メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(第二部)(2/2)-1  2010/11/12


[副 題] 点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆
愚政治に踊る日本への手紙)(第二部)(2/2)-1

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。文章は、恒
例で長いですが、今回は写真も多いので最後まで眺めて頂ければ幸いです。
なお、これでポーランド・シリーズは完結です。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101111 

【プロローグ画像】「王宮広場、ショパンの生家」辺りの風景 

王宮広場の遠望 

[f:id:toxandoria:20101111144240j:image]・・・この画像はウイキメディア
より 

ショパンの生家(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111144613j:image]
[f:id:toxandoria:20101111144612j:image:right]
[f:id:toxandoria:20101111144557j:image] 

・・・ワルシャワから西へ50kmの小さな町、ジェラゾヴァ・ヴォラにフレデ
リック・ショパン(1810 -1849)が生まれた家があり、今は博物館となって
いる(上掲以外の生家の画像は下記◆を参照乞う)。 

◆点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に
踊る日本への手紙)(第一部)(1/2)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101103 

聖ロフ教会(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111145105j:image]ほか 

・・・この「ジェラゾヴァ・ヴォラから北へ約10kmのブロフフ村には、ショ
パンの両親が1806年に結婚式を挙げ、その4年後にショパンが洗礼を受けた
といわれる、16世紀創建のゴシック・ルネサンス折衷様式の教会がある(一
枚目の画像はhttp://www.polskiekrajobrazy.pl/Galerie/71:Mazowsze/3802:Brochow_kos
ciol_obronny.html、
二枚目はウイキメディアより)。 

・・・全ヨーロッパの約3割のコウノトリがポーランドに飛来して冬期を過
ごすとされており、聖ロフ教会の近隣でもコウノトリの家族が数多く観察さ
れた。 

【プロローグ動画】 Chopin -Valentina Igoshina - Nocturne in C Minor
[http://www.youtube.com/watch?v=-MzrAGZHDvo:movie] 

【画像】ワルシャワの位置図 

[f:id:toxandoria:20101111145533p:image] 

(ワルシャワ史の概要) 

ワルシャワを中心とする地域は、中世初期以降のポーランドの首都としての
歴史は浅い。それはこの地域一帯がポーランドで最初の統一王朝とされるピ
ヤスト朝時代(960‐1386)にもポーランド王国の外側に位置し、ビヤスト朝・
傍系のマゾフシェ公の支配下にあったためだ。15世紀初めマゾフシェ公がこ
こに居城を移してワルシャワはマゾフシェ公国の首都となった。 

他方、ヤギエウォ朝の「ポーランド・リトアニア連合王国(1386‐1572)」が
成立すると、東西南北の交通の要所を占めるワルシャワの重要性が高まりマ
ゾフシェ公国はしだいに「ポーランド・リトアニア連合国王国」に吸収され、
1526年にワルシャワもその一部となり、ジグムント3世の遷都で1611年にワル
シャワは王国の首都となった。因みに、ワルシャワの位置を現在の移動距離
(陸路)で測るとパリ〜モスクワ間(約2.4千キロ)のちょうど中間地点
(各1200km)、ベルリン迄600kmになる。 

17世紀はペストの大流行(1625)と、いわゆる「大洪水時代」(1648年のコサ
ック反乱〜スウェーデンのポーランド侵入〜ロシア・ポーランド戦争〜1667
年の同戦争・終結までの長い動乱期)の戦乱と占領でワルシャワは荒廃し、
人口も減少した。 

この結果、しだいに商業・手工業が衰退し、もともとワルシャワの伝統であ
った大シュラフタ(マグナート)の邸宅都市としての性格が一層強まった。
やがて、経済的な意味での都市活力の回復の兆しがみえ始めるのは、漸く18
世紀の後半頃からで、商業、銀行業、手工業(織物・武器・馬車・皮革・醸
造・陶器など)が活発となる。 

小・中シュラフタらが流入し、萌芽的なブルジョアジー階層が見られるよう
になり、更に知識層が形成されるとともにワルシャワの人口が増え始めた。
ポーランド分割(第一次・1772)の危機に直面してからは、ワルシャワなど
の諸都市で啓蒙精神に基づく「国政改革運動」が興り、市民の政治意識が大
いに高揚した(ポーランド分割・第二回(1793)の2年前に制定された1791年
5月3日憲法など/下の注記を参照乞う)。 

