メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:安倍「隷米“軍需”政権」は「伊勢神宮創建」精神を曲解した紀元二千六百年&・・・(1/2)  2013/03/01


[情報の評価]安倍「隷米“軍需”政権」は「伊勢神宮創建」精神を曲解した紀
元二千六百年&皇国史観型の軍需経済(原発利用式)パラノイア(1/2)

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130301

・・・画像『宇佐神宮の梅』2013.2は、http://urx.nu/3mZo より転載。

・・・画像『太宰府天満宮の梅』は、http://urx.nu/3mZZ より転載。

Lara Fabian - Je t`aime encore _ 2012

<注記>神憑り安倍・隷米“軍需”政権の御神体「神道政治連盟」

・・・「事実上、全国88,000社の神社を統括する」神社本庁の外郭政治団体
である神道政治連盟の会長は安倍晋三・自民党総裁で、神道政治連盟(神政連)
は国政選挙等における自民党の中核的集票マシンである。また、その神道政治
連盟(神政連)が<ウラニウムもプルトニウムも放射能もれっきとした大自然
の一部なので、それらを有効に活かす日本の原子力平和利用(原発、核燃サイ
クル、もんじゅ)は自然アニミズム信仰たる神道の道理に叶った日本にこそ相
応しいエネルギー・産業政策である>という、やんごとなくも“神憑る”お墨
付きを安倍・自民党政権へ授けていることは周知のとおり。

(プロローグ)“神憑り”安倍政権の正体

<史実の可能性が高く真の国家安全保障を実現した『7−8C/天武・持統期
〜平城京遷都頃の伊勢神宮創設と日本民族伝統確立の真の意義(民百姓の安寧
・福利を第一とする国家建設理念の存在)』を隠蔽する意思が潜む>という意
味で、「神武天皇と神功皇后新羅(三韓)征討」なる空想論の神話論理(ミソ
ロジー/それは、日本書紀が創作した時に先ず上層・貴族世界層で共有化され、
以降は南北朝末期の太平記で民百姓へ普及し、以降は太平洋戦争期まで真実と
して疑われなかった)は、「科学と経済の両合理性」を、疾うに、完全に失っ
たにもかかわらず未だに「原発安全神話」を高く掲げて世界原子村&ウラニウ
ム資源コングロマリット御用達の詭弁に付き従うばかりか、「一般国民の犠牲
を一切厭わぬ非情な上層(1%派)の代理人たる安倍政権」の紀元二千六百年
型<虚構論理>に通じる(画像『神武天皇説話のイメージ』は、
http://urx.nu/3lls より転載)。
http://www.facebook.com/tadano.oyaji.7#!/photo.php?fbid=340635172720445&set=a.110630322387599.11985.
100003218947947&type=1

案の定だが、原発復帰へ猛進し始めた安倍・自民党!フクシマ3.11原発事
故の過酷な現実(4号機問題等)を無視した神憑りの安倍政権は「エネルギー
計画検討委員会」から脱原発派の委員を排除して、オバマと米CSIS(ネオ
コンの牙城とされる保守系シンクタンク)へ原発推進を確約した!⇒ エネ計
画検討委 脱原発派を交代 経産省方針hanachancaue2013.02.21 07:08 http://urx.nu/3mNo

かくて、<原発安全神話>が復活し<反・脱原発派へのクレージー呼ばわり>
も取り戻される鴨?!日米首脳会談の目的は安倍が米CSISへ原発推進の復
活を報告することだった!メディアのプロパガンダにコロリと騙される余りに
も善良な日本国民!<原発推進>賛成が60%超も時間の問題だろう!⇒TP
P賛成63%に増 内閣支持上昇72%へ増 共同通信世調 - MSN産経http://urx.nu/3nES hanachancause2013.02.25 04:09

ホ〜ラ、それ見たことか!医療保険こそが米国のTPP本命ターゲット、場外
で神輿を担ぎ祝詞を上げる安倍・軍需アホノミクスと、今ごろ騒ぎ出すアホ・
マスメディア!⇒【TPP】の焦点に医療保険浮上 厚労省「国民皆保険制度」
崩壊に危機感−MSN 
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130226/trd13022622420008-n1.htm
hanachancause2013.02.28 11:10

1 古代日本における渡来文化の痕跡

(日本の古代化/幼生期・日本へのプロローグ) 

・・・これら二枚の画像は『大阪高低差学会のブログ』 http://osakakoteisa.blog.fc2.com/ より転載。

この『大阪高低差学会のブログ』から引用した二枚の画像(それぞれ低地を青
塗りしたもので、一枚目は大阪湾を中心とする地域を、二枚目は奈良から京都
南部辺りを俯瞰している)は、縄文海侵(進)、平安海侵(進)など遥かな太
古から古代にわたり海水面の上昇が幾度となく繰り返された時代の様々な可能
性を連想させて非常に興味深い。

無論、それは特に想定される数回の大きな海侵(進)の時代にだけ渡来人が押
し寄せたという意味ではなく、それらの狭間の時にも海水面の上昇と後退が幾
度となく繰り返されてきたことが想像されるからであり、加えて、これらの画
像について『大阪高低差学会のブログ』さんが<以下>のように分析している
からだ。

