メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵(3/3)  2017/06/08


[希望のトポス]盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極
右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠
されている(3/3)

(注)お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


3 正統保守と偽装極右の混同に因る多数派層の内心のネジレを解消するため
のヒントは、比喩で言えば仏教と国家神道の“量子的もつれ”、特に近代「神
仏習合史」の理解にある


・・・「神仏分離と廃仏毀釈」強行の土壌は江戸プロトモダニティーの直視を
避けた仏教界(経典がない神道と異なり宇宙観・生命観も視野に入る唱道
宗教!)がセクト主義に溺れ普遍的「教化イデオローグ」創生を怠ったことに
ある。つまり、西欧カトリック懐疑論に相当する“民衆の立場に立つ教化イデ
オローグの創生”を怠った日本仏教!それが維新期における国家神道(尊皇テ
ロ愛国妄想派)の横暴を許した一因!・・・


<注5>寺院の寺子屋について・・・但し、中世の寺院に由来するとされる寺
子屋が江戸期の庶民層の高い識字率の維持に貢献した功績は評価すべきであ
る(既述/2−2−(4)関連)。なお、寺子屋は関西の呼び名であり、関東
(江戸)では筆学所、あるいは幼童筆学所と呼ばれた。http://urx.blue/DrXr http://urx.blue/DrXx

<注6>苛烈な「神仏分離と廃仏毀釈」の概要については下の記事★を参照。

★「国家神道」患者、安倍晋三アナクロのルーツ/明治維新期における「廃仏
毀釈・神仏分離⇒国家神道」の流れ2017-03-20・toxandoriaの日記、http://urx.blue/Ds1l


3−1「教化イデオローグ」創生を怠った仏教の仮面を剥ぐ!/「神仏習合」
史に潜む、“虚栄”に溺れる日本仏教が江戸プロトモダニティーの寄生化して
いた側面


(維新政府(尊皇テロ愛国妄想権力)によって野蛮かつ過激に行われた『廃仏
毀釈』)


江戸時代の仏教寺院は江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請制度(寺請
証文を民衆に義務付け、キリシタンでないことを寺院に証明させる)によって、
結局は、いわゆる檀家を持つ回向寺(菩提寺/絶対多数派の寺院)は檀家制度
にシッカリ組み込まれていった(当然、その過程では後述の祈祷寺⇒回向寺の
移行もあった)。


このため、江戸時代の仏教界は仏教思想の深化と普及の努力によって庶民を教
化・啓発するというインセンティブへの回路が大概は断ち切られていたことに
なる(寺子屋の識字率での貢献は例外)。他方、檀家を持たない祈祷寺は徳川
家をはじめとする各大名家が自らの利益祈願や一族の繁栄、武運の無事などを
目的に建立したものだが、例えば、真言宗や天台宗系の寺院などで護摩祈祷に
よって御本尊に対し無病息災、治病・招福、家内安全などの願いごとの成就を
祈祷することが行われていた。


そして、庶民層もこれら武家の流儀に倣い回向寺と祈祷寺を使い分けるのが普
通であったため(当然、両者を兼ねる寺もある)、江戸期の仏教界にはトリビ
アな知識から脱し普遍的「知」の方向へ庶民層を啓発する役割意識が弱かった
ことになる。否、それどころか、寺院生活史の特殊性から寺院間の格差が次第
に拡大する傾向であったため逆に大いに困窮し、経済面から堕落した寺々も多
かった(関連参照/↓▲9))。

▲9 和田謙寿(駒沢大学名誉教授)『江戸時代中葉以降における寺院生活史
の考察』http://ur0.pw/DuFm


いずれにせよ、これらの理由で幕末期へ向けて堕落・退廃した寺院が多かった
ことが、庶民の啓発どころか多くの寺院が庶民層の批判と怒りの対象とされて
しまい、幕末〜維新期の「廃仏毀釈」運動が爆発的に過激化して全国へ拡大す
る異常社会現象と化したとの見方もある(各藩政府による廃寺等の寺院整理は
幕末期に各地で先行していた)。なお、これら回向寺、祈祷寺の他に機内を中
心に立地する「古代〜中世初期」以降に建てられた、少数派ながら大規模の学
問寺(東大寺、法隆寺、興福寺、延暦寺、金剛峯寺、聖林寺etc)、および門
跡寺院(皇族・公家が住職の寺院)がある。


例えば、東大寺・興福寺などの学問寺は、研究・教育(大学相当)、出版・印
刷、建設事業(宮大工等)、金融業(御布施収入管理・融資等)、医薬業、芸
能事務所、不動産業(農事を含む寺内領地経営)etcの一大コンソーシアムであ
った。また、例えば藤原氏の氏寺である興福寺は法相宗(唯識集)の研究で古
代〜中世以降に多くの解釈的な仏教思想上の業績を遺すが、江戸期における一
般庶民層への波及的な影響は殆どなかったと考えられる(関連参照⇒2014-05-
02・toxandoriaの日記、http://urx3.nu/DndB)。


ついでながら、上掲▲9などを手掛かりに江戸時代(後半期)の寺院数をごく
大雑把に捉えてみると、それは約50万寺と推測され、そのうち神仏習合してい
た寺社数(寺と神社が習合していた件数)は約20万件(寺・社同数の部分)
であり、同時期の神社数も寺院数と同じく約50万件であった。


