メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:『ゾンビ(新自由主義)vs幽霊(人間のための自由原理)』間に横たわるバカの壁  2010/12/10


[自戒的妄想]『ゾンビ(新自由主義)vs幽霊(人間のための自由原理)』間
に横たわるバカの壁

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101210


【プロローグ動画】Lara Fabian - Broken Vow
 

【プロローグ画像】仙台・光のページェント、ア・ラ・カルト 
 

【エピソード1】[12/4国民より早く総ゾンビ化して『亡霊と対話できる政
治家』がいない日本の危機、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101204
へのコメント&レスの転載

(01. 2010年12月04日 09:33:02: Ej0cudfyKw)さま to toxandoria 

こういう観点でもウェブボットとか面白いですね。

toxandoria to (01. 2010年12月04日 09:33:02: Ej0cudfyKw )さま

おっしゃるとおりだと思います、アカデミズム総がかりで、ゾンビではなく
<幽霊・亡霊>の意味を探って欲しいものです。

(03. 2010年12月04日 12:44:47: B7aG6HA2Ps)さま to toxandoria 

以前読んだ本、小田光雄著『〈郊外〉の誕生と死)』で、”ゾンビ”とは消
費者の隠喩である、とか言ってましたな。とすると、コジェーヴが「歴史の
終焉」の後の、人間の「動物化」と言っていた<消費者>=「アメリカ的ラ
イフスタイル」との絡みでは、どのように言えるのでしょうか?

また、「歴史の終焉」(コジェーヴを介したヘーゲル解釈)との絡みでは、
どのように言えるのでしょうか? 

toxandoria to (03〜04 B7aG6HA2Ps)さま 

ゾンビとはいえ、それに世代交代があり得るとしても、『ゾンビ』が永遠に
死を意識できぬのに対し『亡霊』は死者の残り香の如きもの(歴史・文化の
世代間継承の謂い=人間のための自由原理)ですが、フェノメナルな意味の
『亡霊』(人間のための自由原理を求める意志)は死を意識する生身の人間
の中にこそ存在します。

米国型ライフスタイルが、その新植民地主義(米国流リバタリアニズムを淵源
とするネオリベ・ネオコン的発想による自由・平等のための聖戦行動)の賜物
であるとすれば、紛れもなく日本が米国の植民地であるが故に、アメリカン
・スタイルの郊外型ショッピングセンターに集う消費者は『ゾンビ』(ただ
し、彼らの倫理観の是非を問うべき問題ではなく、彼ら無辜の人々のゾンビ
化を押し進めるネオリベ思想こそ糾弾されるべき)です。

また、ネオリベ型資本主義(新植民地主義)は「人間の内外の生態空間」を
全方位から攻略・浸食し、その触媒機能と母体空間(生命体の胎盤&揺藍機
能)までをも根こそぎに捕捉・消費しようとします。

そして、これらのことごとくが市場原理の捕食ターゲットとして狙われてい
ることを思えば、コジェーヴの「歴史の終焉」における人間の『動物』化
(このレベルでは未だ生命体であるが・・・)すら甘い予測に見え、現実は
死を意識できぬ『ゾンビ』化へ進むと思われます。 

(06. 2010年12月04日 19:47:34: uLiReJ83b29) to toxandoria

>『亡霊』は死者の残り香の如きものですが、フェノメナルな意味の『亡
霊』は死を意識する生身の人間の中にも存在します。

ナルホド、とすると、ある種の<集合的無意識>と考えた方がいいのかな?

>ネオリベ型資本主義は「人間の内外の生態空間」を全方位から攻略・浸食
し、その触媒機能と母体空間(生命体の胎盤&揺藍機能)までをも根こそぎ
に捕捉しようとします。

それは、我が問題意識に照して、実に良く解かります。

冷戦の終焉と殆ど符節を合わせるようにして出て来た「利己的な遺伝子」
(R・ドーキンス)の言説に接して、我が学生時代に猖獗を極めた構造主義
のいう「人間の死」ということが、具体的な恐怖として感じたことを思い出
します。