<地形図に歴史ある神社をプロットしてみた。すると低地と高台の境目にすべ
てが当てはまる。岬や崖の上は古来より聖地とされてきたというが、あるべき
場所に重要な神社が置かれていることを改めて実感する。また、上町台地の南
には世界的歴史遺産である百舌鳥(もず)古墳群があり、その東側に古市古墳
群がある。百舌鳥古墳群は海からよく見える場所にあり、古市古墳群は大和川
を遡り大和へ向かう途中にある。両古墳群は渡来人が多く訪れた地域でありア
ースダイバー的にもとても興味深い地域だ。>

因みに、二枚目の奈良から京都南部辺りの俯瞰図(画像)を見ると、四天王寺
と難波宮跡(飛鳥宮、斑鳩宮、大津宮、平城京などとの間で遷都の往還的繰り
返しはあるものの凡そ大化の改新から律令国家形成期の舞台となったところ)
が半島状地形の上に南北の関係で並び、さらに生駒山を挟む真東の奈良盆地内
の対称地点に平城京があり、その南には法隆寺が位置し、平安時代前期(9世
紀半頃)に宇佐神宮(九州・豊前国)から勧請された石清水八幡宮が淀川から
宇治川へ変わる辺りの岬状の場所(川岸の近く)に立地するなどがわかり興味
が尽きない。まるで、古墳時代末期〜飛鳥時代〜奈良・平安初期の歴史をリア
ルに俯瞰しているかのような錯覚に襲われる。

更に連想されるのが凡そ飛鳥・古墳時代末期から遥か紀元前後まで遡る「日本
古代化へのプロローグ」の時代、つまり「日本書紀」、「古事記」が描写する
日本の神話・説話の世界と重なる時代だ。そこで、大きく此の「日本古代化へ
のプロローグ」期から「日本国の輪郭が成立して天皇の呼称が開始する天武・
持統期(7世紀後半)」の時代辺りまでを「広義の日本の古代化(日本国の幼
生期)」と見立てることが可能であるだろう。すると、この時代に見逃せない
のが渡来人の夥しいばかりの数の多さと、彼らが此の日本国の幼生期(黎明期)
の基盤造りに果たした役割の大きさということである。

歴史学者・上田正昭氏(京大名誉教授/参考文献、下記◆)によれば、およそ
奈良時代末〜平安時代初期辺りを境(基準)として、それより遥か以前に渡来
した人々は「前渡(まえわたり)」、その頃に来たばかりの1・2世位の渡来
人は「今来(いまき)」と呼ばれ、貴族あるいは官僚・学者・僧侶・特殊技術
者などとして朝廷に仕えた「前渡」が自国の話し言語を忘れた(殆ど倭人化し
た)ため「今来」が通訳に取り組むなどの場面も見られたようだ(一方、この
頃の日本語の書き言葉は漢字で書かれた、つまり中国語での表記なので指導層
に属する倭人と渡来人の間での意思疎通は可成り図れたと考えられる)。

◆上田正昭編『古代の日本と渡来の文化』−学生社−

より深く「広義の日本の古代化(日本国の幼生期)」が意味するところの概観
のため、もう一人の注目すべき歴史学者・深谷克己氏(早大名誉教授)の著書
『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)から、関連する部分を下に引
用・転載しておく。

・・・社会が政治的支配・被支配ではなく、長老・祈祷者などの経験知・託宣
に導かれ、集団の合意によって行為を決定する「運営社会」から、特段の有力
者か少数上位者の意思によって左するか右するかを指図される「政治社会」へ
変化することが「古代化」である。中でも日本史では、当初から東アジアの
「古典古代」を継受するという(自意識を持つ)大陸諸王朝群の、さらに周辺
に位置して、かつ王への上昇を欲求するいくつもの集団(日本列島でいえば渡
来系、倭人系の諸豪族から成る数多くの集団)が一段上へ争闘を繰り返し鬩ぎ
あう地域であったために、国際的な力が往復的に働く中で消長し、長い時間を
要した古代化になった。・・・

・・・そのような意味での「古代化」は、数世紀にわたる長い過程であって、
初めから「日本国」だったのではない。「別れて百余国」と記された時代から、
奴国・邪馬台国等の小国あるいは連合国時代を過ぎて何世紀も後に、東アジア
法文明圏において承認される「国号」として「日本」、「日本国」が称され始
めた。日本列島にはなお独立性の強い広大な政治的勢力、部族社会が各地に跋
扈しており、それらに対抗しつつ、幼生期の日本国は国際関係において優越し
た地位を得たということである。・・・

・・・東アジア世界では、618年、後継中華王朝である唐が隋を滅ぼして周辺
諸国に圧力が及んだ。「異国」化の意識を強めた「倭」は百済の遺民と連合し、
新羅と連合した唐と663年に白村江で戦い敗れた。唐は、講和の施設を日本へ
派遣し、華夷の国交が始まり、それが「日本国」であろうとする、またその方
向を中華王朝が認める画期となった。国号変更は、倭という文字が雅(みやび)
でないという価値観が日本側にあったからだとされる。・・・

