メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:先住多層文化エトノスはポスト・グローバリズムの希望・・・(4/4)  2016/03/05


■先住多層文化エトノスはポスト・グローバリズムの希望/「国民主権否定の
改憲で正しい立憲主義を!」の安倍政権は寛容のホスピタリティ(近未来の可
能性)をナチ式恍惚催眠で犯す政治的変質者の群れ(4/4)

*お手数ですが、当記事の画像は下記URLで御覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160301 

(エピローグ)日本国民が共有すべき文化的シニフィアン(日本古層の文化・
歴史)への気付き、日本型「先住多層文化エトノス/寛容のホスピタリティの
正統性と無限の可能性」の自覚こそが肝要!

・・・そもそも重層的な『東アジア文化受容の歴史』こそが『世界に誇るべき
寛容な日本伝統文化/日本の“正統保守”的価値観』の水源であった・・・

<注4>安倍政権が目指す旧満州国経営型の強権・軍事資本主義を理想とする
民族派極右の「大国家主義」は決定的誤り!一刻も早く人口減少社会化する日
本の現実を直視し、かつ超国家フレームの時代(ポスト・グローバリズムの到
来)を冷静に見据え、そこで新たな正統性を得るため必須となる「先住多層文
化エトノス」を基本理念の核とすべきである!
・・・「官僚主導のもと国防的重工業等は国家統制下に置き軽工業や消費財産
業は自由競争にすべき」とする、旧満州経営(中枢頭脳=満鉄調査部/ロシア
社会主義革命(特にスターリニズム)と植民地型制限自由主義の折衷たる『軍
事統制社会・国家主義』の理念(安倍晋三の祖父、岸信介の理想)の委細につ
いて、ここでは省略する(参照 ⇒小林英夫著『満州と自民党』(新潮新書)、http://goo.gl/ha7uxy)。

・・・

(日本における先住多層文化エトノスの揺籃期/概観)

おおよそ〜古墳時代〜飛鳥・奈良時代〜平安初期あたりへ歴史の時間軸を少し
スライドさせてみても、「2‐先住文化多層エトノスとは」で既述の弥生時代
と同じく、日本列島の上では主に大陸および朝鮮半島との関わりでの度重なる
渡来人と渡来系文化の伝来(前渡りと今来(いまき)、両渡来人の波の押し寄
せの繰り返し)と交流のプロセスで「先住多層文化エトノス」の歴史が積み重
ねられてきたことが理解できる。

例えば、5世紀頃(倭の五王の時代/古墳時代後半)の日本列島は中国・百済
両方の制度の影響を受けつつ「姓」ないしは「氏」などの王権に関わる制度が
成立したと考えられる。更に、これは実証されていることではないが、当時の
弥生倭(日本)語は、かなり百済語など半島系言語に近いものではなかったか
と考えられる(関連参照⇒1−『超国家フレーム時代(ポスト・グローバリズ
ム)の民主主義が新たな正統性を得るため必須の「先住多層文化エトノス」と
は?』で触れた◆渡来系弥生人の存在)。

・・・以下、本文[(エピローグ)今こそ改めて日本国民が共有すべき文化的
シニフィアン(日本古層の文化・歴史)への気付き、日本型「先住多層文化エ
トノス/ホスピタリティ・センス=政治的寛容の正統性」の自覚こそが肝要!]
の続き・・・

因みに、5世紀末〜6世紀初頃に成立したとされるカバネ(大王から与えられ
た姓)の「連」(むらじ/村主?/最高位である大連(おおむらじ)の大伴・
物部氏らは職掌名が発祥)と「臣」(おみ/同じく最高位の大臣(おおおみ)
の葛城・蘇我・平群・巨勢氏らは地名が発祥)についてであるが、このムラジ
とオミというコトバも共に古代朝鮮語(百済語?)由来である可能性が高くな
っている。

つまり、特に5世紀頃の倭国と百済は兄弟関係のような国の関係であったこと
が窺われる。例えば、宋書倭国伝(中国の《宋書》夷蛮伝の東夷の条に属して
いる倭国伝、https://goo.gl/uHMwdD )によれば、倭讃(倭王の讃/履中天
皇に否定する説もあるが?)は425年に司馬曹達を宋に派遣しているが、この
司馬曹達は百済人で倭讃に仕えていた人物(渡来系移住民か渡来系王族)であ
る可能性が高い。それは、当時の列島人(縄文系弥生人)には未だ「氏名」が
存在しなかったと思われるからだ(出典:吉村武彦『蘇我氏の古代』―岩波新
書―)。