問題意識を共有する同志として、貴殿の言説を注視していきましょう。

【エピソード2】不均衡進化論の卓抜な仮説、ゾンビと人間の間に横たわる
バカの壁を超克する生命意志(フェノメナ)の可能性が含意すること

たまたま、発生生物学者・古澤満氏の新刊『不均衡進化論、Disparity Evolution』(筑摩書房)を読んだので、連想・妄想したことを以下に纏め
ておく。

・・・・・・・・・・

カントの『純粋理性批判』ではないが、菅民主党政権は基本的に現実の多
次元性(上位⇔下位次元の揺らぎ=人間の生命と国民感情の在り処、実相)
への理解が徹底的に欠落(大きなバカの壁が存在)しており、その<ゾンビ
蛹(ネオリベのさなぎ)⇒ドラキュラ(ゾンビ癌化)>への面妖な変態振りは、
あの小泉ネオリベ政権のハチャメチャ暴走ぶりと酷似してきた。

因みに、古澤満氏によれば、上掲書の中でカントは「一次元の情報は一次
元の現象でしか規定できない」としている。これは、例えば“一本のレー
ル上を同じ向きに走る二台の新幹線・列車の位置を入れ替えるには、線路
をループ状(二次元)にするか、車体そのものを起重機で吊り上げる(三
次元)など、次元を上げる以外に方法はない”ことを意味している。

ともかくも、ここまで混迷を深め、傲慢(ゾンビ=論理的自我方向への過剰
デカルト的設計主義にのぼせ上ったあげく新自由主義の押しつけマシン)化
して「無辜の国民」(ゾンビ成分と幽霊成分が浮動・共存しつつ現実を生き
る生命的存在)を大いに犠牲にしてしまった以上は、0次情報・次元(現実)
レベルについての発想転換ができない菅民主党政権は、懲罰的意味でも、
もはや自滅するしか道はないと思われる。

つまり、それは、この菅直人・小泉純一郎ら市場原理主義者(米国ネオリ
ベ・シンパ)らの大失敗の原因が、無辜の国民(ゾンビと幽霊(世代間で継
承されるべき歴史・文化の象徴であるとともに、人間のための自由原理を
求める意志を持つフェノメナ的存在)両成分の混合・共存的存在たる生身の
人間)のことごとくを<マネーゲーム経済の道具>と見立てる愚かさ(致命
的バカの壁を背負うこと)にあると考えられるからだ。

本来は、国民の殆どを、喩えるならば<多細胞生物における幹細胞(受精
卵)>に見立てるべきなのだ。仮に、個々の国民が<比喩的意味での“幹
細胞(≒受精卵)化”>するならば、やがて彼ら一人ひとりが一騎当千と言
わぬまでも、皆がそれなりに棲み分けつつ経済社会の役に立つ大きな活力源
へと成長(有用な個々の五臓六腑へ分化)し得る筈だったのだ。

しかし、米国型ネオリベ政策の亜流政策(実は米国・新植民地政策の尖兵の
仕事)では、菅・小泉ら市場原理主義ゾンビたちが望むとおりに、国民が総
ゾンビ(超マネタリズム経済装置の画一化された使い捨ての小道具)化する
のが当然だ。

そして、かくの如く菅・小泉ら市場原理主義ゾンビらが望む通りに国民が総
ゾンビ(超マネタリズム経済装置&少数派実効権力層の小道具&奴隷)と化し
た暁には、それでもなお未練がましく国民国家を維持せんとする限り、<全
国民を養うに必要なだけ超マンモス化した中央集権型の巨大政府(ゾンビ異
常生命体と化したマネー量産装置と、それに寄生する実効権力層を養うため
必要な“巨大五臓六腑”に相当する中枢財政処理装置)>が再び求められる
のは必定だ。

それは<小さな政府>を標榜する菅・小泉ら市場原理主義者たちの決定的誤
謬の行く末(日本崩壊とユートピアならぬディストピア到来)の恐るべき地
獄絵図の実相だ。結局、それは、小さな政府を目指しつつ神の手(超自由原
理主義、市場原理主義)に全権を委ねた結果、神ならぬゾンビ大王の軍門に
下り、幽霊(人間の歴史・文化・生命の支えとなる国民・市民意識の世代間
連続性、つまり人間の生命活動のための自由を求める意志)が絶滅するとい
う大バカ政治なのだ。

いま、米国型自由原理主義に追い詰められたEU(欧州連合)が、ポーリッシュ
・モデラティズム(シュラフタ民主主義、ポーランド型自由原理)へ真剣な
眼差しを向けつつあると伝えられているが、そのポーランド型自由原理は、
同じ自由原理でも新自由主義(≒リバタリアニズム)とは全く異質である。