・・・また、古代以後にも、広い範囲の「唐物(からもの)」文物の渡来は留
まることがなかった。ことに古代の「日本国幼生期」に、東アジア古典古代を
継ぐ中華王朝の政治文化を吸引し続けたことによって、「外来文化の影響」を
超えて、自らの「体質」(特に日本的と見なすべき超個性的な中華帝国よりも
或る意味で高度化しソフィすティケイトされた体質←只野親父ことtoxandoria、
補足)に近い域にまでそれが及んだ。最初に吸収したものから、さらに二次的
に紡ぎ替えて日本風になった事物も数多くあり、身辺化して派及が気付かれな
くなっているものさえある。それは、日本の政治文化の「基層」の構成要素と
なったと言ってもいいくらいである。・・・

(古代日本における渡来文化の痕跡/事例サンプル)

飛鳥・古墳時代末期から遥か紀元前後まで遡る「日本古代化へのプロローグ」
期に関わる渡来人と、渡来系関連文化の痕跡を少し探ってみると、その数は夥
しいものとなり驚かされる。ただ、些かでも気を緩めるや否やトンデモ論、陰
謀論あるいは与太話の類の術中に嵌るリスクもあるので、これらの点に留意し
つつ幾つかの事例を以下に採録しておく。

大夫・難升米(たいふ・なんしょうまい)(歴史学者、上田正昭氏)

・・・3世紀、邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫(中国で使われた役職名)
とされる文字(漢字)を理解し、それを使うことができたとされる渡来系の人
物。

史部(ふひとべ)(歴史学者、上田正昭氏)

・・・記録・文書をつかさどって朝廷に仕えた部民(べのたみ)だが、3世紀
頃に渡来したという王仁(わに)の子孫・西史部(かわちのふひとべ)と阿知使主
(あちのおみ)の子孫・東史部(やまとのふひとべ)の二大勢力があったとされる。
金石文(金属や石などに記された文字資料)の記録者が史部であったと考えら
れる。

古代の交流史、日韓で共有/百済の昆支王、ソウルで展示へ)(2011.11.16産
経MSN)http://urx.nu/3nrG

・・・5世紀の雄略天皇の時代に倭国(古代日本)に派遣された百済(古代韓
国)の王族、昆支王(こんきおう)に関する展示スペースが、日本側の働きか
けで、韓国・ソウル市に2012年・春開館する市立漢城百済博物館に設置された。

・・・昆支王は百済の21代・蓋鹵王(こうろうおう)の弟。日本書紀には、
雄略5(461)年、蓋鹵王の命により倭国に派遣され、その際、兄の后(き
さき)を妻として同行したが、出産したため、生まれたこの継子を帰国させ、
後に25代武寧王となったと記されている。

・・・倭に渡った昆支の行跡に関しては、河内•近飛鳥で百済系の移住民を糾
合して根拠地としたという見解がある。『新撰姓氏錄』の河内近飛鳥戸造の先
祖と河内近飛鳥戸造神社の祭神が昆支である点と、倭で多くの子女が生まれた
という点から推測すると、昆支を先祖とする後裔(末裔)の氏族が、今の河内
・飛鳥郡一帯を中心に繁栄していたと思われる。これは百済人が倭に渡って造
った横口式石槨が主流をなす河内平野古墳群の分布からも立証できる

(http://urx.nu/3nrR)。

・・・なお、桓武天皇の生母である高野新笠(たかののにいがさ)は武寧王を
遠祖とする渡来人「和」氏の出身という記述が『続日本紀』にある。新笠は皇
后になることはできなかったが桓武天皇の生母として皇太夫人と称され、更に
皇太后とも称された。

渡来系氏族の中で国号を氏姓とした氏族で最も著名なのが百済王氏(くだらの
こにきしし)(歴史学者、坂本義種氏ほか)

・・・百済最後の王・義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝
に百済王の氏姓を賜与された。氏として百済がつく氏族は百済朝臣、百済公、
百済連、百済宿禰などがあるが、王という特殊な姓は、かつての百済を象徴す
る宗主的な存在であったことが窺われる。

・・・百済最後の国王義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋王と禅広王(善光
王)を人質として倭国に献上した。しかし、660年百済は唐の進攻によってあ
っけなく滅び、百済王室は唐の都に連行された。百済復興のため倭国から朝鮮
半島に戻った豊璋王(阿倍比羅夫が半島へ送り届け王位に就かせたとされる)
も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するも、やがて唐に捕らえられ流刑とな
ったため、日本に残った禅光王が百済王族の血統を伝えることとなった。

・・・奈良時代末期には百済王氏の後裔の俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使
などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど百済王敬福(くだらのこにきしのき
ょうふく/陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金が発見された)いらい東北地
方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。

・・・平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の「和」
氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇
・嵯峨天皇らの後宮の宮人としたため、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を
得た。また、桓武天皇の時の宮中には百済人の女官が数多く採用されていたと
の説もある。

・・・また、平安京遷都(794)で桓武天皇(生母が百済の武寧王の子孫(高野
新笠)であると続日本紀に記されているとの今上天皇自身からのご発言もある)
へスポンサー的な意味で大きな影響を与えた秦氏(百済系/秦河勝の私邸が御
所として桓武へ提供されたとの説もある)以前の渡来系部族として物部氏(百
済系?)と蘇我氏(新羅系?)の大きな存在は無視できない。

