メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:日本の「マンガ的右傾化」の対極にあるハンガリー国民の飽くなき「民主化への意志」の歴史  2009/05/06


日本の「マンガ的右傾化」の対極にあるハンガリー国民の飽くなき「民主化への意志」の歴史


[副 題] 2009年春/ドナウの真珠、ハンガリー・ブダペストの印象(1/2)


<注記1>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090505


【プロローグ】Lara Fabian - Love by Grace (Legendado em Portugues)・・・右上の画像は「王宮の丘から“くさり(鎖)橋”と“国会議事堂”を望んだ夜景」(この画像はウイキメディアより)
[http://www.youtube.com/watch?v=aYZ3T5gsNVE:movie]


<注記2>当記事の【画像=ブダペストの風景】について


・・・総数118枚と枚数が多いため、当記事では代表的なもの27枚に絞って、レイアウト風に配置します。画像の全体は、下記の「Picasaギャラリー」◆の『スライドショー』(大型画像)でご覧ください。ギャラリーの各画像には、可能な限り説明(スライドショーの画面上で表示・非表示の切り換え可)が書いてあります。


◆ブダペストの風景(ハンガリー)、2009/春、
http://picasaweb.google.com/toxandoria/200903#


(ブダペストの概観)


ブダの丘にある「王宮」(2009.3.25、撮影)
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下流に向かうドナウの流れがセンテンドレを過ぎると、やがて右手の丘の上にある壮大なブダペストの王宮が視野に入ってきます。その程よい川幅から見上げる眺めは絶品というより他に表現できないほどの美しさです。19世紀の後半(1873)になり、この王宮を擁するブダ地区、その北側のオーブダ地区(Obuda/より旧いブダ地区)、そして左岸のペスト地区(商都)が一緒になりハンガリーの首都ブダペストが誕生しました。


王宮がある右岸の上には、王宮のほかにマーチャーシュ教会、漁夫の砦などが建ち並んでおり、左岸には英国議会の建築をモデルとする優美なハンガリー議会の建物(国会議事堂/ネオ・ゴシック様式)があります。市街のほぼ中央部のドナウには軽やかな印象を与える六つの橋が架かっており、ブダとペストの市街地を結んでいます。夕暮れになると、これらの歴史建造物と国会議場堂と王宮辺りにかかる「くさり(鎖)橋」は、ライトアップとイルミネーションの飾りが輝き始めます。


「王宮」辺りの風景1(2009.3.25、撮影)
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このような舞台装置と演出効果が功を奏しており、ブダペストのドナウ両岸にはオーストリアのウイーンやチェコのプラハでは見られない、爽やかで美しい独特の魅力的な詩情が流れています。おそらく、全長2840kmのドナウに点在する都市景観の中で、ハンガリーのブダペストこそ随一の美しさであると思われます。


発掘途中の古都ヴィシェグラード(詳細、後述)とブダペストのブダの丘の王宮辺りは、中世ハンガリーの黄金時代を象徴する場所です。13世紀半ばのモンゴルの来襲によって、ハンガリーの都はエステルゴムからブダへ遷都しますが、一時はヴィシェグラードへ都が移った時もあります。が、ルクセンブルク朝のジギスムント王(Sigismund/位:1387−1437)が、14世紀末〜15世紀初めにかけてブダの丘にゴシック風の宮殿を創りました。


「王宮」辺りの風景2(2009.3.25、撮影)
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その後、黄金期を極めたマーチャーシュ王(詳細、後述)は、この宮殿をルネサンス風の美しい宮殿に増・改築します。マーチャーシュ王の下で、ハンガリーはルネサンス文化の開花期を迎えることとなり、ブダはヨーロッパにおける「ルネサンス文化・芸術・学問」の一大中心地となりました。しかし、マーチャーシュ王が亡きあとのハンガリーは下降の歴史に入り、「モハーチの戦い」(1526)以降は、オスマントルコとハプスブルク家の支配に圧倒されることになります(詳細、後述)。


