メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:点描ポーランドの風景・ヴロツワフ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)  2010/08/19


[机上の妄想]点描ポーランドの風景・ヴロツワフ編、2010.7(ポーランドか
ら衆愚政治に踊る日本への手紙)


<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100819

【プロローグ画像】Lara Fabian & Maurane - Tu Es Mon Autre 

【画像1】ヴロツワフ旧市街広場全景&ヴロツワフ位置図…これらの画像は
ウイキペディアより 

 1 (概観)ヴロツワフの歴史と現在

ヴロツワフ(Wroclaw、ドイツ名・ブレスラウ、Breslau/ポーランド南西部に
ある下シロンスク(ドイツ名、シレジア)地方の中心都市=ドルヌィ・シロン
スクの県都、人口約64万人のポーランド第4の都市)は、ドイツ・ポーランド
国境を流れるオドル川(ドイツ名・オーデル川)の上・中流域の流れと共に
歴史を刻んできた。

そもそもボヘミアの影響下にあったヴロツワフは、990年頃に他のシロンス
ク地方の都市とともにポーランド王(ピャスト朝)の支配下に入り、1000年の
「グニェズノ会談」で神聖ローマ皇帝オットー3世とボレスワフ勇敢王がロー
マ・カトリック教区の設置を決めた。

その後まもなくヴロツワフに最初の司教座が(次いで大司教座がグ二エズノ
に)置かれた。やがて、モンゴル人侵入(1240〜41)後の13世紀後半にはドイツ
騎士修道会らによるドイツ人の植民が活発に行われ、彼らがヴロツワフの市
街を形成した(この時代、ポーランドはポモジェ、シロンスクなどの領土を
失った)。やがて、14世紀になると、この都市は再びボヘミアの一部(ボヘミ
ア王カレル1世を兼ねた神聖ローマ皇帝カール四世の支配下)となる。

 オーデル川の中州から発達した都市であるヴロツワフは、バルト海の河口か
ら約500km南に、そしてドイツ・ドレスデンから東方へ、チェコ・プラハから
東北東へ、それぞれ約300kmに位置することもあり、非常に古い時代からヨー
ロッパ各国へ琥珀などの物資が送り出される商都あるいは、ユダヤ人・アル
メニア人らが活躍する金融中枢都市としての性格が与えられてきた(図はhttp://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en|ja&u=http://freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.
com/~carter/germany/oderrivermap.html
より)。

近世のシロンスク地方は、石炭・鉄鋼・亜鉛などの地下資源が豊富であるこ
とが災いとなり歴史的に周辺諸国との紛争が繰り返されてきた場所であった
が、現代のヴロツワフはバス・自動車製造、化学製品製造、電子産業などが
活発な工業都市と金融中心地としての二つの顔(中世ポーランドの伝統が復
活?)を持ち、ポーランド主要銀行の幾つかがヴロツワフに本店を置いてい
る。

従って、ヴロツワフは10〜12世紀頃に商都として繁栄したポーランドで最古
の都市の一つであるにもかかわらず、13世紀モンゴルの侵入からドイツ騎士
修道会らの植民、14世紀ボヘミア(ハンザ同盟都市)、16世紀ハブスブルグ、
18世紀(1741 -)プロイセン〜第二次世界大戦終了(- ナチス・ドイツ)と目ま
ぐるしく支配者が代わったが、中世から現代に至るまで、その琥珀ロードに
おける交易・金融中枢都市としての性格(伝統)は今も綿々と引き継がれて
いる。

第二次世界大戦下のドイツ軍とソ連軍の激しい戦闘で歴史地区の約7〜8割は
徹底的に破壊されたが、戦後になると、それまで奇跡的に残されていた諸資
料を元にブロツワフ市民の手で破壊された殆どの建造物が正確に復元・再建
された。なお、1945年まで200年以上の長きにわたりドイツ領であったという
歴史的経緯から、この町は今でもドイツ風文化の影響を色濃く残している。

  なお、ヴロツワフは現在も琥珀・宝石・貴金属などの取引が盛んな商業都
市でもあり、土産物として琥珀、宝石、銀製品、ガラス工芸品、陶器などが
売られており、そのシフィエンティ・ブリギティ教会には肌の露出部分が琥
珀で造られた「琥珀のマリア像」がある(画像は
http://www.iwakiri-tabinouta.net/html/05poland/07.php
より)。