・・・因みに、近年の考古学調査で物部氏の仏教系氏寺と目される遺跡が発見
されたため(http://urx.nu/3bT2 http://urx.nu/3bT3 )、教科書的定説と
される<廃仏・物部氏VS親仏・蘇我氏>の崇仏論争という歴史解釈にも疑問が
投げかけられ、それは政治的権力抗争であった可能性が高くなっている。

・・・百済王氏の本拠地は難波であったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・
大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王氏の祀廟と百済寺を建立し
た。百済寺は中世に焼失したが百済王神社は今も大阪府枚方市に残る(http://urx.nu/3pQQ )。

・・・統計学的推計手法を使った直近の歴史研究によると、関東・東北辺りに
住んでいた俘囚と呼ばれる人々こそが原日本人(縄文系の子孫)であり、一方、
西日本〜畿内・中部辺りに住む日本人(弥生系の庶民層)は、その6〜7割が
半島又は中国からの渡来系の人々ないしは、その混血であり、その当時の日本
全国の人口規模は約700〜800万人と考えられるようだ(典拠:日本歴史学会編、
井上満郎著『人物叢書/秦河勝』―吉川弘文館―)。

・・・飛鳥・奈良〜平安初期の時代についての統計学的推計手法を使った直近
の歴史研究によると、関東・東北辺りに住んでいた俘囚と呼ばれる人々こそが
原日本人(縄文系の子孫)であり、一方、西日本〜畿内・中部辺りに住む日本
人(弥生系の庶民層)は、その6〜7割が半島又は中国からの渡来系の人々な
いしは、その混血であり、その当時の日本全国の人口規模は約700〜800万人と
考えられるようだ(典拠:日本歴史学会編、井上満郎著『人物叢書/秦河勝』
―吉川弘文館―)。

・・・また、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(平安時代初期の815
年(弘仁6年/799年(延暦18)12月の嵯峨天皇による本系帳提出命令に端を発す
る)に編纂された古代氏族名鑑)の記録によれば、当時の貴族・豪族層は約3
割が渡来系とされるが、それは自己申告方式だったため、この3割の数字には
疑わしい点がある。実際には、畿内・中部辺りの貴族・豪族は庶民層以上に渡
来系が占めており、前渡と今来を合わせれば7〜8割程度までが渡来系という
実態ではなかったかと思われる。

先進的な製鉄技術を日本に伝えたアメノヒボコ (歴史学者、上田正昭氏)

・・・アメノヒボコは、4〜5世紀の狭間ころに渡来し、播磨を経て但馬に定
着したとされる新羅の王子で、記紀と播磨風土記に登場するが、製鉄、水田開
墾などの技術者集団の渡来の可能性があるようだ(アメノヒボコはそのリーダー?)。

・・・事跡としては、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ/大阪市東成区)、揖
保郡太田里条(兵庫県揖保郡太子町太田)、出石神社(いずしじんじゃ/兵庫
県豊岡市)、糸井神社(奈良県磯城郡川西町)、アメノヒボコの後裔の可能性
がある三宅連(みやけのむらじ)、糸井造(いといのみやつこ)、但馬守(た
じまのかみ)など。

王辰爾(おうしんじ) (歴史学者、上田正昭氏)

・・・6世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍して、船氏(船史/ふねし)らの祖
となった渡来系(百済)の人物。大阪府曳野市古市にある野中寺(やちゅうじ)
は船氏の氏寺。日本書紀では、船の賦(みつぎ/積荷)を数え記録する仕事に
功があったので「船長」に任じられて、「船氏」の氏姓を与えられた人物とし
て登場する。また、「津史(つのふひと)」の氏姓を与えられた牛(うし)と
いう人物は王辰爾の弟とされる。

隋書倭国伝にある秦王国(はたorしんおうこく)、つまり豊前国(ぶぜんのく
に/現在の福岡県・東部から大分県・北部辺り)に入っていた仏教(538年の仏
教公伝以前の仏教伝来)、および其の薩摩・隼人との関係 (古代史研究家、
大和岩雄氏/歴史学者、中村明蔵氏)

・・・豊前地方には欽明期の創建になる仏閣が大変多く、中には538年以前の
ものもある。その後、百済系の秦氏(はたし)は、山背国葛野郡(現在の京都
市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在
の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着したが、薩摩・大隅地方との関わり
(移住?)も窺われる。大隅正八幡宮(鹿児島神社)(霧島市隼人町)、韓国
宇豆峰神社(霧島市上井)、韓国岳(霧島山最高峰)などの痕跡がある。

・・・霧島市隼人町の地名が残るとおり、百済系の秦氏と薩摩・隼人の繋がり
が窺われる。厳密には其の居住地の違いにより阿多隼人(薩摩隼人)、大隅隼
人、日向隼人などの区別がある。彼らは畿内とその周辺部にも居住しており、
その一部は律令制下で衛門府被官(官吏)の隼人司(はやとのつかさ)に属し、
天皇と朝廷の守護役を勤めていたともされる。

「神武天皇東遷神話」の新しい研究/森浩一『日本神話の考古学』(朝日新聞
社) (泉森皎氏、考古学者・元奈良県立橿原考古学研究所 / 研究員)

・・・これは、虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべきとする意欲的な著
書である。それによれば、神武天皇東遷神話については、九州地方(南九州お
よび豊国(北九州北東部))に遺されている考古学的資料・遺跡関係等と奈良
県宇陀地方の古墳群との関連を視野に入れつつ下記の諸問題についての研究推
進が期待される。

●何らかの政治的まとまりや軍事力を持った南九州の豪族集団の移動があった
と考えられる(豊国から薩摩・大隅地方へ移住した秦氏系の分派?)