これが、主に維新期の明治政府による神仏分離令と廃仏毀釈および天皇主権
(実質的“国民主権”否定)の「国家神道」体制下で郷社・村社・氏神らの小
社の廃止と合併強制によって、「寺院、神社」の総数が各10万件程度まで一気
に激減しており、如何に神仏分離と廃物毀釈が過激かつ野蛮に行われたかが理
解できる。


現在の寺数は約8万寺(僧侶34万人)、神社数は約7.9万社(小社を入れると
約8万社、神職数は兼業があり推計が困難だが神社本庁(宗教法人)の管理下
で2万人程度、他業務との兼職カウントで8万人程度か?)となっている/寺
数・神社数はhttp://urx2.nu/Dle7 より)。


つまり、江戸後半に約100万件あった神社・仏閣の立地(50万社+50万寺、内
20万件が神仏習合/30万寺+30万社+神仏習合20万件、と同じことw)が維
新期の「神仏分離→廃仏毀釈/神社の“国家神道”基準の廃棄・統合、およ
び“国家神道”新社の創建」で各10万社・10万寺へ激減!という驚くべき現実
が傍証している。これは維新期に仏像等も含め約9割の寺社が国策で廃棄・統
合されたということであり、教科書には詳しく書かれていないが、これは日本
伝統文化の破壊という蛮行以外の何物でもなかった!


(日本仏教には“徳川幕府”および“明治政府”以降の権力下で“虚栄の自
我像”に溺れ、堕落しパラサイト化してきた側面がある)


f:id:toxandoria:20170518054727j:image:w250B・フォール著『仏教の仮面を
剥ぐ』(トランスビュー社)という手厳しい仏教批判の本(原書2009、日本版
2016)がある。B・フォール(Bernard Faure/1948− )は、禅・密教・神仏
習合など幅広い観点から主に日本と東アジアの宗教文化を研究する非常に卓越
した宗教学者(コロンビア大学教授)である。そして、この本は我われ日本人
がドップリ浸かっている仏教の常識を覆す論点で溢れている。


しかし、フォールの狙いは、仏教を厳しく批判し罵倒して、それを根底から否
定したり、あるいは葬り去ったりしようとすることにあるのではない。フォー
ルの本心はその真逆で、特に日本の仏教(仏教界)自身がその弱点を十分自覚
することで、自らそれを修正しつつこれからも益々日本(人)と未来の日本発
展のため役立って欲しいという温かい眼差しを持っている。


・・・そこで、当書の中からB・フォールが指摘する主な仏教の弱点を拾っ
みると以下のとおりである(一部、toxandoriaの解釈も補足した)・・・


(1)8〜13世紀頃の日本仏教は「一行専修主義」(小乗)へ過剰没入する
傾向にあったため、それ以外の多くの人々が参加する実践を否定するという意
味で寛容さに欠けていた。


(2)特に、日蓮宗の根本経典「法華経」は基本的に過剰セクト主義(過剰論
争主義から他派を徹底的に攻撃し排除する)であるため、日蓮宗とその在家組
織である創価学会は今でも強引布教(折伏)主義で普遍的・客観的な視座を否
定する一種のカルト性を帯びている。


(3)同じく、創価学会の世俗面の現れである公明党が「仏教的な意味での平
和の党」だと見なすのは(それが自称であるとしても)根本的誤解!何故なら、
これは法華経に限らぬことだが、そもそも仏教はセクト間の闘争をやむを得ぬ
こととしてきた(その典型事例は近世チベットにおける武力闘争の歴史がある
/無論、キリスト教も同じ傾向を持っていたが、宗教戦争・宗教改革を経て啓
蒙主義イデオローグを派生・結実させた!←toxandoria補足)。


(4)このため日本でも古代末期〜近世における寺院の一大「武装集団化(僧
兵の自衛軍団化)」の歴史がある(が、法華経(急進日蓮主義)と過激化した
一向宗(浄土真宗)は例外と見れば、そもそも仏教そのものに先制攻撃的な
『聖戦思想』はない)。但し、太平洋戦争を振り返れば田中智学が創設した過
激日蓮宗系在家仏教団体「国柱会」のイデオローグ<八紘一宇>があり、この異常
思想も安倍内閣と維新へ潜伏している。(委細参照⇒2014-09-01・toxandoria
の日記、http://ur0.pw/DuK5 )(←“但し、太平洋戦争・・・”以降は
toxandoria補足)


(5)しかし、仏教には「政治的処刑の論理」がある。つまり、「大多数の生
命の救済のために少数の殺戮(これをも含む“慈悲の殺人”の類)はやむなし」
とする、ミソロジーである(これは死刑是認論とも関係するが非常に重い課
題!)。但し、大乗と異なり小乗(上部座の一行専修仏教)はこの“慈悲の殺
人”を否定している。


(6)神仏習合に先立つ本地垂迹説は「日本の神々の本地(正体)がインドの
仏たちである」とする考え方だが、後に、神道側が反発してインドの仏たちの
正体は日本の神々だとする反本地垂迹説を主張したため、やむなく「神仏一体
説(神仏習合)」になったという経緯があり、ここから更に派生したのが荒唐
無稽な「梵和同一説」である(toxandoria補足/関連参照↓▲10)。

