メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:“政府御用達型”民主主義・日本の対極にあるハンガリーの飽くなき「民主化への意志」の歴史(再送信)  2009/05/16


[反授権規範政治の真相]“政府御用達型”民主主義・日本の対極にあるハンガリーの飽くなき「民主化への意志」の歴史(再送信)



<注記>

当記事は、核心をハッキリさせるため、下の記事(▼/敢えて“複数のテーマ”を埋め込み、それらを俯瞰した内容としてある)を改題したものです。個々のテーマについては、追って詳述するつもりです。

▼2009年春/ドナウの真珠、ハンガリー・ブダペストの印象(2/2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090515

“複数のテーマ”とは、主に次の3つです。

(1)「オートポイエーシス (autopoiesis/自己創出)的“民主主義論”」・・・鴨長明の“『方丈記』的諦観”(エントロピー概念の欠落)は民主主義の敵であるということ。


(2)「市場原理主義は終わらない」・・・アフラ・マズダー (Ahura Mazda)的闘争を覚悟しつつ、その活かし方をこそ探究すべきということ。

(3)「政府御用達型「裁判員制度の問題」」・・・フランスとドイツの司法を良く検証すれば、自ずから日本の“裁判員制度”と“司法改革”の重大かつ根底的な欠陥が浮かび上がる、そして、それを敢えて無視する大方のメディアは“旧共産圏諸国の御用メディアにソックリ”という意味で明らかに”御用メディア”化しているということ。

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【プロローグ】Liszt Hungarian Rhapsody No.2 Orchestra

D

【画像1】ブダペストの夜景(ライトアップ)

王宮の丘/ドナウ・クルーズの風景(2009.3.25、撮影)

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漁夫の砦/ドナウ・クルーズの風景(2009.3.25、撮影)

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くさり(鎖)橋/ドナウ・クルーズの風景(2009.3.25、撮影)

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民族音楽・居酒屋/ディナー・ショーの風景(2009.3.25、撮影)

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・・・ここにUPしたものも含め「総計34枚の写真」があります。下記URL◆からギャラリーに入り、スライド・ショーで大きな画像をご覧ください。

◆『ブダペストの夜景(ハンガリー)、2009/春』、

http://picasaweb.google.com/toxandoria/200904#

( “近代以降の鮮烈な民主化への持続的意志”を育んだハンガリー史のユニークな土壌)


現代においても、ハンガリーに対しては中・東欧の片田舎にある“ 農業中心で二流の後進国”という、いささか貧相なイメージが付き纏うようです。しかし、ハンガリーの実像は“ 二流の後進国”どころか、今や、強欲なネオリベ資本主義に“トチ狂って”自爆したネオリベ・アメリカのオールタナティブ(分析的・批判的マルクス主義の知見等も活かした使い勝手が良い新たな資本主義の創造)を窺うEU(欧州連合)に対して、その進路の決め手となる知見を提供する可能性をすら秘めた、実に鮮烈で知的な”民主化への持続的意志”を育んできた国なのです。

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慧眼にも、19世紀ポーランド・ロマン派の詩人ユリウシュ・スウォヴァツキ(Juliusz Słowacki/参照 → http://hektor.umcs.lublin.pl/~mikosmul/slowacki/)が「ヨーロッパの心臓」と名付けた(出典:沼野充義・監修『読んで旅する世界の歴史と文化、中欧』‐新潮社‐)中欧の歴史には、いわゆる平板で教科書的な理解を拒む独特の難解さがあり、特にハンガリーの歴史には、その傾向が色濃く現れています。その個性的特徴を一言でいうなら、それはハンガリーには、「呑気で軽薄なネオリベ型・シミュレーション型の結果(成果)主義」ではない「状態原理の伝統」(歴史・歴史遺産および現在の因果プロセスのスナップ・ショット凝視を重視する知恵)が存在するということです。

その訳は、“ハンガリー社会が政治的・言語的・文化的に様々な民族の坩堝であり、絶えず周辺諸国の圧力に晒され続けてきたため、例えば日本の過去における『万世一系の皇国史観の創作』の如く、ハンガリーの中だけで完結する排外的で荒唐無稽でマンガ的(ヴァーチャル)なフィクション(マンガ風歴史物語)を語ることの困難さ”にあります。しかし、それにもかかわらず、ハンガリーは今でも誇り高いマジャール人の国なのです。

だからこそ、それは表層的に理解すれば全く逆向きに聞こえるかも知れませんが・・・、現代日本における「田母神現象」(平和原則の放棄、核武装論、先制攻撃論)、および今や沸々と台頭しつつある殆どカルトに近いと思われる「極右市民運動」(参照/下記◆)など、まったく児戯に類する「幼稚かつ閉塞的で奇怪(きっかい)なアナクロニズム」が、今更のように“ドでかい顔”をして一定の幅を利きかすことなどの異常現象はハンガリーで殆ど起こりえないはずです。