米国型自由原理(ネオリベラリズム、リバタリアニズム)の特徴は、二者択
一・弱肉強食のいわば「旧来型ダ―ウイニズム(適者生存をセントラル・ド
グマとする進化論)」の一種である。一方、ポーランド(シュラフタ)型自
由原理(ポーリッシュ・モデラティズム)の特徴を短く言えば、それは一回
性の歴史経験の中でシュラフタ階層(現代的意味では中間エリート・指導層)
が発見した「対世界&対生存&対生態環境の意味での相対的中立戦略」とい
うことだ。

そして、先ず、このポーランド型自由原理(ポーリッシュ・モデラティズ
ム)が分子生物学者・木村資生氏が説く「進化論上の中立変異説」(参照⇒http://www.nig.ac.jp/museum_080501/evolution/C/bunsi-02.html)に相似
であることに注目すべきだ。そのうえ、ポーランド型自由原理の発想が、伝
統進化論に潜在してきた、世代間の生命継承・持続に有効なもう一つの戦略
と見なすことが可能な、発生生物学者・古澤満氏の『不均衡進化(Disparity Evolution) 』の仮説に、酷似することにも驚かされる。

木村資生氏は<たんぱく分子・遺伝子レベルでは“中立という、もっとも自
由な世界が存在する>ことを説いている。例えば、その「中立的な意味での
自由原理」は、遺伝子の間を埋めるイントロンなどのジャンク遺伝子(ゲノ
ム全体の95%を占める)の“表面的に見る限り、一見では何の役に立ちそう
にもない<ゆとり=無駄> ”でこそ体現されていると言うのだ。

これは、リバタリアニズム&マネタリズムの暴走が投機マネー拡大の欲望を
満たすため「人間の生存条件たる生態空間=生命の生命たる所以を支える自
己言及的意味での内面空間も含む」まで全方位から根こそぎ攻略・浸食し、
エンドレスに生命を紡ぐための触媒機能と母体空間(生命体の胎盤&揺藍機
能)までをも根こそぎに捕捉し、更なる投機マネーのタネに換えようとする
全ゾンビ化戦略(完璧なデカルト的設計主義のセントラルドグマ)の世界に追
い込まれているのとは大違いな、もう一つの、本当に人間のためになる自由
原理があり得ることを見事に傍証している。

因みに、古澤満氏の『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説の要点を
纏めておくと、次のようなことだ。

【参考動画】DNA Replication Process
 

生物が進化する途上での変異の大部分は、DNA複製の過程で生じる。そして、
一本のヒストンに巻きついた二本のDNAがほつれ(ほどけ)て複製されるとき、
「二本の鎖」のうち一方は連続して複製される「連続鎖」となるが、もう一
方は複製酵素の特異性で連続鎖と同じ方向へ鎖を伸ばすことができないので、
断片状に複製されたもの(岡崎フラグメント)が結合されて一本になり複製が
完成することになり、これは「不連続鎖」と呼ばれる。

このうち、「連続鎖」は変異の発生が極めて小さく、つまり保守的である。
一方、「不連続鎖」は「連続鎖」合成に比べてDNA複製プロセスがかなり複
雑になるため作用する酵素の種類数も多くなり、それだけ変異の発生可能性
が大きく、つまり革新的であるということになる。そして、変異の発生が比
較的大きいが環境変動のない場合には変異発生の小さい「連続鎖」側により
現状が維持(保守)・継承される。

他方、もし大きな環境変動が発生した場合には、変異発生が大きい「不連続
鎖」側で変動に合わせる形で<変異の閾値>を作用させて問題の解決を図る
(本源部分も保守しつつ変異に併せた全体の進化プロセスを次世代へ繋ぐ)
ということになる。詳細は省くが、「変異の閾値」とは遺伝情報が存在し得
る一定数値の範囲のことで、変異がこの閾値を超すと遺伝情報は融解し<カ
オスの海>に沈む(アダムスミス又はネオリベ流の市場原理の如き自然選択、
つまり神の手に委ねられるため制御不能で大きなダメージを受けるか死を意
味する)ことになる。

しかし、古澤満氏は、そう簡単に遺伝情報が<カオスの海>に沈む訳ではな
く、自然選択(神の手)の役割とともに、木村資生氏の「中立的な意味での
自由原理」(中立進化説)、あるいは「不連続鎖」側での<変異の閾値>の
作用の可能性が重要だとする。そして、古澤満氏は、この「不連続鎖」側で
の<変異の閾値>の作用を『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説と
名付けた訳だ。

この『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説を正確に理解するには、
古澤満氏が種の進化過程における遺伝情報の流れ方について想定した二つ
のモデル、「均衡変異モデル(従来型ダ―ウイニズムのセントラルドグ
マ)」と「不均衡変異モデル(Disparity Evolutionの根幹)」の違いを
知る必要があるが、余りにも煩瑣になるので、ここでは説明を省かざるを
得ない。