●出発地点は日向(宮崎県)で、船団を組んでの移動であった

●途中には多くの寄港地と水崎案内人(ウズ彦=根源津彦/倭国造(やまとの
くにのみやつこ)?)がいた

●宇佐(豊国地方の秦氏系?)の建造物と思われる足一騰宮(あしひとつあが
りのみや/一本柱建築)の記述(記紀による)などからは中国の南方的要素の
渡来が窺われる

●同じく、記述(記紀による)の関連記述では宗像神社(北九州)のある玄界
灘沿岸らしい特殊性が窺われる

2 「幼生期・日本の完成」(中国律令制と儒教の日本化プロセス)は伊勢神
宮創建期(天武・持統期)に重なる

(7世紀後半の天武・持統期は中華帝国の律令制・儒教の日本化プロセス/幼
生期・日本の完成)


(1)祖型「伊勢神道」(律令制・儒教の日本化プロセス)についての概観
 (一部は、http://urx.nu/3oZ3 より部分再録)


推古天皇(厳密には推古大王/位593 - 628)の600〜618年の18年間に5回以上
派遣された遣隋使(小野妹子の派遣は607年)による文化的な衝撃が大きかっ
た。そこで国威発揚を目的とするグランドデザインの必要性を意識し着手され
たのが「日本書紀」(720/養老4年)に記述がある「天皇記」、「国記」な
ど国史(両者とも現存せず)の編纂であるが、その過程で「日神祭祀」(太陽
神、つまり天照大神(あまてらすおおみかみ)を崇め望拝する宗教儀礼)を伴
う王権神話が創作されたと考えられる。

現存する日本書紀の中の推古紀に具体的な「日神祭祀」(天照大神)の指摘と
記述はないが、同じく用明紀が引用する別の推古祀の記述からは、その「日神
祭祀」が行われていた可能性が窺われる。

しかも、日本書紀の編者・舎人親王らが、その事実に一定の脚色を加えつつ、
より古い時代の崇神紀・垂仁紀へ其の記述内容を意識的に移行し、その上に重
ね書きした可能性が高い。つまり、8世紀初頭に成立した「日本書紀」と「古
事記」(出来た順序は逆になるが、古事記は日本書紀の副次派生的テキストと
考えられる)は、幼生期・日本の深層記憶をヴァーチャル化したものであった
と考えられる訳だ。

垂仁紀に記載されている<御杖代(みつえしろ/神や天皇の杖代わりとなって
奉仕する役目を負う人物)の皇女が天照大神の奉祭地を求め大和から伊勢へ移
動する物語における、近江から美濃への大きな迂回伝承>は、「壬申の乱
(672)における戦線の地理的展開と移動」が反映していると考えられる。

ともかくも、伊勢神宮・創期のプロセスで見逃せないのは、すでに推古朝(593-628)において「日神祭祀」(天照大神の祭祀)が行われていた可能性があるこ
と、斉明朝の百済滅亡(660年/倭(日本)は百済からの亡命者を多数受け入れ
た)の前後における「伊勢とは異質な出雲の外部性(百済・大陸系渡来文化等の
影響)を伴う祭祀世界の吸収」(参照、下の注記3)、持統朝における社殿造
営と行幸(692年?)、という三代の天皇の治世下における三つの出来事である。

<注記>出雲の二つの外部性

・・・出雲には、伊勢とは異質な二つの外部性があると考えられる。一つは伊
勢の太陽神(日出)を補完すると言う意味で伊勢とは異質な日没の神々、つま
り大己貴神(おほなむち=大国主命)を中心として祀る杵築神社(現、出雲大
社)の神々の存在。もう一つは、半島・大陸系文化が流入して来る窓口として
の外部性であり、例えば古代に東出雲(現在の松江辺り)で勢力を誇った蘇我
氏は新羅系ともされる(聖徳太子の没後に実権を握った蘇我馬子らの背景?)。

つまり、この7世紀後半(近江浄御原令(668/天智朝))の頃に律令制が定
められ神祇官・太政官・徴税制などが制定されてから、各地域に分散伝来して
行われてきた仏教の寺院建築(中国・百済等系の先進文明の象徴)に倣う意味
もあり、天地神祇(伝統の民族的・鬼道信仰的風習/この時代には未だ神道
(シントウ)の呼称はなく、神祇が一般的であったがジンドウと呼ばれていた
可能性は高い/参照⇒2013-01-17toxandoriaの日記、http://urx.nu/3bT4 )
を祀る神社(元来は氏族単位で存在した?)が、神仏習合的観念の下で本格造
営が行われるようになっていたと考えられる。

