メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:記憶喪失の海に沈む安倍内閣、その底に潜む偽遺伝子は・・・(1/n)  2016/08/23


■[希望のトポス]記憶喪失の海に沈む安倍内閣、その底に潜む偽遺伝子は文化進化論(遺伝的適応)上の追憶のカルト!新鮮な生命が持続的に吹き込むエトノス対話の環境づくりが急務

<注記>お手数ですが当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160822 

北アルプスの風景、夏

<注>偽遺伝子(pseudogene)について
・・・集団遺伝学者・木村資生氏の「偽遺伝子(pseudogene)」(関連する、同氏の中立進化説については第3章で後述)は、DNA塩基配列では正常遺伝子と相同に見える正常遺伝子のコピーだと思われるが、これは様々な理由で健全な遺伝子機能を失っており“死んだ(ゾンビ)遺伝子”とも呼ばれる。また、これは機能を失ったあと塩基置換の進化速度が異常に高くなり、にも拘らず進化上は有意な変化がなく、言わばアナクロ二ズムで空転している(以上、https://goo.gl/Xa5vs6より)。以下は未だtoxandoriaの想像レベルの理解であるが、おそらく現下の日本を覆いつつある安倍内閣(日本会議)が放射する不気味で暗鬱な空気は、日本国民の生命環境と精神環境の両面に取り憑いた、このような意味での文化的「偽遺伝子」(偽エトノス=ゾンビ国家神道)への強烈な回帰願望(政権側の)に起因すると考えられる。

Andrea del Sarto(1486-1531)『アルピーエの聖母』「Madonna of the Harpies」1517 Oil on wood  208 x 178 cm Galleria degli Uffizi 、 Florence</span>

・・・主に15世紀末〜16世紀初頭のフィレンツェで活躍した盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトが、いま「ミメーシス美学の復活」とともに再評価されている。デル・サルトはフィレンツェ古典主義を完成に導いた画家として知られており、ラファエロ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、フラ・バルトロメオら巨匠とほぼ同時代人で、特にミケランジェロとバルトロメオから大きな影響を受けた。

・・・『アルピーエの聖母』はデル・サルトの聖母子像の中で最も重要な作品で、彼の妻が聖母のモデルである。ヴェネツイア派の技法を身につけたフラ・バルトロメオの情熱的な色彩、ダ・ヴィンチの明暗法(sfumato)、そして何よりも古典主義(古典彫刻風の人物表現)的なバランスの良い構図と荘重さが漂っており、これらの調和が鑑賞者の目を強く引きつける。向かって右は福音書記者の聖ヨハネ、同左は聖フランチェスコで、聖母マリアは左足に重心をかけるコントラポスト(支脚と遊脚の対照)で台座にしっかりと立つ。なお、アルピーエ(Harpies)はギリシア神話にある“女の顔と鷲の体を持つ怪物”のことで、それは台座の四隅に描かれている。

・・・従来は、ダ・ヴィンチら巨匠の影に隠れた地味な存在であったデル・サルトが注目され、再び評価されつつある背景には近年の「ミメーシス美学」の復活がある。つまり、古代ギリシアで模倣を意味したミメーシス(mimesis)の真の意味がルネサンス〜現代にかけ長い間に渡り誤解されてきたことになる。デル・サルトの素描の特徴でもある「ミメーシス」の再発見とは、それがルネサンス〜17世紀バロック・市民革命期(初期近代)〜現代に渡る「近代主観主義」への反証だという意味だ。 

・・・つまり、「近代主観主義」の特徴とは「自然を制御可能と見做す科学還元(万能)主義」の立場のことである。そこからすれば、レオナルドやミケランジェロのような天才芸術家も科学的視野の強化(新しい理論の発見など)と同期しつつ人間の進化に役立つ偉大な芸術を創造することになる。しかし、デル・サルトが重視した古代ギリシアのミメーシスは、そのような考え方とは真逆であることが分かってきたのだ。

・・・そこで、古代ギリシアのミメーシスが意味するのは一体何か?が問題となるが、それは「自然世界と交流し、そのプロセスから自然界に内在する本質(形の模倣に止まらず!)を視覚的・感覚的に強化しつつ吸収し造形的に再提示する」ということになる(出典:青山昌文著『美と芸術の理論』(日本放送出版協会)、p18-19)。これこそが「近代主観主義」(近代主義の呪縛)への反証が意味することだ。これにより芸術に関わる実在論的な概念が反転することになった。