▲10 安倍晋三の「軍事国家主義」に潜む病巣は、『正当歴史認識と生の具体
性(未生/国民主権の核心)への眼差し』の決定的な欠落2015-01-07・
toxandoriaの日記、http://urx2.nu/Dldr


(7)創価学会(800万人強)を除けば、今も最大信徒数(約700万人)を誇る
浄土真宗本願寺派には強い反権力の意志から歴史的に暴力・武力闘争との親和
性があるが(強大な権力に対抗し過激化した一向一揆の歴史がある)、明治維
新期以降にはこれが災いし、結局、太平洋戦争期には最大勢力であった浄土真
宗を先頭に仏教界が国家神道のエセ・ミソロジーに飲み込まれ「国家総動員体
制」の無謀な戦争へ引きずり込まれた直近の歴史がある。これは、悪徳権力と
対峙する「公界」(1−2、の水平空間を求める大衆が飛礫を投げつける行
動)の問題とも深く関わるという意味で極めて現代的な課題でもある
(toxandoria補足)。


(日本仏教が“民主イデオローグ”と真に融和する条件/それはカトリック
「決疑論」が西欧プロトモダニティーの社会文脈深化で貢献した役割を学ぶ
こと)


・・・特に、江戸期における「庶民層のリアル生活と仏教界の相克の歴史」と
「自らの苛烈な受難経験でもある廃仏毀釈の歴史」を率直に学び直す!それこ
そ日本仏教が“近・現代的な意味で民主主義イデオローグ化”するための必須
条件である・・・


この問題のヒントを得るため、西欧啓蒙思想の前段の歴史で重要とされる「決
疑論」(casuistry)について少し触れておく。決疑論の原義はローマ・カト
リック教会の教父に与えられた「善悪を判断するための告解(神の赦しを得る
ための告白)の際の指針」のことで、それは中世のスコラ学で特に重視された
ものであった。やがて近代(16世紀〜17世紀の啓蒙期)に入ると個人の「道徳
的」判断への指針または説明論理として発達した。特に西欧ではそれが近代小
説の各ジャンル(多様で豊富な日常に関わるプロトモダニティー的な文脈的フ
ィクションや社会問題などを固定化する文学技法)を発達させることに繋がっ
た。


ところで、この「決疑論」の核心にあるのは<日常のリアル生活では、客観知
(知性主義)を憎むカルトや悪徳の観念が、反知性主義的で異常な精神環境
(内面世界)へ我われを必ずや誘い込む(これは“確信の誘惑”と呼ばれる/
関連参照⇒マトウラーナ&バレーラ著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫、http://urx2.nu/AGF8 )という、自らが失敗した歴史経験を踏まえて現実を
厳しく直視しようとする強固なカトリック側の意思>であった。


従って、端的に言えば「B・フォールが指摘する日本仏教が創唱宗教(作為的
権力意思が工作した国家神道の屁理屈は論外であるがw、例えば伝統神道の如
きアニミズム宗教ならぬ宗教論理的な経典を備える宗教)として“本格的に民
主主義イデオローグ”化するための基本」は、先ずこのカトリック「決疑論」
的な意味での体験的な歴史反省から仏教自身が新たなetwasを学び取り「多数
派である一般庶民層の人間としての権利を真っ向から受け止めて評価し得る視
座を仏教世界の中に本格的に取り込むこと」ではないか、と考えられる。


3−2 日本国憲法「象徴天皇制」の意義の再意識化(再認識)は、日本仏教
にとっても自らパラサイト状況を本格的に脱するチャンスとなる


(神仏習合の歴史に透ける日本仏教の弱点の直視こそが、『象徴天皇制』(日
本国憲法のかなめ)再認識のための必須条件)


・・・日本仏教の弱点の直視とは、“国民の死後への過剰傾斜ではなく、江戸
プロトモダニティーの如き一般国民の『日常の生』への眼差しを強化すること
である。つまり、日本の一般国民が、「水平空間」(平等空間=永遠の公界)
で表現する「批判と行動」(限定合理性を求め続ける一般国民層の自由意思)
を恐れず真っ向から受け止めて「民主主義国家」に相応しい国家権力の象徴と
は何か?を仏教者が真剣に自問自答することでもある。・・・ 


<注7>神道の歴史を中心に据えた視座から整理した「神仏習合の歴史」の概
要は、下記▲11を参照乞う。

▲11 多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著
『神道』の警告/2017-01-04・toxandoriaの日記、http://qq2q.biz/DnYH


<注8>「公界」(くがい)とは?

