メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:アベノミクスへの応援で国民の文化マインドコントロールを謀る神政連のトンデモ「原発必要論」(2/2)  2013/02/07


[日本のアキレス腱]アベノミクスへの応援で国民の文化マインドコントロール
を謀る神政連のトンデモ「原発必要論」(祖型伊勢神道比較/正統保守試論)
(2/2)

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記でご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130207

3 祖型「伊勢神道」についての概観 

…画像は、http://urx.nu/3cjY より転載。

伊勢神宮の創期問題は、必然的に古代大和王権の歴史と絡むことになるが、こ
こで其の概要を見ておく(主に参照した文献は下記◆)。

◆新谷尚紀著『伊勢神宮と出雲大社/日本と天皇の誕生』(講談社選書メチエ)

◆櫻井勝之進著『伊勢神宮の祖型と展開』(国書刊行会)

◆斎川眞著『天皇がわかれば日本がわかる』(ちくま新書)

◆鎌田東二著『神道とは何か』(PHP選書)

◆上田正昭著『古代の日本と渡来の文化』(学生社)

◆伊勢神宮と日本の神々(朝日新聞社)

3−1 歴史学的に考えられる伊勢神宮の創期とは?/それを知るカギは内宮
の日神信仰にある

・・・画像は、http://urx.nu/3bTj より。

推古天皇(厳密には推古大王/位593 - 628)の600〜618年の18年間に5回以上
派遣された遣隋使(小野妹子の派遣は607年)による文化的な衝撃が大きかっ
た。そこで国威発揚を目的とするグランドデザインの必要性を意識し着手され
たのが「日本書紀」(720/養老4年)に記述がある「天皇記」、「国記」な
ど国史(両者とも現存せず)の編纂であるが、その過程で「日神祭祀」(太陽
神、つまり天照大神(あまてらすおおみかみ)を崇め望拝する宗教儀礼)を伴
う王権神話が創作されたと考えられる(画像は、http://urx.nu/3byq より転
載)。

現存する日本書紀の中の推古紀に具体的な「日神祭祀」(天照大神)の指摘と
記述はないが、同じく用明紀が引用する別の推古祀の記述からは、その「日神
祭祀」が行われていた可能性が窺われる。しかも、日本書紀の編者・舎人親王
らが、その事実に一定の脚色を加えつつ、より古い時代の崇神紀・垂仁紀へ其
の記述内容を意識的に移行し、その上に重ね書きした可能性が高い。

垂仁紀に記載されている<御杖代(みつえしろ/神や天皇の杖代わりとなって
奉仕する役目を負う人物)の皇女が天照大神の奉祭地を求め大和から伊勢へ移
動する物語における、近江から美濃への大きな迂回伝承/参照、下の注記>は
、「壬申の乱における戦線の地理的展開と移動」が反映していると考えられ
る。しかし、その関連を指摘する記述が「古事記」(712/和銅5年)には一切
なく、そのこと自体が「天武天皇の勅語を「誦習」した稗田阿礼の記憶を復元
する作業の中には未だそれが存在しなかった」ことの傍証と思われる(画像は、http://urx.nu/3bF0 より)。

<注記>倭姫命(やまとひめのみこと)には、元伊勢伝説 (その御巡幸の足
跡)があり?大神の鎮座地?を求めて、笠縫邑(かさぬいむら)を出発し宇陀から
近江・美濃を経て伊勢に到着されたと伝えられている。http://urx.nu/3bF0

・・・

天皇が、皇女を天照大神に奉仕させる「斎宮制」について、日本書紀では、崇
神・垂仁・景行・雄略・継体・欽名・敏達・用明・天武の歴代紀の中に関連記
事が書いてあるが、その中で歴史的事実と見なせるものは<泊瀬(初瀬/現在、
奈良県桜井市)の斎宮から伊勢へ派遣された天武の皇女・大来皇女(or大伯皇
女/おおくのひめみこ)の例だけである。

持統紀には、新たに斎宮が派遣されたことは書いてないので、やはり「斎宮」
の制は次の天武天皇以降(天武・持統から正式に天皇の呼び名が始まる)に制
度化されたと考えられる。また、「壬申の乱(672-678)」の最中に大海人皇子
(後の天武)が望拝していたとされる天照大神が、既に伊勢の地に以前から祀
られていたのか、あるいは未だ大和の三輪山(現在の桜井市)辺りに祀られて
いたのかという問題が解明すべき課題として残る。

ともかくも、伊勢神宮・創期のプロセスで見逃せないのは、すでに推古朝(593-628)において「日神祭祀」(天照大神の祭祀)が行われていた可能性があるこ
と、斉明朝の百済滅亡(660年/倭(日本)は百済からの亡命者を多数受け入れ
た)の前後における「伊勢とは異質な出雲の外部性(百済・大陸系渡来文化等の
影響)を伴う祭祀世界の吸収」(参照、下の注記)、持統朝における社殿造営
と行幸(692年?)、という三代の天皇の治世下における三つの出来事である。

<注記>出雲には、伊勢とは異質な二つの外部性があると考えられる。一つは
伊勢の太陽神(日出)を補完すると言う意味で伊勢とは異質な日没の神々、つ
まり大己貴神(おほなむち=大国主命)を中心として祀る杵築神社(現、出雲
大社)の神々の存在。もう一つは、半島・大陸系文化が流入して来る窓口とし
ての外部性であり、例えば古代に東出雲(現在の松江辺り)で勢力を誇った蘇
我氏は新羅系ともされる(聖徳太子の没後に実権を握った蘇我馬子らの背景?)。

・・・

ところで、最も可能性が高い伊勢神宮の造営時期は673年(天武2年)4月の
大来皇女(大伯皇女)の「泊瀬の斎宮での籠り〜翌674年(天武3年)10月の伊
勢への出発までの過程」であると思われ、遅くとも692年(持統6年)の持統天
皇の伊勢行幸に際しては伊勢神宮の社殿が存在したと考えられる。そして、そ
の内宮に、国家の最高神たる天照大神が祀られてきということになる。

