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タイトル:[芸術の価値]デューラーの「イタリアへの憧憬」と美しい国  2007/06/03


[芸術の価値]デューラーの「イタリアへの憧憬」と美しい国(<政治的な衛生観念を欠く“美しい国”の暴政>の続編)
2007.6.3


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070603


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フラ・フィリッポ・リッピ(Fra Fillipo Lippi/1406-1469) 『聖母子と二天使』 ca1465 「Madonna with the Child and two Angels」 95ラ62cm tempera on wood Galleria degli Uffizi 、 Florence


またまた、「価値観外交を推進する議員の会」のピンチヒッターがお出ましのようです。それは、安倍首相が自殺した松岡利勝・農水相の後任に6月1日付で赤城徳彦・衆院議員を充てることを決めたことです。周知のとおり、赤城氏は日本会議国会議員懇談会に加盟している人物であり、首相の靖国参拝を支持する「若手議員の会」のメンバーでもあり、そのうえ“真の保守主義”(正統保守主義が迷惑している?・・・自分たちが勝手にそう思っているだけでないか?)を推進するとした「価値観外交を推進する議員の会」に加わるなど、いわゆる「靖国」派です。


しかも、赤城徳彦・衆院議員の祖父は岸信介・元首相の懐刀と言われ岸政権を支えた赤城宗徳・元衆議院議員です。安倍首相(母方の祖父は岸信介・元首相、父は安倍晋太郎・元衆議院議員)を始めとして、この類の二世・三世等の世襲議員が全国会議員に占める割合は凡そ過半に近づいているはずです。このように、次から次へと“日本に寄生したエイリアンの子供たち”が“美しい国の大奥”から飛び出す、まるで百鬼夜行図と化したような日本政治の構図は、まことにおぞましい限りです。しかも、これでも未だ30%強もの国民の熱烈な支持があること自体が驚異です。


「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問、http://www.furuya-keiji.jp/images/19_05_17%BC%F1%B0%D5%BD%F1.pdf)のメンバーの多くが日本の寄生虫のような二・三・四世の世襲政治家であること、当会の古屋会長が皇室典範改正・靖国参拝・民法772条などを列挙しつつ同じ方向をめざす同志を糾合し、青藍の天空を貫く役割を果たしたいと述べたことは周知のとおりです(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601)。


この期に及んでも、“美しい国”の宰相の脳裏からは、まるで『エイリアンのように寄生的で特異な意志』が抜けきらないようです。60年以上前の「軍国主義ファシズム時代の日本」を“新しく美しい日本の国のかたちの理想にするため、戦後レジームからの脱却をめざす”などということが、いかに<恐るべき非人権的な時代錯誤>(=暴政・悪政の標本のような化石的アナクロニズム=外見的立憲君主制の復活への意志)であるかは火を見るより明らかなことです。


ところで、このような日本の“美しい国の麗しくも偉大なる錯誤”をすら見据えていたと思われるアルブレヒト・デューラーの眼差しのなかには強い「イタリアへの憧憬」がありました(参照/下記の関連記事★)。デューラーは、1490〜1494年頃にライン上流域の諸都市で修行時代を送り、バーゼル(Basel、スイス)では木版・活版本の挿絵画家として活躍します。また、この時代には間接的ながらネーデルラント美術の影響を受けました(晩年の1520〜1521年にはネーデルラント旅行をすることになる)。


2007-06-02 政治的な衛生観念を欠く“美しい国”の暴政 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070602


2007-06-01 暴力的本性を露にした“美しい国”の横暴 、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601


2007-05-31 暴力的本性を直視する『平和主義』の意義、 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531


1495年にデューラーは一回目のイタリア旅行でヴェネツィアを訪れ、イタリア版画の技術とヴェネツィア派(ヴェネツィア派の本格的な創始者とされるベルリーニ一族)の影響を受けます(デューラーは、これ以前にマンテーニャ(Andrea  Mantegna/1431-1506)の版画を通じて既にイタリア絵画に触れていた)。更に、1505〜1507年にかけて、二度目のヴェネツイア訪問を行っています。このようなデューラーの「イタリアへの憧憬」の成果がヴェネツィア派の華麗な色彩を駆使した傑作とされる『ランダウアー祭壇画』(1511/参照、http://www.salvastyle.com/images/collect/durer_landauer02_full.jpg)です。


具体的に見ると、デューラーの「イタリアへの憧憬」の内容は“数学的・科学的な調和と正確な遠近法による精緻な対象の描写”と“聖なる静謐と華麗を伴う美しい色彩表現”の二つです。前者の代表作が『1500年の自画像』(参照/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070601、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070531)であるとすれば、後者の代表が『ランダウアー祭壇画』ということになります。


ところで、ベッリーニ一族が創始者とされるヴェネチア派には様々な色彩史の流れが解明されていますが、その一つで最も重要と考えられるのがフラ・フィリッポ・リッピ(Fra Fillipo Lippi/1406-1469)です。リッピは初期ルネサンスの基礎を築いた重要な画家の一人とされています。