・・・そもそも「公界」は公共あるいは「私」に対する「公」の概念を指す言
葉であるが、元々は中国で用いられていた言葉で、禅宗用語として日本に伝え
られた。禅宗では俗界から離れた修行の場やそこで修行する僧侶を指した。

・・・中世史家、網野善彦(歴史学者)によれば「無縁」は主従関係や親族な
どといった表の「縁」と切れた状態で、そこから「無縁・公界・楽」の世界へ
と「無縁」になった人々が入って行った。

・・・その「無縁・公界・楽」の特徴は、表の世界にはない自由性があり、未
開社会から受け継いだ年功序列の価値観は残されていたものの、横の平等性が
保たれており、しかも平和で自立した機能をもっていた。


・・・


先のB・フォールが指摘した(1)〜(7)では取りあげなかったが(必ずし
も、それが仏教の欠点とは言えないので)、フォールは、仏教の根本にある
「無我」という考え方が究極的に「自我」の消滅に繋がる点を表層的に解釈す
ることの危険性を指摘している。それは、諸行無常→諦観へ直結(短絡)する
ことになれば他者に対する「人格」上の尊重意識が育たぬばかりか、「主権」
者的な意識も希薄化することになるからだ。


それにもかかわらず、実際には先の『江戸時代中葉以降における寺院生活史の
考察』(▲12)でも窺い知ることができるのだが、特に、回向寺(菩提寺/多
数派の寺院)らの僧侶たちの中には“宗教者としての生き方”よりも、基本的
に幕藩(権力)体制(檀家制度)下に安住できる有利な立場にあることから、
この“浮世”(一般庶民層が生きる過酷な現世、リアル社会)に対して一般庶
民層よりも遥かに堕落的に適応してしまった輩が、つまり過剰世俗化・悪徳化
する(ゴロツキ風の悪徳坊主や淫乱・放蕩生活に溺れる)者たちも、かなり多
かったことが理解できる。


更に、そもそもインド発祥の仏教にはサンスクリット社会(仏教に限らずヒン
ズー教らも同じこと)が共有するカースト的差別意識(アーリア人の先住民支
配の方便→職業分担の観念、へ変質したものと考えられる、
http://urx3.nu/Dnpy/その意味では、森羅万象に関わる新たな民主主義意識
とも言える、先端的なエトノス思想とは真逆の観念と思われる)が伴っており、
これが後になってもサンガ(仏教共同体)、あるいは日本の仏教社会における
尼僧への差別意識や女性一般への蔑視意識が長く残り続ける原因となってきた。


これら仏教の弱点とも言える点に共通する特徴を端的に言うならば、それは
「理想(仏教上の高踏な観念的世界)と現実(汚濁に満ちたリアル生活社会、
浮世)」の差異を「不二」と見なし、そのままに放置し一歩引いて観察するこ
とがベストだとする傍観主義(一種の諦観?)にあると考えられる。逆に言え
ば、これは森羅万象を「理想と現実」に分けて考えたり、そのように理解した
りすることが無意味だとする非常に厳しい(ある意味で身勝手な)不可知論だ。


が、例えば学問寺の筆頭とも見るべき興福寺(法相宗)では、次々と新自由主
義の喉奥から吐き出される面妖なホモ・エコノミクスのキマイラを制御するた
め、つまり新自由主義の暴走を制御し「自由と合理主義」のバランスを取って
現代のグローバリズム経済社会を乗り切るためにも役立ちそうな優れた思想
(維摩経)についての研究が、既に相当古い時代において集大成されているが
(関連参照⇒2014-05-02・toxandoriaの日記、http://urx3.nu/DndB )、残念
ながら、これらは机上の空論の高踏的な立ち位置に止まってきた、と思われる。


3−3 日本仏教には、一種の限定合理性に覚醒していた江戸プロトモダニテ
ィーを再発見し、それを新たな仏教的“理由の空間”を介し未来へ繋ぐ役割が
ある


(日本人の自由意思(意識)の原点は、およそ6世紀以降の非常に長い『神仏
習合』の歴史経験から学んだ“理由の空間”の中にある)


今や、日本も含む世界は、自由意思、特に「ホモ・エコノミクス(完全合理的
人間観)を前提する新自由主義」暴走の制御可能性を巡って、ますます混迷を
深めつつある。他方、全ての日本人がそのことを自覚しているかどうかは疑問
だが、今まで見てきたとおり、日本人の自由意思(意識)の原点は進化論的軍
拡競争(一種の限定合理性)の意義に覚醒していたともいえる江戸プロトモダ
ニティー期をピークとする、およそ6世紀以降の非常に長い『神仏習合』の歴
史経験が心身に深く沁み込んだ『理由の空間』(神ならぬ人間の最小限の自由
意思)の中にある。


維新期における非常に過激な「神仏分離→廃仏毀釈」の過程は、見方によって
は明治政府(現在の安倍政権、日本会議、神社本庁らに繋がる尊皇テロ愛国妄
想の系譜の創始者)による<腐敗した仏教界と、それにもめげず台頭していた
多数派層の水平意識の覚醒であった江戸プロトモダニティー>を諸共に根絶や
しにしようとする作為の結果であったのではないか?ということだ。


これは、コンシリエンス(人文知・科学知の親和的融合)など先端<知>が強
く意識しつつある「進化論的軍拡競争」(一種の限定合理性)とは真逆の、非
常に過激な「先制攻撃型政治権力」の異常でテロリズムにも通じる危険な政治
意思である。因みに、最新の神道研究の成果などを踏まえると、古神道のルー
ツは縄文・弥生両文化の古層(抗争・混在・融和の歴史)に繋がるだけでなく、
それが「ユーラシア文化圏」全体にまで広がっていることが分かってきている
(関連参照⇒2016-06-26・toxandoriaの日記、http://ur0.work/DsCq )。