◆不可能な幻想 田母神氏らの「日本核武装」論−待っているのは経済制裁や大量の餓死者、http://www.news.janjan.jp/government/0905/0905082952/1.php

◆右翼市民運動 組織拡大の背景とその行動、習性、思想 / 私たちはどう向き合えばいいのだろうか、http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200905111500151

しかも、そのハンガリー史を理解することの困難さにこそ、『持続的・脱構築的な民主化への意志を育むハンガリー史のユニークさ(良い意味での特異性)』を理解する鍵が隠れているように思われます。そこで、この余りにも過酷な宿命とさえいえる歴史上の困難を克服しつつ、民主化への意志を創発し続けるハンガリーの特色をより明瞭に理解するため、試みに幾つかの切り口(エピソード)を、ほぼ時系列的に抽出してみると以下のとおり(●)となります。なお、通史的な意味でのエポックは下記(★)に纏めてありますので、こちらをご参照ください。

★2009年春/ドナウの真珠、ハンガリー・ブダペストの印象(1/2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090505

●大航海時代の15世紀後半〜16世紀に西欧市場への農産物・食糧供給地となったハンガリーは、イタリア風ルネサンス文化を謳歌するマーチャーシュ王の黄金時代である。また、この頃までのハンガリーの上層社会はラテン語・ラテン文化で覆われており、特にイタリアとフランスから大きな影響を受けた時代であった。一方、そのような環境変化の中で力をつけた農民と貴族の対立が激化し、1514年に「ドージャの乱」(大農民戦争)が起こり、次第に国家統一の基盤が緩みはじめ、結果的にそれが「モハーチの戦い」(1526)でオスマン・トルコ軍に大敗する条件の一つとなった。

●「モハーチの戦い」(1526)後のハンガリーは、約150年におよび国土が三分割された。すなわち、中央部(オスマン帝国領)、北部・西部(オーストリア・ハプスブルク支配下のハンガリー王国)、東部(現在は殆どルーマニア北部に入る/オスマン・トルコ保護下のトランシルバニア公国、ここではプロテスタント→カトリック支配へ勢力図が変遷)である。なお、この16世紀頃から、新教とプロテスタントの布教勢力争いから、民衆語であるマジャール(ハンガリー)語による文書化(文字化・文章化)が活発化してくる。

●しかし、中央部ハンガリー(オスマン帝国領)では、オスマン帝国が宗教的寛容を慣例としていたためキリスト教は禁止されなかった。また、都市・農村部における実際の支配はハンガリー貴族に任せることが多く、かなりのイスラム教への改宗者も出たとはいえ、全てのハンガリー文化がイスラム化することはなかった。ここには、イスラムおよびトルコの歴史を改めてレビューすることの重要性が仄めかされてるようだ。

●16世紀初〜17世紀末の約200年間、ハンガリーは「オーストリア=トルコ戦争」の戦場と化し、永い混乱に巻き込まれていた。「カルロビツ条約」(1699)で漸くトルコの政治的な統制圧力から全ハンガリーが解放されたのも束の間、今度は全でがハプスブルクの支配下に入った。

●トランシルバニア公でハンガリー国王を称したラーコーツィ・フェレンツ2世(Rakoczi Ferenc 2/1676-1735)が起こした「ハンガリー独立戦争」(1703−1711)が失敗すると、ハンガリーはオーストリア・ハプスブルクの農業植民地と化し、工業の発展は政策的に抑制された。また、支配層の言語はドイツ語が使われるようになり、17〜18世紀はドイツ(語)化したため、ハンガリー語による文化活動は一時衰退するが、18世紀の啓蒙期には「国民文学再興」と「言語改革運動」(マジャール語への回帰運動)が活発化した。なお、トランシルバニア(現在は殆どがルーマニア領で、トカイ・ワインで名高いハンガリー北東部のトカイ地方に名残がある)は、トルコのハンガリー支配時代にも純粋なハンガリー文化を育んだ土地としての伝統的個性を持つ。

●19世紀に入り全欧州的な自由主義と民族主義の空気が流れ込むようになると、マジャール語(伝統的な庶民語)の復活を求める「ハンガリー文化復興運動」(改革期ハンガリー時代/この時期に中産市民階層の改革意識が高揚してナショナル・ギャラリー準備のための国民絵画館創設協会ができた)が台頭した。例えば、穏健で開明的な貴族セーチェーニ(Széchenyi István/1791−1860/ブダペストの鎖橋の建設を財政的に支援した人物)による穏健な改革・開明化運動、下級貴族コッシュート(Kossuth Lajos/ 1802-1894)による急進改革運動(農奴解放要求等)と対ハプスブルク闘争などがある。第二次大戦前のハンガリー社会には大貴族・大資本家等の上層支配階層と土地なし農民等の下層階層(民衆的ナショナリズムの培養地)との間に大きな断層があったが、いわゆる名望家と呼ばれる地域社会の名士たち(開明的近代主義の代弁者ら)が、その断層を埋める役割を積極的に果たしていた。