フラはフラーテ、つまり清貧・貞淑・神への服従を誓う修道士のことですが、カルメル会(Ordo fratrum Beat・Virginis Mari・de monte Carmelo)の修道士であったフラ・フィリッポ・リッピは尼僧ルクレツィア・ブーティと駆け落ちをしたスキャンダラスな修道士であったようです。しかし、リッピの才能を見抜いたメ ディチ家の専制君主コジモ・ディ・メディチ(Cosimo de' Medici/通称、コジモ・イル・ヴェッキオ/1389-1464)は特別の許可を与えました。


このため、リッピはルクレツィアとの結婚が許され画業も続けることができるようになります。リッピはマザッチョ(Masaccio/1401-1428)、ドナテッロ(Donatello/1386-1466)、フラ・アンジェリコ(Fra Angelico/1387-1455)らの影響を受けますが、やがて、彼らよりも、より軽やかな動きを伴う流麗な線で描くリッピ独特の写実表現を完成します。そして、その色彩の精妙さと微かな憂いをさえ湛える人物像の深い情感表現は15世紀イタリア・ルネサンス隋一と見なされるようになります。


ウフィツィ美術館にある、この『聖母子と二天使』はリッピ晩年の作ですが、このような意味でのリッピの優れた個性が存分に感じられる秀作です。しかも、聖母子像であるにもかかわらず、この画には微かに健康な色香が漂っているようでさえあります。ほどなく、フラ・フィリッポ・リッピの門下から初期ルネッサンス絵画の最高峰、“絵画の詩人”とも呼ばれるサンドロ・ボッティチェルリ(Sandro Botticelli/1444−1510)が誕生します。


更には、盛期ルネサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/1452-1519)とラファエルロ(Raffaello Santi/1483-1520)もリッピの影響を受けたとされています。このリッピの『聖母子と二天使』は、神の姿をひたすら荘厳に描くという美術の役割がそろそろ終りに近づき、今まさに、“人間という名のフローラ”(ルネサンスの花)が開花するばかりとなった時代の瑞々しい健やかな息吹を感じさせてくれる一枚です。


ヘルベルト・ヘルビック(Herbert Herbig)の名著『ヨーロッパの形成/中世史の基本的問題』(Zwoelf  Vorlesungen zur Mittelalterlichen Europaeischen Geschichte/石川 武ほか訳(岩波書店))が示唆するところによると、原始キリスト教団のような正統宗教とカルト教団との差異は紙一重のようです。無論、この紙一重の間には孤高の断崖絶壁が聳えているのですが、分かりやすく噛み砕けばこのように言えるようです。


そして、この原始キリスト団の不文律のひとつには「すべての人々は平等である」ということがあり、これが原始キリスト教団(教会)とカルト教団の決定的な違いであったと見做すことができます。無論、このことはキリスト教に限る訳ではなく、仏教・神道・イスラム教など、その他の正統宗教においても極端に閉鎖的なカルトとの区別の最も基本的な条件の一つが、遍(あまね)く人々を平等に扱うという意味での普遍性(カソリシティ/catholicity)あるいは寛容(liberality、tolerance)ということです(この論の詳細は、下記記事★を参照乞う)。


★2007-05-17付toxandoriaの日記/「陰気な改憲」か「陽気な論憲」か?、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070517


本日(6/3)の「多摩川美化活動」で<ゴミ拾い>に参加した安倍首相は、“美しい国が目指すような美しい地球にするには、身近でできるゴミ拾いのようなことから始めるのが大切だ”と述べたと報道されています。このようなパフォーマンスは7月の選挙対策として重要かも知れませんが、日本の未来にとって、より重要なのは「価値観外交を推進する議員の会」と共有するような『化石的アナクロニズム=外見的立憲君主制の復活への意志』を思い切ってキッパリ捨て去ることです。


例えば、フラ・フィリッポ・リッピが到達した“聖なる静謐と華麗を伴う美しい色彩表現”のような健全で優れた美意識は、ヴェネツィア派〜アルブレヒト・デューラーのような流れで、あるいはイタリア美術〜フランドル美術の交流のような流れ(この論については、下記記事★を参照乞う)で自ずから国際的に伝播するようになり、広く世界中に受け入れられるようになります。そして、このような交流こそがグローバリズムの真髄でもあるはずで、戦後のドイツが過ちを犯した近代史への反省から自覚したのも、このような意味での国際的理解と自らの役割の重要性ということです。


★2006-01-06付toxandoriaの日記/「フランドル=イタリア交流史」に見るグローバリズムの原像、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060106


一方、今の日本が掲げる“美しい国の美意識”、つまり「価値観外交を推進する議員の会」が掲げるような美意識は、敢えて喩えるならば「厚化粧か美容整形美人」のようなものでしょう。泥酔したヨッパライではあるまいし、こんなものに全世界が、全地球が感動するはずはありません。徒党を組んだ一派の人々の自己満足に過ぎない「暴政・悪政の標本のような化石的アナクロニズム」、別に言うなら<寄生虫の如き世襲政治家らとカルト集団・暴力集団から生えてきた怪異な毒キノコのような美意識>が世界中から受け入れられる訳がありません。<吸血エイリアンが取り付いた美しい地球>など、ただただオゾマシイばかりです。

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