また、仏教がインド・アーリア文化の坩堝から誕生していることを併せ考えれ
ば、日本仏教がこれから創発し得る限定合理主義(適切な環境条件下で使われ
るヒューリスティクス(heuristics))に因る“新しい民主主義イデオローグ”
の視座が、西南アジア・インド・欧州・中国・東南アジアまでの更なる広域文
化圏(イスラム教・キリスト教圏をも含む)をも包摂し得るという意味でも、
世界への多大な貢献の可能性すら秘めていることになる(八紘一宇に似てる?
が、全然違う!w)。


また、この日本仏教がこれから創発し得る限定合理主義(適切な環境条件下で
利用されるヒューリスティクス(heuristics))に因る“新しい民主主義イデ
オローグ”の視座が、愈々、これから更なる苦闘のプロセスを歩むであろう
「再生へ向かうEUの新たな挑戦」にも何らかの形(例えば、幕藩体制下で
の、堕落した仏教を半面教師として生まれたともいえる、非常に優れた江戸プ
ロトモダニティー創生の歴史は、新たなパターナリズム(EU内における“権
限=権限”関係の再構築)の仕組みを模索するEUのためにも十分に役立つ斬
新な視点を提供できる?)で貢献し得るのではないか?


然るに、これらの悉くは、<戦前日本の「国家神道」体制をモデルとする先制
攻撃型軍事国家>の復活を謀る、安倍内閣、日本会議、神社本庁らの<名ばか
り民主主義の尊皇テロ愛国妄想なる偽イデオローグ=正統保守ならぬ偽装極
右>とは全く異次元の世界である!w


(維新期以降の日本には、全仏教界が国家総動員体制の国策戦争へ引きずり
込まれ、特に太平洋戦争では「戦争」へ積極的に加担した苦い歴史がある)


これは先にも触れたことだが、B・フォールによれば、一向宗信徒は悪徳権力
と対峙しつつ積極的に「公界」を求めてきた歴史を持つが、時により彼らは恰
も独立小国の如き強烈なセクト意識から過激な武力戦闘集団と化した。つまり、
端から“仏教徒=平和原理主義”に見立てるのは根本的誤りであり、結局、彼
らの意識は意外にも忽ち暗転して最大信徒数を誇る浄土真宗派を先頭に全仏教
界が「国家総動員体制」の国策「戦争」へ引きずり込まれ、むしろ積極的に戦
争へ加担することになったという太平洋戦争期の歴史がある。


また、維新期の関連史に少し触れておくと、本願寺派総本山「西本願寺」参政
の島地黙雷は、1872年(明治5年)に西本願寺からの依頼で左院視察団(岩倉
使節一行の約2ヶ月後に左院がヨーロッパに派遣した視察団で主に仏・英両国
の議会制度の調査、研究を目的とした)と同行し欧州方面の視察旅行を行なっ
た。


しかし、近代西欧の宗教制度「政教分離」(特に仏のライシテ(laicite)に
近い考え方)に基づく黙雷の「治教」理論は西欧近代国家の政教分離を視野に
入れた日本初の啓蒙政策(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理を日
本の一般国民へ教える)の試みで、その後の近代日本における信教の自由と政
教分離(公的空間における厳格な政教分離)の導入に多大な貢献をなすかに見
えた。

が、この「治教」理論は、その後の日本政府の屁理屈で「国家神道」を支える
理論として改竄され、捻じ曲げられた。しかも、それは「国家神道」(宗教に
非ざる超宗教であるとの文部省と軍部が創った公的な屁理屈)の下で、国民を
国家総動員の国策に積極加担させる思想洗脳ツールと化してしまった(出典:
阪本是丸著『近世・近代神道論考』−弘文堂−)。


(何故、このような理不尽が起こったのか?この疑問を解くには「理由の空
間」と「原因の空間」の違いを正しく理解する必要がある)


・・・人間には受動的「思考停止」(ドグマ・ゾンビ脳化)に甘んずるよりも、
真っ向からそれへ対峙する「批判と行動」(生命維持に必須の限定合理性)を
選択する自由意思(意識)があることを知るべきだ・・・


そもそも、人間に宿る「情念」そのものには、いわゆる倫理的ないしは社会契
約論的な意味での善と悪の区別は未だなく、それが一定の共通な社会意識の下
で「理念」へ昇華したレベルで、その新たな「善と悪を区別する明確なエトノ
ス観念(冷静・中庸・客観的な自然観)と社会意識」が“生まれ”た(歴史的
に見れば“啓蒙思想が誕生した”!)と考えられる。


つまり、人間の意識の主軸は感情(意欲)と表裏一体の自由意思であるが、そ
れは絶えず“原因の空間(因果/所詮は人間の力が及ばぬリアル現象、現実の
流れ)”と“理由の空間(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理)”
を区別して観察している訳だ。しかも両者は対立するとの理解も決定的誤りで
ある。それは、この両者が合わせ鏡の如く密接に結びつき、恰も量子世界の素
粒子の如くもつれた(entangle)状態であるのが人間の意識の正体(それが生
きる意味でもある!)だからである。


因みに、E.O.ウイルソンは著書『ヒトはどこまで進化するのか』(亜紀書房)
の中で、前者(原因の空間)について「連続性の(人文・社会的な)視点での
究極的説明が理解できる能力/なぜ、その機能(例えば、手・足・指など)が
あるのか?」、後者(理由の空間)について「機能(科学)的な視点で最もプ
ラグマティックに説明できる能力/その機能はどう使うのか、これからどう使
うべきか?」であると述べている。


ところで、なぜ安倍政権、日本会議、神社本庁らは此のように不可解で、非論
理的で、かつ非人権的なエセ民主主義の異常イデオローグ(総国民玉砕論が支
配する先制攻撃型の軍事国家論)が跋扈した戦前〜戦中期の世界へ日本国民を
再び連れ戻すつもりなのか?