●コッシュートによる「ブダペスト3月革命」(1848/既成の幾つかの革命の流れが合流)と対オーストリア独立の闘争が失敗に帰した(ロシア帝国軍の介入による)あと、「普墺戦争」(Deutscher Krieg/1866)に敗れたオーストリアは、ハンガリー王国との「アウスグライヒ」(Ausgleich/1867/ドイツ人とマジャール人の間の妥協)で帝国内のスラブ民族を共同統治する『オーストリア・ハンガリー二重帝国』を成立させた。

●この『オーストリア・ハンガリー二重帝国』体制下で、地主貴族らに支配される形でハンガリー王国の資本主義が、半ば封建的要素を残しつつ急速に農業傾斜型の資本主義経済として発展した。その後になって、工業化が進むとともに今度は労働運動が活発化し、1990年に「ハンガリー社会民主党」(共産党)が結成された。しかし、1890年代には、「建国千年祭」が挙行され、ハンガリー化政策(一種のナショナリズム)が強行されたため領内諸民族との軋轢が生まれた。また、資本主義の発達で本格的な「ブルジョア市民層と労働者階層の格差社会」を迎えた19世紀後半〜20世紀初頭のハンガリーでは、現実逃避型のロマンチシズム文化(文学・音楽・絵画)と資本主義社会の矛盾を抉るリアリズム文化(同前)が開花した。

●第一次世界大戦(1914−1918)の結果、中欧を支配していたオーストリア・ハンガリー二重帝国とドイツ帝国が倒れ、ヴェルサイユ体制の下でハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドの三国が独立を果たした。ハンガリーでは、「1918年10月の民主主義革命」(無血革命)が起きて、カーロイ・ミハーイ首相(連合政権/Karolyi Mihaly/1875−1955)が「ハンガリー共和制(共和国)」を宣言した。

●続いて、1919年3月にはハンガリー共産党による「ハンガリー革命」が成立するが、この急進ボリシェヴィキ(正統マルクス主義)政権はルーマニア軍などの干渉により僅か133日で崩壊し、王国が復活して反動体制となった。その直後、連合国との講和条約である「トリアノン条約」(1920)で国土の約30%(ハンガリー人が多く住む)が他国へ割譲されたため「修正主義」と呼ばれるナショナリズムが台頭した。この流れから、やがて世界恐慌後になると、極右政権は、強い圧力も受けつつナチス・ドイツに接近し、殆どその占領下に甘んじる立場となった。なお、この1919年の「ハンガリー革命」には、ベラ・バラージュ(Balazs Beela/1884−1949/映画理論家・美学者・作家)らハンガリーの多くの文学者・学者(アカデミズム)らの思想が大きな影響を与えたと考えられている。

●第二次大戦の末期になりソ連軍による解放の動きが始まると、1944年11月、デブレツェン(Debrecen/ブダペストに次ぐ第二の都市)に「民族解放戦線」(共産党、社会民主党、小農業者党、民族農民党など)が生まれ、1945年4月にソ連軍がハンガリー全土を解放した。しかし、このソ連軍による解放(=新たな支配)は、社会主義政権時代の一党独裁に対するハンガリー市民層の反感から、1956年の「ハンガリー動乱」によって否定され、その流れは「冷戦時代」への終りを告げる「ベルリンの壁崩壊」(1989.11.9)へと繋がることになる。

<参考>“状態原理の強化現象”としてのハンガリー映画の復活

・・・1956年の「ハンガリー動乱」(ハンガリーでは“1956年革命”と呼ぶ)とは、ソ連支配に対する全国規模の民衆蜂起をさす。これはソ連軍の二度に及ぶ出動で鎮圧された。この動乱で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。オーストリアが、この内の約20万人を受け入れた。

・・・この動乱の意義については、立場によって様々な見解があり、民衆蜂起前後の経緯の見極めも、なかなか困難なところがある。しかし、近年になりハンガリー国民自身が冷静かつ客観的にこの事件を凝視する機運が生まれており、例えば、下記(◆)のような映画が製作・公開されるようになった。これも、見方次第ではあるが、ハンガリー伝統の“状態原理の強化現象”の一環と見なすことができる。