三位一体広場(2009.3.25、撮影)
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漸く、18世紀後半のマリア・テレジア(Maria Theresia von Oesterreich/オーストリア女王・兼ハンガリー女王/位:1740-1780)の時代(オーストリア・ハンガリー二重帝国/詳細、後述)になり、ブダの丘の上の宮殿が蘇生します。更に、19世紀末〜20世紀初めにかけて大規模な拡張工事が行われ、現在のネオ・バロック様式の宮殿が姿を現しました。しかし、無残にも第二次世界大戦で再び破壊され、その修復が完成したのは1980年代になってからです。


しかし、ブダペストの歴史遺産は王宮の周辺だけではなく、対岸のペスト地区を中心とする商業活動と資本主義の発達によって、19世紀後半の近代都市ブダペストが繁栄を謳歌することになります。この活気溢れた「オーストリア・ハンガリー二重帝国時代」の熱気が、ハンガリーの首都ブダペストの活力ある都市造りを促しました。当時のブダペストには、ヨーロッパ各地から多くの資本が流入し、ハプスブルク帝国をオーストリアと二分したハンガリーの領土は南のクロアチアから東方のトランシルヴァニア(現在のルーマニア領)に及ぶ広大なものとなっていました。つまり、ドイツ人、ユダヤ人、ボヘミア人、ポーランド人などが集まる、ウイーンにも劣らぬコスモポリタンこそが当時のブダペストの姿でした。


聖イシュトヴァーン騎馬像(2009.3.25、撮影)
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現在のブダペストの人口は約180万人(ピークは、1980年代半ばの約200万人)ですが、全土の人口が約1000万人であることを考慮すると、ハンガリーでは圧倒的な比重を持つ大都市です。因みに、ハンガリーの国土面積は約9.3万 km2で、ほぼ北海道の広さに匹敵します。総人口に対する宗教区分の比率は、カトリック約52%、カルバン派新教約16%となっています。また、ハンガリーの文化水準は高く、世界的な科学者や芸術家を多数生んでいることは周知のとおりです。


「漁夫の砦」の風景(2009.3.25、撮影)
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直近のハンガリー経済の動向は、米国発の世界的金融・経済危機を背景にハンガリーでもすでに景気が深刻な後退局面に入りつつあり、2009年は1990年代前半に市場経済への転換によるショックで混乱した時期以来の最も厳しい年となることが予測されています。ハンガリーだけのことではありませんが、特に、西欧諸国による「対中・東欧等への巨額貸し込み問題」が大きな懸念材料となっています。


(ハンガリー/中世〜現代の概観、その栄光・挫折・復活の歴史)


「王宮」辺りから見たドナウの風景(2009.3.25、撮影)
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アールパード朝・ベーラ4世(Bela4/位:1235−1270)統治下の1241年、ハンガリーはバトウ(Batu)が率いるモンゴル軍に蹂躙され、その都はエステルゴムからブダ(現在のBudapestのドナウ右岸で、そこへ5世紀に侵入したフンの族長名Budaを語源とする/なお、左岸の商都Pestについては、そこに住み着いたスラブ人の家の“竈(かまど)”の呼び名とする説がある)へ遷都します(アールパード大公による建国〜聖王イシュトヴァーン1世の時代については下記◆を参照)/span>。


◆ドナウ・ベントにある“南欧の飛び地(センテンドレ)”に見る「グローバリズム」の光と影、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090412


◆ドナウ・ベントからの連想/「偽装捜査 or 捜査ミス」で歪曲され退行する日本の民主主義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090401