様々な原因が考えられるが、その核心は阪本是丸・国学院大学教授(歴史学者
・神道学者)が上掲書『近世・近代神道論考』(弘文堂)の中で下
(『・・・・』)の如く指摘するとおりであり、その強力なインセンティブの
中心に鎮座するのが「国家神道」復活の問題である(関連参照↓▲13)。

▲13 緊急事態『改憲』に隠れる真の狙い、「国家神道」(偽エトノス)と先
制攻撃「軍事研究」の復活/日本のエトノスと未生の可能性を完全消滅させる
確信犯的な感情構造の病理2016-06-26・toxandoriaの日記、
http://qq2q.biz/Dokg


『ともかくも戦前〜戦中〜戦後〜現在と連綿と続いた日本社会全体の意識の流
れの総体の上に今の日本(と安倍政権/←補足、toxandoria)があると見なせ
ば、当然ながら現在の政治状況にまで繋がる大きな影響力が国家神道から流出
しているのは明らかであり、その意味で国家神道は終戦で潰えたどころか隠然
と今も活性化していると見るべきである』


そして、やはり見逃せないのは「近代仏教思想史」上の汚点とすら感じられる
日本仏教の仮面の下に隠されている<ミソロジー(宗教論理)上の矛盾>とい
うことだ(これはカナダの宗教学者B・フォールの慧眼が指摘する問題意識である)。


つまり、この「神仏習合の矛盾点の凝視」(例えば、下記(1)、(2))を
敢えて避けてきたのではないか?ということが考えられる。又、そのような仏
教ミソロジーの矛盾にも拘らず我われは今も紛れなく「神仏習合」的な曖昧模
糊とした日常の生活感覚で生きているからだ(関連参照⇒↑▲14 カスリス
『神道』 /(2)については下▲15を参照)。

(1)「仏教は平和原理主義である」という誤解を敢えて封印してきた

(2)古来の伝統神道と、それをベースとする古代天皇制では「天皇⇔人民・
平等論」の観念が存在した

▲15伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期
(“大化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求め
た。神道学者、小山悳子(とくこ)によれば、神道書『神令』(伝:大納言・
一条兼良、筆/兼良は室町時代の公卿・古典学者)の成立期は、およそ“大化
改新”以前(中国伝来の儒教受容が本格化するより前の時代)。http://qq2q.biz/Do00 


(“理由の空間”の視座から歴史的に把握できる『象徴天皇制』の重要な意義)


・・・そもそも象徴天皇の考え方は大化の改新以前の古代天皇制にも存在し
た。他方、現在の象徴天皇は、直近の太平洋戦争で日本国民自身が、ありの
ままの“原因の空間”(時間遡及が絶対不可能な歴史プロセス)の中で多大な
内外の犠牲のうえで漸く自らの手で学び得たものであり、それは日本の未来の
水平空間で生き抜くトビウオのためにこそ役立つ希少な知恵の象徴である。
・・・


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ところで、AI研究とクロスする最先端の脳研究(ヒトの意識研究)によると、
人間の頭蓋骨内には約1000億個のニューロンがあるが(宇宙で想定される銀
河のmin.数に匹敵!)、その内訳は「a意識の在り処と見るべき“視床‐皮質
系”(大脳皮質と視床)/200億個」、「b小脳&基底核/800億個」である。
特に驚くべきはb(脳内ニューロンの8割を占める小脳と基底核)が「意識と
は殆ど無関係なゾンビ(状態)」であることだ。


そして、意識の発生については殆どが未解明のままである一方で以下の点が明
らかとなりつつある。


●AI意識探求の原点は、脳内ニューロンの活動量と同期発火を前提とするニュ
ーラルネットワーク・モデルだが、近年、その両者が直接的には意識と無関係
である現象が発見されている。(ニューロン・モデルAIの限界?)


●意識(頭蓋骨内aに関わる部分)は、「無数の可能性のレパートリー」(同
bに関わるゾンビ部分)に支えられている


●意識の基本的特性二つ(統合情報理論)⇔(1)情報の統合/ほぼaに対応、(2)情報の豊富さ/ほぼbに対応


●意識統合のため脳内では非常に効果的で限定効率的(ヒューリスティック)
な情報圧縮作業が進行している


・・・おそらく、その処理計算プロセスはシャノンの「対数関数計算に因る情
報圧縮」が近い?(シャノン情報理論では2を底とする2進対数関数で
なので莫大になり、知覚的な観察だけでは対応しきれず脳内では凡ゆる方法で
の揺さぶり(一種の量子アニーリングに似た効果?/関連参照⇒http://ur2.link/Dpgi)が行われる。


