メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[机上の妄想]日本の民主主義を退行させた“小泉劇場&民放TV(マスゴミ)”の妖しい関係の罪の重さ  2008/10/08


[机上の妄想]日本の民主主義を退行させた“小泉劇場&民放TV(マスゴミ)”の妖しい関係の罪の重さ
2008.10.8

<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081008

【画像】Gustave Flaubert(1821-1880)−MADAME BOVARY(Petits Classiques Larousse Texte Integral)
[f:id:toxandoria:20081008072505j:image]
・・・画像はhttp://livre.fnac.com/a1943750/Gustave-Flaubert-Madame-Bovaryより


周知のとおり、ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert/1821-1880)は、ルイ・フィリップ(オルレアン朝/位1830-48)の「七月王政(七月革命)、ブルジョワ政治」〜二月革命(1848/七月王政の反動化に対する労働者・小市民による市民革命)〜ルイ・ナポレオンの第二共和制(1848-1852)〜ナポレオン3世の第二帝政(1852-1870)〜パリコミューン(1871/社会主義自治政府、史上初の労働者政権)〜第三共和制(1870-1940)の初めころ、つまり激動の19世紀フランスを生き、写実主義を確立したとされる小説家です。


フローベールの名を高めた長編小説『ボヴァリー夫人』( Madame Bovery/1857)の主人公エマは、平凡な医者シャルル・ボバリーと結婚していますが、その結婚生活の現実に幻滅して、少女時代から抱いてきたロマンティックな幻影を追い求めつつ、二人の男と次々に関係を結びます。しかし、その過程で借財を重ね、男たちにも裏切られ、結局は、夢想の完全な崩壊で自殺します。


ところで、主人公エマは読書経験によって新たな感受性と想像力を身につけますが、その想像力と現実の落差に溺れて身を滅ぼします。この幻影を追い求める行動のきっかけは、彼女が貴族の舞踏会へ招待され、自分の<現実世界の壁>の向こう側にあった貴族社会の存在を知ったことです。結局、その結果としてエマは身を滅ぼしますが、この<エマの想像力>には、激動の時代の流れの中から<民主主義の根本となる平等の意識>を重視するようになったフローベールの意識が投影されているようです。


・・・・・


[プロローグ]


『 しかしながら、“見得きり世襲男・小泉”、“麻生マンガ・首相”ら「日本国にベッタリと寄生する世襲議員」たちの心中には、国民の生活と福祉水準を向上させるのための資本主義改革への強固な意志などは殆ど存在していません。それどころか、彼らは、派手な擬装看板の裏で、実はヒッソリと交尾(つる)みつつ日本社会の実効支配(別に言えば、保身と世襲の維持・存続)にだけ汲々としています。しかも、これらの実像は、マスゴミ、御用学者、芸能人らを総動員したお得意のポピュリズム(B層向け愚民政策の提示 → 善と悪、敵と味方に二分してみせるパフォーマンス、あるいは複雑な利害調整プロセスを、今流行のイロイロ検定試験あるいはテレ・コングかTVクイズ番組の如き単純化を施すこと)によって実に狡猾にカムフラージュされています。


 つまり、日本に深刻な格差拡大の実害をもたらした「“小泉=竹中”一派によるネオリベ構造改革」も、実は、この「恐るべき日本社会の真相」を徹底的に覆い隠すための方便に過ぎなかったようです。しかも、今となってみれば、タダ飯喰らいの世襲政治屋にすぎなかったことがバレバレとなった小泉元首相が、図々しくも、次への更なる政治屋稼業の世襲宣言と如何にもナルシスト風の派手な引退表明をした時でも、そのことについては、不思議なことにメディア(マスゴミ化した)からの批判が殆ど聞こえてきません。ともかくも、このような一般国民を徹底して小ばかにした瞬間(場面)にこそ、恐ろしいほどの<日本社会の闇の深さ=妖しげな癒着の存在>が透けて見えるように思われます。 』


これは[2008-10-01付toxandoriaの日記/“麻生マンガ内閣”がひた隠す日本特有の“世襲議員内閣制”に潜む衆愚国家・日本の深い闇、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081001]の末尾部分を少しだけ加除修正して転載したものです。これを一言でいうなら、『小泉劇場は、ネオリベ構造改革(市場原理主義と規制緩和への過剰傾斜による)という“山師の玄関”(小泉劇場)の擬装看板(参照、→ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080217)を掲げつつ、<自らを含む世襲議員らの既得権益>を死守するために<B層を主体とする日本国民>を巧みに騙し、かつ利用した』ということです。