ともかくも、古澤満氏は『不均衡進化(Disparity Evolution) 』のことを
「元本保証された多様性の創出」とも称していることに注目すべきだ。こ
れを平たく表現すれば、「保守すべき価値感および人間としての最低限の
権利、歴史・文化、自然・生態環境、モノ、情報などは確実に守りつつ、大
きな環境変化にも耐え得る革新性を何時でも発動できるように常時スタンバ
イすべきであり、又そのようなスタンバイを可能ならしめる知恵をメンバー
間で共有し、かつ若者・子供・子孫等へ確実にそれを継承することが肝要」
だということになる。

更に、忘れてならないのは木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中
立進化説)だ。それによれば、既述のことだが、その「中立的な意味での自
由原理」は、遺伝子の間を埋めるイントロンなどのジャンク遺伝子(ゲノム
全体の95%を占める)の“表面的・外見的に見る限り、一見では何の役に立
ちそうにもない<ゆとり、言い換えれば無駄、無能力、遊び、ノンセンス>
の部分“に体現されていると言う現実があることだ。

驚かされるのは、ここで古澤・木村両氏が説明する進化論についての新たな
可能性を暗示するニュー・セントラルドグマが、あの「ポーランド型自由原
理」にソックリ重なるように思われることだ。たしかに、「ポーランド型自
由原理」には一種のアリストクラシー的・エリート主義的な側面があるので、
一部の方々からは“ソレは民主主義ではなく保守・反動だ、toxandoria は
守旧派か保守反動派へ退行・退化したのではないか”との御指摘があるよう
だ。が、自分では些かなりとも“進化”した(幽霊というコトバが含意する、
フェノメナとしての生命意志なるモノの理解へ一歩でも近づけた)のではない
かと思っている。

ともかくも、よく考えてみて欲しい。ドウンス・スコトウス(Johanes Duns 
Scotus/ca.1265-1308/参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050425)
まで遡ると見なすことも可能な「絶対的に正しい人間の自由意志」を巡る議
論は、あくまでもデカルト的理性(数学的観念にも似た理性)に関わる話だ。
屁理屈と言っては失礼になろうが、世界で最強の知性たちのとどのつまりが
米国型新自由主義とリバタリアニズムの絶対勝利(フランシス・フクヤマ的
な意味での歴史の終わり)だというのでは、それは余り褒められることでは
ないだろう。そのうえ、過半以上の国民にとっては「絶対的に正しい自由意
志」の是非を巡る議論などは殆ど無縁なことであり、全宇宙の真を表すとさ
れるオイラーの恒等式(下記)が、いくら美しかろうが、大多数の無辜の国
民にとり、それは殆ど無縁なことではないのか。


【参考画像】オイラーの恒等式
 

だからこそ、その意味で大方の国民層は“無辜”な存在なのだ。しかし、そ
の意味での“無辜”という現実は、木村資生氏の「中立的な意味での自由原
理」(中立進化説)に依れば、DNA複製の過程における非常に有意で見事な
進化論的戦略ということになるのではないか。この観点からすれば、「ポー
ランド型自由原理」が、超観念&デカルト的・超設計主義的な「新自由主義
思想」の脆弱さ、非人間的な側面を補うのに余りある非常に現実的な考え方
(知恵)であり科学思想であることが理解できるはずだ(ただし、この『不
均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説が科学的に真であるためには、これ
から更に多様な側面から、その正しさが実証されなければならないが
・・・)。

【エピソード3】チャルマーズ・ジョンソン死去の報に接して/01.09.11・NY
同時多発テロの昨今的意味

世界の最先端を行くアメリカ流ネオリベ型モダニズム、実は新自由主義と軍
事力を光背(殆ど神憑り的な暴力(ファスケス)的絶対権力の旗印)とする新植
民地主義、つまりゾンビ(民主国家の国民ならぬ米国ネオリベの論理を絶対
視するまで奴隷化した人間)量産によるネオリベ型植民地支配)が、結局は
<9.11の悲劇>をもたらしたとの認識に基づく自著『歴史の終わり』への反
省から、フランシス・フクヤマが「真の自由とは、人間社会で最も大切にさ
れている価値観を政治の力で守り抜く自由を意味する」と語ったとされる
(出典⇒◆
http://www.kuniomi.gr.jp/togen_home/geki/iwai/bunkati.html)。