・・・つまり、絵画に限らず凡ゆる芸術作品は人間の主観(科学知を支えるのと同じ意識)が一方的に構成するものではなく、この自然界に限りなく存在する本質の一部を、ミメーシスで(自然エトノス(委細後述)との交流・交感プロセスへの没入によって)その奥底からすくい上げ、それを鑑賞者の目前に感動的な造形等として強化的に出現させるのだということになる。

・・・そこで想起されるのが、18世紀英国のエドモント・バーク(アイルランド・ダブリンで生まれた政治家・哲学者)の著書『崇高と美の観念の起源(1757)』(&#8212;みすず書房-)だ。そこでバークが主張するのは、18世紀にアンシャンレジーム下のフランスで開花した啓蒙思想による「明晰な主観だけが芸術に必須の本質だ」という主張に対する反論と考えることができる。

・・・すなわち、バークによれば、偉大な芸術は世界(自然)エトノスの無限を絶えず志向するものであり、無限には果てがないから芸術は“矮小な人間の尺度に過ぎない明晰さでも明瞭さでも”あり得ない。だから逆説になるが、それこそが「偉大な芸術を小さな範囲に囲い込むこと」ができない理由なのだ。また、それこそ我われが明快に表現されたものより暗示的・暗黙知的な芸術の方により一層大きく強い感動や魅力をおぼえる理由なのだ。

・・・このバーク流の美学こそが「英国の正統保守政治」を基礎づけたと考えられる。保守を騙りながら内向的で傲慢極まりない安倍政権や日本会議との何たる違いか!結局、英国政治の伝統は、その悠久の歴史における保守と革新(改革)の絶妙なバランスによって、エトノス環境である大自然との交流・交感のプロセスで有機的に組織されてきた、着実に未来へつながる秩序であるということになる。

・・・バークが言う「悠久の歴史における保守と革新の絶妙なバランスにより有機的に組織された秩序」とは、古代ギリシア・ローマ〜古代末期〜中世〜ルネサンス〜初期近代〜近代〜現代という悠久の時間の流れのプロセスで「英々と積み上げられてきたミメーシスの努力の繰り返し」と見做すこともできるだろう。

・・・このようなヨーロッパ伝統の真摯な努力の積み重ねによる漸進的な改革を重視するという古典主義(バーク流の保守主義)のコアとなっているのは、無限の世界(広大無限の自然)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」であると考えられる。また、このような「不安」があればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきだという「英知を伴う心性」が生まれる訳だ。なお、このことは当記事の表題に掲げた「文化進化(遺伝的適応)、エトノス対話」の問題とも関連するが、その点については以下(第3章)で詳述する。

1 閉鎖系内向の静止的“追憶のカルト”安倍内閣の病理は「記憶の未来」への恐怖、それは「リアル敗戦」再来の国難となる恐れがある! 

[f:id:toxandoria:20160822094939j:image:w400:right]山崎雅弘 @mas__yamazaki 第三次安倍再改造内閣の「日本会議・神道政治連盟所属リスト」を作成してみた。再改造前よりも日本会議系閣僚が増えており(+3名増で、全閣僚の約8割が日本会議!)、神道政治連盟は今回も公明党(創価学会)の一人を除き、全員が国会議員懇談会メンバー。価値観の多様性とは全く無縁の政権。16:04 - 2016年8月8日
https://twitter.com/hanachancause/status/762545012122931200 
[f:id:toxandoria:20160822095939j:image:w230:left]
・・・山崎雅弘氏は『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社、2016年7月・刊/日本会議と安倍政権が改憲へと傾倒する動機が、かつて日本を戦争に導いた国家神道を拠り所とする戦前回帰への道筋にあることを指摘。気鋭の歴史研究家が日本会議を近視眼的な“点”ではなく、史実をふまえた“線”としての文脈から読み解く、同組織の核心に触れるための必読書(同書・紹介の集英社HPより部分転載))の著者であり、戦史・現代史研究家、グラフィックデザイナー、シミュレーションゲームデザイナー。

1−1「日本会議」問題の核心は、それが<正統保守とは似て非なるもの>であるということ

[f:id:toxandoria:20160822100212p:image:w280:right]青木 理『日本会議の正体』(平凡社新書)によれば、日本会議が結成されたのは1997年5月だが、それより先の右派活動として注目すべきは、いわば左派の流儀を模倣する国民運動として取り組まれた「元号法制化運動」であった(同国民会議議長:石田和外・元最高裁長官/元号法は1979年6月6日に可決、6月12日 公布)。