・・・【意識のみならず全ての生体機能は“オッカムの剃刀”(思考節約の原
】意識に限らず、ある身体システム(知覚作用など)が十分に情報統合的・限
定効率的に、そしてほぼ満足できる安全を確保し機能しているなら、例えばそ
れが「視覚」の場合では脳幹基底部ゾンビの情報遮断フィルター(脳の盲点(Scotoma)に相当するRAS(脳幹網様体賦活系http://qq2q.biz/DoHs)作
用による「Blind spot/盲点」の発生で、敢えて「ヒューリスティック(限定
的http://qq2q.biz/DoHD)な合理性/つまり、統合!」の実現(目的に応ずる
ベスト知覚機能の確保/ここでは目的の物を見る視覚)と同時に、その人間
(個々の生体)の「個体生命の安全も確保」している(出典:ジュリオ・トノ
ーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書
房―)。


因みに、この「意識に関わる新しい知見」を、例えばE.O.ウイルソンの<「原
因の空間」と「理由の空間」>に併せて考えると興味深いことが分かる。例え
ば、次々と因果・連鎖的に生起する目前の現実・現象(リアル)が「原因の空
間」、その無限に生起するリアル連鎖(現象)について過去と未来をも視野に
入れて観察し“それはなぜ起こるのか?これから、それは何に応用できるか?”
を絶えず考える人間の意識が「理由の空間」だと言い換えてもよい(当然、そ
の目前のリアルには、この世界で誕生し明らかに既に存在する自分自身や、そ
の他の多くの人々の身体も含む)。


ところで、先に見た「意識内の非常に効果的で限定効率的な情報圧縮作業」は
何を目的として行われているのか?という疑問が沸き起こってくるはずだ。


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無論、第一義的には「個々の生命体の安全を確保する」ことであるだろうが、
特に、社会的ネットワーク関係と自然利用の文化を深化させてきた人間の場合
はそれだけに止まらず、長谷川英祐氏(北大大学院農学研究院准教授)が仮説
(提起)する「永続性の原理(進化論的軍拡競争)」(軍拡競争のコトバが付
くが、安倍晋三・首相、日本会議、神社本庁らが好む先制攻撃型『軍国主義』
ベストの話ではない!w)が、その目的ではないかと思われる。つまり、これ
はダーウイン進化論のバックグラウンドとして生物一般が身に帯びてきた「種
の永続性を確保する巧妙な戦略」である(関連参照⇒
http://ur2.link/DpgQ)。


他方、この「永続性の原理」と真逆なのが、目下、安倍晋三首相、日本会議、
神社本庁らが、ムリクリ「改憲」の強行を突破口にして、絶対に自らの手で実
現しようとやっきになっている「戦前の美しい日本を取り戻す!=国家神道カ
ルトによる戦前型国体の復活」戦略である。


それは、人間の意識統合が「“原因の空間”たる内外のエトノス環境と反応し
て常に莫大な規模に達する『無数の可能性のレパートリー情報』をRAS(脳
幹網様体賦活系)型システムで効果的かつ限定効率的に情報処理しつつ絶えず
新たな“理由の空間”を探求している」のと対照的であるのが「表面的には如
何にも全く普通の意識統合と同様にRAS型情報処理を行うかの如く狡猾かつ
巧妙に装いつつ、その“エトノス”部分を“一定の特異観念”(例えば国家神
道ベストの狂信!)に固定した(or作為で固定させた)脳内異常情報処理シス
テム」としての「カルト観念」である。


このため、安倍晋三首相、日本会議、神社本庁ら「カルト観念」(脳内異常情
報処理システム)から、実に奇怪なエセ現実のトリック(リアル政治、リアル
政策を騙る詐欺的政治)が出現することになる。


つまり、「ある特定の因果律(原因の空間)」の結果が「過去の因果律(原因
の空間)」に対し、現在から過去へと遡って影響を与える(言い換えれば“過
去の歴史を書き換えてしまう”こと、更に言えば“過去の中に歴史と異なるも
う一つの現実を出現させる”)ことが当然視されるという奇怪な現実(実はト
リック幻影)が現前することになるのだ。


安倍政権・閣僚の殆どがメンバーである日本会議、オーム真理教、幸福の科学、
旧統一協会(世界平和統一家庭連合)らカルトと呼ばれる集団の悉くは、紛れ
もなく此の異常な精神環境(脳内異常情報処理システム)を共有していること
になる。その意味では、多数派国民層から篤く信認されていると“思しき”安
倍政権のトリック幻影政治の前で、今や批判のコトバも対抗するための為す術
をも殆ど失ったかに見える日本は、開闢以来の危機に見舞われている。


だからこそ、唯一のナビゲーション・コンパスとなるのが「象徴天皇制」だ。
それこそが紛れもなくありの儘の日本の“原因の空間”(時間遡及が絶対不可
能な歴史過程)で学び得た、これからも日本の水平空間で生き抜くトビウオた
ちにこそ役立つ希少な知恵の象徴であるからだ。従って、国家の主権者たる我
われ日本国民には、その代替不能な知恵を未来へ繋ぐため日々をそれに照らし
つつ、絶えず新たな“理由の空間”の創造へ挑戦する義務があることになる。


そこで、やはり注目すべきは千数百年にも及ぶ神仏習合という代替不能な歴史
・宗教・文化経験の光を浴び続けてきた日本仏教が、特に「江戸プロトモダニティー」のリアリズムに見合った「トビウオたちのためのイデオローグ」
(“アナクロ尊皇テロ妄想派”駆除の特効薬)の創生を怠り、ひたすら“虚栄
と世俗的欲望”に溺れてきた傾向があることだ(3−1、で既述/B・フォール
の指摘)。


