メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:信濃古代エトノスの警告(3/n)  2016/06/29


■信濃古代エトノスの警告(3/n)/緊急事態『改憲』の隠れ標的、「国家
神道」と先制攻撃「軍事研究」の復活(国民が軽視する安倍晋三“感情構造の
病理”)は日本の未来をゲキ破壊する時限Bomb!20160627

<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160626

1−3−2 古代“諏訪”地方のエトノス/根強い“縄文の信仰と文化”の残照、“諏訪湖”周辺は最も遅い仏教伝来の地であった

(巨大『御柱』は、遥かな時間を遡る縄文時代に重なるユーラシア“人類大移
動”の痕跡) 

あの巨大な御柱(元々は石柱?/関連参照、↑添付画像・左端)については、
そこから遥かな年月を遡る日本の縄文時代の草創期に重なるユーラシア圏内で
の人類の大移動(少なくとも1.5万年以上前)という壮大な歴史の痕跡(諏訪地
方、およびその周辺に多く遺る“オンマラ(男根)”様、ミシャグジ道祖神
(石棒)との関連の検証は道半ばだが!/諏訪を中心とする長野県北および離
接する山梨県辺りはユーラシア〜東アジア全域に繋がる細石器文化の終点の可
能性が高い?)と見ることができる。なお、今の御柱祭は大木を16本(上社本
宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)による「式年造営御柱大祭」の形で行われて
いる(諏訪湖に近い山梨県『金生遺跡』/画像一枚目はhttp://goo.gl/wIQH4T 
より、二〜三枚目はhttp://goo.gl/iNYZb9 より転載)。

諏訪信仰には縄文時代の信濃人の非常に古い信仰の名残が感じられるという点
が、同じ信濃国の中で諏訪と他の地域との違いを際立たせる特徴となっている。
具体的に言えば、それは山に住む人々の狩猟・採集民としての野性が強い個性
となり残っていることだ。その意味での諏訪神は、東北・関東から九州に繋が
る山の民(縄文文化の名残を背負った狩猟・採集民/アイヌ系の人々との関わ
りも窺われる!)からも篤い信仰を得ていた。

これと関連し、諏訪地方にある仏寺の殆んどが平安末期〜鎌倉期以降(12世紀
末〜)の創建であることも注目すべきである。それは、おそらく縄文的色彩が
色濃く残る諏訪地方では、物部氏に取って代わった蘇我氏系の国造(くにのみ
やつこ)の管轄・支配の時代となり仏教信仰が奨励されることとなっても、縄
文期の信仰と文化に強く拘る狩猟・採集民が中心であった諏訪地方の人々は、
なかなか仏教に馴染まなかったからではないか?と考えられる(出典:大和岩
雄著『信濃古代史考』―大和書房―)。 

(伊那谷は信濃の弥生文化の入り口)

このような縄文期の文化・信仰・社会の空気が色濃く漂っていた信濃地方で最
も早く稲作文化が弥生時代の中期初頭(BC1〜AD1世紀頃?)に入ったと考え
られるのが伊那谷である。やがて、その稲作文化は天竜川沿いの低地に水田を
開きつつ上伊那〜諏訪方面へ北上したと考えられるが、諏訪方面の人々は稲作
は受け入れても簡単に縄文期の文化と信仰を捨てようとはしなかった(一枚目
の画像『空撮/翼の下の白く見える部分が伊那谷』はhttp://goo.gl/1oWHh6 
より転載、二枚目『伊那谷の風景』は、http://vtrmorita.exblog.jp/ より転載)。

やがて、稲作の伝播は松本平から善光寺平へと移り、弥生中期・中葉〜後半頃
に弥生文化は信濃全体に広がった。しかし、既述のとおり、諏訪地域が中央政
府の支配下に入り信仰的にも仏教を広く受け入れるようになったのは平安末期
〜鎌倉初期になってからと考えられる。なお、善光寺平(現在の長野市辺り)
には経路が異なる日本海ルートでも朝鮮半島から渡来系の人と文化が入ってい
た可能性がある(関連する遺跡が多い!)。

1−3−3 日本人と馬の文化史/騎馬・騎馬戦法・武士(もののふ)の揺籃
(発祥)地であった古代信濃

もう一つ見逃せないのは信濃国における騎馬と騎兵戦法(武士の発生の淵源?)
の定着の視点だ。古墳時代の初期〜中期(4世紀?)に朝鮮半島から馬(騎馬)
と騎兵戦法が導入されたが、その最初の着地点は仁徳天皇陵がある堺〜南河内
(河内“長野”、藤井寺市、太子町など)辺りであったことが確認されている
(関連参照⇒『堺市博物館』http://goo.gl/HZ215E /画像『古墳時代〜飛鳥
時代頃の騎馬のイメージ』は、下記<参考>のHP『近つ飛鳥博物館・・・』の
案内文より転載/二枚目の画像『復元された古墳時代の馬と馬具』はhttp://goo.gl/227wHf より、三枚目『藤の木古墳(法隆寺の近く/古墳時代
末期)から出土した鞍の一部』はhttp://goo.gl/C0gwSN より転載)。