そして日本会議のHP(http://www.nipponkaigi.org/activity/ayumi )には、“1953年7月に元号法制化の世論喚起にむけ全国47都道府県にキャラバン隊を派遣、各地に都道府県民会議(地方組織)の結成相次ぐ(キャラバンは以後毎年実施)”と記されている。

この運動の中心となったのが生長の家(厳密に観察すれば、生長の家“過激派”/下、注*)、神社本庁らであり、生学連(生長の家の学生組織)、日本青年協議会、日本協議会(これら三者は生長の家“過激派”イデオローグの流れを汲むと考えられ、生学連の指導的立場にあった椛島有三氏は、現在、日本会議の事務総長を務めている)、および自民党の一部がこれに関わっているのは周知のとおりである。

*<注>「宮城(クーデター)事件」(玉音盤事件)は生長の家“過激派”の主導で起こされ、同じ生長の家“穏健派”の主導で鎮圧された。

・・・「宮城事件」は昭和20年8月14日の深夜〜15日にかけ一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心に起したクーデター(最終的に失敗)。それを主導した生長の家“過激派”一派の中には敗戦を受入れる天皇の首のすげ替えを主張する者もいた。彼らは詔書の録音レコード(玉音盤)奪取と玉音放送の阻止を謀った。日本降伏の阻止のため此れら将校達は先ず近衛第一師団長・森赳中将を殺害した。続いて彼らは師団長命令の文書を偽造し近衛歩兵第二連隊を指揮して宮城(皇居)を武力で占拠するが、陸軍首脳部及び東部軍管区(田中静壱司令官/熱烈な生長の家“穏健派”信者)の説得で失敗した。結局、一派は自殺もしくは逮捕され日本の降伏(玉音放送)は予定通り行われた。「生長の家および生長の家系列の出版物の中で、旧日本軍に生長の家の信者がかなり多く存在したことがしばしば証言されている」ことは注目すべきである。

・・・また、終戦時「宮城クーデター事件」の首謀者、後に日本会議に流れ込む生長の家“過激派”イデオローグの信奉者たちの一人である井田正孝(聖戦自爆玉砕テロリズム(このみいくさ)論)を主導した平泉澄の直門)は陸軍省・少佐の時に松代(長野県)“大本営”建設(本土決戦時における天皇の松代への動座を想定)を発案している。戦後、井田正孝は電通に入社し総務部長等を勤めた。そして、井田は電通時代になっても首尾一貫して「本土決戦」必須論を主張していた(出典:https://goo.gl/cgIlSA ) 

・・・

ところで、上掲書を含む日本会議にスポットを当てた本(現在、次々と出版が続いている)が共通して指摘するのは、この「元号法制化運動」が「日本会議」誕生のルーツだという点である。しかし、結果から見ればその通りかもしれぬが、一つ見落とされていることがある。

それは、「建国記念の日」(1966年6月25日、成立)〜「元号法制化運動」までであれば、それは自国の歴史と文化を重視する正統保守の立場からのこととして当然視されても然るべきであろう。しかし、目前の日本会議には<「宗教右派集団」が牛耳る保守集団>などという生温い表現では到底つかみ切れない不気味さが漂っている。

つまり、それは、上掲書らによって明らかとされつつあるとおり、何故に「かくも異常な生長の家“過激派”の信条(対ポツダム宣言疑義(敗戦否定)、天皇元首制復活、国柄重視ゆえの国民主権“制限”必須論etc)」を前提としつつ余りにも反立憲主義的な「自民改憲草案」(国民→国家、の授権規範ベクトルを逆転させる倒錯草案!)の下書きを提供するまでウルトラ極右集団化したのか?という点だ。

1−2 生長の家“過激派”(日本会議の中枢)は「記憶の未来」に対する異常(過剰)な恐怖心を持つ

既述のとおり日本会議の中枢(日本青年協議会、日本協議会、椛島有三・事務局長ら)、および安倍内閣を内外から支える人々は明らかに、生長の家“過激派”イデオローグの流れを汲む生学連の出身者たちだ。