ところが、これは真に驚愕すべきことなのだが(そして、上の記事◆の筆者
自身がそれに気づいているか否かは確かめようもないが・・・)、このフラ
ンシス・フクヤマの反省の弁は、ポーランド型自由原理の意味(=一般国民
に対し責任を負うべき中間エリート層(ポーランドではシュラフタ精神を自
覚する指導層の人々のこと)には、必然的に暴力性(ファスケス)を潜ませる
覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意
味で徹底した自由を行使する権利があるとする考え方)にピタリと重なるの
だ(ポーランド型自由原理の更なる意義については下記★を参照乞う)。

★何もしたくない閣総理大臣コト、菅直人首相へ贈るパロール、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101118

★ディアローグ的論考、米国型自由原理(連帯分解・孤立型)を一気にコペ
ルニクス的転回させ得るポーランド型自由原理(連帯持続・深化型)のユニー
クな意義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101115

★点描ポーランドの風景/ヴロツワフ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治
に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100819

そして、これは真に皮肉かつ悲劇的なことなのだが、又これほど甚大な惨劇(01.09.11・NY同時多発テロ)の犠牲を経て、漸く<ポーランド型自由原理
に近い、もう一つの自由原理があり得ること>に気づいたフランシス・フク
ヤマ(冷戦の終結で米国ネオリベ型モダニズムの勝利を確信・盲信し、傲慢
にも歴史の終焉を宣言していた!)は余りにも呑気な学者というべきではな
かったのか。それに比べれば、惜しくも去る11月20日に急逝した国際政治学
者で東アジア地域の専門家チャルマーズ・ジョンソンの慧眼には頭が下がる
思いがする(チャルマーズ・ジョンソン逝去に関連する情報は下記を参照乞
う)。

▲チャルマーズ・ジョンソン死去 アメリカ共和国最後の日々(Democracy 
Now)、
http://democracynow.jp/video/20101122-3

周知のとおり、冷戦時代には米中央情報局(CIA)のアレン・ダレス長官の
顧問を務め、ベトナム戦争を支持するなど保守タカ派として出発したチャル
マーズ・ジョンソンは、後に一転して、米国の軍事主義・帝国主義の有力な
批判者となった人物である。2000年に発表した『アメリカ帝国への報復』は
9.11後にベストセラーとなったが、このチャルマーズ・ジョンソンの著書は
アメリカの海外での軍事活動はいずれ報復を受けるだろうと警告しており、
その緻密な論証による予測の的中には驚かされた。

ともかくも、日本の政治家と日本人の多くは、米国を代表する大政治学者と
されるフランシス・フクヤマが9.11後にして漸く気づいた<米国型とは異な
る、ポーランド型自由原理という、もう一つの自由原理があること>に一刻
も早く覚醒すべきなのだ。さもなければ、“何もしたくない閣総理大臣”と
揶揄されつつ、天井にへばりついたヤモリの如く、首相の座に縋りつき続け
る菅ゾンビ首相の後継ゾンビたち、つまり米国仕込みのネオリベ型ゾンビら
が次から次へピョンピョンと漆黒の不気味な巣穴から飛び出すのに打つ手な
しの状態が永遠に続く「ゾンビ国家・日本」という(本格的ゾンビ型植民地
へ“進化”する)ことになるだろう。

・・・・・・以下は、[2010-11-30 /TV・新聞・端末等「俗物教養」が騙る
無目的な「知の切断」でリバタリアン・ゾンビ化する日本国民、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101130の[1 デカルトの自我(Je/
Ich)に隷属する前意識の系譜]の再録である・・・・・

1 デカルトの自我(Je/Ich)に隷属する前意識の系譜

三十年戦争を終わらせたウエストファリア条約(1648)が、ローマカトリッ
ク教会と政治権力(絶対王権)を分離し<社会契約>説が確立するが、その
契約上に推戴される王権(議員内閣制における王権)は、それでもなお超越
的神の権威(虚構の権威づけ)を求め続けていた。それは、今なお「八紘一
宇の美しい国」なるものを信奉・希求する勢力が日に陰に跋扈する我が国に
おいても、未だに言えることだ。

フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序再建と領土配分を目的
としたウイーン会議(1814-15)が創設したドイツ連邦諸国では封建領主の
支配が続くが、社会改革で先行する当時のフランスでは「七月革命」での王
復古を経て<資本主義マネーの製造器>たるブルジョアジーの“我らこそ
国家主権者なり”という民主意識(王権に対峙する『我』意識)が次第に高
揚していた。