・・・・・・・・・・ 

<注記>ポーランド・リトアニア共和国の5月3日憲法 

・・・欧州で成立した初めての近代的「成文憲法」で1791年5月3日にセイム
で貴族共和制における政治的欠点を取り除くこと、つまりシュラフタ層と中
間ブルジョア市民層における平等主義の実現と対国王の授権規範(成文憲法)
で民主的な立憲君主制を実現することを目的に採択された。この憲法は、中
間市民層とシュラフタとを政治的に平等と定め、農民を政府の庇護下に位置
づけて農奴制による農民負担の軽減を図った。また、議会におけるリベルム
・ウェト(自由拒否権)も廃止された。 

・・・・・・・・・ 

ポーランド分割・第二次(1793)後の1794年には、クラクフで蜂起したコシチ
ューシコ(ベラルーシ系シュラフタ出身の軍人)軍がワルシャワを支配したこ
ともあり(プロイセン・ロシア連合軍に対するコシチューシコ蜂起が全国へ
展開)、ワルシャワは最も急進的なポーランド・ジャコバン派の拠点となり、
18世紀末のワルシャワは恰もフランス革命(1789)が飛火した観を呈した。 

ポーランド分割・第三次(1795)後のプロイセン支配時代(1795‐1806)のワル
シャワは一地方都市化して衰退したが、ナポレオン・ボナパルト支配下の
「ワルシャワ公国」では、その首都 (1806‐15) として活気を取り戻した。
更に、ナポレオン敗退後のロシア領ポーランド王国(1815‐1918/厳密には
1815-30はウイーン体制下のポーランド立憲王国)の時代の約100年間は、その
主都として飛躍的に発展する。 

二度にわたる「対ロシア国民蜂起」(1830‐31年の11月蜂起、1863‐64年の
1月蜂起)はいずれもワルシャワが主舞台となったが、都市としてのワルシャ
ワの発展に致命的影響は与えなかった。1830年の「11月蜂起」前の15年間
は経済的に特に活気に満ちた時期で、大劇場、ポーランド銀行など多くの記
念碑的建造物が創建され、ワルシャワ大学もこの時代に創立された。 

19世紀中葉には金属工業が興り、ワルシャワの産業は、更に鉄道の重要分岐
点としての役割も加わり、再び活気を呈することになった。こうした力強い
発展傾向は「一月蜂起」とその挫折によっても中断されることはなく、ワル
シャワを中心とするポーランドの産業革命はむしろ加速した。そして、「第
一次世界大戦」前夜まで爆発的な人口増加が続き、市域の拡張も続いた。や
がて、そのような動向の中から産業ブルジョアジーと労働者階級が誕生し、
ワルシャワは1890年代頃から近代的な政党活動と社会主義運動の中心地とな
る。 

他方、この頃からのワルシャワは、いわゆる「ポジティビズム運動」の中心
地としてポーランド人の「シュラフタ的な中間層の思想生活」に大きな影響
を与え、支配国側からのロシア化政策の圧力にもかかわらず、活発なポーラ
ンド語によるポーランド伝統の学芸、出版活動を維持して、国外の列強によ
って分割されたポーランド(民族と国家)の精神的首都の役割を担うように
なった(下の注記を参照乞う)。 

・・・・・・・・・・ 

<注記>ポーランド人の「シュラフタ的な中間層の思想生活」と19世紀後半
の「ポジティビズム運動」について 

「シュラフタ的な中間層の思想生活」は、ポーランド伝統のシュラフタ民主
主義に根差すブルジョアジー中間層の社会指導層としての規範的な精神(積
極的な生活態度)のことを指す。また、「ポジティビズム運動」は、このシ
ュラフタ民主主義に根差すと考えられ、19世紀後半〜20世紀初頭のポーラン
ドで興った一種の社会改革運動のことを指す。 

また、これは研究者らにより異なる見解も存在する問題ではあるが、その
「ポジティビズム運動」は1980年代のポーランドでワレサを指導者として拡
がった、反「共産主義一党独裁政権」運動(覇権国ソ連影響下の自由な組合
活動が認められていない中で成立)であった「連帯」(独立自主管理労働組
合)の運動にも繋がるものがあるとされる。 

なお、「シュラフタ的な中間層の思想生活」が現代ポーランドでも生かされ
ているという論点についての詳細は、以下の『本論-1:戦略的に個人の名誉
と誇りを守るポーランド型自由原理が現代日本へ問いかけるもの』で詳述す
る。 

一般にポジティビズム(positivism)と言えば実証主義のことだが、19世紀
半ば頃にポーランドで興ったポジティビズムは、それとは異なる。「一月蜂
起」後のロシア領ポーランド王国で1870年代に起こった、この運動の命名は、
運動を興した当事者たちが、自らの発言の正当性を実証主義哲学で根拠づけ
たところからくるものだ。 