◆ブダペスト市街戦1956―ソビエト軍侵攻―(制作2007)/公式HP、http://www.anaputcaifiuk.hu/

f:id:toxandoria:20090515130646j:image:right◆君の涙ドナウに流れ―ハンガリー1956―(制作2006)/関連HP、http://d.hatena.ne.jp/madogiwa2/20071120・・・画像は

http://blog.goo.ne.jp/du-rhum/e/c01212d9c4520e1ef2428cfff4b692b3より

●この「ベルリンの壁崩壊」までの過程で特筆すべきことは、ハンガリーの民主化へ向けた国内改革への取り組みが他の中東欧諸国の先頭を走ったということである。先ず、1985年に「ソ連型の形式選挙」が廃止され、民主・改革派と保守派のいずれかを選ぶ選挙体制となった。更に、1988年には、民主・改革派を支える「社会主義労働者党」(旧ハンガリー共産党)が一党独裁体制を放棄する決定を行い、1989年には「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へと国名変更を行った(これも一種の“無血革命”)。そのうえ、非共産主義勢力の政治活動の自由も許すことにしたため、ハンガリーでは他の中東欧州諸国に先駆ける形で民主化勢力の動きが活発となった。そのプロセスで「民主フォーラム」など更なる民主化への流れが生まれ、「社会主義労働者党」(改革派)は、マルクス主義を放棄して「社会党」となった。

●中・東欧の中で最も早く議会制民主主義が根付いたチェコ、ハンガリー、ポーランド三国の中でも、1989年の「無血革命」以降のハンガリーは、東欧諸国の中で最も早く市場経済へ移行しつつチェコ、ポーランドとともにEU諸国等からの「海外直接投資」(FDI/Foreign Direct Investment)を積極的に受け入れてきた(開始1995年〜)。そのため2000年以降も高い成長率を見せており、2003〜2006年でもmin.2.9%〜max. 4.2%幅の実績で健闘している(出典:JETROデータ)。

●しかし、2008年末の米発金融パニックの余波で、ハンガリーに限らず西欧諸国による「対中・東欧等への巨額貸し込み問題」は、「米国発のCDS(Credit Default Swap)問題」とともに世界経済を根底から揺るがしかねない<金融時限爆弾>に喩えられる深刻な問題となっている。4月2日の「ロンドン金融サミッ」トが「大規模な政策協調」を打ち出したため一応は深刻な危機感が弱まったかの空気が流れているが予断は許さない。

●官僚的・圧力的ガバナンスへの批判を打ち消すため、いまEUは「市民社会ディスコース」(市民社会との対話を深化させる工夫)へ取り組んでおり、その要素となるキーワードが「共同体との連帯」と「アソシエーションによる調整・調和」に絞られている(出典:田中俊郎他編『EUのガバナンスと政策形成』(慶応大学出版会))。そこで連想されるのがハンガリーの偉大な学者二人の知見、カール・ポランニーの「暗黙知」 とマイケル・ポランニーの「動的・選択的客観統合」である。それは、この二つの知見とEUの「市民社会ディスコース」の要素には深い繋がりがあると考えられるからである。

(“脱構築的”民主化への意志の創造/状態原理を重視するハンガリー・アカデミズムの象徴的役割)

ハンガリー・アカデミズムが「状態原理」を重視するという見方は、いささかtoxandoria の独断へ傾くことかも知れませんが、重要と思われるので簡単に触れておきます。今、わが国のマスメディアは “「政治権力」について極めて深刻な「妥当性評価」(relivance appraisal)”の課題を突きつけられており、それは日本のジャーナリズムの根幹(存在理由)にかかわることです。なぜなら、マスメディアは取材対象との間で適切な距離を維持してこそ『リアリズムの眼』を確保することができるはずだからです。

今や、歴史的・伝統的に美しい都市景観や自然環境などをネオリベ傾斜型の市場原理主義による「カネ」以外の尺度で評価すべきだという観点から、カール・ポラニー(Karl Polany/1886-1964/ハンガリー出身の経済人類学者)の「社会の中に埋め込まれた経済」という視点が見直されつつあります。また、カールの弟・マイケル・ポラニー(Michael Polanyi/1891-1976/物理学者・社会哲学者)が提唱した「暗黙知」(tacit−knowledge)の意義も再検討されています。

そもそもマイケル・ポラニーの「暗黙知」は経験で得られる「相対知」の広がりと見做されてきましたが、近年はやや異なるアプローチが行われています。その新しい着眼とは、「相対知」の集成としての結果(知識、成果)よりも、人間がその「相対知」を獲得するまでの「知の発見のプロセス、別に言えば、そのプロセス領域内でのスナップ・ショット(一場面ごと)の作用メカニズム」を十分に固着的に観察すべきだということです。

この考察のルーツは、マイケル・ポラニーに影響を与えたフランスの社会哲学者レヴィ・ブリュール(Lucien Levy-Bruhl/1857-1939/前論理的思考様式存在の立証を試みつつ、異文化研究に新機軸を開いた)にあります。レヴィ・ブリュールは、未開部族の観察から、実は個人の感情・情動・動機などが外界の出来事と、しばしば共感的に同一視されるという作用に注目し、これを「参加」(participation)と呼びました。が、マイケル・ポラニーは、この作用を「dynamo-objective coupling」(動的・選択的客観統合=一種のプロセス重視型の状態原理)と名づけました(参照 → 