いわば、それは<本格的律令税制下で行われた此の壮大な伊勢神宮の社殿創
建>は、藤原京(新益京/あらましのみやこ、しんやくきょう/新しい宗教・
文化・経済価値を創造する都の意?)への遷都(694年/朱鳥9年)と組み合わ
せた、日本の国家アイデンティティを確立するための「一大国家事業」であり、
同時に、それは明らかに中国皇帝との差別化を意識した、日本独自の『超越神
聖王権としての天皇制の創造』ということであったと考えられる。

また、儒教思想による易姓革命の論理で人格等についての評価・判断から改易
が可能な中国皇帝からの派生的借用と見なすべき日本の天皇(王権)ではあっ
たが、天皇の場合は、元々が神の子孫(天孫)であるという巧みな神話論理
(ミソロジー)から改易されることはあり得ず、それ故に爾後は、万世一系と
いう理屈が定着することになったと考えられる。

そして、それは当時の極東アジアにおける国際関係の急変(天智期における、
殆ど母国的な繋がりを持った親交国・百済の滅亡(660)と、それを支援した
白村江の戦いでの大敗(663)など/参照、下の注記)の影響であることは間
違いがなく、“唐・新羅”との比較で、宗教・文化・政治・行政・官僚制・軍
事・経済などについて、独立独歩に目覚めた自律国家としての日本の劣勢挽回
意識が高揚した結果であったと考えられる。

<注記>平安京遷都(794)で桓武天皇(生母が百済の武寧王の子孫(高野新
笠)であると続日本紀に記されているとの今上天皇の発言もある)へ大きな影
響を与えた秦氏(百済系)以前の渡来系部族として物部氏(百済系?)と蘇我
氏(新羅系?)の大きな存在は無視できない。因みに、近年の考古学調査で物
部氏の仏教系氏寺と目される遺跡が発見されたため(http://urx.nu/3bT2 http://urx.nu/3bT3 )、教科書的定説とされる<廃仏・物部氏VS親仏・蘇我
氏>の崇仏論争という歴史解釈にも疑問が投げかけられ、それは政治的権力抗
争であった可能性が高くなっている。

・・・

ともかくも、この7世紀後半(近江浄御原令(668/天智朝))の頃に律令制
が定められ神祇官・太政官・徴税制などが制定されてから、各地域に分散伝来
して行われてきた仏教の寺院建築(中国・百済等系の先進文明の象徴)に倣う
意味もあり、天地神祇(伝統の民族的・宗教的風習/この時代には未だ神道
(シントウ)の呼称はなく、神祇が一般的であったがジンドウと呼ばれていた
可能性は高い/参照⇒2013-01-17toxandoriaの日記、http://urx.nu/3bT4 )
を祀る神社(元来は氏族単位で存在した?)が、神仏習合的観念の下で本格造
営が行われるようになっていたと考えられる。

ところで、問題とすべきは、そもそもの<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』
の神話論理(ミソロジー)とは一体どの様な内容であったのか?>ということ
だ。それは、この<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』なる神話論理(ミソロ
ジー)への根本的誤解>こそが、明治維新期以降における<国民玉砕型の狂っ
た偽イデオロギー/偽保守主義>をもたらしていると考えられるからだ。

ここで特に留意すべきは、伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』なる神話論理
(ミソロジー)そのものが誤りだということではなく、その『超越神聖王権』
の本質的部分についての曲解(時によっては意図的・恣意的な?)と誤解が、
明治維新期以降の『皇国史観⇒国策戦争への突入』や現代日本の『国策原発』
なる、国民玉砕型の恐るべきほどリスキーな国家グランドデザインのジレンマ
を日本へもたらしたという恐るべき現実を直視すべきであるということだ。

3−2 外宮の役割の重要性/国策原発のジレンマを解くカギ、それは“新嘗
祭・大嘗祭・式年遷宮”の意義、日本伝統のアニミズム観念を深慮することえ
ること

・・・外宮の画像は、http://urx.nu/3bTg より転載。


3−2−1 天武・持統期における伊勢神宮・外宮創設の概要

さて、周知のとおり伊勢神宮の外宮には豊受大御神(とようけのおおみかみ)
が祀られている。ここで、「受け(うけ)」というコトバは食物を示してお
り、豊受大御神は食物・穀物を司る神とされ、そのことから衣食住、ならびに
広く産業の守護神として崇められるようになってきた。

『伊勢神宮と出雲大社/日本と天皇の誕生』(講談社選書メチエ)の著者・新
谷尚紀氏の説によれば、持統天皇(位690 - 697)の治世は<大津皇子の謀殺
から始まり、草壁皇子の死亡、高市皇子の死亡、皇孫軽王(かるおう)つまり
文武天皇の即位までの過程において、其の執念を実現させるための皇位継承を
めぐる非常(異常な?)な緊張に中にあった>とされる。

つまり、持統天皇までの時代は国家宗教としての神祇祭祀の規範と枠組みも、
あるいは皇位継承に関わる諸制度や儀礼・慣習等も殆ど国家の制度的あるいは
行政運用的な仕組みが未発達・未整備であったということになる。そのうえ、
持統期は未だに当時の極東アジアにおける国際関係の危機的緊張の空気が加わ
り続けたため、並大抵ではない天皇としての統治能力が求められたと考えられ
る。

そのため、日本書紀の記述によれば持統天皇が主宰した神祇祭祀に関わる諸政
策の記事が天武天皇(壬申の乱の後の混乱期でもあるため、天武期のそれ(神
祇だけでなく道教・仏教・陰陽道関連もある)は異常に多かった!)に劣らず、
その数の多さが目立っている。そして、持統天皇・主宰の神祇祭祀に関わる諸
施策を概観したときに、そこから得られる特徴を纏めてみると以下の4点とな
る(出典:同上、『伊勢神宮と出雲大社/日本と天皇の誕生』)。