ところで、その〜古墳時代〜飛鳥時代(弥生時代末期と一部重なる)〜奈良時
代〜平安時代初期までの内外文化・交流関係史を概観すると、〜仁徳天皇期
(5世紀初頭?)には、すでに半島・中国文化が盛んに渡来しており(例えば、
秦氏の功績は特に大きいと思われる/↓参考)、難波宮(元飛鳥、倭京)の時
代から仁徳天皇陵(百舌鳥古墳群)を中心とする阪南・難波〜堺〜斑鳩〜飛鳥
あたりに点在する非常に多くの未検証の遺跡等の調査・研究が進めば、この時
代こそ「先進的半島系文化(渡来系弥生人文化)の胎盤に倭人文化(縄文系弥
生人文化)のタネが着床し始めた時期」であることが明らかになると期待され
ている。

<参考4>秦氏が日本文化の基層に与えた大きな影響
・・・秦氏(日本書紀には弓月君(ゆづきのきみ)が秦氏の先祖たる渡来人と
して記されており、新撰姓氏録では融通王とされる)は、中国・秦の‟始皇帝
“麾下の遺民(技術者集団)が朝鮮半島(高句麗、新羅、百済、加羅)経由で
列島へ渡って来たもので、おそらく5世紀頃から日本各地に定住した前渡り渡
来系の一族(一説では17〜20万人におよび、当時の日本列島人口の5%弱を占
めたともされる)。大和王権および奈良時代から日本文化へ大きな影響を与え
た(例えば、明法(律令)学の研究と講義、申楽(能・狂言のルーツ/観阿弥
・世阿弥=秦一族)、宮中神楽・雅楽等(東儀家=秦一族)の創作、松尾大社
・伏見稲荷等各地での神社造営、広隆寺等各地での寺院建立(秦河勝は聖徳太
子のアドバイザー役?)、あるいは冶金・工芸技術を活かした東大寺・廬舎那
仏の建立、etc)と考えられるが、特に、機内の秦氏は長岡京遷都と平安京遷
都に深く関わり(山背(京都)の秦河勝の子孫が財政面から桓武天皇を支援し
たとされる)、中央政治の表舞台への登場は戦略上から巧みに避けつつも、特
に奈良時代から宮中との関わりが深く、結束が固い殖産興業の民として日本文
化のルーツを重層的に構築したとされる。

・・・

倭五王期(5世紀半ば〜後半頃)は、引き続き半島、大陸との交流はかなり活
発であったし、日本神道ないしは諸神社の源流となる様々な神事(中国系、半
島系)、および儒教・道教系など様々な土着文化と諸宗教が、多様なルートで
日本列島へ流入していたが、いわば日本という国家意識は存在せず、倭語、加
耶語、扶余語、百済語、新羅語、高句麗語など諸語系統の部族集団が西日本〜
半島一帯に群住?していた時代であったと考えられる。

特に、倭語(渡来系・縄文系弥生人語)、加耶語、扶余語、百済語は殆ど通訳
なしでの意思疎通が可能であるほど近い言語であったことが推測される。また、
新羅の仏教公認(527)は、高句麗・百済に比べ約1世紀半遅れていたという事
情があるため、列島への朝鮮半島文化の影響は「北九州〜山陰を辿る新羅ルー
ト」が早くから始まっており、しかも最も長く続いたと考えられる。従って、
日本全国にある神社のルーツの多くが新羅系であるという現実があるのは当然
とも考えられる。なお、「高句麗・百済および新羅」(朝鮮半島)の神宮(神
社)は、夫々の国への仏教伝来と共に消滅しており、この辺りは列島(古代日
本)の事情と異なっている。

ともかくも、特に半島南部〜九州・西日本辺りに群住した諸語系統の人々(先
に『2‐先住多層文化エトノスとは』で触れた縄文人、縄文系弥生人、渡来系
弥生人の共存の延長と考えられる)は伝統ある各部族集団としてのアイデンテ
ィティー意識は持っていたものの、確固たるナショナリズムとしての国家意識
は希薄で、せいぜいのところそれは「部族国家的意識」であったと考えられる。
が、おそらくそれは飛鳥時代の中期に起きたクーデター事件(政治劇)、「乙
巳の変(百済派による新羅派の粛清?/645)」の後に実行された「大化改新」
の頃から変貌し始める。