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0151.html)。

この「動的・選択的客観統合」の概念は、例えば、ある科学者が“自らが属する国の政治体制の影響を無意識に受けて、殊更に意識せぬままま客観的であるべき科学が真理を歪めてしまう可能性がある”と言う類の難問の検証に役立ちます。この考えからすれば、人類共通の真理であるべき科学が実はアメリカの科学、フランスの科学、ドイツの科学、日本の科学となる可能性が絶えず付き纏います。

従って、この考え方は渦中の政府(公儀)御用達型の「裁判員制度の問題」(フランス型予審制度の意義、あるいは1960年代以降のドイツで行われた“限りなく開かれた民主法廷の実現を目指す徹底した司法改革”の如き必須の論点と重要事例(ケーススタディ)の検討を意図的にスッポかした“政府御用達型”官製司法改革の押し付け)、「民主党・小沢政治資金問題」(漆間問題の核心の握りつぶし)などの徹底検証に役立ちそうです。それにしても、日本のメディアが何故にこれらの非常に重要で肝心なトピック(論点)を敢えて無視しているのかも不可思議なところです。

ともかくも、実は、この熾烈で、繊細かつフラジャイルで、しかも二律背反的な「dynamo-objective coupling」の中にこそ「未知の真理」を発見する「創発」の作用が隠れており、そこで究極のリスクを回避し、難渋しつつ学び取るものこそが「暗黙知」です。しかも、これは、表層的に見れば不可解に思えるかも知れませんが、かくの如く繊細で壊れやすく、スナップ・ショット的な意味で苛烈で闘争的な認識作用の瞬間的鬩ぎあいの中でこそ、新しい真理の発見や社会・文化的リアリズムの知見が凝集・析出してくるのです。その意味で、マイケル・ポラニーの「暗黙知」は、自然科学だけでなく人文・社会科学、ジャーナリズム等の領域へも重要な示唆を与えています。

また、このようなマイケル・ポラニーらの「状態原理」の視点はネオリベ市場原理主義型の「イデオロギーの暴走」を批判するためにも役立ちます。なぜなら、“市場(=神の手)に任せろ”型のネオリベ市場原理主義(=ノージック哲学や新古典派経済学の立場)が想定するのは「初期条件」と「結果」だけであり、あとは予定調和的な解決が期待できる「市場のプロセス」に任せろという訳ですが、その「初期条件」には「情報の非対象性の問題」が永遠に付き纏う(参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060315/)うえに、「市場のプロセス」をブラックボックス化するということは、まさに「状態原理」による貴重な「知と真理」の獲得機会(チャンス)を放棄していることに他ならないからです。

従って、これは、まったく無自覚で、バカげていて、ノー天気な考え方であり、それを信用しろと他人へ強要するのは“イワシの尻尾を有り難く信仰するカルト”の押し付けと同義です。巷では、米国発金融パニックが薬となったので「ネオリベ市場原理主義」も軌道修正されるだろうとの甘い楽観論を述べる向きもありますが、そう易々と問屋は卸さぬようです。例えば、米国発金融パニック発生の震源下に潜む「金融爆弾(CDS)問題」(参照 → 

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090102)については、一向にその解決方向が見えない手探り状態が続いています。

それどころか、金融危機勃発の直前(2008年10月)に米国SEC(証券取引委員会)の規制緩和が行われたため、ADR(American Depositary Receipt/疑似株:米銀が外国企業に代わり米国内で発行する疑似株)発行の上限と本物の株式所有権との繋がりについての保証が外されて『青天井の“勝手”疑似株』状態となっており、その加熱が懸念されています。ADRそのものは、本物の株式市場で株高を誘導する意義があるとして米国で合法化されたものですが、今回のSEC規制緩和は、更に、これを一種の無法状態へ誘導するものと見なすこともできるため、今度は<勝手ADR>のゲーム化、過熱化、暴走化が懸念されています(情報源:2009.4.21・日本経済新聞)。

そのうえ、米保険大手AIGの経営問題およびGM・クライスラーなど米自動車大手・経営の先行き、そして今回のFRBによる「米大手金融機関ストレス・テスト信憑性の問題」にも、CDS爆弾が暗い影を落としています(情報源:2009.5.11・日本経済新聞)。そのため、もはや実行段階へ入ったとされる、EUが先導するグローバル金融規制の先行きも予断を許さぬ状況となっています。従って、「ネオリベ市場原理主義」の暴走可能性は未だに侮りがたしというのが実状なのです。