そして、その<小泉劇場の擬装看板>の重み(=格差拡大など惨憺たる被害の修復の余りの困難さ)に潰された安部・福田の両首相(小泉元首相の世襲議員仲間)は、無責任にも(一般国民に対して!)、わずか約2年の間に立て続けに、途中で政権を放り投げてしまったので、今度は、同類の世襲議員を集めたマンガ内閣を立ち上げて世襲議員仲間の希望の星となった「麻生・マンガ首相」が、“自らも含めた世襲議員”らのためにその<小泉劇場の負の遺産>の修復に躍起となっているという訳です。


ところで、周知のとおり、メディア(特に民放TV)を利用しつつ国民(特にB層)の情念部分へ巧みに直接的に訴えかけるポピュリズム(いかにも国民一般を手玉に取るような衆愚政治)を効果的に演出したのが「小泉劇場」の特徴です。そして、この「小泉劇場」と「民放テレビ」との間には、源氏物語絵巻ではありませんが、何やら不可解な“紫色の雲”が延々と棚引いています。


[「地デジ利権」をめぐる小泉劇場と民放TVキー局との限りなき癒着の疑い]


これは、今大騒ぎとなっている「年金保険料の基準となる標準報酬月額の改竄(引き下げ)」とその不正疑惑の構造がよく似ていることに驚かされます。つまり、それは、この場合の“企業側の保険料の負担減”と“社会保険庁側の加入者増ノルマ消化”の相互もたれあいの構図が、「地デジ利権」をめぐる“民放TV局の利益”と“小泉政権側の利益(TV局を抱き込んだB層戦略による小泉劇場の支持増実現)”の構図にソックリ重なるように見えます。また、「野党サイドから各省庁に資料・データ等の要求があった場合、事前に自らの国会対策委員会へそれを提示するよう自民党が全省庁に指示していた」という由々しき問題(=事実上の政権側の事前検閲によって、野党サイドからの政権批判を権力サイド(自民党)が封殺できるシステム?/参照、下記◆情報)が急浮上しています。


◆各省庁に事前提示指示 野党資料要求 自民認める 野党、予算委で追及、http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/121396.html


これらいずれの場合においても、その最大の被害者は紛れもなく我われ一般国民であり、<権力サイドを支える政権与党と民放テレビなど各種業界等が大きな利権を享受する>という、まったく一方的に国民の主権と利益を毀損する<自民党サイドと関連業界等との癒着の構図>が幾重にも重なり浮かび上がってきます。そして、小泉劇場・成立までの過程では病院寝具協会・関連等の薄汚い利権が噂されたこともありますが(参照 → http://www.shii.gr.jp/pol/1996/1996_12/1996_1209.html)、ここでは「小泉劇場と『地デジ利権』をめぐる民放TV局との限りなき癒着の疑い」を取り上げておきます。過去のことではありますが、これが事実であるとするならば、5年5ヶ月間の「小泉劇場と民放テレビ局の癒着が日本の民主主義社会(=そこに暮らす人々の民主主義の維持・発展のための健全な想像力の働き)を酷く劣化・麻痺させたこと」と「彼らが自己利益のために国民を道具として使った」という二つの罪は非常に重いものとなるはずです。


小泉政権が誕生した当初から、特にネット上で、小泉政権と民放テレビ(キー局)が蜜月状態であるという噂が流れていました。その噂の核心は民放テレビ業界(キー局)と小泉政権の癒着の必然性が垣間見えるということです。その疑惑の核心は、「地方デジタル放送(地デジ)」の採用・導入を決めたのが小泉政権(第一次小泉内閣の最初の仕事)であったということにあります。そして、通信機能・利用便益性・画像解像度などではCSと「地デジ」の間にほとんど優劣差がないにもかかわらず、「地デジ」が採用されたことの不自然さが指摘されています。しかも、CSよりも「地デジ」の方が遥かに大規模な工事が必要となり、その設備投資の初期費用が膨大(約1.5兆円/参照 → http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Research/20070913/281854/)なものとなっています。