(重層的な「東アジア文化受容の歴史」に関わる実証研究/事例)

近年は、特に歴史学・考古学・文化人類学などの分野で、そもそも重層的な
「東アジア文化受容の歴史」こそが「寛容で世界に誇るべき日本伝統文化」の
水源であったという理解が深まりつつあり、続々と此の辺りの実証研究が日・
中・韓で進んでいる。特に興味深いのは(さぞかし、安倍晋三・首相、 #日
本会議 、神社本庁らは気に食わぬだろうが?w)日本の宮内庁、伊勢神宮系
の神官・考古学者・歴史研究者らの研究が進んでいることだ。例えば、宮内庁
・文科省or伊勢神宮などに所属する研究機関・研究者らが括目すべき新発見や
研究成果を発表しており、それらが日本の「先住多層文化エトノス」の水源を
新たな光で照らしつつある(参照、下記サンプル事例◆)。

◆2015年3月10日〜5月6日 国際企画展示『文字がつなぐ古代の日本列島と朝
鮮半島』国立歴史民俗博物館20141015〜20141214(千葉県/佐倉市)/漢字は
中国から直輸入されたと考えがちだが、まず中国と交流しつつ競り合った朝鮮
半島において漢字を取り入れる工夫がなされ、さらにそれが日本列島に伝わっ
たことが最近の研究でわかってきた。[展示代表] 小倉 慈司氏プロフィール:
専門=古代神祇制度、宮内庁書陵部編修課主任研究官を経て、現在、国立歴史
民俗博物館研究部准教授。http://ur0.xyz/qGee

◆三上喜孝(国立歴史民俗博物館准教授)著『日本古代の文字と地方社会』
(吉川弘文館)20130801刊
・・・主に畿内では、政治的儀礼と結びついた文字(漢字)の使用が5世紀に
あらわれ、やがて7世紀になると記録技術(金石文、木簡、紙など)の獲得に
より、統治技術の手段として文字が使用されるようになり、7世紀後半から8
世紀前半にかけて、文字文化の体系化が急速に進んだ(言い換えれば、天皇制
の原型の確立と文字(漢字)の関わりが非常に密であるということ!)。
・・・・このような動向が顕著となるのとほぼ同じ頃に、畿内や九州などに限
らず、日本列島各地の社会内部でも、文字(漢字)の使用がはっきり確認でき
る。

◆伊勢神宮・斎宮歴史博物館、学芸普及課長・榎村 寛之氏の論文『伊勢神宮
の建築と儀礼‐棟持柱建物は神社建築か?‐』(出典:上田正昭編『古代の日
本と渡来の文化』‐学生社‐)
・・・<伊勢神宮創建(日本幼生後期)の意義>が『伊勢神道の精神性/創設
時の歴史と根本理念(天皇の超神聖王権の主柱)』にあることは既に明らかと
されている。つまり、伊勢神宮は、日本国の幼生後期(7世紀中葉〜後半頃の
天武・持統期)において<伊勢神宮が天皇の超神聖王権の主柱>の役割を担う
目的で創建された訳だ。(委細はコチラ ⇒ http://urx2.nu/fNSI http://urx2.nu/fNSL )
・・・そのような意味での「創建・日本国」のオリジナリティである<伊勢神
宮の建物(および神道儀式)の起源>について、更に榎村寛之氏が観察・研究
を深めた結果、判明したのは、伊勢神宮(の建築様式、儀式など)のアーキタ
イプが外来・渡来系の文化の中にあり、特に関連「儀式」に関しては、その起
源が明らかに古代中華帝国の律令制にあるということだ。
・・・棟持柱高床建築(神明造)には中国の南方的要素の渡来が窺われ、天皇
の命により神社・山陵などに幣帛(神道の祭祀において神に奉献するもののう
ち、神饌以外のものの総称)を奉献する儀式「奉幣(ほうべい、ほうへい)」
も、中華帝国の律令儀式・心法(老荘の精神修養法)などから援用され、その
後、日本的に、かつ高度にソフィスティケイトされたものと考えられる(因み
に、神社神官の“摺り足”が古代中国・夏王朝(兎王)の“兎歩”伝説由来の
フィーチャーであることも判明している)。
・・・また、斎宮儀式等における唐風女性の装束を始めとして、日本の宮廷・
神社等における儀式が唐風儀式(おそらく、その一部は新羅等半島経由でも
伝来?)の援用であることも周知のとおりだ。無論、それは模倣のままという
ことではなく、遣唐使による実際の見聞、あるいは渡来系貴族層などがもたら
した文物や風俗文化・儀礼作法・芸能などの継承・模倣・習得・応用を通じ
て、例えば「伎楽」主流の時代(飛鳥時代〜奈良時代)⇒「雅楽」主流の時代
(平安時代以降)の変遷の如く日本宮廷の貴族層が次第にそれらを純日本風に
演出ないしはアレンジするようになり、日本文化全体を、より高度化・洗練化
する形でユニークな「国風文化」の方向へ進んできたと考えられる。