1301年にアールパード朝が途絶えると(アンドラーシュ(Andras)3世に嗣子がなく)、フランスのアンジュー家(ナポリのアンジュー・シチリア分家)からカーロイ・ローベルト(Karoly Robert/位:1308-1342)が王として迎えられ、ハンガリー・アンジュー朝(1308−1395)の時代になります。1316年、カーロイ・ローベルトは、ブダでの王位争いを避けるためヴィシェグラードに王宮を造り、それは後にフニャディ朝・マーチャーシュ・コルヴィヌス王(Matthias Corvinus Huniades/位:1458-1490)の時にイタリア・ルネサンス風の華麗な宮殿に仕立て上げられます。


その華麗な宮殿は永く伝説的存在でしたが、1934年、たまたま地元の農夫が遺跡の一部を発見したことから壮大な宮殿の実在が確認され、今も発掘が続いています。ともかくも、ルネサンス文化を奨励したマーチャーシュ王の統治は名実ともにハンガリーの黄金時代であり、マーチャーシュは官僚組織と常備軍を整備し、中央集権化を進めたことが知られています。


「くさり橋(鎖橋)」の風景(2009.3.25、撮影)
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一方、マーチャーシュ王は、イタリアから文化人・芸術家・建築家らをブダの王宮へ招きハンガリー文化の興隆を図っています。そのため、この時代のブダはヨーロッパにおけるルネサンス文化(法制史的にはローマ法の継授)の中心地の一つとなっていました。また、ブラスチラヴァ(Bratislava/現在、スロバキアの首都/マジャール語でポジョニ)に大学を創り、彼は、大の蔵書家でもあったためマーチューシャ・コルヴィヌスの名を付けたコルヴィナ文庫(写本2000巻)を持つ王立図書館を整備しています。


しかし、このマーチャーシュ王の時代は、ハンガリー王国の最後の輝ける時代でもありました。ボヘミア王も兼ねたマーチャーシュは、一時はオーストリアのウイーンを占領し、オーストリア大公の称号を得て、そこに居城を造り神聖ローマ帝国の王冠も狙います。が、49歳で急死したため、その野望は潰えました。


マーチャーシュ教会(2009.3.25、撮影)
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マーチャーシュの死後に大貴族たちの専横が蔓延り次第に国力が低下するなか、ヤギェウォ朝(Jagiellonow)のラヨシュ2世(Lajos 2/位:1516-1526)は、1526年の「モハーチの戦い」(Mohacsi csata)でスレイマン1世が率いるトルコ軍に敗れ戦死します。世継ぎがないまま、ハンガリー王位はハプスブルク家のフェルディナント大公(ハンガリー王フェルディナント1世/Ferdinand 1/位:1526 - 1564)に渡り、ハンガリー王位(兼ボヘミア王)はハプスブルク家のものとなります。また、これ以降、ハンガリーは約150年にわたりオスマン・トルコの強い影響を受けることとなり、1541年にはブダが制圧され、それ以降145年間、ブダはトルコの支配下に入ります。


1541年のブダ制圧後、ハンガリーの中央部〜南部がオスマン・トルコに占領され、ハンガリーの西部と北部が「ハプスブルク領ハンガリー」となり、この間にトルコはハンガリーを足場として二度に渡りウイーンを攻撃します(第一回/1529年9月/兵力20万、第二回/1683年7〜9月/兵力28万)。マジャール人の抵抗運動など様々な要因でオスマン・トルコが漸く軍事的に後退し始めると、1699年の「カルロヴィッツ条約」(オスマン帝国とヨーロッパ諸国との講和条約)でハンガリー王国領のクロアチアとトランシルヴァニア(東ハンガリー)はハプスブルク領となり、他国に支配される状態が続きます。


フランンスの「二月革命」(1848)の余波が「三月革命」としてヨーロッパ中に広がると、ハンガリーでもコッシュート(Kossuth Lajos/1802-1894/革命家)による「ハンガリー独立運動」が起こりますが、これはロシア帝国軍の介入で失敗します。しかし、このことはハプスブルク・オーストリアに民族独立との妥協を決断させ、1867年の「アウスグライヒ」(Ausgleich/ドイツ人とマジャール人の間の妥協)で『オーストリア・ハンガリー二重帝国』が成立し、この体制は第一次世界大戦の終結まで続きます。そして、この時代にハンガリーの資本主義が成熟します。