江戸期の日本仏教界は幕藩体制(檀家制度)というパターナリズムの下で、あ
る意味で程々に安住できる有利な立場であったにも拘らず、世界に冠たる「江
戸プロトモダニティー」に見合った日本型「啓蒙イデオローグ」の創生どころ
か、もっぱら葬式仏教として惰眠を貪る堕落の側面があったことは否めない。
そのため幕末・維新期以降の尊皇テロリズム派の似非イデオローグに被れた日
本会議・安倍晋三首相ら穴クロ幻影師・詐欺師たちが、その悪しき作法の踏襲
である“仏教の政治利用”なる旗印の下で今の日本を堂々と大手を振り闊歩し
ていると見ることもできる。


例えば、あのフクシマ原発過酷事故の直後に仏教界の一部から出された、日本
政府に対する「脱原発要求の声」は何処へ消え去ったのであろうか?


仏教の根本的なミソロジーからすれば、古神道由来のアニミズム論を方便とし
て使った神社本庁の「原発推進論」(悪質な屁理屈ミソロジー)は論外として
も、今も日本国民の潜在意識の奥深くに沁み込んでいる「神仏習合の歴史経験」
(委細参照↓▲16)の視点からすれば、生命の根源であるエトノス環境を根絶
やしにする原発利用が理不尽であることについては、全仏教界が率先して、も
っと声を大にして主張して然るべきではないか?

▲16[神仏習合の歴史経験]自省的考察『神道、および神仏習合の歴史的概観
/政治権力との野合でウロボロス化した日本伝統の神の道?』2017/05/10
・ever-note http://ur2.link/DpKA 


それこそが、表題に掲げた<発見!江戸プロトモダニティーは、クオラムセン
ス(民主感覚)欠損病の囚人、安倍晋三・日本会議・神社本庁ら「アナクロ尊
皇テロ愛国妄想派」駆除の特効薬>が真に意味する裏面の主張である。


ところで、「最先端の脳研究(ヒトの意識研究)の知見」で触れたことだが、
最先端AI研究でもニューラルネットワーク・モデル(ヒトの脳をモデルとした
意識研究)の限界が見え隠れしている。しかし、それなりに一定の成果も得ら
れているので、肝心なことは「現行AI研究の成果」と「その限界」の両方を視
野に入れたコンシリエンス(consilience/人文・科学知の融和的統合)によ
る取り組みが益々必要になる、ということだ。


これは、差異の追究をベースとする科学知と統合(統合意識)の追究をベース
とする人文知(社会科学・宗教研究も含む)のメタ次元での融和的統合を試み
るべきだということを意味する。それは、現行の脳研究でも明らかであるが、
ヒトの意識はおそらく生命個体のリアル安全保障のためにヒューリスティック
(限定効率的)な統合を絶えず行っており、いま生きているその瞬間ごとに膨
大な量の情報を捨て続けているからだ。


つまり、その捨ててきた情報(少なくとも、何らかのエクリチュールとして記
され(遺され)たものは膨大な歴史情報の中に埋没している)が全く無意味な
ものとは言えないはずだ。そして、この問題に真正面から向き合うべき役割を
担うのが人文知であり、特に宗教だということになるのではないか?従って、
安倍晋三、日本会議、神社本庁らが謀る歴史修正主義に因る国家神道カルトや、
その「国家神道」関連体制の促進が目的の「改憲」、「象徴天皇制と平和主
義」放棄の断行などは言語道断である!


残された歴史情報から新たな知見を発見することと、ご都合主義で過去の歴史
事実を現在にそのままの形で取り戻しを謀ることは全く異次元の問題だ。つま
り、過去の因果プロセスを掘り出し、それを現在と未来のプロセスへリアルに
繋ごうとする行為(後者)は、紛れもなくリアル認識の病であり、それこそ安
倍晋三を筆頭とする「尊皇テロ愛国妄想派」がクオラムセンス(民主感覚)欠
損病の囚人であることの証左である。


直近の戦争経験から学んだ成果である日本国憲法の根本たる「平和主義」の理
想が、同じくその憲法の根本である「象徴天皇」にしても、これら両者に関わ
る価値観がれっきとした日本古来の信仰と天皇制の中に根付いてきたものでも
あること((前者/平和主義)→参照/▲6、後者/象徴天皇(天皇と国民は
平等である故に天皇は国民意思の象徴と見た)→参照▲15)については、仏教
界が、自ら積極的に古来相互に深く影響し合ってきた神仏習合の歴史を率直に
振り返れば理解できることである。


古来、仏教界と神道界が相互に深く影響し合ってきた「神仏習合」の歴史の中
には、ヒトの意識が生命個体の安全保障のために、つまり、やむなくヒューリ
スティックス(限定効率)のため捨ててきた莫大な情報が歴史・文化遺産とし
て無尽蔵に存在しており、それらは確実に豊かな近未来の日本の民主主義&経
済Stage2(コンシリエンス的文化資本主義の時代?)/http://urx.red/DqCk」
のためにもに役に立つ、いわば未来のトビウオたちが『日常礼賛』を持続する
ための新たな糧となる宝の山でもあるはずだ。完

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