この流れの中で市民主体(国民主権)の民主主義による国家統治の要求が高
まり、「パリ・二月革命」(1648)は全欧州で<民主主義を求める革命(ウ
イーン・ベルリンなどの三月革命)>へと拡大した。が、この流れ自体に遅
れていたドイツでは、18世紀末頃から、統一国家樹立を急ぐ動向が加速して
きた。

 ところで、J.G.フィヒテ(1762 -1814)が『ドイツ国民へ告ぐ』(Reden an
 die Deutsche Nation)の講演を行った(1808)のは、丁度、その「ナポレオ
ン戦争」(1803-1815)のプロセスでの劣勢による屈辱感が漂う(1807年のテ
ルジット条約で領土が半減し、ナポレオンの意志によるポーランド・ワルシ
ャワ大公国が成立した時に当る)ベルリン科学アカデミーに於いてであった
(J.G.フィヒテの画像はウイキメディアより)。

そこで、フィヒテは「最もドイツ的な存在はドイツ人の最初の文化的流出
(Abfluss)である言語、つまりドイツ語」だと言明した。そして、これは「我
(自我=Ich)」に関する、それ以前からのフィヒテの諸考察の必然的帰結で
あり「起源的人間論」とも呼ばれる考え方だ。現代の視座からすれば、この
ような帰結は詭弁または虚構論理の結果に過ぎないと思われるのだが、その
後、これがデカルトの「我想う=cogito、Je pense、Ich denke」に対応す
る、現代的で重要な論理としてドイツ民族主義を煽ることになる。

 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、前期哲学(消極哲学
/存在とは何かが課題の時期)から後期哲学(積極哲学/存在の様態とは何か
が課題の時期)へと変容する大きな射程のシェリング哲学を誤解した可能性
があるが、フリードリヒ・シェリング(1775−1854)が、ヘーゲル左派(青年
ヘーゲル派)への防波堤の役割を期待されベルリン大学へ招聘されたのは
1841年で、シェリングが69歳の時であった(フリードリヒ・ヴィルヘルム4
世の画像はウイキメディアより)。

ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)は、歴史を多様で合理的な因果可能性の一
つに過ぎないと見る極めて客観的な立場で、この先進的な考え方はその後の
「普仏戦争」(1870-71)の勝利に湧くプロイセン王国の一般的歴史解釈(プ
ロイセンがフランスに勝利したのはプロイセン(ドイツ・ゲルマン)文化の対
仏優秀性の証と見なす)に対する厳しい批判の立場を先取りするものであっ
た。

 シェリング哲学の前・後期を分ける名著『人間的自由の本質(1809)』(こ
の本の詳細については後述)を読めば、矢張りフリードリヒ・ヴィルヘルム4
世による都合のよい(シェリングの「我=Ich」には自己自身を完璧な自由意
志だと見なす特徴がある点についての)シェリング解釈では?と感じられるが、
それはともかくも、シェリング哲学はプロイセン王国にとって好都合なフィ
ヒテ流の“我想う故の正統な王権(Ich denke, weil wir eine legitime Souveränität sind.)”の根拠とされた(シェリングの画像はウイキメディア
より)。

フィヒテの「最もドイツ的な存在がドイツ人の最初の文化的流出(Abfluss)で
ある言語、つまりドイツ語」だという言説は、その“最もドイツ的な存在”
の部分が殆どデカルトの「我=Je/Ich」に重なると見なせるが、フリードリ
ヒ・ヴィルヘルム4世が誤解した(と思われる)、このシェリング哲学の文
化的流出(Abfluss)についての言説は、いわば後にフロイトが名付けた「前意
識」((Je/Ich)との結び付きが、無意識より強いと考えられる)を意味す
る、「それ(エス/das es)」の一部分に相当する概念だと言うこともできるだ
ろう。

いずれにせよ、ビスマルク(1815 -1898)は、シェリングによって「ドイツ
的なものと同一視された前意識」たる「それ(エス/das es)」を政治的な意味
で見事に利用することになる。1848年の<三月革命(フランスの二月革命が
ウイーン、ベルリン、ドイツ諸邦各他へ伝播した)>の後に、ヴィルヘルム
1世の下で首相になったビスマルクが「普仏戦争」(1870-71)の勝利と「ド
イツ(第二)帝国」の成立(1871)を実現したことは周知のとおりだ。