ところで、もう一人だけハンガリーの「状態原理的<知>の事例」を挙げるならば、それは既述の「ハンガリー革命」(1919)に影響を与えたとされる、19世紀末〜20世紀初頭に活躍したハンガリー・アカデミズムの一人、ベラ・バラージュ(既出)の存在です。ベラ・バラージュは映画美学理論の開拓者の一人でみあり、各国の映画界へ大きな影響を与えた人物です。

ベラ・バラージュによれば、長い歴史を経る間に、やがてその地域に住む人々は、いつの間にかそこに共通の相貌を感じるようになり、それが地域の個性的な地域文化の誕生です。そのような段階になるまで十分に時間が流れたときにだけ、そこに住む人々は周囲の自然の風景の美しさに気づくのです。この意味で、ある国や地域の美しい風景とは、そこに住む人々とその地域の自然がゆっくりと長い時間をかけて織り上げた協働作品なのです(出典:ベラ・バラージュ著『視覚的人間(1922)』(佐々木基一、高村宏訳/岩波文庫))。

これは、まさにマイケル・ポラニーらの「状態原理」に重なる考え方です。そして、これも前に述べたことですが、このマイケル・ポラニーらの「状態原理」についての理解は、今や、中・東欧も含めた「拡大EU」(EU15+EU10)のガバナンス方向である「市民社会ディスコース」(市民社会との対話によって、より民主的なガバナンスを深化させる工夫)の要素として、つまり「共同体との連帯」と「アソシエーションによる調整・調和」への新たな取り組みに役立つ視点として再認識されつつあります。このような意味で、ドナウ川の歴史に育まれつつ“脱構築的”民主化への意志の創造を支え続けてきた、実に個性的なハンガリーの「知の底力」には恐るべきものが潜むように思われます。

他方、現在のように危機的な世界状況の渦中であるにもかかわらず、わが日本の「偽装極右マンガ政権の中枢」には、未だにコソコソと国民の目を盗みつつ公費で“女衒(ぜげん)の真似ごと”の如き放蕩遊びをする余裕(ゆとり)があるようです(参照、下記★)。しかも、この類の政治屋連中に限って「日本青年会議所」あるいは「日本会議」など、我が国の“正統”な保守・民族主義系愛国団体等の要職に就いたりしています。

★中川・鴻池騒動にみる麻生首相周辺の危機管理と倫理観、

http://www.j-cast.com/tv/2009/05/14041076.html

因みに、日本青年会議所の「目的」を読むと“「明るい豊かな社会」の実現を理想として公益事業を企画運営する。「個人の修練、社会への奉仕、世界との友情」を基本姿勢におき、事業を実施する過程でリーダーシップ・トレーニングを経験する。”となっています。なるほど、公益事業の企画のために個人の修練と社会奉仕をするとは、実は公費で女衒の真似ごとをするということであったのかと、妙に納得させられたような気がします。が、”愛国心”のある方々なら、どんな遊びにせよ、遊びは全て私費でやるべきこと位は弁えるべきです。

ともかくも、時おり間歇泉の如く吹き上げるように際限なく繰り返される、まさにこの類の不届きな出来事こそが、我が国の「憲法違反など屁とも思わぬ殿上人の方々がお作りになった公儀御用達の外形的民主主義」(=国民主権不在の名ばかり民主主義)の実像をさらけ出した瞬間です。いくら必死になって国会議事堂や首相官邸をライトアップしても、ハンガリーの国会議事堂のように美しく見えない訳が漸く分ったような気がします。それにしても、大方の善良な日本国民の“認知症型の健忘症ぶり”(=三日も経たぬうちに殿上人の方々の悪事・不祥事は次々と忘れ去るという現実)にも呆れたものです。このザマでは、「持続的な民主化への意志」などが国民の中から湧き出るはずもありません。美しいライトアップの夜景どころか、そこに見えるのは偽装マンガ極右の本性が空中に投影する、“外形的”な似非(エセ)民主主義の醜い「潜在光景」だけです。

・・・・・

【画像2】ドナウから望む『国会議事堂』のライトアップ(撮影、2009.3.25)

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ドナウ川を挟み左岸のペスト側にある壮麗な美しさを誇るネオゴシック様式の国会議事堂(Orszaghaz/オーストリアとハンガリーが、それぞれ独自の政府と議会を持つ二重帝国時代の末期、つまり第一次世界大戦前のハンガリー資本主義の発展期に10年以上の歳月をかけ1904に完成)と併せて、ハンガリーの持続的な“脱構築的”民主化への意志の象徴となっているのがブダペストにある二つの優れた美術館であり、それは『ハンガリー・ナショナル・ギャラリー(Magyar Nemzeti Galeia)』と『ブダペスト国立西洋美術館(Szpmuveszeti 、Muzeum、Budapest )』の二つです。前者はドナウ川右岸のブダの丘に偉容を誇る「王宮内部」にあり、後者は「英雄広場」の前にあります。