(1)王権(天皇権)の超神聖性を殊更に強調した

・・・持統天皇の即位(690)は、皇位継承に関わる原則が殆ど存在しなかった
ため、絶えず薄氷を踏むが如き非常に強い政治的緊張の中で実現した。このた
め、天武の王権を引き継ぐ即位式では殊更に天皇の神聖性と爾後の儀礼継承の
重要性を意識させる演出が強調された。

(2)伊勢行幸(690)と併せて「大嘗祭」(本来の意味での神道的アニミズ
ム感性に基づく

稀少な自然環境下における王権&国家の蘇り・再生・循環・継続の儀式)を執
行した(天皇権・超神聖性を保証する最重要儀式)

・・・迷信的思惑などに縛られる周囲からの諫言を排し実行した伊勢行幸の翌
年(691)には、新しい都城「新益京」の鎮祭を行わせ、即位の「大嘗祭」を
執行した。これで、宗教的観念の定着による王権の正統性(大嘗祭)と現実政
治のリアリズム(都城「新益京」建設が象徴する)の二つが新国家体制の主柱
として確保されたことになる。

<注記>天武朝(持統は天武の皇后であった)において、神祇祭祀の重要儀礼
である新嘗祭(にいなめさい/収穫祭)と大嘗祭(だいじょうさい、おおにえ
のまつり/天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭)、および広瀬・大忌神祭
と龍田・風神祭(2−2『神党政治連盟(神社庁)による国家神道型の奇怪な
原発擁護論』で既出)という「稲作豊穣祈願をめぐる重要な祭祀儀礼」を整備
した。

(3)最も確実視される伊勢神宮の造営開示時期は673年(天武2年)4月の大
来皇女の泊瀬の斎宮への籠りから翌3年(674)10月の伊勢への出発の頃であ
る。持統6年(692)の持統天皇の伊勢行幸の時は伊勢神宮社殿が存在したこと
は確実視されている。

(4)天皇奉拝の場たる伊勢神宮を神社筆頭とした

3−2−2 “新嘗祭、大嘗祭および式年遷宮”/その本来意義の変容プロセス

当記事を書く契機は、<事実上、全国で約8.8万社を数える神社を統括する
神社庁、および其の外郭であり、かつ実効権力的な意味での上部構造と底辺に
拡がる広大な政治活動世界そして国政選挙動向などを現実的に牛耳る神道政治
連盟が「自民党ら“自称”正統右派を気負う政治勢力の支え」となっている>
のを知ったことにある。その意味で神社庁・神道政治連盟の両者は「原子力系
科学アカデミズムを中心とする日本原子村の支え」でもある。従って、当記事
の目的は<フクシマ3.11原発過酷事故にもめげぬ国策原発推進論の神憑り的根
拠の非条理さ>を抉り出すことにある。

そこで、その核心と思しき<神道とは何か>という素朴な疑問にスポットを当
てつつ、戦前においては、ほぼ日本の歴史に重なるだけの非常に長い時間にお
よび日本社会一般へ広く深く影響を与え続けてきた(今も此の点は同じと思わ
れるが・・・)、そして特に明治維新以降において皇国史観・国体論・国家神
道のミソロジー(神話論理)的中枢であり続け、今も象徴天皇制の精神的支柱
の役割を担う伊勢神宮の現代的意味について、その根本を問う作業を試みてき
た。そして、奇しくも今年は式年遷宮の年でもある。

ところで、『伊勢神宮と出雲大社/日本と天皇の誕生』(講談社選書メチエ)
の著者・新谷尚紀氏が、この本の中で民俗学者・折口信夫の王権論を援用しつ
つ進めた論考によれば、事実上、天皇制の<現実的意味での誕生期>と見なす
べき天武・持統朝において確立した『超越神聖王権(祭祀王)』と『伊勢神宮
(伊勢神道/鎮魂祭)』を巡る要点は以下のとおりである。

(1)天武・持統朝で原型が誕生した「新嘗祭」、「大嘗祭」と「伊勢神宮
祭祀」が、その完全な鎮魂祭儀式としての姿を完成させるのは、文武朝の
「神祇令/大宝律令(701)」である。

(2)そして、この「神祇令/大宝律令(701)」下の儀式の詳細は不明であ
るが、9世紀後期(平安時代前期)の「貞観儀式」(参照⇒
http://urx.nu/3ck2 )によれば、その中心として重要なのが「濁音のむすび
の観念(結び)」であり、この時点で、まだ其れは「産霊」(自然界に満ちて
いるものだが、ヒトにも宿るとされる万物を生み成長させる神秘的な力)ある
いは「魂」(個々の人間の内心に確かに宿っているヒトの霊(情念的でスピリ
チュアル)な部分)の漢字で表される清音の「むすひ」の観念とは繋がってい
なかった。

(3)この「濁音のむすびの観念(むすび/過去・現在・未来を見通すことを
含意する一種の大自然の循環を視野に入れたアニミズム信仰的観念であり、先
ず神が其れを“人へ示す=神がヒトへ示す神からの道”ということ)」と「む
すひ/ヒトの産霊ないしは魂」が結びつくのは、『延喜式(927)』(参照⇒http://urx.nu/3ck9 )が天皇に対する「鎮魂の儀礼」を定めた時である。

・・・

さて、この天武・持統期に整備された最も重要な祭祀儀礼である「新嘗祭」と
「大嘗祭」は天皇霊(天皇の魂(むすひ))をめぐるものであり、それは、既
述のとおり広瀬・大忌神祭と龍田・風神祭という「稲作豊穣祈願をめぐる重要
な祭祀儀礼」と同時期に、ほぼ等価的な位置づけで執行されるよう整備された
と考えられる。つまり、「新嘗祭」と「大嘗祭」は、天皇霊の更新と継承とい
う重要な意味を持つものであるが、同時にそれらは、稲に代表される五穀豊穣
の新たな年での実りの再生と継承を祈願する広瀬・大忌神祭と龍田・風神祭に
共鳴・共振する、古代王権にとって、その根幹を固める最重要な祭祀儀礼とい
うことである。