その運動は、ワルシャワ大学の卒業生を中心に展開されたが、彼らは日常的
な生産労働や地道な社会問題の解決を軽視する旧世代のロマン主義的な考え
方を批判することから始められた。彼ら若い世代の知識層は、<武装蜂起>
こそが国家独立に至る最短距離だとする旧世代の考え方は却って弾圧と、そ
れによる社会・経済の荒廃を招き結果的に「真のポーランド国家としての独
立実現」と「ロシア植民地的な文化からの脱出」が遅れると考えた。 

彼らは、日常的な生産労働と貯蓄に励み、生産・商業活動を実行することで
一人ひとりのポーランド人が中間層(ブルジョアジー)になるべく努力する
こと、また貧困、反ユダヤ主義、売春などの深刻な社会問題を一つひとつ解
決する現実的な地道な努力こそが、結果的にポーランド社会全体を富ませ健
全化することになり、やがては真の独立の実現とポーランド伝統文化の復興
に結びつくと主張した。このような考え方は、プラトンの「賢人(哲人)政
治」に近いものであったと見なすことができるであろう。 

やがて、このような「ポジティビズム運動」の<ある意味で非現実的な姿勢
=高度な倫理政治的意識と現実生活主義の折衷>を批判する運動が新しく登
場して、それは実際に庶民レベルでは実現が不可能だと批判された(<注>
現実認識の振幅は視点の位置しだいなので、この批判問題は現代日本の混迷
にも繋がる重要な論点)。例えばそれは、「プロレタリアート党」の結成に
始まる社会主義運動と「ポーランド同盟」の結成による国粋的ナショナリズ
ム運動であった。いずれせよ、これら諸運動の主な指導者がシュラフタ出身
か、あるいはシュラフタ精神に影響を受けた知識人と中間層以上の人々であ
ったことに注目すべきである。 

・・・・・・・・・・ 

<注記> 

◆『第一次世界大戦〜第二共和国誕生(ポーランド国家の復活)〜ナチス・
ドイツ支配(第二次世界大戦)〜解放・ポーランド人民共和国(ソ連支配下
の時代)〜現代』については、他の記事および後述する『1−2 現代ポー
ランドにも生きる、戦略的に個人の名誉と誇りを守るシュラフタの伝統』と
重複するので省略する。 

◆なお、ナチス・ドイツ支配(第二次世界大戦)〜解放までのプロセスで起
こった『ワルシャワ・ゲットー蜂起』と『ワルシャワ蜂起』の詳細について
は、下記の記事★を参照乞う。 

★点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に
踊る日本への手紙)(第一部)(1/2)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101103 

・・・・・・・・・・ 

[f:id:toxandoria:20101111150052j:image:right]今のワルシャワ北部にある
「旧市街」(1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)と、
その北隣りの「新市街」(1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市
街地)は、第二次世界大戦による大破壊の姿からワルシャワ市民の手によっ
て壁のヒビ一本に至るまで忠実に再現されたものだ。なお、1596年に古都ク
ラクフからワルシャワへ首都機能が移され、1611年からワルシャワがポーラ
ンドの正式な首都となった。 

この旧市街、新市街、クラクフ郊外通り、新世界通り、およびワルシャワ市
内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は、1980年にユネ
スコの世界遺産に登録されている(この画像はウイキメディアより)。現在
のワルシャワは人口170万人ほどの近代的都市であるが、旧市街については当
時の街並みが再現されている。 

【画像】ワルシャワの風景 

旧市街の風景(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111150433j:image]
[f:id:toxandoria:20101111150431j:image] 

・・・ワルシャワの中心部を流れるヴィスワ川の西岸にある直径500mほどの
ほぼ円形の市街地。 

旧市街のシンボルとされるシレナ(人魚)像(2010.7.20、撮影) 
[f:id:toxandoria:20101111161157j:image] 

・・・伝説では、ヴィスワ川に住む美しい歌声の人魚を村人らがとらえたが、
一人の心優しい若者が彼女を川へ逃がしたところ、それ以来ワルシャワに希
望の歌声が聴こえるようになったとされる。 

バルバカン(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111150630j:image]
[f:id:toxandoria:20101111150629j:image] 

・・・16世紀に造られた旧市街の西側を丸く囲む赤レンガの城壁で、当時は
旧市街全体を囲んでいたが、第二次大戦で破壊され、戦後にその一部が復元
されたもので約300mほどの長さがある。 

ラジヴィウ宮殿(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111150749j:image] 