2 日本政治の衆愚化&右傾化(反転中華思想としての辺境の片田舎人化)と
対照的なポーランドを象徴するヴロツワフ、その「異端者の避難所的性格」
のユニークさ

【画像2】ヴロツワフのコビトと仲間たち・・・2010.7.17 撮影
 

(ヴロツワフのコビト伝説=ポーランドの宗教的・政治的寛容の象徴)

伝説によると、中世以来の琥珀ロード上の交易中枢都市ヴロツワフには異邦
人や異教徒あるいは身体的な障害による異形の人々を温かく受け入れる伝統
があった。このため、その居心地の良さを求めて、特に沢山のコビトたちが
ヨーロッパ中からヴロツワフへ集まってきたとされる。

また、ヴロツワフのコビトは、古くから異宗教・異人種に対して寛容であっ
たポーランドへ向かって、ヨーロッパ中から集まってきたユダヤ人たちの象
徴だと見なされることもある。画像のようなコビトおよびソノ仲間たちの像
が街中で見られるが、彼らはヴロツワフに幸福を呼び込むと信じられている。

現実的に中世以降のポーランドではユダヤ人自治共同体(カハウ)が存在し、
16世紀にはユダヤ人による独自の議会(ヴァード)が認められ、18世紀後半の
頃にはユダヤ人の人口がポーランド・リトアニア共和国の約1割を占めるま
でになっていた(出典:渡辺克義編『ポーランド学を学ぶ人のために』)。

ところで、中〜近世におけるポーランド・リトアニア国家(1386〜1569ポー
ランド・リトアニア連合王国/ 1385年にリトアニア大公ヨガイラは、ポーラ
ンド王国の女王ヤドヴィガと結婚、ローマ・カトリックに改宗すると同時に
ポーランド王に迎えられた=ヤギエウォ朝時代(1386〜1572)/1569〜1795ポー
ランド・リトアニア共和国)のポーランドがマルチリンガル、つまり多言語
が共存する状態であったことは既に触れた(参照⇒下記★)。

★点描ポーランドの風景・クラクフ編(1)、2010.7(ポーランドから衆愚
政治に踊る日本への手紙)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100731

★点描ポーランドの風景・クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚
政治に踊る日本への手紙)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100803

しかし、多様性が共存するのは言語だけのことではなかった。たしかに、こ
の時代の国王を始めとする大貴族・シュラフタら支配層の殆どはカトリック
教徒であり、国王の死後に新しい国王が即位するまでの空位期に摂政を務め
るのもカトリック教会の大主教座グニェズノの大司教であった。

中世(14〜15世紀)におけるポーランド・リトアニアの国民全体に占めるカト
リックの割合は50%程度と推定されており、これは現代ポーラ ンドで約9割
がカトリック教徒という実情と大きく異なっている。その第一の原因は、中
〜近世におけるポーランド・リトアニアはその広大な国土の位置関係か ら、
東西両キリスト教会圏の境界に位置していたということにある。

このため、その頃のポーランド国土の東部〜東南部辺りにかけては、カトリ
ック教徒よりも東方正教会諸派の信徒が多かったということになる。しかも、
16世紀になると、その地域とリトアニアの貴族およびシュラフタ層はカトリ
ック教徒の支配層とほぼ同等の権利が与えられるようになっていた。従って、
すでに中世〜近世初期のポーランドで複数のキリスト教宗派が共存する事実
があったことについて刮目すべきなのだ。

(コビト伝説の現代的意義=伝統的グローバル都市ヴロツワフの「異端者の
避難所的性格」が創出する新たな寛容への期待)

更に驚かされるのは、17〜18世紀のポーランド・リトアニア共和国ではキリ
スト教にさえ改宗すれば宗派の如何には無関係で、たとえユダヤ人やタター
ル人の家に生まれてもシュラフタの身分になることが許されたということで
ある。つまり、その頃のポーランドでは宗教上の区別と人種差別が異なる原
理で評価されるという現実が既にあったということになるのだ(出典:渡辺
克義編『ポーランド学を学ぶ人のために』)。