この不可解な問題の前提として押さえるべきことは、民放キー局が、中央で番組制作の立場を独占し地方中継基地を介して地方ローカル局を支配しており、事実上、全国民放の放送網を独占することでキー局がスポンサー企業のCMから莫大な収入を上げてきたという現実があります。つまり、もし通信衛星を利用する CSの導入となっていたならば、このような地方中継基地の介在による“幕藩体制にも似た中央民放キー局の地方民放局への強固な支配体制”の特権(利権)が総崩れとなったはずです。つまり、「小泉劇場の誕生」と「地デジ導入の決定」のプロセスには、前者の癒着の可能性について、このように濃密な状況証拠が存在するのです。


この他にも、CSと地デジを巡る技術的評価上の不自然さ(地上デジタルテレビ放送用プロファイルの記述言語BMLとインターネットの記述言語HTMLの意図的な(?)不整合)という状況証拠もあるようです。余談ながら、もしもこのような意味で、2011年以降の「地デジ」導入が、小泉政権(小泉劇場と民放テレビ局の莫大な利権)を支える重要基盤である一方で、我われ日本国民にとって実はそれが無意味なことであったとするならば、導入に要した莫大な税金の浪費に加え、「地デジ対応機種」を購入するための莫大な国民負担、更には旧型「アナログ対応テレビ」の廃棄(少なくとも5,000万台?)に伴う環境汚染の発生など、余りにも過大なマイナス効果が「地デジ」導入による利便性の増加と経済波及効果を遥かに大きく上回ることが懸念されます(関連情報については下記▲の参考情報を参照乞う)。


(参考情報)


▲CS放送の受難(nikkei・BPNETT)、http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tv_iibun/060419_7th/


▲マスコミと政府の癒着、http://www.mypress.jp/v2_writers/gazpacho/story/?story_id=1631211


▲BMLとは、http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Keyword/20070315/265320/


▲地上デジタルと衛星放送の違い、http://www.e-lifestage.jp/product/chideji/chideji-satellite.html


▲地デジ移行でテレビ廃棄が何千万台?、http://higemegane.at.webry.info/200703/article_2.html


ともかくも、このような観点からすれば、あの「小泉政権と民放テレビの癒着ぶり」がもたらした異様な光景(特に、B層の人々や中高年のご婦人方のキャーッ、小泉さ〜ん!、あるいは繰り返し放映された“不気味な小泉パフォーマンス”への大衆からの高い評価)の理由(わけ)が理解できます。つまり、その健全な想像力の源泉(=過半の大衆向けの中立・公正な一次情報)を提供すべき民放テレビ・キー局という名の“第三権力”が初めから小泉政権サイドによって根こそぎ牛耳られ、絡め取られていたということになります。これこそ、小泉政権の政治手法がヒトラー(というよりゲッペルス)の遣り方に酷似していたことの何よりの証左と考えられます。


[小泉劇場・負の遺産と米国発・金融パニックの共通原因、その由々しき狂信の実像]


小泉劇場の“無残な負の遺産”、つまり格差拡大、中間層の没落、地域経済の疲弊など(小泉・竹中カップルが『竹中平蔵・B層ターゲット・プラン』の姦計で“ 憲法違反を犯して”まで強引に導入したネオリベ改革の失敗)と“米国発・金融パニック”の共通原因がミルトン・フリードマン(Milton Friedman/1912-2006/シカゴ学派のリーダー)のマネタリズムを理論的根拠とする「ネオリベラリズム」(通称ネオリベ=新自由主義思想)への過剰な傾斜による極端な「規制緩和政策とグローバル市場原理主義」政策であることは、すでに[2008-10-01付toxandoriaの日記/“ 麻生マンガ内閣”がひた隠す日本特有の“世襲議員内閣制”に潜む衆愚国家・日本の深い闇、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081001]で詳述したとおりです。


ここでは、そのミルトン・フリードマンのマネタリズム(通貨理論)の狂信性に焦点を当てておきます。フリードマンによると、マネタリズムはマネー・ストック(通貨・貨幣・当座預金など金融機関から経済全般へ供給されている通貨の総量)と通貨の流通速度(回転率)の積であると定義し、シカゴ学派の研究では、この流通速度がほぼ一定と見なされるため、政府の政策で重要なのはマネー・ストック量の調整だけということになります。従って、金融当局(米国では中央銀行に当たるFRB)がマネー・ストックの伸び率を経済成長率とほぼ同じ水準に保てば、物価はほぼ一定になると考えます。一方、そこでは「金融政策についての厳格なルールの確立」が前提されていました。