 その、ビスマルクが折りにふれて「もう一人の男(andere Kerl)」あ
るいは「それ(das es)」という言葉を使ったことが知られている。例えば、
プロイセンがナポレオン3世を破った直後の1870年11月1日に次男宛てに書
いた手紙には次のようにある。・・・私は喜んで眠りたいのに、いっこうに
眠れそうにない。だが、眠らねばならない。『それ(das es)』(つまり前
意識のこと)が私の中で考え、思索する・・・後、略・・・(出典:互盛央
『エスの系譜』-講談社-/ビスマルクの画像はウイキメディアより)

・・・・・・・・・・

<参考>ビスマルクの「それ(das es)」が明治期以降「日本の歴史病」へ
与えた影響、F.K.サヴィニーの役割

 ビスマルクの登場に先立ち、「歴史法学」の創始者たるF.K.サヴィニー(F.
K.von Savigny/1779−1861)が、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘル
ム4世の懇請を受け「立法改革相」(実質的な宰相)に就任し、彼が逝去した
1861年にはその功績を記念する「サヴィニー財団」が創設された。ここから
は、今も続く法史学雑誌「Zeitschrift der  Savigny‐Stifnung f. Rechtsgeschichte」(参照⇒http://www.fachzeitungen.de/seite/p/titel/titelid/1008936214)
が刊行されている(サヴィニーの画像はウイキメディアより)。

たしかにサビニーの功績はこのように偉大なものであるが、サビニーの思想
の根本には歴史を遡れば民族と法律が協働して法形成に参与した時代(慣習
法の時代)がある”という基本があること、およびサビニーが歴史と法の関
係について次のように両義的な言葉(国家の主権者は正統な国王かor一般国
民か?)を残しているのを見逃すべきではない。・・・『法の素材は国民の
全ての過去によって与えられており・・・途中略・・・それは国民自身の最
も内奥にある本質とその歴史から生み出される』

また、もう一つ忘れてならないのは、19世紀ドイツが“真の統一国家を急ぎ
模索する中で過剰なナショナリズム(民族国家主義)が沸騰した時代でもあ
った”ということだ。無論、この背景には、フランス革命の余波(ナポレオ
ン戦争)とイギリスの産業革命が刺激となり、近代的な統一国民国家を急い
で実現しようとする焦りの如き意識がドイツ人の中に高まったということも
ある。

そのように純粋な「ドイツ民族精神」の高揚とは背反することなのだが、
1789年の大革命によるフランスの国民国家成立に遅れをとった当時のドイツ
の人々が精神の拠り所としたのが、すでに遠い昔の「ウエストファリア条約(1648)」で消滅したはずの、多民族国家たる『中世ドイツ(第一)帝国』
(神聖ローマ帝国)の「栄光」であった。

しかも、このように混沌たる状況の中でこそ、偉大なるプロイセン・ドイツ
の法学者・宰相サビニーは、「ゲルマン民族の純血と伝統精神への激しいま
での憧憬」と「神聖ローマ帝国の栄光に満ちた国制の復権」という二つの政
治的原理をアウフヘーベン(Aufheben)することで、プロイセン・ドイツの
ナショナリズムに新たな熱気を吹き込む「新しい国家理念の創造」に成功し
ていた。

そして、誤解を招かぬように言わねばならぬが、この時代のプロイセン社会
の中には既に「ナチズムに親和するような空気」が微かながらも漂い始めて
いたのである。ここで付け加えるべきは、「民族の歴史」や「民族の精神」
そのものは悪でも何でもない当然の存在であり、それを<民族文化と歴史の
総体>から切断して純粋培養しようとする如き政治哲学、あるいはアカデミ
ズムの立ち位置こそが問題と考えるべきだということだ。

ともかくも、このような空気の中で、やがて1850年(国王フリードリヒ・ヴ
ィルヘルム4世、宰相サヴィニーのとき)に、王権に対する「授権規範性」
が意図的に排除され、「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れと「神
聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベンした
「新しいプロイセン・ナショナリズムの熱気」(ナチズムへ向かう予兆のよ
うな空気)が仕込まれた、あの「プロイセン憲法」が制定されたのであった
(1871から、ドイツ帝国の開始とともにプロイセン国王ヴィルヘルム1世が
ドイツ帝国皇帝を兼ねることになる)。なんと、これは、まさにあの<1791
年5月3日憲法>に象徴される「ポーランド型自由原理」(シュラフタ民主
主義、ポジティヴィズム型漸進主義)の対極にある歪み切った理念ではない
か!