そこで問題とすべきは、そもそもの<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』の神
話論理(ミソロジー)とは一体どの様な内容であったのか?>ということだ。
それは、この<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』なる神話論理(ミソロジー)
への根本的誤解>こそが、明治維新期以降における<国民玉砕型の狂った偽イ
デオロギー/偽保守主義=皇国史観のベースとなった『紀元二千六百年』型歴
史観>をもたらしていると考えられるからだ(伊勢神宮のミソロジーの詳細に
ついては、下記◆を参照乞う)。

◆アベノミクスへの応援で国民の文化マインドコントロールを謀る神政連のト
ンデモ「原発必要論」(祖型伊勢神道比較/正統保守試論)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130207

そして、特に留意すべきは、<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』なる神話論
理(ミソロジー)そのものが誤りだということではなく、その『超越神聖王
権』の本質的部分についての曲解(時によっては意図的・恣意的な?)とミス
リードが、明治維新期以降の『皇国史観⇒太平洋戦争への突入』や現代日本の
『国策原発』なる『国民玉砕型の恐るべきほどリスキーな国家グランドデザイ
ンのジレンマ』を日本へもたらしているという現実>を、我われはメディアプ
ロパガンダなどに惑わされることなく冷静に直視すべきだということである。

(2)優れたオリジナル日本文化と天皇制の象徴たる祖型・伊勢神宮の建築と
儀礼が意味すること

・・・この伊勢神宮の画像は、http://urx.nu/3puU より転載。

・・・以下は、伊勢神宮・斎宮歴史博物館、学芸普及課長・榎村 寛之氏の論
文『伊勢神宮の建築と儀礼‐棟持柱建物は神社建築か?‐』を参照して書かせ
て頂いた内容である(出典:上田正昭編『古代の日本と渡来の文化』‐学生
社‐)(斎宮歴史博物館の画像は、http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/
より転載)

<伊勢神宮創建(日本幼生後期)の意義>は『伊勢神道の精神性/創設時の歴
史と根本理念(天皇の超神聖王権の主柱)』にあることは既に書いてきたとお
りである。また、その日本国幼生後期において<伊勢神宮が天皇の超神聖王権
の主柱として創建された意義>についての詳細は、下記◆を参照願いたい。

◆フクシマの直視ができず対象喪失ホワイトアウトに嵌り過半超の反原発意思
が7割の安倍「原発推進」支持へ転換する不可解ニッポンhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130216

◆アベノミクス&国策原発の玄宮で蜷局(とぐろ)を巻く「神道政治連盟」な
る自民党御用達「極右ウロボロス神」の現象学的考察http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130117

ここでは、そのような意味での「創建・日本国」のオリジナリティである<伊
勢神宮の建物(および神道儀式)の起源>について、更に観察を深めてみるこ
とにする。結論からいえば、そのアーキタイプは、外来・渡来系の文化、特に
関連儀式に関しては、その起源が明らかに古代中華帝国の律令制にあるという
ことだ。

日本精神の起源の象徴である伊勢神宮のモデルが中華帝国の律令にあることを
知ると、それは沽券(こけん/原義は不動産の売り渡し証券、転じて人やモノ
の値打ちのこと)に関わると思う向きもおられると思うが、およそ世界文明の
伝播・発展プロセスを概観すると、全くの独創(オリジナリティ)的文化様式
が、ある日、突如として此の地球上の何処かに出現し、まるでボーフラの如く
湧き出すなどということはあり得ないことだ。

須らく、人間文明は其の意味で果てしない模倣の繰り返しの連続なのである。
だからこそ、宿命的に付き纏うという意味での此の模倣から、如何にして其の
土地固有の自然環境や地域文化環境と調和させつつ当該地に最も相応しいオリ
ジナリティを創造できるかということが問題となる訳だ。日本が世界に誇る国
風文化(10世紀初頭〜)もそのようにして誕生し、それこそが日本語(漢字か
な混じり文としての書き言葉)、日本文化、そして誇り高い日本人としての他
に代え難く、とても洗練されて魅力的な個性を育んできたという事実は、我わ
れが義務教育過程の日本史の中で学んだとおりである。

だからといって、現代の中国で横行する他国模造品の乱造ビジネスや日本国内
でのパロディー商品の類(例えば、吉本興業の“面白い恋人”騒動など←コレ
には“原発安全神話”風味で何となく妖しいメディアぐるみのヤラセ的空気が
漂うが・・・←只野親父ことtoxandoria、補足www)を礼賛する訳ではない、
それとこれは全く異次元の問題である(画像は、http://urx.nu/3puP より
転載)。

・・・以下、伊勢神宮の建築と儀礼が古代中華帝国の律令制等の導入であるこ
とに関わる問題点を箇条書きで纏めておく・・・

●伊勢神宮の棟持柱高床建築(神明造)について

・・・(参照、上掲画像)を持つ高床式建築(神明造)は伊勢神宮・社殿建築
の特徴となっている。そして、一般的に、これは神社建築の特徴と見なされて
いるようだが、これには問題がある。

・・・棟持柱を持つ高床式建築は縄文中期頃からの発掘事例はあるが、伊勢神
宮の建築を除けば、それらの全てが神社建築と断定された訳ではなく、むしろ
伊勢神宮が例外的なものである。