また、持統天皇が「大嘗祭」の翌年(692)に伊勢行幸を行った折には、行幸
の一行が通過する神郡(かみのこおり)および伊賀・伊勢・志摩の国造へ官
位を与え、その年の調役(租庸調の調税)を免除し、同行した武人らにも調役
の免除を与え、国中へは大赦を与えたこと、その後も滞在地などで調役、雑徭
(工事等労役税)などを免除したことが知られている。

更に、創建時以降行われてきた、そして今年で第62回を迎えるとされる「式年
遷宮」も、その基本は「新嘗祭」、「大嘗祭」と同じ意義を持つものであり、
20年毎に神に新たな社殿へお遷りいただき神殿と神性の再生、そして、その永
遠の継続を祈願する重要な祭祀儀式である。なお、伊勢神宮の周囲に神域とし
て守られてきた広大な照葉樹の森(5,446haの広さで伊勢市の面積の約1/4を占
める/この原始のままの森では此れまでに約850種の植物の生育が確認されて
いる)があり、この森は式年遷宮のための檜を育む神聖な場所となっている(
画像は、http://urx.nu/3cAa より転載)。

これら歴史的事跡が意味するのは、天武・持統期において、天皇の重要な役割
が<天皇自らの霊(生命)と五穀豊穣の再生・継続を祈願すること>だけでな
く、同時に<天皇自身が神から与えられる霊(生命)と自然なる神から下りて
くる五穀豊穣の実りの一部を一般の民に分配するという、自然環境の保全と社
会公平の眼差しを旨とする仕事>が国家運営の基本として明確に意識されてい
たこと(それが国民主権に程遠いものであったとはいえ・・・)である。

加えて、ここで取り上げておくべきは9世紀半ば頃からの摂関政治の開始によ
って、この『超越神聖王権(祭祀王)』と『伊勢神宮(伊勢神道/鎮魂祭)』
の役割が、本質的に変質したことである。周知のとおり、摂関政治とは藤原氏
(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって天皇の代
理者または天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態である。

詳細は省くが既出の新谷尚紀氏によれば天武・持統朝で開始した『超越神聖王
権(聖と俗を兼ねた祭祀王)』は「伊勢の内なる神性(難波・大和を中心に伝
統化してきた倭国としての超越的聖性)」と「出雲の外なる神性(北九州〜山
陰・越後に拡がる世俗的・外来的聖性の中心)」という二つの補完的な神の霊
異力で支えられていたが、やがて藤原義房による幼帝・清和の擁立が契機とな
り、もっぱら伊勢の神性(稲作文化重視が象徴する自然アニミズム信仰)に基
づく天皇が祭祀王へ純化する一方で、それ以降は出雲の外なる神性に代わり
(これが出雲大社の天皇政治を支える役割が終わる時となった)、摂政・関白
・内覧などの特権貴族層から成る高級官僚が「世俗的聖性」を天皇から分離し、
主宰するようになった。

そして、ごく概観的に捉えておくならば、この9世紀における「摂関政治の開
始」こそが、それ以降の時代に聖なる祭祀王へ純化した天皇を頂点に戴きつつ
世俗権力(中枢の政治・行政権力)を官僚・武家(幕府)などが実効的に掌握
し支配するという、貴族社会(純粋神聖王(天皇)制)から始まり、なんなん
と武家社会(純粋神聖王(天皇)制)〜明治維新期(皇国史観)〜軍国主義時
代(皇国史観)〜現代(象徴天皇制)に至る、時代の壁を越えて存続する日本
伝統の「二重国家統治方式」が定着する淵源になったということがいえる。

<注記>この論点については、関連で後述する[(関連情報1)起源二千六百年・・・密教から神道への影響下で起きたと藤原仲麻呂と僧道鏡が介在する宇
佐八幡神託事件/「生理的穢れ⇒政治的穢れ」への転化が9〜10世紀以降に神
道の中に定着してきたという歴史を淵源とする、日本政治の特異現象]につい
ても参照乞う。

4 神政連(神社本庁)が騙る『国策原発必要トンデモ論』批判/“縄文時代
から受け継ぐアニミズム信仰、神の道(天皇なる超越神聖王権)”重視の視点
から

(神からの道、神へ向かう道)

神道で言う「鎮魂(ちんこん)」とは人々の魂を鎮めることであるとされるが、
より詳しく見れば、それは「不安定なヒトの魂を体に鎮め、繋ぎ止めておき、
それを活性化させる」という意味である。そして、天皇の鎮魂祭儀は、アニミ
ズム信仰の神から示される「結び」の力を畏れつつ「魂(むすひ=人々の内心
に宿っている霊)」と「産霊(むすひ=万物を生み成長させる神秘的な力」の
外来魂を集め、それらを天皇の身体に定着させること「鎮魂(たまふり)」か
ら始まる。



次いで、内在魂となった天皇の霊魂を増殖し、活性化させる「鎮魂(たましず
め)」の儀式が行われるが、更に、その天皇の創造力が豊かになり活性化した
内在魂を臣民へ分与する「みたまのふゆ(皇霊之威、恩頼)」が行われる。つ
まり、このプロセスは、天皇という存在の基本が、その霊魂力(生命力)の永
続的な更新と、その再生・更新された新たな霊魂力の臣民への分与・分配にあ
ることを意味しており、それは恰もカール・ポランニーが言う「社会統合にお
ける中心性と再分配の機能」を彷彿とさせる
(関連参照⇒http://urx.nu/3cSh )。