現代美術館(2009.3.25、撮影)
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一方、1914年6月28日、ボスニアの都サラエヴォを訪問中のオーストリア(ハプスブルク)皇太子夫妻が、セルビアの「大セルビア主義」を掲げる民族組織に加担した一青年によって暗殺された「サラエヴォ事件」(汎スラブ主義vs汎ゲルマン主義)によって第一世界大戦(?914-1918)が開始しますが(ドイツの支持下でオーストリアがセルビアに宣戦布告)、同盟国側(中欧同盟/ドイツ、オーストリア・ハンガリー二重帝国、ブルガリア、トルコ)の敗戦によって大戦は終結しました。


第一次世界大戦・終結後の1918年、ハンガリーはオーストリアから分離され「ハンガリー民主共和国」(社会民主党政権)が成立しますが、その直後に共産党との連携で起きた「ハンガリー革命」(1919)はルーマニアの介入で失敗し、「ハンガリー王国」が復活します。しかし、ハンガリーは「トリアノン条約」(1920/敗戦国となったハンガリー王国と連合国が結んだ講和条約)で、その国土と人口の6〜7割を失いました。そのため、この時期のハンガリー国民は流石に内向化したナショナリズムへ傾きます。


英雄広場(2009.3.25、撮影)
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第二次世界大戦ではナチス・ドイツの圧迫もあり枢軸国として戦いますが、ハンガリーの国土は、1945年にソ連に占領され、1946年には「ハンガリー王国」が消滅し、ソ連の支配下で「ハンガリー第二共和国」となります。やがて、1949年に共産主義国家「ハンガリー人民共和国」となりソ連の衛星国に組み込まれました。しかし、ハンガリー国民の反ソ連意識は根強く「ハンガリー動乱」(1956/民衆による全国規模の蜂起/ソ連軍により数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となって国外へ逃亡)が起こりますが、ソ連はこれを強引に鎮圧しました。


しかし、ハンガリーの歴史・伝統を重んじる多くの知識人らが参加した「ハンガリー民主フォーラム」(Magyar Demokrata Fórum/右派中道政党)主導の民主化への流れは止まらず、1989年に共産党の一党独裁を放棄(共産党の改革派が主導権を掌握)したハンガリーは、平和的に体制転換(マルクス主義の放棄)を実現して「ハンガリー共和国」が誕生し一層の民主化が進み、同年5月にはオーストリアとの国境にある「鉄のカーテン」を撤去します。この“歴史的解放”の実現に<希望の光>を見た東ドイツ市民がハンガリーへ殺到し、これが「汎ヨーロッパ・ピクニック」(Paneuropae Picknuck/参照、下記▼)へ繋がります。


▼ 「汎ヨーロッパ・ピクニック」・・・1989年8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンで開かれた集会のこと。この集会には西ドイツへ亡命を求める約1000人の東ドイツ市民が参加。その後、彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たしたが、これは後の「ベルリンの壁崩壊」へ繋がる歴史的大事件。


なお、この「汎ヨーロッパ・ピクニック」→「ベルリンの壁崩壊」の流れには、ハンガリー市民による「ナジマロスのエコロジー戦争」(1988年5月)という瞠目すべきプロローグ(前史)があったことも忘れるべきではありません。それは、ドナウ・ベントのナジマロスに計画されたダム・発電所建設への反対運動で、ブダペスト中心街のヴェレシュマルティ広場に約3,000人のハンガリー市民が終結して権力側(政府と御用メディア)へ命がけのデモをしかけ、結局は政府がダム建設中止へ追い込まれた事件です(詳細は、下記◆を参照乞う)。