その元・生学連の活動家(生長の家“過激派”イデオローグの踏襲者、)で、かつ今も、その教祖・谷口正春の熱烈な信者であり、日本会議の活動を内外から支える主な人々(椛島有三氏以外)を列挙すると、百地 章(日大教授)、大原康男(国学院大名誉教授)、高橋史朗(明星大教授)、伊藤哲夫(日本政策研究センター代表)、安東 巌(生長の家千葉教区教化部長)、衛藤晟一(首相主席補佐)らである。

因みに、生学連系ではないが第3次安倍(第2次)改造内閣で防衛相に抜擢された稲田朋美(日本会議国会議員懇談会、神道政治連盟国会議員懇談会・事務局長/一億総玉砕&崇高宗教儀式“戦争”論にかぶれた核武装論者で、女性初の首相候補?)は、自他ともに許す教祖・谷口正春の熱烈な“信仰者”である(参考情報:http://lite-ra.com/2016/06/post-2372.html )

ところで、「記憶の未来」に対する異常(過剰)な恐怖心とは、言い方を変えれば「自国あるいは、ある民族の歴史・文化に関わる記憶が、立憲主義などの近代思想の影響下で、やがて根こそぎに消え去ってしまうのではないか!」という、およそ正統保守とは程遠い異常にトラウマ化した恐怖心ということだ。が、その委細は、後述することとして、以下では「正統保守(エトノス)と偽装極右(偽エトノス)」混同の問題に少し触れておく。

1−3 「正統保守と偽装極右」混同の病理

「正統保守と偽装極右の混同」は、日本会議とそれにどっぷりと浸かる安倍内閣の性格そのものであり、その根底に観察されるのが「情念の病理」ということだ。

そもそも、政治理念は永遠に実現不可能なものであることが通例であるからこそ、高次(High-Dimension)の目標とすべき理念を掲げ続けることでのみ、邪悪(戦争や欲望の暴走)へ傾斜しがちな情念を逆説的に統制しつつ現実的(リアル)な政治や諸政策の改良へ取り組む論理的な努力(リアル因果と高次理念との対話/これが本来やるべき政治家の仕事!)が持続できる(理性の情念統整的使用)ことになる。これは“情念統制理念と論理構成理念の相互補完性”と呼ばれる。

同じことを、モンテスキューは著書『法の精神』で次のように書いている。・・・『人間社会は、情念・理性・利益の三つ巴の構成要素から成るが、その人間の情念が、邪悪たれと人間を絶えず突き動かしているにもかかわらず、実は邪悪ならざる謙虚で中庸で公正(倫理的)な理性(国民主権ナショナリズムを評価する正統保守的スタンス/toxandoria補足)の方が、宿命的に多様な不条理に包囲された人間の利益にかなうという現実こそ、人間にとって幸福なことであり唯一の救いだ。』

つまり、そもそも「正統保守」と呼ぶべきものは抽象論理(理念)と因果論理(リアル)を峻別し、現実(リアル)に沿った微調整と微修正の持続を承認し許容する寛容で開放的な立場である(例えば、それは模倣の意味を再確認するミメーシス美学の復活で評価されるようになった、そして古典派絵画技法の先駆者と見なすべき盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトの絵画の如き/参照、エピローグ画像)。

だから、この正統保守の立場が、生長の家“過激派”イデオローグ一色に染まり、生長の家教祖・谷口正春の思想に耽溺し、太平洋戦争での「敗戦」と「戦争の悲惨」という紛れもない歴史(現実のエクリチュール(軌跡ドキュメント))を無視する日本会議、安倍内閣らに連なる人々はモンテスキューが言う“人間にとって唯一の救い”を徹底無視していることになり政治家失格の偽装極右派(エセ保守、保守モドキのカルト一派)と見るべきだ。

最も問題なのは、主要メディアがこのような論点から安倍内閣を批判することを自粛するどころか、むしろその偽装極右派に同調するばかりとなっているため、日本の民主主義の主役である、肝心の多数派層国民がこの「正統保守と偽装極右」の差異(違い)について全く自覚していないことである。

つけ加えておくが、上で紹介した青木 理『日本会議の正体』(平凡社)より少し先に出版された「日本会議の研究」(扶桑社新書)の著者・菅野 完氏が、実は熱烈な生長の家の教祖・谷口正春の信者であると、ネット上で告白していることが分かり驚かされた生長の家の「政治との決別宣言」がステルス作戦とするなら、これは陽動作戦のつもりなのか?苦w

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