以上を別の観点から眺めてみると、次のような意味であることが分かる。そも
そも神道は「かみのみち」を意味すると理解されるが、その神の道には二つの
ベクトル(方向性)がある。一つは「神から降りてくる道」で、もう一つは
「神へ向かう道」である。「神から降りてくる道」とは、宇宙開闢いらいの宇
宙を含めたものではあるが、そこでは主にヒトや凡ゆる生命の存在が可能な、
自然環境的意味での世界の創造過程が意識されてきた筈である。

この一つ目の道が神道では「むすひ(産霊)=万物を生み成長させる神秘的な
力」と見なされてきた。そして、神道は、この「むすひ(産霊)=万物を生み
成長させる神秘的な力」の出現過程(存在の流れ、万物の歴史)の中に過去・
現在・未来があると考えてきた訳だ。言い換えれば、それは永遠なるものから
の贈り物であり、全ての存在世界における根源的な贈与であり、ヒトの世界で
言えば自然環境と衣食住環境、そして其れに必ず付随するのが神話・伝承・慣
習・習俗・歴史だということになる。

もう一つの「神へ向かう道」とは、これら神からの根源的贈与に対して人間が
心から感謝し、畏敬・尊敬し(怖れ畏(かしこ)み)、返礼する道のことであ
る。そして、その具体的な形が祈りや祭礼の儀式であり、このような観点から
すれば、祈りも祭りも、ともに神からの道で与えられる根源的な贈与に対し捧
げられる返礼行為(感謝と新たな願いを含む)であることが理解できる。

従って、特に明治維新期〜太平洋戦争時代まで当然視されてきた「国家神道」
のイメージ(参照、下の注記)が、以上で見てきた「神の道のあり方、あり
様」と如何に異なったものであったかということが理解できる筈だ。だから、
今こそ我々は信教の自由や政教分離の原則など宗教に関わる根本的な問題をと
らえ直すべきではないかと思われる。

<注記>国家神道

・・・近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度であり、国家神道の思想
的源流は仏教と民俗信仰を抑圧し、記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬
することで宗教生活の統合をはかろうとした江戸時代後期の水戸学や国学系の
復古神道説や国体思想にある。

・・・明治維新期には、これら江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や
国体思想国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され、古代の律令制に
ならった祭政一致が国家イデオロギーとなった。

・・・1868年(明治1)には神仏分離に関する一連の法令が出され、以後は全国的
に神仏分離と廃仏毀釈が行われた。69年には宣教使がおかれ、その翌年には大
教宣布の詔が下されて祭政一致のイデオロギーによる国民教化の方針がいっそ
う明確にされた。また、東京招魂社(のちの靖国神社)、楠社(のちの湊川神社)
など新しい神社が創設されて天長節、神武天皇祭などの祝祭日が定められて全
国的に遥拝式が行われたが、これら諸政策は神道国教化政策と呼ばれている。

・・・それは、仏教を排し伊勢神宮と宮中祭祀を頂点においた整然たる神社の
階層秩序をつくりあげ、神道によって国民の宗教生活を掌握することでイデオ
ロギー的統合をはかろうとするものであった。

・・・全国の神社は伊勢神宮と宮中三殿を頂点とする整然とした位階制に編成
され、神社ではは国家の定めた祭祀が行われ、その祭祀様式も国家によって統
一的に定められていた。神職は国家の官吏ないしその待遇をうける存在で、す
べての国民は特定の神社の氏子とされた。

・・・大日本帝国憲法は制限つきながら信教の自由を規定していたが、それは
この神社崇拝の受容を前提として承認されるものであった。神社崇拝が実際に
は宗教としての性格をもっていることは政府当局者も認めていたが、<法的に
其れは宗教でないとする>ことで、憲法における信教の自由の規定や近代国家
における政教分離の原則と矛盾しないという強弁がなされていた。

・・・1930年代初頭から太平洋戦争にかけての時期に、神社は<国策たる戦争
遂行の精神的支柱>としてとりわけ重んじられた。たとえばキリスト教の教会
やキリスト教系の学校などに対しても伊勢神宮の大麻(たいま/祓い具である
祓い串の御真(ぎょしん)を包んだ伊勢神宮の神札(おふだ))の奉祀が強制
されたりした。

・・・1945年12月15日、連合国総司令部は、いわゆる神道指令(国教分離指令)
によって神社に対する特別の保護の停止、神道施設の公的機関からの撤去など
を指示し、国家と神道の完全な分離を命じた。翌年の元日には天皇の〈人間宣
言〉がなされ、続いて神道関係法令が廃止されて国家神道は完全に解体した(
ことになっている?)。

(皇国史観を取り戻す意思の安倍政権下で助長し、跳梁跋扈し始めた事実上の
国家神道論的文化マインドコントロール)

それは、既述の「国家神道」注記の末尾でも触れたことだが(・・・神道関係
法令が廃止されて国家神道は完全に解体した“ことになっている?”と表現し
ておいた)、表題とプロローグで書いた<神政連(神社本庁)の国家神道型
「原発必要トンデモ論」ゴリ押しの姿勢>が、恰も戦前の<国家神道に基づき
「国策戦争」を国民へ強制した、内務省の外局であった神祇院そのままの姿で
あること>という不可解で相似的な構図が、つまり<事実上の国家神道論の存
在>が観察されるからだ。

つまり、神政連(神社本庁)も、自民党議員も、その他の自称右派系の議員も、
原子村アカデミズムも、その悉くが、未だに<国家神道は完全に解体した“こ
とになっている”との建前論へ逃げている節があるということだ。このような
意味で<阿吽の政治・宗教・学界の癒着構造>こそが、<ウランもプルトニウ
ムも放射能も自然の一部なので身体に良いものだ、だから日本経済の発展のた
めに原発推進は必要だ>という、神政連(神社本庁)による国家神道型「原発
必要トンデモ論」を創作(“ひねり”出した?www)した悪徳シナリオライ
ター(犯人)だということになる。