一方、宗教改革の影響はポーランドへも押し寄せてきており、16世紀にはポ
ーランドの有力貴族でプロテスタントに改宗する者が現れている。しかしな
がら、ポーランドにおける宗教改革の最も大きな特徴は、特定のプロテスタ
ント宗派が大きな影響力を持ったり、あるいは諸宗派間の争いが起こったり
することが殆どなく、多数のプロテスタント教会が平和裏に共存し続けたと
いうことである。

しかも、16世紀前半にポーランド国王が異端禁止の勅令を出すや、国の指導
層を担うシュラフタたちは様々なプロテスタント教会の活動を黙認するとい
う行動に出て、遂にはヤギエウォ朝が断絶(1569)した後にワルシャワに集結
した貴族・シュラフタたちは、「ワルシャワ連盟協約(1573)」を結び、“我
々は信仰が異なるが、お互いの間で平和維持を最優先する”として「信教の
自由」を誓ったのであった。

なお、このワルシャワ連盟協約の内容である「信教の自由」は、選挙で 選
ばれた新国王(最初に国王自由選挙で選ばれたポーランド君主、仏ヴァロワ
家のヘンリク・ヴァレズィ)が即位の前に誓約する「統治契約」の中に組み
込まれ たため、それはポーランド・リトアニア共和国の国制の一部(王権に
対する授権規範)となったのである(出典:渡辺克義編『ポーランド学を学
ぶ人のため に』)。

このような経緯で観察されるのは、やはりシュラフタ民主主義の他欧州諸国
に対する先駆けということであり、その先進性(シュラフタら指導層に立つ
ポーランド国民の自覚と意志=民主的なナショナリズムの意志・・・同じ
“辺境(片田舎)人”でありながら、アジアの片田舎人(辺境人たる)日本人の
閉鎖性・衆愚性と対極にある<理想の民主主義国家>実現へ向かう開かれた
理念型の意志)は「米国独立革命(1775-83)」と「フランス革命(1789)」を遥
か200年以上も先駆けるものであった(関連参照⇒下記★)。

★点描ポーランドの風景・クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚
政治に踊る日本への手紙)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100803

★点描ポーランドの風景・クラクフ編(3)、2010.7(ポーランドから衆愚
政治に踊る日本への手紙)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100806

なお、16世紀後半以降から現代に至るポーランド(ポーランド・リトアニア
共和国末期〜ポーランド分割による国家消滅期(1795-)〜第二共和国(1918-)
〜)では、イエズス会の対抗宗教改革が専ら「教育活動」に力を注いだこと
が功を奏し、シュラフタ層のみならずカトリック化が一般の国民層全般へと
広がることに繋がった。

このような歴史的経緯を概観して分かるのは、ポーランドという国が、ヨー
ロッパの歴史では真に珍しいということになるのだが、あの宗教改革期に
「フランスのユグノー戦争」の如き残虐で血みどろな宗教戦争を殆ど経験し
ていないといえることだ。このため、ポーランド近世史の研究者ヤヌシュ・
ダズビルは、宗教改革期のポーランド・リトアニア国家を「火刑なき国」と
名付けている(出典:渡辺克義編『ポーランド学を学ぶ人のために』)。

そして、このように比較的温和な宗教改革期を経験した社会の底流には、既
に触れたことだが、シュラフタ民主主義が実現した「ワルシャワ連盟協約
(1573)」による「信教の自由」の実現の流れということがあった。言い換え
れば、それは「ポーランド・シュラフタ流の宗教的寛容」であり、しかもそ
れは理念レベルに止まらず王権の誓約による「授権規範」として具体的に法
制化されたものであったのだ。

 当然ながら、そのシュラフタ流の寛容の空気は現代ポーランドにも、そし
て、特にその象徴たる都市ヴロツワフの「コビト伝説」の背後にも流れてい
るように思われる。ヴロツワフ市内のオドラ川には多くの中洲があり、そこ
には数多くの橋が架かっている。それは、本格的なグローバリズム時代の今
だからこそ、民族・言語・宗教・国家・経済力の違いをこえて、まるで人と
人の心に橋を架けることができる国がポーランドなのだと語っているような
美しい光景である(画像は
http://blog.goo.ne.jp/ranozdjecia/m/200608
より)。