◆[反授権規範政治の真相]“偽装新インフル”より危険な小泉・安倍・福田・麻生が培養した“非民主化パンデミック”政治、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090502


聖イシュトヴァーン教会(2009.3.25、撮影)
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(ハンガリー民主化の歴史の対極にある、現代日本の民主主義の危機を象徴する「潜在光景」=『小泉・安倍・福田・麻生が培養した“非民主化パンデミック政治』による、違憲性の疑いが濃い御用型「裁判員制度」の日本国民への押し付け)


ここで言う「潜在光景」とは、過半の善良な日本国民がソレと気づかぬよう、さりげなく狡猾に国民の不利益となる悪徳に満ちた政治・行政が進められているということ(=司法への参加を名目に国民の主権を侵しつつ量刑判断の責任の一部を国民へ押しつること)を意味します。別に言うなら、その悪政を国民へ押し付ける原動力となっているのが、今や時代遅れとなった「トリクルダウン(ネオリベラリズム)妄想」とマンガ的「偽装極右政権」の談合・結託です。つまり、今まで政権から十二分な恩恵を受け甘い汁を吸ってきた仲間内の権益を死守するため、狡猾にも御用法曹と御用メディアが結託し、一般国民の鼻先へ向けて危険な“非民主型ウイルス(感染源)”の飛沫を意図的に散布しているということです。


国立オペラ座(2009.3.25、撮影)
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そして、今や、その役割を嬉々として率先して担うのが<政・財・官(法曹)&暴>との“利益共同体”(コングロマリット)の維持を過剰に自覚せざるを得ない(経営上、および自己保身の観点から・・・)マスゴミ化・低俗化・卑俗化したマスメディア(特に民放テレビの劣化は目も当てられない惨状!)であり、その最悪の象徴が由々しき「記者クラブの問題」なのです。


世界に例を見ない「日本の記者クラブ制度の本質」を抉るなら、それは悪徳政治権力と結託した「官製談合ジャーナリズム」以外の何物でもないということです。このままでは、必ずや、この腐敗した権力コングロマリットが日本の民主主義の基盤(市民社会)を確実に崩壊させることになるでしょう。従って、この傾向に歯止めをかけるため、一刻も早く、欧米に先進事例がある「プレス・カウンシル(報道評議会)」によるジャーナリズムのチェック&評価システムを本気で導入すべきです(参照、下記▲)。


▲検察と記者クラブの誤謬、http://d.hatena.ne.jp/butch1960/20090327/1238121986


▲人権・報道・インターネット、http://homepage1.nifty.com/nik/


リスト学院(2009.3.25、撮影)
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しかし、“不況下で報道機関が大幅に収益を減らす中、ジャーナリズムが抱える問題を議論した”はずの朝日新聞・労組主催「言論の自由を考える5・3集会」(2009.5.3)でも、この記者クラブの問題は一切とり上げていません(参照、下記◆)。メディア自身の中から自浄作用と真の危機感が芽生えることを期待するのは、もはや無理のようです。


◆メディアの課題議論/尼崎で朝日新聞労組「5.3集会」、http://www.asahi.com/national/update/0503/OSK200905030048.html


<注記>

・・・『小泉・安倍・福田・麻生が培養した“非民主化パンデミック政治』については、下記★を参照乞う。


★[反授権規範政治の真相]“偽装新インフル”より危険な小泉・安倍・福田・麻生が培養した“非民主化パンデミック”政治、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090502


リスト像(2009.3.25、撮影)
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ところで、渦中の「裁判員制度」を取り上げるにあたり、『 “ローマ法の継授”の二つの流れプラス・ワン(英米のコモンロー)』という歴史的観点からスポットを当てると、おおよそ以下のように纏めることができます。このようにして司法のあり方を概観することも非常に重要なことです。なぜなら、我々自身の自覚の有無を問わず、ある意味で現代社会もローマ法の掌の上で生かされていることは紛れもない現実だからです。