更に、加えて指摘しなければならないのは、天武・持統期の何処か(673〜690
頃?)で伊勢神宮が創建されたときに確立した「天皇の超越神聖王権」を支え
るため定められた最も重要な祭祀儀式である新嘗祭と大嘗祭についての基本的
な考え方の問題である。既に見たとおり、そこでは五穀豊穣の実りの再生と継
続を意味すると理解されてきたことから、主に、古来から日本人が主食にして
きた米(稲作)の豊穣への感謝と、その永続的な再生・継続への願いであると
理解されてきた。より具体的に言えば、それは稲作が日本に定着した頃から以
降の時代を前提にする弥生農耕文化起源の神道論ということである。

然るに、近年の神道学・考古学・歴史学などの研究の深化によって、しだいに
狩猟・採集を主な生活の糧としていた縄文文化起源の神道論が台頭しつつある。
つまり、日本の文化と宗教に関わる研究分野では、そもそもの初めから自然と
歴史環境の変化や渡来系文化の影響なども含めた意味で広域的・習合的・歴史
時間的な流れの中で其れらは育まれてきたというのが新しい理解となりつつあ
るのだ。

因みに、旧来、農耕文化と仏教の影響を受けた日本人には肉食の習慣がなかっ
たとされる定説も次第に覆りつつあるようだ。平林彰仁著『神々と肉食の古代
史』(吉川廣文館)によれば、日本書紀や日本霊異記には、牛馬の生贄を諸所
の神社へ捧げた事例や、牛馬のみならず羊、豚、犬、鶏などの血や肉を漢神
(からかみ/渡来系の土俗神)や疫鬼(えきき/疫病を流行らせる疫病神)へ
備えたことが記されている。

そして、度重なる肉食禁止令にもかかわらず、およそ9世紀頃までの日本では
宮中を始めとして、かなり肉食が行われていたことが理解されつつある。しか
し、9世紀後半から10世紀頃、つまり摂関政治が始まり国風文化が定着する頃
から、しだいに春日神社、賀茂神社などの近隣の山野での狩猟と屠殺が神祇祭
祀や天皇祭祀の清浄さを汚すものと見られ、厳しく禁止されるようになったと
される。

新しい神道学の解釈では、天武・持統期に伊勢神宮が創建されたときに定めら
れた最も重要な祭祀儀式である新嘗祭と大嘗祭も、このような意味で習合的な
当時の日本文化の多様性に満ちた複合文化的土壌の中で起こった出来事ではあ
ったが、中国皇帝への対峙と明快な差別化を意識した「天皇の超越神聖王権」
の霊的聖性をより純化させるために、その頃は既に広く普及していた稲作文化
を再重視しつつ、その優れた稲作の豊穣の恵みたる自然の神への感謝と恵みの
持続・再生への願いを厳格に祭祀儀式化したものであり、それは独立国家・日
本の新たなアイデンティティー創造の象徴でもあったということになる。

しかも、このような理解からすれば、伊勢神宮で行われることになった新嘗祭
と大嘗祭は、その祭祀の中へ多様性文化と縄文文化の影響の痕跡の持ち込みを
敢えて徹底的に避けることによって、却って逆説的な意味で、狩猟・採集を主
たる生活の糧としていた縄文時代(約1万2千年を超えるともされる)から以
降の非常に長い時間を豊かな自然環境と調和して生きてきた日本人の歴史とア
ニミズム感覚的なコスモロジーを基本とする個性的なものになったと考えられ
る。

そのため、それは伝統文化の多様性と複合性をも十分に視野に入れた、非常に
懐が深く世界的にも比類がない最も優れた宗教儀式の一つであるということに
なるだろう。つまり、このような観点から理解すれば、縄文時代の太古から日
本列島の自然環境と一体化してきたという意味で世界でも唯一無二の個性を誇
る伝統アニミズム宗教が更に純化され、洗練されたものが日本の神道であるこ
とになる。

しかも、それは、キリスト教文化がもたらしたともいえる過剰な個人主義の権
化たる市場原理主義の暴走が人間社会を破壊しつつあることへの強力なアンチ
テーゼ提起の可能性をすら秘めていると考えられる。

加えて、それはミルチャ・エリアーデの解釈によるアーカイック・シャーマン
の意味を彷彿させる。つまり、伊勢神道は天皇のアーカイック・シャーマン的
な役割の確立と見なすことも可能であるのだ。故に、その最高峰の宗教施設が
伊勢神宮であり、更に、それとの強い歴史的結びつきを誇りつつも、一方では
神の「むすひ(産霊)=偉大なる大自然の恵みである贈与」の再分配を十分に
重んじるという意味で非常に寛容で十分に民主主義的な視野も取り込むことが
可能な、そして世界でも稀な<超神聖王権の歴史的遺産>であり、それこそが
<現代日本の象徴天皇制の本質>であるということになる。

従って、このような意味での現代日本の神道は、かつての「皇国史観」型政治
権力にとって使い勝手が良いツールであった「国家神道」の如き<極右ナショ
ナリズムのイデオローグ宗教>であるどころか、それは世界中の人々から遍く
理解されることが可能な、そして本義的に自然環境重視と多元文化主義を掲げ
得る寛容さを備えた、しかも非常に個性的で優れた宗教だということにさえな
るのではないか?