余談になるが、特に我が国の極右派系ジャーナリズム(ジャーナリスト)が
伝える現代ポーランドの政治・社会・経済関連情報には特別に色濃い異様な
フィルターが掛っているようだ。例えば、「ポーランドの福祉重視派=極右」、「穏健な自由主義あるいは市場経済主義=小さな政府・自由原理主義」と言
う具合になるようだ(ポーランド経済の概観については下記▲を参照乞う)。

▲シュラフタ民主主義の歴史的優位性の伝統と現代ポーランドの先進的な批
判的問題意識、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100806

しかし、よく考えてみれば旧共産党による一党独裁体制への回帰願望こそが
ポーランドでは“事実上の極右”ではないのか。つまり、現代ポーランド人
にとっては日本流の中華思想の裏返しに過ぎない辺境(片田舎)人(=日本人)
が誇らしげに語る“右”や“左”は余り意味がないという訳だ。

実際に、概ねポーランド人の40代以上の年代層のごく一部には共産主義独裁
政権時代への復帰を願望する“極右”が存在するようだ。一方、余りにも古
色蒼然としているが故に、一見では日本の極右と同義の“極右”と思しき
「保守王党派クラブ(KZ-M)」(参照⇒http://en.wikipedia.org/wiki/Conservative-Monarchist_Club)ですら、そ
の復古目標たるポーランド・リトアニア共和国がシュラフタ民主主義による
授権規範で王権が制限されていたことは承知のことなのだ。

まして、貴族(大シュラフタ)家系のブロニスワフ・コモロフスキ新大統領、
あるいはグダニスクの庶民出身のドナルド・フランチシェク・トゥスク首相
らを、いわゆる“中華思想が反転したという意味での辺境(アジアの片田舎)
人型の日本流中道右派”の相似形に同定したり、あるいは同じく“アジア辺
境人型の日本流保守本流”似なので、彼らの思想は日本人が誇る安倍晋三が
掲げた万世一系の美しい国”のソレにソックリだなどと理解するのは早とち
り過ぎるし、そもそもポーランド人に対して甚だ失礼なことになるだろう。

なお、現在のトゥスク政権は、ドイツ・ロシアなど重要課題を抱える国々と
の間では対話を通じて関係を構築するという姿勢を示しており、2011年後半
のEU議長国就任への準備も重要課題の一つに挙げて前向きな対欧州外交を展
開しつつある。また、2008年8月に米国との基本協定に署名した米ミサイル防
衛システムのポーランド国内配備については、オバマ政権の2009年9月の方針
転換を受け当初の計画は取り止められた。

更に余談になるが、1980年代に行われた「オレンジ代替(Orange 
Alternative)」と呼ばれる“共産党一党独裁体制に対する地下組織による
抵抗運動”の象徴として、この“ヴロツワフのコビト”の落書きが使われた
ことは良く知られている。共産党一党独裁政権下の官憲も微笑ましい笑いを
誘う“コビトの落書き”を理由にオレンジ代替のメンバーを追求・逮捕する
ことはできなかったので抵抗運動(連帯)の輪が広がるのに大いに効果を上
げたとされる(情報源⇒
http://www.pomaranczowa-alternatywa.org/orange%20alternative%20overview.html)。

ともかくも、我々にとって肝要なのは他国の政治・政党・宗教などに対し急
いで“極右”あるいは“極左”などのレッテルを貼りつける前に、その国の
歴史をより深く学ぶことである。そして、我々は、特に<単純な議員数 削
減等による民主主義の効率化なる甘言に踊らされつつある日本政治の衆愚化
&右傾化(辺境の田舎人化)と対照的なポーランドを象徴する都市ヴロツワフ
のコ ビト>と<伝統的グローバル都市ヴロツワフの寛容、その異端者・異
形者らの避難所的性格のユニークさ>の意味(多様性と少数派を尊重する意
識の重要性)を 謙虚に、かつ十分慎重に理解する必要があるようだ。

<関連情報>

◆欧州の極右政党代表団が靖国神社を参拝…日本の極右団体「一水会」が企
画・費用面等でお膳立て、「ナチスのガス室は第二次世界大戦の歴史の細部
にすぎない」と発言した仏・極右政党「国民戦線」のジャン=マリー・ルペ
ン党首ら仏、英、オーストリア、ハンガリー、ベルギー、ポルトガル、イタ
リアから極右が参加、しかしポーランド“極右”の参加はなかった、http://jp.wsj.com/japanrealtime/2010/08/13/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E3%81
%AE%E6%A5%B5%E5%8F%B3%E6%94%BF%E5%85%9A%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E5%9B%A3%
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【画像3】ヴロツワフ大学 ・・・この画像はウイキペディアより 
 