・・・考えられるのは、伊勢神宮を除く棟持柱建築は倉庫建築ないしは宮殿建
築ではないかということである。因みに、現在、神明造と呼ばれる神社建築は
唯一伊勢神宮だけであり、現在の神社建築の大多数を占めるのは、平安時代以
降に成立したと考えられる流造(賀茂神社正殿の様式)と春日造(春日大社正
殿の様式)である。

・・・それ以前の古い形式と見られる住吉造、大社造(出雲大社造)、大鳥造
(大阪府大鳥社)、和歌山県日前国懸社(図面のみ存在)は棟持柱を採用して
いない。

・・・伊勢神宮の諸儀式の根本的意味は、天皇と同じく御神体の鏡が行幸(移
動)し出御することにあると考えられており、諸儀式が神宮正殿の内部で行わ
れることはなく、それは正殿前の外部空間で行われることになる。

・・・従って、棟持柱の意義として考えられるのは、建物と儀式が一体化して
荘厳な空気を醸し出す演出上の効果が期待されていたということだ。つまり、
正殿の屋根の棟持柱効果による巨大化の背景には、屋根という、建築がたとえ
塀で囲まれていても外部から見ることのできる、いわば最も目立つ部分を拡大
することで、建築の荘厳性を強調すること以上の積極的意味はないと考えられ
る。

・・・なお、豪壮な印象効果を演出する棟持柱建築を持つ古代建築のルーツは
ヨーロッパ、中国南西部、東南アジア、朝鮮半島などにも拡がっているが、そ
の殆どは内部空間の合理的仕切りの必要性などから消え去っており、伊勢神宮
の神明造は、その意味でも世界的に非常に貴重な遺産である(Cf. http://urx.nu/3pxG )。

・・・なお、屋上屋になるが、神明造のルーツも古代世界の文化伝播の流れの
中で縄文期頃に渡来伝播したものと考えられる。しかし、既述のとおり、「神
武天皇東遷神話」に関連して<宇佐(豊国地方の秦氏系?)の建造物と思われ
る足一騰宮(あしひとつあがりのみや/一本柱建築)の記述(記紀による)か
ら中国の南方的要素の渡来が窺われる>という指摘があることは興味深いこと
だ(← 只野親父ことtoxandoria、補足)。

●「日本古来の伝統祭祀と渡来『律令制または唐風』儀式の融合文化」として
の伊勢神宮祭祀

・・・黒田龍二氏(神戸大学教授、建築学)の研究によれば、伊勢神宮の社殿
は心御柱(社殿の中央にある柱)を基準(遷宮の定点)に、神宮の平面プラン
が作られている。ただ、「心御柱」自体の「依り代(日本古来信仰の鬼道で神
霊が依り憑くとされる対象物)」的な性格も重視すべきと思われる。

・・・つまり、依り代である心御柱を定点とする広場を中心として意識しつつ、
柵・門・建物を整然と配したところに伊勢神宮祭祀の二重性(日本古来の信仰
である鬼道プラス渡来・律令制等の宮廷儀礼・寺院儀礼の視角化された「礼秩
序」の二重構造)が見られるという訳だ。なお「礼秩序」および其れに付随す
る「拝礼作法・規定服飾」等は中国・春秋戦国時代の儒家および法家が観念的
に確立し、かつ外形的にそれらを整備したものである。

・・・それは、遷宮の制度が定着した7世紀末〜8世紀初頭、つまり、まさに
天武・持統期という日本型・律令国家の形成期に初めて実現された儀礼である。
なお、天皇の命により神社・山陵などに幣帛(神道の祭祀において神に奉献す
るもののうち、神饌以外のものの総称)を奉献する儀式「奉幣(ほうべい、ほ
うへい)」も、中華帝国の律令儀式・心法(老荘の精神修養法)などから援用
され、日本的という意味で高度にソフィスティケイトされたものと考えられる。

・・・なお、斎宮儀式における唐風女性の装束を始めとして、日本の宮廷にお
ける儀式が唐風儀式の援用であることも周知のとおりである。無論、それは全
くの模倣ということではなく、遣唐使による実際の見聞、あるいは渡来系貴族
層などによってもたらされた文物や風俗文化・儀礼作法などの模倣・習得を通
じて、日本宮廷の貴族層が次第に日本風に演出するようになり、より高度化・
洗練化する形で其れらを採り入れていったものと考えられる(← 只野親父こ
とtoxandoria、補足)。

【参考動画】臺北市孔廟-古禮祭典《雅樂舞》

(3)8世紀初頭に成立した古事記(712)、日本書紀(720)は「プロローグ
幼生期・日本の深層記憶」のヴァーチャル化

既述のとおり幼生期・日本の国威発揚を目的とするグランドデザインの必要性
を意識し書かれたのが『古事記』と『日本書紀』である。そして、天武天皇の
命で稗田阿礼が誦習した内容を太安万侶が日本語で書いたものが『古事記』で
あるとされるが、厳密に言えば、それは<文字は漢字を使ったが日本語の語順
である“漢字和文”で書かれた>ということだ。一方、『日本書紀』は漢文
(中国語)で書かれており神代から持統天皇の時代までを扱う。