【画像3】ドナウから望む『ハンガリー・ナショナル・ギャラリー/王宮』(撮影、2009.3.25)・・・二枚目は『ブダペスト国立西洋美術館』

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そして、ここで特に重要なのは「王宮」そのものとも言える『ハンガリー・ナショナル・ギャラリー(Magyar Nemzeti Galeia)』です。ここには、ハンガリー出身作家のものなどハンガリーに関わる絵画が収蔵されており、『ブダペスト国立西洋美術館』の方はエル・グレコ、ゴヤ他の西洋近代絵画、およびエジプトなど古代地中海文明関係のコレクション等を収蔵しています。両館とも、1870年にハプスブルク家とも並ぶハンガリーの名門貴族で、トランシルバニアの名望家であった大貴族エステルハーズィ家(Esterhazy)のコレクションが加わってから、一挙にその収蔵内容の規模が拡大しています。

そもそも13世紀にベーラ4世が創建した「王宮」は、15世紀にマーチャーシュ1世がルネサンス様式に改築します。しかし、それは16世紀にオスマン・トルコの攻撃で壊滅状態となり、17世紀・ハプスブル家の時代にバロック様式で再建されました。その後も、第二次世界大戦などの被害を蒙り、現在の姿に復興したのは1950年代以降になってからです。

今の「王宮」の建物が“復興”する以前の旧ナショナル・ミュージアム時代の第1回展は1846年に開催されていますが、この美術館の準備期(19世紀前半)には社会の改革意欲に目覚めた市民・中間層の活躍が大きく貢献しています。彼らは「ペスト美術協会(1839)」と「国民絵画館創設協会(1845)」を創り、美術館の準備に取り組みました。これは、マジャールの伝統と誇りを回復しつつハンガリー美術と美術活動を復興・活性化し、それを民主的なハンガリー国家の建設に象徴的な意味で役立てようとする意識の芽生えであったと見なされています。

<参考>ハンガリー出身の著名人

・・・toxandoriaが支持できる人物であるか否かとは無関係に、ハンガリー人またはハンガリー出身の世界的な著名人を少し列挙してみると次のとおりです。その人材の奥深さと活躍する分野の広さにに驚かされるはずです(当記事内で取り上げた人物は除く)。

サルコジ仏大統領(移民二世)、ジョージ・ソロス(ブダペスト生まれのユダヤ系米国人)、ミルトン・フリードマン(ユダヤ系移民の子)、ジョーゼフ・ピュリッツァー(米国ジャーナリスト、ユダヤ系移民)、ユリ・ゲラー(超能力者、英国在住)、アルブレヒト・デューラー(ドイツ・ルネサンス最大の画家、ニュルンベルクへ移住)、ポール・ニューマン(映画俳優、米国へ移住)、ポール・サイモン(歌手、米国への移民の子)、ロリン・マゼール(指揮者、仏への移民2世?)、シューベルト(作曲家、オーストリアへ移住?)、ハイドン(作曲家、オーストリアへ移住?)・・・きりがないのでやめます。

【画像4】「王宮」(ナショナル・ギャラリー)から国会議事堂を望む景観(撮影、2009.3.25)

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そして、我々のような異邦人がブダペストを訪れたときでさえも、このブダの「王宮」から緩やかに流れるドナウ川に架かる「くさり(鎖)橋」を挟んで美しいペスト側の「国会議事堂」を望む時に、あるいは逆にドナウ川を挟む「国会議事堂」からブダの「王宮」の眺望を体験するときに、まさにそのことが実感できるはずです。おそらく、全長2840kmのドナウに点在する都市景観の中で、ハンガリーのブダペストこそ随一の美しさであると謂われる所以も、実はこの辺りにあるのではないかと思われます。

(ハンガリー・ナショナル・ギャラリーの収蔵作品から、ア・ラ・カルト)

既述のとおり、『ハンガリー・ナショナル・ギャラリー/王宮』にはハンガリーに関わる絵画が収蔵されています。10〜16世紀のハンガリーには、15世紀のマーチャーシュ王の黄金時代、つまりイタリア・ルネサンス様式の美術・文化を頂点とする輝かしく多様な文化・芸術史(マジャール風、イタリア風、フランス風、ドイツ風、ビザンツ風、ダキア(クロアチアのアドリア海沿岸部)風、スラブ風など)があります。しかし、「モハーチの戦い」(1526)でオスマン・トルコに敗れたあとは、肝心のイタリアとの関係が断たれるとともに、もっぱらハプスブルク・オーストリアに同化する過程でマジャール文化はドイツ文化の後塵を拝する立場となります。