(日本語ソフィステケイト化へのプロセス、および古代天皇制と伝統神道にお
ける先住多層文化エトノス的な寛容について)

中華帝国「冊封体制」の近傍に立地する独立国としての新たな<アイデンティ
ティー精神の芽生えの象徴>である<伊勢神宮(創建=7世紀中葉?)の精神
性>を表現する儀式モデルが中華帝国の律令にあることを知ると、それは沽券
に関わると思う向き(例えば、#日本会議 、神社本庁、あるいは神道政治連盟
国会議員懇談会メンバーなど)もおられると思うが、およそ世界文明の伝播・
発展プロセスを概観するとき、全く独創的でリアルな文化様式が、ある日、此
の地球上の何処かで、まるで<ボーフラ誕生にまつわる水槽伝説>の如く突如
湧き出すなどということはあり得ない。

須らく、人類の文明は其の意味で果てしない模倣の繰り返しである。だからこ
そ、宿命的に付き纏う模倣から、如何にして土地固有の自然環境や地域的・民
族文化的環境と調和させて当該地に最適のオリジナリティを創造できるかが問
題となる。日本が世界に誇る「国風文化」(その芽生えは凡そ9世紀初頭・嵯
峨期ころ〜)もそのような流れの中で誕生したはずだ。

更に、それが、日本語の高度化(漢字かな混じり文という書き言葉の完成)と
相俟って、表情豊かな美しい四季折々の自然と調和するオリジナル日本文化と
して再結晶しつつ、誇り高い日本人のための他に代え難い日本的な美的感性を
育み、かつ繊細で魅力的な「日本の景観にこそ相応しい雪月花や、あるいは
“わびさび”などの個性的魅力」を涵養してきたという事実は、我われが義務
教育過程の日本史(文化史)などで学んだとおりである。

◆小川秀之著『古代天皇制研究、母系制の考察を基盤として』(風詠社:http://goo.gl/uOPVkW )が示唆する、天皇家の系譜についての新たな知見/
それは「母系制アーキタイプ+儒教・父系継承概念」の折衷=記紀の記述から
読み解ける5つのポイント。