(ブロツワフ大学を再建したブロツワフ市民の心意気)

1702年頃、神聖ローマ皇帝レオポルト1世はイエズス会の小さなアカデミー
を創設しレオポルト・アカデミーと命名した、これがヴロツワフ大学のルー
ツとされる。

シレジア戦争(1740-45/シレジア領有をめぐるオーストリア・プロイセン間
の戦争)で シレジアがプロイセンに統合されると同アカデミーはフランク
フルト・アン・デア・オーダーにあったプロテスタント系の大学(Viadrina)
に吸収され、ブロツワフのアカデミーはSchlesische Friedrich-Wilhelms-Universitaet zu Breslauと命名された。

1811年に同アカデミーはUniversitatis Literarum Vratislaviensisとして
独立し、当初は哲学、薬学、法学、プロテスタント神学、カトリック神学の
5つの学部が設けられ、19世紀にはブレスラウ大学(ドイツ語: Universität Breslau)と呼ばれた。

第二次世界大戦では、ドイツ軍が街をソ連軍へ明け渡すことを拒んだため、
ブロツワフ大学の建物の殆どは破壊された。しかし、解放後は大修理が行わ
れ、そこへソ連のウクライナ共和国領となったルヴフ(ウクライナ語の表記
ではリヴィウ)のルヴフ大学(17世紀にポーランド王ヤン2世がイエズス会
系ギムナジウムを改組した)から多くのポーランド人教授陣がルヴフ大学の
収蔵物と共に移された。

やがて、1945年8月には建物が再建されポーランドの国立大学「ヴロツワフ
大学」が発足した。この堂々たる建物を見るだけでも、戦後の復興に熱心に
取り組んだポーランドの人々の心意気と志の高さが感じられる。

【参考画像】Brahms: Academic Festival Overture (Solti, CSO 付ブロツ
ワフの風景)
 

・・・ブラームスは、1880年の夏に訪れていた保養地バート・イシュルで、
ブロツワフ大学から贈られた名誉博士号の返礼として「大学式典序曲
(Academic Festival Overture)」を作曲している。

【画像4】聖エリザベート教会・・・2010.7.17 撮影三枚目(創建当初のイ
メージ)は
http://en.wikipedia.org/wiki/St._Elisabeth%27s_Church,_Wroc%C5%82aw
より

 

 

 

ゴシック様式の聖エリザベート教会(Erzsebetは13世紀のハンガリー王女で
聖女となった人物)の創建は14世紀まで遡り、当時のヴロツワフ市当局によ
って建造され、当初の尖塔の高さは130メートルあった。しかし、その後の
大きな戦禍(16世紀)と1976年の不審火による火災で焼失し、今の建物は
再建されたもの(尖塔の高さは91メートル)である。

【画像5】ヴロツワフ百年記念会館の風景・・・2010.7.17 撮影

 

 

 

百年記念館は、鉄筋コンクリート建築史における画期的な建造物で、現代の
土木工事と建築の先駆けとなる作品とされ、また後の鉄筋コンクリート造り
の手本ともされている。ドイツ領時代の1911〜1913年に同市(当時はブレス
ラウ)の建築家マクス・ベルク(Max Berg)が設計した。

この建物は鉄筋コンクリート建築物の歴史上のランドマークであるが、そも
そもは多目的の建物で、大展示場の中央に計画された構築物である。その構
造は6千人が座れる直径65m、高さ42mの広い円形で、高さ23mのドームは鉄と
ガラスの天窓が頂上を覆っている。

「百年記念」という名の由来は、ナポレオン率いるフランス軍に勝利を収め
た1813年の「ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)」から100年を記念して建て
られたことにある。ポーランドでは「人民ホール」の名称で永く親しまれて
きたが、世界遺産登録にあたり本来の「百年記念会館」に戻された。

【画像6】ヴロツワフ・シチトゥニッキ公園の日本庭園・・・2010.7.17 撮
影、二枚目の画像は
http://www.geocities.jp/tabinosyasoukara/poland3.html
より、

 

 