この憲法の大きな特徴は次の3点(★)にあるが、やがて、この独特の「プ
ロイセン憲法に潜むナチズムへ向かう予兆のような空気」が、当時のプロイ
センを訪ねた伊藤博文らを介して「大日本帝国憲法」のなかに流れ込むこと
になる。因みに、下記の三項(★)の中で<国王(皇帝)>を<天皇>に読
み替えれば、そのままで「大日本帝国憲法」の根本理念となることにも驚か
されるはずだ。例えば<国王(皇帝)の大権>は<天皇の大権>と同義にな
る。

★国王(皇帝)の権力は神の恩寵によって授与されたもの(神権政治として
の最高権力)と規定されている。

★立法権は国王(皇帝)と両議院(衆議院・貴族院)が共同でつくるもので
ある。(見かけだけの立憲君主制)

★しかし、行政権は国王(皇帝)のみにあり、国王(皇帝)は法案の拒否権
を持つ。また、国王(皇帝)は緊急勅令を出すことができ、大臣を任免する
大権を持つ。(国王(皇帝)の権力はすべての政治的権力の頂点にある)

ともかくも、1882年(明治15)に伊藤博文らは、「大日本帝国憲法」(1889年
公布)起草の参考とすべく、憲法事情及び西欧各国の諸制度(軍制、法制、
官僚制、機密事務を扱う官房など)の調査を目的に、ある意味で、このよう
に異様な政治的空気が満ちた時代のプロイセン王国(その国王がプロイセン
・ドイツ第二帝国の皇帝)を訪ねたのであった(更に、この論点についての
詳細は下記▲を参照乞う)。

▲点描ポーランドの風景/トルン・マルボルク編、2010.7(ポーランドから衆
愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100912

・・・・・・・・・・

 ところで、当記事を書くヒントを与えてくれた『エスの系譜』(講談社)の
著者・互盛央氏は、結局、デカルトの「Je pense, donc je suis/cogito ergo sum」は虚妄であったと断言されている。が、toxandoriaとしては、そう断言
できるかどうかはともかくとして、少なくとも、「それ(エス/das es)」の
流れの一つと考えられる<リヒテンベルク→フィヒテ→シェリング→ビスマ
ルク→ヒトラー→(リバタリアニズム)=前意識の系譜>が、一種の政治的
狂気(ファシズム、一党独裁的コミュニズム、ランディアン・カルトなど)
にさえ繋がり得る<政治権力の暴走>へ<従属し易いという意味での脆弱性
という弱点>が伴う点に注目すべきであろうと思っている。

なお、もう一つの「それ(エス/das es)」の流れである<リヒテンベルク→
フォイエルバッハ→ニーチェ→フロイト=深い無意識の系譜>は、「前意識
の系譜」と異なり、脆弱性どころか非常に強靭な安定を「人間社会全体」へ
もたらす一種のバランサー機能(オートポエーシス的な不均衡解消作用=DNA
が自己複製プロセスで見せてくれる不思議なアーキテクチャにも似た/参照⇒http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_2e60.html)
を秘めているのではないかと思われる。

つまり、人間の知覚と認識領域における、確固たる自我ならぬもう一つの
「それ(エス/das es)」との強いシンパシー(sympathy)が求められる場
面でこそ、例えば「ポーランド型自由原理」(ポーリッシュ・ポジティヴ
ィズム=一般国民に対し責任を負うべきシュラフタ(中間エリート層)に
は必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し
民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由があ
るとの考え方)あるいはハンガリーのマイケル・ポランニー(参照⇒
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090804/p1)らのような<東欧型英
知>の出番があると言えるのではないだろうか(無論、これは東欧型に限ら
ず、アジア型など特に従来の歴史観では周辺・辺境として片づけられてきた
所に似たような役割の英知が隠れていると思われる)。言い換えれば、それ
は、例えば「ポーランド型自由原理」には “人間の意識の集合体としての社
会構造全体”を安定化させる働きが期待できるということである。

ともかくも、フィヒテ、ビスマルクらに見られる、かくの如き<歴史病(優
秀な民族・文化の帰結こそが歴史だと解釈する歴史観>がもたらした国民的
熱狂こそ(しかも、既に書いたとおり、この熱病は明治期に日本へ伝播・感
染し八紘一宇の美しい神を奉る日本ファシズムの淵源となった)が、ヴィル
ヘルム1世(前出ヴィルヘルム4世の弟)を皇帝に戴く“純血で優秀なドイ
ツ民族国家”たる「プロイセン・ドイツ第二帝国」(ヒトラー・ナチズムへ
の序曲)を実現したと言えるのだ。

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