<参考>古墳時代(初期〜中期/4世紀?)以降、倭国が騎馬戦術を受容する
に至った東アジア事情(HP『近つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡河南町)の開館
10周年記念特別展示は、今来才伎(いまきのてひと)』の案内文より部分転
載http://goo.gl/8oT9GK )
・・・4〜5世紀の東アジアの激動する情勢から、我が国が騎馬戦術を受容せ
ざるを得なかったとする見方が圧倒的だ。この時期、中国の漢人の国家は北方
民族の侵入で南に押しやられ、南北朝時代を迎えた。その余波を受け朝鮮半島
では北の強国・高句麗が南下政策を取り、南の百済や、新羅、加耶諸国に大き
な影響を及ぼす。
・・・この危機に対し、新羅はいち早く高句麗に下る道を選んだが、百済は加
耶諸国と共に倭国を味方に引き入れ高句麗と戦う道を選んだ。その結果、倭国
は半島に出兵し高句麗と戦うことになるが、高句麗の騎馬軍団と戦うには騎馬
文化の受容は不可欠だった。こうして倭国は百済や加耶諸国の援助を受け急速
に騎馬文化を取り入れたと考えられる。
・・・近つ飛鳥博物館長・白石太一郎氏は、今回の展示図録の巻頭を飾る論文
の中で今来才伎(いまきのさいぎ)に関し鋭い指摘をされておられる。我が国
は上のような軍事的要請から騎馬文化を受容したが、その一環として伝えられ
た馬具製作技術は、鉄器加工技術、金銅技術、木工技術、皮革加工技術、織物
技術などを含む、きわめて総合的な技術であった。

・・・転載、おわり・・・

善光寺平は古来「長野(長い野の意味)」と呼ばれてきたが、古代ヤマト王権
の信濃への進出で活躍する物部氏(大連)が仕えた仲哀天皇(日本武尊の子?)
の陵墓の一つも長野陵と呼ばれ、その場所は藤井寺市のミサンザイ古墳に比定
され、同じく藤井寺市の市野山古墳に比定される允恭天皇(仁徳天皇の第四皇
子)の長野北陵も存在する。

そもそも信濃(シナノ)の地名のルーツであるシナノ(科野)は南河内の石川
流域を指す地名であることが確認されており、渡来系氏族である多(太/おお)
氏(日本最古の皇別氏族/前渡り渡来人?)系の科野(シナノ)氏の一族が科
野国造となっていた。従って、信濃国に入った一般の高句麗・百済系ら渡来人
も畿内の南河内に居住する渡来人と連動していたと思われる。また、石川沿い
に長く伸びる平野(河岸段丘)は長野県の善光寺平と同じく長野(長いの野)
と呼ばれてきた(河内長野市の名の起こり!)。

いずれにせよ、このような渡来系の人々の信濃国への移動(開拓・入植が目
的)によって、元々、日本には在来種がなかった馬の取り扱いと騎馬戦術に長
けた渡来系の軍事・農業・手工業等に携わる人々が伊那から信濃国全体へ拡が
り定住するようになり、やがて信濃国における仏教信仰などの精神文化も徐々
に深まったと考えられる。ただ、既述のとおり、地元に深く根付く縄文文化に
拘り、その流れに頑なに抵抗したのが諏訪大社を中心とする諏訪地域の人々で
あった。(出典:同上/および関連資料:久慈勝男著『日本人と馬の文化史』
―文眞堂―)

ところで、古墳時代の初期〜中期(4世紀?)に朝鮮半島から堺〜南河内、辺
りに伝わった騎馬の技術と牧の経営は急速に各地へ広がった。特に「壬申の乱(672)」での騎馬の活躍を教訓とした天武天皇は騎馬・騎兵の軍装備充実に
急速に取り組み、騎馬を主体とする律令軍事制度を完成させた。また、文武4年(700)には律令制下で牧の設置命令が全国へ発せられ、以前から各地に存在
した牧が原則として大和朝廷の管理下の御牧(みまき)となった。

初めの頃の御牧は信濃だけであったが、やがて上野(群馬)、甲斐(山梨)、
武蔵にも置かれるようになる。そして、特に馬の飼育に習熟した人々(おそら
く朝鮮半島から渡来した人々)が、これら信濃、上野、甲斐、武蔵の御牧に存
在したことが、長屋王家木簡(https://goo.gl/q71Npf )などの記録から確認
されている。特に、信濃は重視されており、御牧の制度が衰微する15世紀後半
(室町時代)頃まで、信濃からの駒索(駒引/こまひき/御牧から貢進した馬
を天皇が御覧になり御料馬を定める儀式)が続けられた。

因みに、この「最初の御牧が信濃だけにあった」ことは、天武天皇が「壬申の
乱における騎馬と騎兵戦の活躍を教訓にした」という歴史と併せ考えるとき、
それが何か特別の重要な」事実を示唆するのではないか?ということに気付か
される。