しかし、この前提が現実の政策で蔑ろにされる傾向があったこと(例えば、米国会計基準による証券類の評価が野放図な市場現価主義(現在価値基準革命へ流れたこと)などが、今回の“米国発・金融パニック”の初動的な犯人とされるサブプライム・ローン問題を誘発することになりました。しかも、このシカゴ学派のマネタリズムは、自由な市場資本主義が一切の制約を受けずに機能すれば凡ゆる分野の課題が解決すると主張するようになります。やがて、フリードマンは政府の殆どすべての規制に反対するようになり、医薬品の安全基準まで反対したことが知られています。殆んど狂信(ウオール街の新興宗教)と化した、イデオロギーとしての新自由思想(市場原理主義)の誕生です。


<注記>現在価値基準革命(情報源:2008.10.7付・日本経済新聞)


・・・資産価値を過去の費用や利益の積み上げではなく、将来収益の割引現在価値で認識し、それを全ての金融取引に適用する金融文化を指す。これによって、会計上の資本概念は、「資本金(払込資本)に内部留保を加えたもの」から、「時価評価後の資産から負債を引いたもの」にコペルニクス的転換を遂げた。そして、このように実測できないものを計測し、時価を徹底的に利用しつくす欲求は、1980年代以降の「金融工学」に由来する。ストックオプション(株式購入権)で賃金を支払い、自社株買いで現金配当に代え、株式交換のM&A(合併・買収)を活用すれば、株は通貨の代替手段になる。株の交換価値は時価、つまり企業の予想収益の割引現在価値であり、高いほど歓迎されるようになった。 ← まさに価値基準のヴァーチャル・ゲーム化である!


米国政府から出される「対日・年次改革要望書」に呼応しつつ、この新自由主義思想(市場原理主義)と規制緩和を推し進めたのが、小泉劇場の頭脳役を務めた新自由主義思想の信奉者で御用学者の竹中平蔵です。このため、小泉劇場の特色はシカゴ学派のイデオロギー、つまり自由市場が一切妨害されることなく機能すれば、医療・教育・福祉・防犯・地域経済など凡ゆる分野で最適な均衡ある発展が達成され、富の最適配分(トリクルダウン)と日本国民の厚生水準の向上が実現するという「ウオール街で生まれた新興宗教」の色に染められることとなり、その挙句の果てが深刻な格差拡大、中産層の没落、地域経済の疲弊、低劣な労働環境と劣悪な就労条件、無意味な擬装であった郵政改革など、いわゆる「小泉構造改革の負の遺産」が日本中にバラ撒かれることになった訳です。


このような意味で、小泉劇場が日本中にバラ蒔いた「改革の負の遺産」(小泉構造改革の失敗)と「米国発・金融パニック」に共通するのが、ミルトン・フリードマンのマネタリズムを出発点とする「ウオール街の新興宗教」(市場原理主義+規制緩和万能主義=新自由主義思想の熱狂と金融工学を駆使した経済・社会のヴァーチャル化)であることは明らかです。しかしながら、この段に至っても、「小泉構造改革」も、「ウオール街の新興宗教」も、「現在価値基準革命」も誤りではなかったと強弁するアカデミズム、コメンテータ、メディアなどが多いことに驚かされます。例えば、アメリカでは、アーサー・レビット米証券取引委員会(SEC)元委員長は、“投資家に対する透明性を高めれば金融パニックをもたらした矛盾は改善される”として、現行の現在価値に基づく会計基準を変えるべきではないという論陣を張っています(情報源:2008.10.7付・日本経済新聞)。


また、まことに恐るべきは、このような意味で「小泉劇場は“ウオール街の新興宗教”の日本版の狂信であったということ」および「“安部の美しい国”、“福田あわわ〜内閣”に次ぐ“麻生マンガ内閣 ”は、本気でその小泉劇場の負の遺産の修復に取り組むよりも、世襲議員仲間の権力の継受の方にエネルギーを傾注しているという現実があること」について、事ここに至っても、過半の国民が一向に気づかぬ節があることです。つまり、恐るべきは、そのような日本国民の想像力の欠如ということです。


[日本の民主主義を支える“人間の想像力”の破壊こそが小泉劇場と米発・金融大パニックの罪の核心]