・・・王宮広場とワルシャワ大学のほぼ中間にある。元は大シュラフタ、ラ
ジヴィウ家の館だったが、1765年に館の一部が劇場として開放されポーラン
ドで初めてのオペラが上演され、ショパンもここで初めてのピアノ演奏会を
開いたとされる。が、今はポーランド大統領の官邸となっている。 

聖十字架教会(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111151231j:image]ほか 

・・・16世紀に小さな木造の教会として建てられ、後に現在のようなるルネ
ッサンス様式の建物になった。ショパンが1849年にパリで死去後、望郷の思
いで残した遺言で彼の心臓がここに埋葬された。第二次大戦でドイツ軍に破
壊され心臓も持ち去られたが、戦後再建され心臓はショパンの命日に教会へ
戻った。 

キュリー夫人生家(博物館)・・・この画像はhttp://moro-q.sakura.ne.jp/blog/2006/10/04_32.htmlより 

[f:id:toxandoria:20101111151441j:image] 

・・・ノーベル賞を2度受賞したことでも知られるキュリー夫人は1867年に、
ここで誕生している。今はキュリー夫人関係の博物館となっている。 

旧王宮(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111151549j:image]ほか 

・・・1596年にクラクフからワルシャワへ仮遷都した(正式には1611年〜)
ジグムント3世が建てた初期バロック様式の建造物(イタリア建築家の設計)
である。訪れたときは、ちょうどクラクフからやってきたレオナルド・ダ・
ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』の展示が行われていた。 

・・・歴代ポーランド王の居城として使われてきたが、「ティルジットの和
約」(1807)で「ワルシャワ公国」の君主となったザクセン王アウグストの
支配下で建物が更に整備された。現在は王宮美術(博物)館(公式URL⇒http://www.zamek-krolewski.pl/)として使われている。 

王宮広場のジグムント3世像(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111151755j:image] 

ワルシャワ大学 

[f:id:toxandoria:20101111151851j:image] ・・・この画像はウイキメディ
アより 

・・・ロシア支配下の時代、1816年に改革派貴族ポトツキ、啓蒙思想家スタ
シツらの努力で王立大学として創立されたが、民族主義的な学生組織の中心
となり「11月蜂起」(1830‐31)後に閉鎖された。 

・・・1862年に「ワルシャワ中央学校」として再開され、いわゆる「ワルシ
ャワ・ポジティビズム」の形成に重要な役割を演じて「ポジティビズム運動」
の中心地となった。 

・・・1869年には、ロシア化政策の一環として「ロシア帝国大学」に改組さ
れるが、第1次大戦中の1915年にポーランドの大学として再開された。 

・・・ポーランドが1918年に独立した後は、ポーランドの中心的な大学とな
る。ナチス・ドイツ占領期間中(1939‐45)は閉鎖されたが、非合法の教育活
動を行った。 
・・・第二次大戦戦後に再建され、1956年の非スターリン化運動に際しては
学生新聞「ポ・プロストゥ(直言)」が急進派知識人の機関紙の役割を果た
した。 

・・・1968年のワルシャワ大学の学生デモが契機となって「三月事件」(対
ソ連反体制運動)が起こり、政府側の弾圧措置(特にユダヤ系知識人への弾
圧)を招いた。が、同大学の学生らは1980‐81年の「連帯」運動にも敏感な
反応を示して学制改革に大きな役割を演じた。 

・・・現在は、20学部・学生数約2万人の規模で、クラクフ大学とポーラン
ドで1、2位の水準を競うヨーロッパで屈指の大学となっている。 

ヴィラヌフ宮殿・・・この画像はウイキメディアより 

・・・オスマン帝国軍にウイーンが包囲されたときにポーランド軍を率いて
敵を打ち破ったことで知られるヤン・ソビエスキ3世(位1674−96)が建て
た夏の離宮で、ヴェルサイユ宮殿を模したバロック建築である。 

・・・また、ヤン・ソビエスキ3世は近隣諸国の侵略に伴う大内戦状態の
「大洪水」(詳細、後述)で荒廃した「ポーランド・リトアニア共和国」の立
て直しに22年の治世を捧げた王としても名高く、その治世は没落期の共和国
にとり最後の輝かしい時代となった。 

ワジェンキ(水上の)公園辺りの風景(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111152227j:image]ほか 

・・・1764年に即位したポーランド最後の王、スタニスワフ・アウグスト・
ポニャトフスキ(位1764−1795)が約30年の時間をかけて造園した公園で、
このなかにワジェンキ(水上の)宮殿がある。 

ワルシャワの風景、ア・ラ・カルト(2010.7.20、撮影) 

[f:id:toxandoria:20101111152517j:image]ほか

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