しかしながら、18〜19世紀にはドイツ文化の良い意味での影響を受けつつ、徐々にハンガリー人の個性を発揮した優れた芸術家が育ってきます。いわゆる「マジャール文化・芸術復興の時代」です。そして、丁度この時期はハンガリーにおける資本主義の発展期、都市社会における市民層の形成期、開明的な名望家・貴族・資産家らの活躍期、本格的な議会民主主義への願望の形成期、民主主義への可能性を探るアカデミズムの形成期に重なります。『ハンガリー・ナショナル・ギャラリー/王宮』には、まさにこの活気ある時代の作品が数多く収蔵されていますが、ここではそのごく一部を紹介しておきます。なお、下記のPicasaギャラリーには、これらの他の作家も少し紹介してありますので、ぜひご覧ください。

▼「マジャール文化・芸術復興の時代」の絵画、http://picasaweb.google.com/toxandoria/FxqviC#

【画像5】ムンカーチ・ミハイ『バターをかきまぜる女』

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Mihaly Munkacsy (1844−1900)「Churning Woman」1873 oil on canvas 120.5×100cm、Magyar Nemzeti Galeia Budapest

・・・ムンカーチ・ミハイは、19世紀ハンガリーを代表するリアリズムの画家です。その特徴は、率直かつ繊細な描写技術で、この時代背景に潜む問題を迫真的に描写して見せることにあります。その暗い色調と明るい白のコントラスト、そして繊細極まりない線描はハンガリーの過酷な歴史プロセスを活写しています。

・・・また、この絵の女の疲れた顔、皺が刻まれた手、みすぼらしいばかりの服装、そして周囲の質素な日用品のありのままの描写は彼女の過酷な労働の現実を伝えており、同時に、そこにはムンカーチの深い悲しみが漂っています。

【画像6】ロツ・カーロイ『春、イロナ・リッピヒの肖像』

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Lotz Karoly(1833−1904)「Spring 、Portrait of Ilona Lippihi」 1894 oil on canvas 113×80.5cm、Magyar Nemzeti Galeia Budapest

・・・ロツ・カーロイは、ハンガリー・アカデミズムを代表する偉大な画家です。ウイーンで学んだロツは、ドイツ・ロマン派風の絵画を描くことから始めますが、やがて、次第に叙情的リアリズム、自然主義、歴史主義様式へと推移します。

・・・晩年に入たロツは、いくつかの細長いイメージの美しい女性像を描いています。その典型と見なすべきこの作品には、世紀末における英国の肖像画に似た色彩感覚が表れています。

【画像7】チョントヴァーリ=コストゥカ・ティヴァダル『街頭に照らされた木、ヤイツェ』

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Scntvary Kosztka Tivadar(1853−1919) 「Trees in Electric Light at Jajce」 1903 oil on canvas 92×88cm、Magyar Nemzeti Galeia Budapest

・・・チョントヴァーリは、ハンガリー現代絵画を初めて本格的に代表する画家として注目されました。その魅力は、夢幻的・汎神論的・表現主義的ということにありますが、ダルマティア、イタリア、中東へ旅行しており、どこか異国風の空気が漂うことも特徴となっています。

・・・また、チョントヴァーリは風景画や都市景観における黄昏どきの漠として渾然一体化したような光と色彩の表現に取り組みました。この作品でも、その夢幻的な空気と現実の不思議な混在が大きな魅力ですが、それは波乱に満ちたハンガリー史の凝縮でもあるかのようです。

【画像8】ケレシェフェーイ=クリューシュ・アラダール『クラーフ・ザーチュの物語1』

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Korosfoi Kriesch Aladar(1863−1920) 「The Story of Klara Zach」 1911 oil on canvas 101×193cm、Magyar Nemzeti Galeia Budapest

・・・ケレシェフェーイは、芸術家集団であるハンガリアン・アールヌーヴォーを代表する画家です。ハンガリアン・アールヌーヴォーは、英国のラファエル前派(ラスキン、モリスら)の影響を特に強く受けています。

・・・この絵画のテーマは14世紀のハンガリー貴族の悲劇(伝承)です。ハンガリーの封建領主カーズメールの娘クラーラは教会へ向かうところですが、左端に立つのはアンジュー王家の王妃とその弟です。クラーラがこの王妃の弟(クラーラの純潔を奪っていた)の再度の誘いを拒否したため、哀れにも、その高貴な領主の一族・郎党らは一人残らず惨殺されます。

・・・この絵は、ラファエル前派だけでなくサンドロ・ボッテチェルリの女性像のイメージが重なりますが、ケレシェフェーイが目指したのはハンガリーのフォークロアに基づく“真のハンガリー民族芸術”を創造すること、そしてハンガリーの伝統精神に裏付けられた“総合芸術”を樹立することでした。

【エピローグ】Lara Fabian - For Always (Movie: AI-Artificial Intelligence) D

【画像9】ドナウ・ベント辺りの風景(2009.3.24、撮影)f:id:toxandoria:20090401233512j:image:right

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