短く言ってしまうなら、それはA[大陸法(北イタリアなどのコムーネ(市民自治)の伝統との融合→啓蒙思想→近代市民社会の形成)]、B「係争処理技術としての詭弁を駆使する卑俗法」、C「英米流コモンロー」の三つの流れです。元来、ローマ法は極めて現実的な性格のものですが、Aの流れの中で洗練され、理念型憲法による権力への授権の意義(権力暴走への監視)が理解されるようになり近現代の市民・民主主義社会が成立します。Cも英米流の民主主義社会のベースを提供しましたが、より自由主義的であるため、リバタリアニズム(自由原理主義)、あるいはランディアン・カルト(アインランドの客観哲学=超利己主義哲学)のような一種のエポケー(epokhe/無責任な思考停止状態 or シミュレーション思考)ヘ向かう傾向があります。


A型=大陸法の流れ


・・・正義・信義・信用の重視(狭義のローマ市民法の伝統) → 12世紀ルネサンス(6世紀・ユスティニアヌスのローマ法大全から再発見/ボローニア大学) → 市民自治都市法(ユス・コムーネ)との融合(北イタリア経由) → オランダ典雅学派 → ドイツ法・フランス法 →啓蒙思想(理念型民主主義の熟成) →近代市民社会の発達を支援(=理念型憲法の授権規範的意義を重視)


B型=卑俗法の流れ(ビザンツ=バルカン型)


・・・網羅的現実の中から、とにかく一つの結果を効率的に選択する技術としての法、言い換えれば決議論的性格(カイズイスティッシュ/Caisuistish)の重視 → 卑俗法(Vulgarrecht/詭弁の道具)化したローマ法(6世紀・ユスティニアヌスのローマ法大全) → ビザンツからバルカン諸国へ伝播


C型プラス・ワン=英米法におけるコモンロー・衡平法の流れ ≒ 現代の米国でB型の流れへ接近(コモンロー伝統のリバタリアニズム化、強欲で成果主義的な “契約の束化”社会の出現)


・・・「イングランド国王裁判所vs大法官 (Lord Chancellor) の個別救済」による大陸法との均衡 → 後者の判例集積がコモンロー化 → 英米実定法の形成(←間接的ローマ法の影響) → 個別網羅的・決議論的(カイズイスティッシュ/Caisuistish)なコモンローの成立 → 英米型市民社会の成熟 → 米国法(Ex.契約最重視の詭弁型・シミュレーション思考型の“衡平法(Equity)”)の成立 → 理想・理念型民主主義よりも現実的な“契約の束”と効率を最優先する米国型資本主義社会(超利己的なネオリベ詭弁型社会)の成熟 → Caisuistish(強欲資本の論理)に堕し[資本主義社会の信用]が溶解 → 人類未経験の極めて深刻な米国発グローバル金融危機の発生 → オバマのチェンジが成るか?(米国社会の原理をA型へChange!)


(ローマ法関連の参考資料)


ローマ法の継授・オランダ典雅学派・ドイツ法の流れ(2007-05-19 ・toxandoria
の日記)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070519


「改憲論」に潜むナチズムの病巣(王権神授と民族精神の高揚)(2005-05-19・toxandoria
の日記)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519


アメリカ法観察ノート、http://izw134.blog74.fc2.com/?mode=m&no=321


ローマ法概説、http://www.tamano.or.jp/usr/osaka/pages/r-data/law.htm


ローマ法R25、http://r25.jp/b/wp/a/wp/n/%83%8D%81%5B%83%7D%96@


決議論と原則主義、http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/026714+/mokuji07.html


なぜAIGは巨額賞与を払わざるを得なかったか、
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2009/20090504/10540/aig/


衡平法とは、
http://info.babylon.com/onlinebox.cgi?apos;s%20clothing&tl=Hebrew&rt=ol&tid=AffToolbar&term=%E8%A1%A1%E5%B9%B3%E6%B3%95&tl=&uil=English&uris=!!XYT45EW3JE