また、このままでは、既述の[1−フクシマに立地する神社の悲劇]の中で引用
した『自然と権力』(みすず書房)の著者ヨアヒム・ラートカウが原子村を批
判した言葉が、そっくりそのまま神政連(神社庁)に当て嵌まり、<・・・廃
炉まで含めた脱原発の実行を確実にするためにも、電力業界や原子力技術の専
門家との協力関係は不可欠です。従って対立だけでは原子力問題を解決するこ
とはできないのです。異なる諸利害と行動のオプションを明示する幅広い公共
的議論の設定が必要になります。 「原子力ムラと神政連(神社本庁)」が厳
しく批判されねばならないのは、原発推進の立場以前に、そうした公共的議論
を封殺する仕組みとして機能しているからでしょう。/つまり、此の行為は政
教分離理念への明らかな挑戦である!>ということになる。

ともかくも、現実は残念ながら大多数の国民意思の「脱原発」とは全く逆の
「原発推進」の方へ向かいつつある。そして、その典型事例が此処で取り上げ
た<神政連(神社本庁)の国家神道型「原発必要トンデモ論」>ということで
ある。しかも、昨今の事態が深刻化しつつあるのは、問題がそれだけではない
からだが、これ以上のことを書き込むスペースも少なくなったので、<神政連
(神社本庁)の国家神道型「原発必要トンデモ論」>関連の追加情報(アナク
ロ国家主義政治を求める空気の拡大)などを以下に示して、ひとまず当試論に
区切りをつけることとする。

 (関連情報1)かしこき紀元二千六百年へのノスタルジーか?/<安倍政権
の原発推進政策>の背中を押す<荒ぶる神(神政連/神社庁)>の本性、それ
は「紀元二千六百年」なる「虚構としての日本史」の時代への逆行願望という
こと(画像は、http://urx.nu/3a2Y より転載)

・・・以下は、My-FB http://urx.nu/3dIi より転載・・・
・・・戦時の1940年、神武東征から二千六百年というこの年、帝国の臣民たち
は史跡観光に、デパートや新聞社による愛国的な催事に、進んで参加し、国史
をまとめた物語に夢中になっていた。南米移民を含めた臣民たちがこぞって参
加した大イベントを通して、「暗い谷間」と呼ばれた時代のイメージを一新す
る、ファシズム日本の姿。気鋭の著者による大佛次郎論壇賞受賞後、第一作!
解説・原 武史/(以上は、http://urx.nu/3a2Y より転載)

・・・当時は資源不足の統制下において軍事輸送を最優先する観点から、「贅
沢は敵だ」・「遊楽旅行廃止」・「行楽輸送で大事な輸送を妨げるな」といっ
たスローガンが駅に張られるなど、観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけて
いたが、皇室に関係する神社の明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などへの参拝は
例外とされ、むしろ割引乗車券を販売するなど参拝を推奨していた。国民は長
く旅行を遠慮していたこともあって、大手を振ってこれらの神社へ出かけ、
1940年の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えた。また、
伊勢神宮・橿原神宮を沿線にもっていた大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急
行電鉄(大軌・参急・関急電、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身)や大阪鉄
道(大鉄、現在の近鉄南大阪線など)・奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京
都線)といった私鉄会社は、この輸送に対処すべく臨時列車を多く設定し、国
鉄も同様に旅客輸送に努めた(以上は、ウイキより転載)。

・・・以下は、FB記事<事実上の国家神道(神政連)が原発・ウラン・プルト
ニウム・放射能らを環境汚染から除外する神話論理型詭弁(原発推進論・主張)
の深層、それは、神仏習合史のエピソード(密教から神道への影響下で起きた
と藤原仲麻呂と僧道鏡が介在する宇佐八幡神託事件)「生理的穢れ⇒政治的穢
れ」への転化が9〜10世紀以降に神道の中に定着してきたという歴史を淵源と
する、日本政治の特異現象◆>のレス内容の転載。・・・
◆ http://www.facebook.com/tadano.oyaji.7/posts/413569928724591

つまり、宇佐八幡神託事件の歴史的意義とは、それを契機に「自然の穢れ」
と「政治的穢れ」を同等に排除(お祓い)可能だという極めて功利的で傲慢な
政治的ノウハウ観念(伝統的に神道への信仰が篤い日本では、聖なる王権の最
高権威たる神意(御託宣)さえ口実とすれば、森羅万象(現代風に言えば、自
然環境と西欧伝来の科学も含む)を時の世俗的政治権力が完璧に万事を支配で
きるという一種のカルト的で悪辣な神話論理が定着したルーツと見なすべき思
想)が着想されたということである。

もっと言えば、この時に<政治的仕掛けとしての国家神道の子種が着床>して
おり、それが中世以降の日本型「華夷秩序(攘夷)」観念と「垂下神道」(現
人神たる「天皇」への絶対忠誠を誓う者だけが死後の救済を得られる、つまり
此の教説を信ずる者だけが国家祭神として“八百万の神々の下座に連なる神々
(英霊)となり得ると考える神道)の過程などを経て、幕末・明治維新期の国
家神道から現在の安倍政権へ繋がる近代〜現代におよぶ日本政治の由々しき伝
統(天賦人権論を否定するカルト的神話論理の伝統)として開花したと見なす
ことがも可能である。 

しかも、今度は、日本の守護霊たる偽ジンドウ(神道を管掌する神政連(神社
本庁))が、安倍政権に対して、<フクシマへは適当に対処する一方で、原発
一極型マネタリズム経済の強硬策で万世一系の皇国史観に基づく伝統ある日本
を取り戻すべし>という極めて愚かな御託宣(実は、それでは日本が本当に消
滅する可能性が高いというのに・・・)を発し始めたかに見える。それは、あ
の「紀元二千六百年」(http://urx.nu/3a2H )なる「虚構としての日本史」
の時代への逆行である。まことに恐るべきことだ。

(関連情報2)安倍政権の「賭博的経済政策/アベノミクス」は、タカ派効果
(現実的妥協のし易さ)を狙ったものだろうが、・・・

・・・以下は、My-FB http://urx.nu/3dIt より転載・・・
・・・安倍政権の「賭博的経済政策/アベノミクス」は、タカ派効果(現実的
妥協のし易さ)を狙ったものだろうが、いずれ理念と現実のギャップが表面化
すれば世界で孤立する危険性もある、国民との間でもっと多様な議論をすべき
だ!冷泉彰彦氏(1/29朝日、オピニョン)http://urx.nu/39eg