例えば、それは古墳時代以来の信濃国には、「牧と馬を基礎に騎馬を中心とす
る帰化人系の軍事集団(騎馬軍団)」が存在し、やがてそこからヤマト朝廷の
中枢に取り立てられた金刺舎人(かねさしのとねり/or金刺部)氏らのような
人々が現れたことだ。また、特に信濃〜関東周辺を発祥地とする「武士団の起
こり(国風文化の成立期である平安中期(10世紀)に登場する)」と、これら
「渡来系の国衙軍制である馬の文化と騎馬軍団」についての歴史的検証も進み
つつある(武士は『もののふ』 とも読むが、その起源を物部氏に求める説もある)。

金刺舎人(金刺部)氏の起源は、部民制(べのたみせい)における名代(なし
ろ/古墳時代の専門集団)の一つである金刺部にあるとされる。金刺部は欽明
天皇の皇居であった磯城嶋金刺宮に由来し、その財政用に充てられた料地等の
管理に従事した人々であり、信濃国や駿河国に多く分布していた(金刺舎人は
熊本・阿蘇氏とも関係がある)。奈良時代から平安時代初期の信濃国の地方政
治は金刺部舎人氏や他田部舎人(おさたべのとねり)氏らの活動を中心に繰り
広げられたと見られ、彼らが伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡
司を占めていた。

特に、伊那郡の郡司・金刺舎人氏は信濃国内に置かれた政府直轄の御牧全体を
統括する責任者(牧主当)でもあり、郡司の子弟として平城京に出仕していた
際に藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱(764年/孝謙天皇・道鏡側と対立した太政
大臣・藤原仲麻呂が軍事力で政権を奪取しようとして失敗した事件)が起こり、
孝謙上皇の側で乱の鎮圧(騎馬戦法)に功績が認められたと見られ翌年に外従
五位下・勲六等の位が与えられた。

ともかくも、古墳〜飛鳥〜奈良〜平安初期頃にかけて信濃国に馬と騎馬戦法を
得意とする強力な軍事集団が存在し、それらを統率するのは渡来系の科野(し
なの)氏・金刺舎人氏らで、更にそれをヤマト朝廷側から統制したのが葛城・
物部・蘇我氏であったと考えられる。また、蘇我“馬子”、“厩戸”皇子(聖
徳太子)ら馬に関わる命名も、これらのことを示唆する!
  
因みに、善光寺平(長野市)の南の丘陵には大室古墳群という渡来(百済)系
の特徴をもつ積石塚があり、その近くに大室牧と高井牧があったとされる。ま
た、平成6年(1994)に更埴市(現、千曲市)屋代の上信越自動車道の発掘現
場から、7世紀後半〜9世紀初めの130点の木簡や木製祭祀具が出土したが、
その中から「小毅(しょうき)」という軍団(騎馬軍団)の名を記したものが
発見された(一枚目の画像『善光寺平の風景』はhttp://goo.gl/cJQM3D より、
二枚目『善光寺』はウイキより転載)。

なお、よりグローバルな視点で日本の馬の文化を論じた久慈勝男著『日本人と
馬の文化史』(文眞堂)からも、信濃国の馬の歴史と重なる「日本人の本来の
強かで自在な適応能力の在り処(根拠)」が見事に浮上してくる。この本の紹
介文は次のように書いている。⇒ 『日本人は中華文明や西欧文明の強大な影
響に対し柔らかく強靭な心で対処しながら独自の文化を築いてきた。古墳時代
早期に列島にもたらされた馬はその影響力の強さで舶来文物を代表するものの
一つであり、馬に示された受容のあり方は日本人のユニーク(強靭で、かつ柔
軟)な心性を浮き彫りにしている。東アジアにおける日本のアイデンティティ
を見据える好著』である。(文眞堂の紹介文http://goo.gl/xA4dXs より転載)

そもそもの日本人のアイデンティティは島国根性的に形成された只の“融合・
融和”の文化に因って形成されたものではなかったのだ。それどころか、本来
の日本人は“和解”プロセスでこそ優れた特性を発揮してきたと考えられる。
そして、その“和解”とは<厳しい議論を通しつつ信仰、イデオローグ観念、
技術および基本的論理構造らの差異を異文化との間で柔軟に擦り合わせて自ら
を個性的ハイブリッドへ深化させ得る強かさ>ということであった。

しかし、その本来の日本人の優れた特性は、特に明治維新期以降の近代化に焦
るあまり、「偽エトノスたる国家神道」を原理とする神憑りの富国強兵策と、
それに安易に同調するよう強権的に仕込まれたメディア&アカデミズム洗脳に
よって、これが逆方向の事大主義(マアマアで馴れ合い見かけだけデカくて如
何にも強そうな“名ばかり長いモノ”に巻(or魅)かれる方向)へ大きく捻じ
曲げられたことになる。

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