(ユス・コムーネ関連の参考資料)


屋敷二郎:ヨーロッパの共通法(ユス・コムーネ)経験と東アジア 、http://www.law.hit-u.ac.jp/asia/pdf/pdf-07-japanese.pdf


新自由主義的「司法改革(法科大学院・裁判員制度等)」による司法サービス向上の誤謬(原点から考えるシリーズ2)(2008-12-07・toxandoria の日記)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081207


「アンドラーシ大通り」界隈の風景(2009.3.25、撮影)
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当然ながら、日本における「ローマ法の継授」(理念型民主主義と市民社会への入り口の存在を日本が初めて知ったこと)は「大日本帝国憲法」(1889年公布)起草の準備を進める伊藤博文らが、海外の憲法事情及び諸制度の調査を目的に「外見的立憲君主制」が完成した直後のプロイセン・ドイツへ渡航したことに始まります。


しかし、この頃のプロイセン・ドイツでは「授権規範性」を意図的に排除した「外見的立憲君主制」を支えるための「プロイセン憲法」が制定されていました。このため、ナチズムへ向かう予兆を孕(はら)んだ「プロイセン・ナショナリズムの熱気」と「プロイセン憲法」の「外見的立憲君主制」を支える精神とスケルトン(骨格)が伊藤博文(岩倉使節団のメンバー)らを介して「大日本帝国憲法」のなかへ流れ込むことになります(岩倉使節団の派遣/1871〜1873)。


このようにして出来た「大日本帝国憲法」が平和主義と戦争放棄を最高理念とする「日本国憲法」へ変革されるまでのプロセス(太平洋戦争およびその前後史)では、内外における数多の尊い人命が犠牲となったことは周知のとおりです。それにもかかわらず、この貴重な我が国の歴史経験・歴史遺産のプロセスを無視しつつ、安易に、現代のテレビ・コメンテータ流に外形的で格好よく、あるいは偽装詐欺風の知識で厚化粧した“お笑い風解説”付きで如何にも分かりやすそうに「日本核武装論」や「平和主義の放棄」をぶち上げる威勢のいい政治家や評論家諸氏が跋扈するようになったことは噴飯の極みです。


それはともかくとして、ここで取り上げるのは渦中の「裁判員制度」の問題です。漸くここに至り、様々な角度から、その余りにも酷すぎる欠陥(憲法違反=その反授権規範性、倒錯した主権意識によるお上のごり押し意識、量刑判断にかかわる責任の脅迫的押し付けetc)が指摘されつつあります(下記▲、参照)。が、この問題の発端は、やはり現行の「日本国憲法」への違反を承知の上で、ブッシュ流・ネオリベの圧力(年次・対日改革要望書)に基づき「A型に近い日本の刑事裁判」を市場原理主義に相応しく「詭弁型・決議論型・成果主義型(=C型)の刑事裁判」へ“急ぎ衣替えして、日本の司法の効率化を図ろう”とした<小泉ネオリベ構造改革>の一環であったと見なすべきです。


▲「裁判員制度」凍結、見直しにむけた「12の論点」(裁判員制度を問い直す議員連盟/保坂展人のどこどこ日記より)、http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/21929301bf51872669470a5abd17bbeb


従って、「裁判員制度」の領域に限らず、急拵えでドタバタとなった余りにもお粗末な法科大学院の問題など、日本の司法・法曹界全体がこの<C型司法への転換戦略>のターゲットに入っているはずです。いずれにせよ、大久保太郎・元裁判官が指摘するとおり、この「裁判員制度」が『裁判官の任命方法』(憲法80条1項)などで憲法違反の疑いがあることは間違いないと思われます(下記▼、参照)。