旧市街地から、オドラ川を渡った東の郊外に広大な緑の広がるシチトゥニッ
キ公園があり、その一角に先の百年記念館が建っており、同じく、このシチ
トゥニッキ公園内に「日本庭園」がある。

この庭園は1913年に(既述の「諸国民戦争100年祭」の時)に“庭園芸術100
年記念博覧会”の一環として、Fritz von Hochbergと東京のアライ・マンキ
チという日本人が中心となり造園したとされるものだ。

博覧会の閉会後、庭園は解体されたが池や小道、東屋などは残された。やが
て、1993年から修復が開始されたが、調査の結果、13種の日本固有種、31種
の東アジア種の植物が見つかった。

その後、1997年にリニューアル・オープンするが、二ヶ月後にこの地方を洪
水が襲い庭園は大被害を被った。しかし、さらなる修復が行われ、結局は
1998年に日本万博協会などの後援も得て再々オープンの運びとなった(以上
の情報源⇒http://www.12kai.com/20020905.html)。

【画像7】旧市街広場辺りの風景、ア・ラ・カルト…1741年〜大二次大戦終
了までドイツ領であったため、この辺りにはドイツ風の建造物が多い。2010.
7.17 撮影 

3 関連参考情報・・・以下は[2010-08-11toxandoriaの日記/ 点描ポーラン
ドの風景・クラクフ編(Appendix)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊
る日本への手紙)、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100811
のコメント&レスの転載

ぴっちゃん 2010/08/12 13:39 

日本人は帰納的思考法に偏向していることが言えるのではないでしょうか。
「まわり がそうしているから」だけで大丈夫だ、「まわりがしていないか
ら」だけで駄目だ、という判断。理念や推論の軽視。先進国の多くの国々で
はこれこれをやっているからこの政策は正しいに違いない、といった考え。

このような考えでは決してポーランドに興味が湧かないでしょう。わが道を
行くポーランドは日本人あこがれの「欧米先進国」ではありませんから。自
由主義も、それに対抗するネオ自由主義(市場原理主義)も欧米の歴史的発
展の中で生じてきた理念ではありますが、日本人は肝心の理念的推論が苦手
ですから、どうしてもいいとこ取りのつまみ食いになります。

かつ日本のこれまでの社会理念(自分たちで認識しているかどうかは別に、
そこに存在はしている理念)と必ずしも合わない。このように何ごとも一貫
性がないためどこかに矛盾が生じるのが早い、したがって現実の政策などで
の破綻も早い。結局、犠牲となるのは国民の血税(いまだ実際の負担が顕在
化していないまでも、すでに日本国債つまり将来負担する税金は莫大な額
に)。

一方、ポーランド人の特徴は徹底した演繹的思考法にあるように見えます。
まず一貫した、確固たる理念がそれぞれの人の心の内にあり、そこから推論
を導くことによって物事の正誤を判断しているように思われます。政治にお
いても、経済においても、これが見られるように感じます。

ですから彼らに「まわりがやってるから」「まわりがやってないから」など
という論法を用いても通じません。彼らの理念の上に立って、これはこれこ
れこうでした、したがってこうなるからこうだ、という論理的な推論を用い
て話をしないと通じないのです(戦前にポーランド論理学が栄えたのとは、
このことと無関係とは思えません)。

逆に推論がきちんと行われていればあらゆる主張に寛容なのもポーランドつ
まりシュラフタ民主主義の特徴で、ゆえに当地では結果の善し悪しは別とし
て、当然の社会的前提として多元文化社会が運営され、またその形がつねに
模索されているのではないでしょうか。

ナチスに対する批判には、ナチス賛同者たちが一様に理念の上での思考停止
に陥ってしまっていたことが挙げられます。が、こういった国民の演繹思考
法の停止は、ナチスも含めてポピュリ ズム一般に当てはまる現象だと思われ
ます。

翻っていまの日本はどうか?ナチスほど酷いことにはなっていないまでも、
財政問題などを見るにあきらかにポピュ リズムの様相ではないかと。もち
ろんポーランドにもポピュリズムの勢力があり、彼らにもかなりの政治力が
あります。彼らはカトリック教会の一部までも利用しているようです。