1、 古代において、貴族社会をなした氏族社会は母系制であったと思われ
る。
2、婚姻制は母系による異姓を単位とした族外婚であったと考えられるが、婚
姻形態は、後代と同じような婿入りと嫁入りの2形式が存在した可能性がある。
3、氏族の正当な血脈は末子相続(←西遼・モンゴルはともかく、これは倭国
・大和では疑わしい?)、家権は兄弟姉妹継承、家産は分割相続だったと思わ
れる。
4、天皇家の系譜は氏族は母系に連なることを前提にしながら、儒教の父系継
承の概念と折衷されて作り上げられたものと考えられる。
5、日本の古代の氏族制は、もともと、高句麗、百済の部族制(ルーツはモン
ゴル・西遼(公孫氏)系?)と、原初は同様に近いものであったと思え、王家
の世襲という概念は存在せず、その後の政治情勢、思想の変化に伴って、王家
が固定化する傾向に傾いていったのではないかと思われる。そして日本書紀は、
(儒教の概念を基本として母系制との折衷が図られたうえで)そもそも正当な
王家は物部氏であったという意図(反葛城の意図/葛城系豪族の何人もが王に
なることを画策したと記してあり、無論、葛城の血も天皇家には入っている。)
のもとで書かれたのではないか。 その後、物部氏の婚族か同祖異姓氏族が蘇我
氏に移ったものと考えられ、そしてその蘇我氏も大化の改新で滅び、その後なん
らかの配慮で母系が隠匿された皇極天皇の系統が立ち、その後、暫時、藤原氏系
に天皇家が移っていったと考えられる。
6、その他の注目すべき論点
●父系制を前提としなければならない「天皇の父権的独裁制」はなかったことに
なる。
●物部氏(神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏
族)は百済王統(正統王家の系統)の氏族である「解氏(ヘシ)」がルーツの
可能性があり、蘇我氏も同じく百済の「木秔(モクサク?シ)氏」がルーツか
?(応神天皇の代に渡来した百済の高官、木満致と蘇我満智が同一人物とする
説には否定論が多いが・・・)
●天皇家の系譜は、父系―長兄相続―物部氏、母系―末子相続(?)―蘇我氏
という二つの異なる継承ラインを合わせてできた、と考えられる。
●新羅王家の系譜は、日本の天皇家、高句麗、百済の王の系譜に比べて、遥か
に複雑であり、一氏独占の王統ではなく、朴氏、昔氏、金氏が交代して王位を
継いでいる。また、高句麗にも解氏系の王が多く存在する。
●継体天皇は半島ときわめて深い関係の人物であった。継体紀には三人の実在
の将軍が百済から渡来したことが書いてあり、約20年もの歳月をかけ、3回
の遷都のうえで、漸く磐余の玉穂宮を定めたことになっていることから、この
間に何らかの軍事行動がとられ、百済からの支援があったとも考えられる(但
し、継体は新羅系との説が強まっており、此の辺りの事情は不詳である。つま
り、百済系を強調するための工作記述である可能性もある!)。 

・・・神祇(伝統神道)を巡る日本文化の発展の流れと痕跡を概観すれば、現
代の朝鮮半島に生きる人々は、およそ李氏朝鮮が始まる14世紀以前の、具体
的に言えば高麗・百済・新羅・高句麗およびそれ以前の時代の歴史と文化のリ
アルな痕跡)を日本列島の関西〜九州に及ぶ辺り(特に奈良・河内・難波・京
都・滋賀・若狭etc)に発見できるのではないか?・・・

そもそも神祇とは倭人古来の神々のことだが、「神道」の文献上の初出は『日
本書紀』用明天皇元年条(586)であり、神社(社殿)の建立は七世紀中頃か
ら始まったと考えられている。しかし、倭人の神に対するアニミズム信仰は遥
かな縄文の昔から存在しており、そこへ渡来(中国・朝鮮半島)系の道教・北
辰(北斗七星)・土俗信仰などの要素(特に新羅系神宮(神社)や鳥居のルー
ツ等)が融合して倭の神社の原型が成立したと考えられるが、北辰信仰の痕跡
は明日香村のキトラ古墳(天文図)などに見られる。

そして、この日本の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成
(習合)された宗教現象が神仏習合であり、その最も早い具体例は「宇佐神宮
(大分県宇佐市)が朝鮮半島の土俗的仏教の影響下で6世紀末に神宮寺(神仏
習合思想に基づき神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂)を建立した」こ
ととされる。

また、神仏習合に先立つ本地垂迹説は「日本の神々の本地(正体)がインドの
仏たちである」とする考え方だが、後に、神道側が反発してインドの仏たちの
正体こそが日本の神だとする反本地垂迹説を主張したため、やむなく「神仏一
体説(神仏習合)」になったという経緯があるようだ。そして、ここから派生
したのが「梵和同一説」である。

このように、「梵和同一説」とは荒唐無稽というべきかも知れぬが、ともかく
も古代インドの言語や仏たちの権威を借りて、倭国(日本)のコトバや神々の
存在を正統化し、日本(凡そ奈良時代〜平安初期ころの倭国)の地位を高めよ
うと意図したこと、つまり一種の「中華思想に対抗する倭国文化ナショナリズ
ム的な意識の芽生え」でもあったと考えられる。

そして、このような古代インド(仏教)の権威を借りて中華思想に対抗しよう
とする、いわば高度な文化ナショナリズム意識の高まりから成立したのが我々
に馴染み深い「漢文訓読」の方法(漢文(中国語)を日本語で読む工夫)であ
る。因みに、朝鮮半島でも、李斯朝鮮王朝の王・世宗が庶民教育の必要性から
表音文字ハングル(訓民正読)を制定した時(1446)より前の時代には、語順
符と漢字の略体(日本のカナに相当)などを使った訓読(朝鮮では釈読という)
が行われており、同時に、日本の万葉仮名と同じく漢字の表音的利用も行われ
ていた(出典:金 文京著『漢文と東アジア』―岩波新書―)。