▼新自由主義的「司法改革(法科大学院・裁判員制度等)」による司法サービス向上の誤謬(原点から考えるシリーズ2/toxandoriaの日記)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081207


▼裁判員制度「違憲の疑い」…大久保、池内が吠える!、http://www.zakzak.co.jp/gei/200905/g2009050126_all.html


なお、余談ながら、バルカンの北部(中央)に位置するハンガリーがB型ではなく「A型のローマ法の継授」(権力に対する授権規範の意義を重視)の流れにあったことが、近代〜現代においてハンガリー国民(市民)が「中東欧圏の民主化」を先導することに少なからず貢献したと思われます。それは、ハンガリーの首都ブダが、15世紀・マーチャーシュ王の慧眼によって「ヨーロッパにおけるルネサンス文化の中心地の一つになった」という貴重な歴史経験を経たことによるものです。


ドナウの風景(2009.3.25、撮影)
[f:id:toxandoria:20090505220612j:image]
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別に言うならば、それは一般的な意味でのハンガリー国民(市民)の知識水準(=教養レベル)の高さを物語っています。彼らには、マジャール人としての民族意識が非常に大きい(今や小国であるとしても・・・)という特徴がありますが、それにもかかわらず、そのナショナリズムは内向せず「ナジマロスのエコロジー戦争」(1988年5月)と「汎ヨーロッパ・ピクニック」→「ベルリンの壁崩壊」の歴史的大事件の一連の流れの中で、民主化を実現しようとする鮮烈な市民意識の発露と勇敢な行動となって、それが見事に昇華されたことは既に見たとおりです。


これこそが、米発金融危機の意味を奥深くから真剣に考えるべきこの時に至っても(下記関連記事◆、参照)、ネオリベラリズム(トリクルダウン理論)の婢(はしため)である(あった)ことを偽装しつつ、<政・財・官(法曹)・マスゴミ&暴>の“利益共同体”(コングロマリット)の既得権益を死守するため、まことに陰湿な『小泉・安倍・福田・麻生が培養した“非民主化パンデミック政治』で過半の善良な国民が内向するばかりの「時代遅れの右傾化」(核武装論、平和主義の放棄)へ巧妙に誘導されつつある<日本>と国民の飽くなき民主化への意志が存在する<ハンガリー>の大違いな点です。


◆金融資本主義の破綻・新自由主義の崩壊と、目覚め団結し始めた世界の人々、http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=205539


◆Current Crisis Shows Uncanny Parallels to Great Depression by Spiegel Staff、http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,druck-621979,00.html


【エピローグ】Pavarotti Last Performance "Nessun Dorma" @ Torino 2006(日本国民よ、決して眠ってはならぬ!)
[http://www.youtube.com/watch?v=O0Sx5lbVlQA:movie]


ドナウ川から望む国会議事堂のライトアップ(この画像はウイキメディアより)
[f:id:toxandoria:20090505222246j:image]


<補足>


ハンガリーとオーストリアの外交関係を飾る『ハプスブルク・最後の皇女エリザベートのエピソード』


[f:id:toxandoria:20090505230217j:image:left]・・・バイエルンのヴィッテルスバッハ家からフランツ・ヨゼフ帝に嫁いだ、ハプスブルク二重帝国時代の皇后エリザベート(Amalie Elizabeth /1837-1898/愛称シシー)は、ウィーンの宮廷生活に馴染めず度々ブタペストに滞在し、ハンガリーの地位向上とハンガリー擁護の活動に取り組みました。そのためエリザベートはハンガリー人から好意を持たれ、ブダペストの中央公園はエルジェーベト公園(エルジェーベト=(独)エリザベート)と名付けられています。また、「ハンガリー動乱」(1956)の時にソ連軍の戦車に追われた50万人超のハンガリー難民をオーストリアは受け入れました。このように、エリザベートの存在は、現在でもハンガリーとオーストリア両国の友好関係の絆となっています(画像はウイキメディアより)。

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