しかし一方でポーランド人の多くはポピュリズムやその勢力を危険視し、社
会における明白な敵と見て常に思想上の戦いを続けている。これは日本には
まず見られません。ここが、社会現象面で日本とポーランドをはっきり分け
ているところではないかと感じております。 

toxandoria 2010/08/12 20:46 

ありがとうございます、頂いたコメント(ポーランド人の特徴が徹底した演
繹的思考への傾斜にあるのではないか)に同感です。

ポーランド分割以降の長い異民族支配と領土の伸縮・消滅・復活・移動(ド
イツ・ロシア等の覇権下)の時代および共産党一党独裁の時代をも乗り越え
て、ポーラン ド人が民族の文化と誇りを守り抜くことができたのも、やはり
理念重視型の思考(演繹的思考の重視)の賜物ではないかと思います。

また、日本人が帰納的思考に偏向しているが故に付和雷同型の行動へ走りが
ちなのではないかと言う点については、現代日本のポピュリズム(衆愚政治
化)の傾向以外にも思い当たる節があります。

例えば、それは「ひたすら天皇との距離の近さをのみ意識し競い合うことに
価値を認めるという認証官型官僚組織の論理、つまりその意味での極めて限
定的な帰納的思考の罠に嵌りズルズルと戦争への道を辿ってしまったとも考
えられる、あの太平洋戦争へ至る道程」のことです。

裏返せば、このことが現代日本における政治・行政の果てしなく無責任なス
タイルを条件づけたのではないかと思われます。現代日本の社会も指導層も
メディアも、明らかにこの思考パターンを無意識に引きずっています。究極
的には、演繹と帰納を補完的に使いこなすことがとても重要だと思いますが、
我が国では、これらの点が非常に重要であるということについての認識が社
会一般に希薄です。

そして、それは特に日本のマスメディアが理念重視型の批判力(演繹的な論
理思考)を伝統的に軽視ないしは無視してきたこと(例えば、それは太平洋戦
争突入時の朝日新聞ら主要メディアの180°転向(戦線拡大批判→戦争&戦線
拡大賛成への転向)の無責任な態度に典型的に出現!)と関係があるのではな
いかと思っています。

<日本の帰納的思考に偏向する故の狭量と付和雷同社会>と<ポーランドの
演繹的思考へ傾斜する シュラフタ民主主義型という意味での寛容社会>の決
定的な違いをもたらすのは、おそらく「教育の在り方についての根本理念」
の相違(ポーランド・ リトアニア共和国時代の国民教育委員会の伝統(第一
次ポーランド分割直後の1772〜)を引継ぐシュラフタ民主主義の理念に基づ
く“教育の独立性”の重視)ではないかと思います。 

【エピローグ画像】Tu es mon autre - Maurane & Lara Fabian 
 

You are my other(Tues mon autre)
Soul or sister
Twin brother of nothing
But who are you?
You are my greatest mystery
My only close link
You wrap me in ribbon and begin me
And you keep me in sight
You are the only animal
From my lost ark

You don’t speak the language
No disappointing word
That makes you my other
Being recognized
There is nothing to understand
And pass the intruders
Who can expect waiting on nothing.
For I am the only one to hear the silence
And when I tremble
(Refrain)
You, you are my other
The strength of my faith
My weakness and my law
My arrogance and my right
Me, I am your other
If we were not here
We would be forever

And if one of us falls
The tree of our lives
We keep away from the shadow
Among heaven and fruit
But never too far from the other
Or we would be cursed
You’ll be my last second
For I am the only one to hear the silence
And when I tremble

(Refrain)

ah ah ah ah ah ah ah
ah ah ah ah ah ah ah
And if one of us falls

From: http://lyricstranslate.com 

Artist: Lara fabian & Maurane Title: You Are My Other Words and 
Music: Lara Fabian & Rick Allison Album: Naked (2001) Comment: 
official video 'You Are My Other' by Lara herself is a song she
 wrote for Rick Allison. According to Rick Allison is a song he 
wrote for her ... 'You Are My Other' as Lara herself Is a song 
she wrote for Rick Allison. According To Rick Allison It Is ET 
wrote a song For Her

Maurane、 whose real name Claudine Luypaerts, is a Belgian 
singer, born November 12, 1960 in Ixelles, Belgium. She
 currently lives and has always been in the municipality of 
Schaerbeek, the same town that was the birthplace of singer 
Jacques Brel.

Maurane et Lara Fabian 

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