・強固な壁よりも<強かなしなやかさ>で保全されてい
ることになる。だから、このような自然科学の先端知が、フーコーの統治理性
の問題と深部共鳴することが容易に想像される。


・・・「リベラル共和主義」の条件となるフーコーのノモス・エトノス的な統
治理性・・・


フーコーの統治理性の対象には、このようなノモス・エトノス的な意味で非常
に危ういとも言える、地球上の全ての生命環境が明確に視野に入っていたと思
われる。


しかも、その対象は“国家とその国民層(法的統制)”だけに止まらず、法的
統制と共鳴するエトノス自然環境とマイクロバイオームに繋がる生命世界(生
政治/『監獄の誕生』)、果ては“家政⇒市場原理主義の過程で変遷してきた”
経済・財政・社会(アダム・スミスの『見えざる手』=市場なる匿名的権力)
に翻弄され続ける市民社会に至るまで、という具合で非常に広範に及ぶ。


そこで、我々が注目すべきは、アレントとフーコーの両者が、共に取り組んだ
仕事のテーマが「人間性の歴史、つまりリベラリズムの歴史」への評価という
点で共通していることだ。この視点こそが「リベラル共和主義」の可能性の問
題に繋がる訳だが、その委細についても第4章へ譲ることにする。

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。