なお、日本のカタカナの起源は9世紀初めの奈良の学僧らの間で漢文を和読す
るために訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略して付記したことに
始まると考えられている。また、日本の「漢文訓読」と朝鮮半島の「釈読」と
の間には何らかの関係性が窺われるが、その詳細は未発見・未検証となってい
る。

余談になるが、15世紀中葉に庶民教育の必要性から世宗(せいそう、セジョン
/李氏朝鮮の第4代国王)が表音文字ハングル(訓民正読)を制定して以降の
朝鮮半島では、両班・官僚・学者・豪商らを中心とする上流階層が漢字文化を
ほぼ独占することとなり、半島内で一種の文化格差状態が生まれた。つまり、
朝鮮半島は、世宗の意に反して本質的な意味での「漢字文化(釈読(訓読)の
漢字文化)」を15世紀に捨てたことになる。そして、このことが、残念なが
ら世宗のそもそもの意図(未生のための胎盤(国語文化)を育て、国力を向上
させようとしたこと)を裏切る形で爾後の朝鮮社会にある種の後進性(近・現
代的意味での)の残滓(影)を残す主な原因になったと考えられる。

また、燕山君(位1494-1506/第10代李斯国王で朝鮮王朝史上前例のない暴君
(暗君)とされる)らによる弾圧(ハングル使用禁止)の経緯もあったが庶民
層らの使用が続き、公文書でハングルが使用されるようになったのは1895年以
降(明治28年/日清戦争が終戦の頃〜)である。

他方、13世紀に半島へ伝わった朱子学は、朝鮮王朝の国家統治理念として重用
され、それまでの高麗の国教であった仏教を排し(政治力を持った仏教を弾圧
→縮小し/この辺りの状況は、百済の強い影響下で政治権力と化した奈良仏教
から脱出した桓武の平安遷都のそれと似ている!が、日本では奈良仏教弾圧で
はなく、より一層神仏習合の度合いが深まる方向へ進んだが・・・)、朱子学
(12世紀中国(宋)の朱子(朱熹)が始祖/理念的により純化した儒学の一流
派)を唯一の学問(官学)としたため、半島の朱子学は非常に高度化して近・
現代の朝鮮文化の主柱となってきた。

このように統治技術の基盤として高度に洗練された半島の朱子学は李退渓(又
は李滉とも/16世紀中期の儒学者)⇒ 林羅山、山崎闇斎or吉田松陰らのルー
トで、特に江戸期の日本へ大きな影響を与え、それは江戸幕府の御用学問(官
学)の中枢となった。また、日本極右の一つの源流となった尊皇攘夷論の元祖
(水戸藩・水戸光圀の大日本史など)へも影響を与えており、果ては、意外に
も、最も日本的でピュアな精神の現れとされる武士道(山鹿素行らによる国風
文化と朝鮮朱子学の高度な臨界的融合の努力?)へも大きな影響を及ぼしてき
たことは真に興味深い文化と歴史の共振・共鳴現象である。

以上のような経緯を概観して理解できることがある。それは、非常に雑駁な見
方となるかも知れぬが、現在の朝鮮半島の人々は、疾うに自らが失ってしまっ
た(政治・歴史的な経緯で捨て去ってしまった)遥かな過去の世界の遺産とし
て大いに誇るべき自らの古い歴史と高度な文化の残照(特に、凡そ李氏朝鮮が
開始する14世紀以前の、具体的に言えば高麗・百済・新羅・高句麗およびそ
れ以前の歴史と文化のリアルな痕跡)を日本列島のおよそ関西〜九州に及ぶ辺
り(特に奈良・河内・難波・京都・滋賀・若狭etc)に発見できるのではない
か?ということだ。

また、これと似たような“感情(感慨?)”は、冷静な態度で古代交流史へ目
を向ければ中国の人々も持てるはずだ。他方、その十分な評価はこれからであ
るとしても、近世の日本も朝鮮・中国から日本の近代化に役立つ大きな知的刺
激を受けてきたことも間違いがない(そのような事実については、多くの日本
国民が未だ中々認め難いのかも知れぬが・・・)。

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