かつて、フランク・ナイト(Frank Hyneman Knight/1885−1972/ミルトン・フリードマンの師にあたるシカゴ学派の創始者)は次のように語っています。・・・『ひとつの分野を論じるにあたって、その分野を重視しすぎないように警告するのは異例のことだ。しかし経済学の場合には、その分野の重要性を説明し、強調するのと同じくらいに、そう警告しておく必要がある。』(出典:下記★)


★チャールズ・R・モリス著、山岡洋一訳『なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか/信用バブルという怪物』(日本経済新聞社)


残念ながら、優秀な学者であったにもかかわらず、ミルトン・フリードマンはこの恩師の言葉(=今回の米発・金融大パニックの淵源となったマネタリズムの事例にその典型を見られるような原理主義的思考へ経済学者が嵌る危険性への警告を発した言葉)を忘れるか捨て去っていたようです。そして、アメリカにおけるミルトン・フリードマンのマネタリズムの信奉者たちと日本における小泉劇場の御用学者・竹中平蔵らは、このフランク・ナイトの警告を敢えて無視したようです。なぜならば、彼らシカゴ学派の経済学(マネタリズム→新自由主義思想、市場原理主義)は、特に日米において極端な格差社会を出現させることになったからです。


<関連参考情報>


■金融危機めぐり米英批判 独メルケル首相、http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/180395/#izaRelNews


『アメリカの民主政治(デモクラシー)』(ピューリタンがニュープリマスに上陸してから約100年を経て英国から独立し、ニューイングランド地方を中心にデモクラシーを根付かせた頃のアメリカ社会の見聞録)の著者、アレクシド・ド・トクヴィル(1805-1859/19世紀前半のフランスの政治家・思想家)によると、近代社会において「身分上の平等化」が実現される以前のアリストクラシー(Aristocracy/特権階級の支配が当然視される時代)の世界に生きた人々は、諸身分を隔てる壁が存在することを自明なものと考えていたようです。


つまり、そのような時代の人々は、その壁の存在をおかしいと思うどころか、それを意識すらしなかったため“人民は現状と異なる社会状態を思い浮かべることもなく、主人と対等になり得るとは思いもよらなかった”というのです。そして、貴族は貴族で、自分の特権を正当と考えて疑いもせず、そもそも自分に従属する人間を、自分と同じ人間と思ってもみなかった、という訳です。例えば、トクヴィルは、ある貴族夫人のエピソードを紹介しています。その夫人は、反乱を起こした下層民衆の処刑の様子を、自分の娘への手紙のなかで楽しそうに書いています。しかし、彼女が特別に野蛮で残酷であったわけではなく、むしろ彼女の繊細さ、優しさ、寛大さが、その手紙にあふれていた、というのです(出典:下記★)。


★宇野重規・著『トクヴィル、平等と不平等の理論家』(講談社新書メチエ)


ところで、「小泉劇場の負の遺産」(深刻な格差拡大、中産層の没落、地域経済の疲弊、低劣な労働環境と劣悪な就労条件など)が日本で実現したのは、まさにこの「近代において身分上の平等化が実現される以前の世界に生きた人々の社会」への最短アプローチに他なりません。しかも、そのように過酷な格差社会が更に悪化する方向へ進みつつある暴政(寄生・世襲政治屋らによる)が行われているもかかわらず、市民レベルの大規模な抗議デモが国会へ押し寄せる様子もなく、一方、テレビ等の大衆メディア(マスゴミ)では、相変わらずお笑い番組とクイズに類する暇つぶし番組で貴重な日常の時間が浪費されています。


ここに見られるのは、先ず一般国民レベルで「想像力の希薄化」が生じているということです。今や、小泉劇場がもたらした格差の深化と中産層の没落によって、日本社会では様々な「新しい壁」が生まれつつあります。そして、その壁の向こう側には「想像力の希薄化」を自覚し得ない人々が孤立した日常生活を送っています。このような状況が進むなかで、より恐ろしいのは、「想像力の不在」を<誰よりもシッカリ自覚的に身に付けた世襲国会議員>の割合が政権与党では既に5割を超えたということです。


ともかくも、これらの現実を知りつつ「格差拡大政策」を敢えて実行し、自らの本質的な「想像力の不在」(=冷血体質)をよいことに、更なる世襲のためのパフォーマンスを衆目に晒し続けてきた<小泉劇場の罪の重さ>には計り知れないものがあるといえます。

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