<注記>タカ派効果

・・・端的に言えば、衣の下に刃を忍ばせる脅迫政治。現実社会の多様性を前
提とする議論ではなく、特定の理念・信念or妄想に基づく政策(あるいは改革、
維新)を直接的に実効権力側へぶつける一種の短兵急な設計主義の意図が隠さ
れている。一般国民側からすれば分かり易いパフォーマンスと見えるので、こ
れにメディアプロパガンダ(例えば、アベノミクスなる扇動キャッチがそれ)
が加われば喝采を浴びやすい。

・・・しかし、その本質は権力(例えば往年の天皇大権等)と権力(例えば国
民主権)との露わな直接対峙の代理戦争であることが含意されているため、場
合によっては強権型政治へ、あるいは強権外交などへ暴走し、時と場合によっ
てはクーデタ騒乱などへ向かい社会環境が騒擾化・過激化するリスクを帯びる。

・・・特に、神社本庁、神政連、日本会議、日青協、幸福ホニャラカ集団など
「日本原子村の守護神」(戦前〜戦後〜現在にわたり、隠然として日本国民の
日常生活における精神構造と選挙動向をベーシックに統制してきた祭政一致
型のバイオポリテクス権力構造)と癒着しつつ、更なる格差拡大での経済成長
を謀る(偽資本主義たる新自由主義&マネタリズムによって)アベノミクスは、
その意味での水(むしろ、ここでは火というべき?)と油を抱えており、発火
する危険性が高い。

(関連情報3)地震の後に戦争がやってくる。軍隊持ちたい政治家がTVで
でかい事を言い始めている/アベコベノミクスの衣の下に潜む<荒ぶる神>の


<注記>添付画像『荒ぶる神/日本では、逢魔時(おうまがとき)や丑三つ時
に黄泉の国との境界線が曖昧になり、「モノノケ」に出合うことが多くなると
信じられている。逢魔時は現代の18時頃のことで、ちょうど昼と夜の移り変
わる時。』は、http://urx.nu/3b3O より夫々転載。

・・・以下は、My-FB http://urx.nu/3dI6 より転載・・・ 
「地震の後に戦争がやってくる。軍隊持ちたい政治家がTVででかい事いい始
めてる。国民バカにして戦争にかり立てる。自分は安全な所で偉そうにしてる
だけ」昔、有名なロック歌手がそう書いた。・・・衆院の代表質問で安倍晋三
首相はきのう憲法九六条の改正に強い意欲を示した。反発の強い九条は後回し
にして発議の要件を緩める既成事実をつくり外堀から埋める戦術だ・・・1.31
東京新聞・筆洗http://urx.nu/3b2q

・・・母系は百済王子・豊璋の子孫藤原氏の血筋で貫かれた。桓武天皇は歴代
の百済王達を百済王族天皇家の先祖として公然と祀った。・・・激情の国家主
義者、蓑田胸喜の主宰する雑誌「原理日本」が早稲田大学教授津田左右吉の
『古事記及日本書記の研究』を「大逆思想」にあたると糾弾したのは此の本が
出版されて15年も経った昭和14年末のことである。・・・

・・・ この告発を受けて、検察当局はただちに動く。翌年2月に内務省が
『古事記及日本書記の研究』のほか『神代史の研究』『日本上代史研究』『上
日本の社会及思想』の津田の主要著作4冊を発禁としたのを待って検察当局は
3月に津田本人と発行元である岩波書店の岩波茂雄を出版法違反で起訴した。
裁判は29回の予審と21回の公判を経て、1942年(昭和17)に『古事記及日本書
記の研究』のみを出版法違反とし、津田に禁固3月、岩波に禁固2月(いずれ
も執行猶予2年)の判決を下した。仲哀天皇以前の「御歴代の御存在について
疑惑を抱かしむるの虞ある記述」をおこない「今上陛下に至らせ給う我が皇室
の尊厳を冒涜したというのが判決理由である。

が、比較的に軽いものとなった背景には、津田の著作が決して不敬には当らな
いという東大教授、和辻哲郎による弁護証言が寄与したと思われる。検察当局
はこの判決を不服として控訴、また津田、岩波の側も控訴して争ったが、結局、
昭和19年11月に本件は「時効完成により免訴」という宣告が控訴院〔現在の高
等裁判所〕で出され、事件はあっけなく終わった。津田のいずれの著作も増刷
を重ねたとはいえ、発行時期がかなりの期間を経過しており、出版法の公訴時
効1年をすぎているというのがその理由で、当時の厳しい社会状況からすれば
例外的な目こぼしがなされたといってもよい。

中村稔の『私の昭和史』はこの間の流れを詳述しているが、それもそのはず、
事件の予審を担当した判事、中村光三は著者の父親だったからである。予審で
は『古事記及日本書紀の研究』が次のように認定されている。・・・(1)畏
くも 神武天皇の建国の御偉業をはじめ 景行天皇の筑紫御巡業および熊襲御
親征、日本武尊の熊襲御討伐および東国御経略ならびに神功皇后の新羅御征討
等上代における皇室の御事跡をもってことごとく史実として認めがたきものと
なし奉るのみならず、仲哀天皇以前の御歴代の天皇に対し奉りその御存在をも
否定しし奉るものと解するほかなき講説を敢てし奉り、(2)畏くも現人神
(あらひとがみ)に在(まし)ます 天皇の御地位をもって巫祝(ふしゅく)
に由来せるもののごとき講説を敢てし奉り(3)畏くも 皇祖天照大神は神代
史作者の作為したる神に在ます旨の講説を敢てし奉る〔原文カタカナ〕

国体とは「万世一系」の天皇が統治する国のかたちを指すが、津田の論述はそ
の国体を批判し、皇室の尊厳を冒涜したというのである。・・・以下、省略
・・・

谷村 新司「群 青」

・・・◆谷村新司さん「群青」・・・日本国民が、再び、こんな辛い思いをす
ることのない平和で安全な時代が続いて欲しいです。http://www.youtube.com/watch?v=svVsV6hUqd4 (左URLのコメント転載)

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