そして、この両者は現代の日本へも様々な意味で大きな影響を与え続けている。
そこで、「古事記(712)、日本書紀(720)はプロローグ幼生期・日本の深層
記憶のヴァーチャル化であること」が、現代にも大きな影響を与えているとい
う事実の説明に代えて、古事記と日本書紀が伝える「神功皇后三韓征伐(新羅
征討説話)」の意義を説明する歴史学者・深谷克己氏の著書『東アジア法文明
圏の中の日本史』から、関連する部分についての説明を下に一部引用しておく。

・・・3世紀のことと『古事記』、『日本書紀』が伝える、「新羅・高句麗・
百済征服」の記録は、後世、「神功皇后三韓征伐」と呼ばれ、近世でもその信
憑性が疑われないまま近代に持ち込まれた「説話」あるいは「霊験譚」である。
日本近代史の朝鮮国植民地化の古代史像を提供してきた武功物語である。

物語の中心は、『日本書紀』に第14代天皇として記録された仲哀天皇の后で、
応神天皇の母である神功皇后が新羅に対して行ったとされる出兵である。新羅
は降伏し、百済・高句麗も日本の支配下に入ったとされる。8世紀初頭の『日
本書紀』の完成が、おそらく貴族世界において、史実の根拠の確信される画期
になったものと思われる。

しかし、全国民的に大きな情報源となっていったのは、南北朝時代の末期に書
かれた(1370年頃までに成立)軍記物語『太平記』である。いわば「中世」に
よって送り継がれた「民族物語」である。そして、これは史実と信じられた。
江戸時代の学者でも、これを疑う者はなかった。なぜなら、それが虚偽だとい
う発想はなく、また疑っても証明はできず、近世にあるのは「朝鮮通信使」が
単方向的に来日するという「来聘(らいへい)」の事実だったからである。

しかも、「神功皇后三韓征伐」は、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わるま
で、日本では広く真実とみなされていたのである(それは、全ての日本国民が
記紀創作の『日本の深層記憶のヴァーチャル化』に囚われて集合的パラノイア
状態になっていたということ!←只野親父ことtoxandoria、補足)。・・・途
中、略・・・

そして、おそらく、この武功物語は「朝家(天皇家)」(および、摂関政治期
以降に定着した日本伝統の二重権力構造のもう一本の柱である武家政権←只野
親父ことtoxandoria、補足)が「政(まつりごと)」を担う威信を社会から獲
得するうえで大きな保障力になったものと考えられる。なぜなら、「覇権を誇
張する安全の保障者」こそが国家権力の掌握者に相応しいと見なすのが、無辜
な民百姓(一般国民層)の気持ち(民意)の常(つね)だからである。・・・


・・・

つまり、歴史学者・深谷克己氏のように冷静で、かつ十分に客観的な観点で日
本の歴史を概観すれば、当然のこととして見えてくるのは<天武・持統期(7
世紀後半頃の伊勢神宮創建期)を中心とする7〜8世紀にかけてヤマト朝廷が
律令制の充実による独立国家・日本の基盤づくりと個性的な国風文化確立への
準備に取り組みを始めた時代>の歴史を正しく理解することが全ての基本であ
り、かつ最重要であるということだ。ただ、これも深谷氏が述べるとおりであ
るが、「覇権を誇張する安全の保障者」こそが国家権力の掌握者に相応しいと
見なすのが一般国民層の民意となり易いということも厳しい現実なのだ。

だからこそ、一般国民層に対して正しい情報を提供するジャーナリズム活動の
ための環境が十分に整った民主主義国であるはずの現代日本における主要メデ
ィアの役割が非常に重要だということになる。そして、民主党政権の自滅崩壊
を受けて政権に就いた安倍自民党政権が、ポスト・フクシマで言葉巧みに「覇
権(実はひたすら隷米!)を誇張する安全の保障者」を演じていることは周知
のとおりだ。他方、知る人ぞ知るではあるが、安倍政権のホンネは<「紀元二
千六百年」型の歴史観(皇国史観)と原発推進を日本に取り戻す>ということ
にある。

安倍政権は、明らかに「衣の下に刃を忍ばせている(一般国民に対して!)」
のであり、これを野合的、凭れ合い的な関係で必死に支援しているのが<6世
紀から紀元前にまで遡る日本の“神話的色彩が濃い幼生時代を現実の歴史と見
なすべき(しかも原発はアニミズムだとのトンデモ屁理屈を騙る!)>と主張
する神道政治連盟など、いわゆる右派系と呼ばれる諸団体(その内実は、単な
る文化的な意味で見栄っ張りのウソ吐き集団であり、伝統保守の風上にも置け
ない輩!)である。

このような意味でも、アベノミクス(アホノミクスこそ相応しい!)なる隷米
“軍需&原発一極型”経済政策をひたすら持ち上げるばかりで、安倍の「仮想
(日本の深層記憶)のヴァーチャル化/皇国史観復活の企み」の超リスクを無
視し続ける、つまり<権力のイヌと化した主要メディア>の罪は非常に重い。
また、その意味でも『古事記』と『日本書紀』は現代日本へも、まことに大き
な影響を与え続けているということになるのである。

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