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タイトル:[原理主義の罠]『美しい国の暗いシナリオ』と論憲の視点  2007/05/27


[原理主義の罠]『美しい国の暗いシナリオ』と論憲の視点
2007.5.27


下記のシリーズ記事で『美しい国』の暗いシナリオが浮き彫りとなりました。


2007-05-19 「むき出しの斧」を欲する“美しく不純な情熱”(1)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070526


2007-05-22 「むき出しの斧」を欲する“美しい国”の妖しい情熱(2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070522


2007-05-24 「むき出しの斧」を欲する“美しい国”の妖しい情熱(3)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070522


2007-05-26 「むき出しの斧」を欲する“美しい国”の妖しい情熱(4/最終回)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070519


それは、【<小泉クーデタ劇場>が「三権分立の原則」を無視して蒔き散らした『無数の子ダネ』の中に「外見的立憲君主制」が仕込まれていた、そして、今やその『小泉クーデタ劇場の外見的立憲君主制の子ダネ』が、妖しく美しい<厚化粧の安倍劇場の子宮>に着床した】という現実です(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070522)。


つまり、取って付けたような『男子プロゴルフツアーの史上最年少優勝者・石川遼選手の官邸への招待』、『河口湖町・青木ケ原樹海でのエコツアー参加』、『本日の日本ダービー表彰式への参加』(予定)など<ミエミエの夏の参院選に向けた安倍首相のパフォーマンス>の陰で、今の日本で着実に起こりつつあるのは小泉・安倍らの世襲政治家によって濃縮・培養され受け継がれた、まるで『エイリアンのように寄生的で特異な意志』(=外見的立憲君主制の復活への意志)が着実に進んでいるということです。


これこそ、安倍首相が掲げる『戦後レジームからの脱却』のフレーズが見据える『美しい国の暗いシナリオ』という訳です。


そして、この『美しい国の暗いシナリオ』の強力な応援団が、現代日本の政界で超保守的な考え方を代表する「価値観外交を推進する議員の会」(古屋会長、中山顧問、http://www.furuya-keiji.jp/images/19_05_17%BC%F1%B0%D5%BD%F1.pdf/この会のメンバーの多くもエイリアンのような寄生・世襲政治家!!)です。当会の古屋会長は、皇室典範改正・靖国参拝・民法772条などを列挙しつつ同じ方向をめざす同志を糾合し行動できる集団機能の役割を果たしたいと述べています。これは、まるで『エイリアンのように寄生的で特異な意志』(=外見的立憲君主制の復活への意志)です。


このため、冷静な論憲の視点こそが重要と思われるので、[2007-05-17付toxandoriaの日記/ 「陰気な改憲」か「陽気な論憲」か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070517]で纏めた中から『健全な論憲』に必要な視点の部分を以下に再録しておきます。


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これから日本国民は、5月14日に参院憲法調査特別委員会で採決された「国民投票法案」の先に安倍首相の“美しい国”(政治理念?)が何を見て何を意図しているのかを、冷静かつ客観的に自分一人ひとりに関わる問題として真剣に検証する必要があります。もはや、これは決して他人事ではないのです。


ところが、巷(ちまた)には“お前は改憲の立場か?、護憲の立場か?”の二者択一で国民一人ひとりへ、まるで<踏み絵を迫る>かのような奇妙な雰囲気、あの小泉劇場での「郵政解散総選挙」という悪夢のような雰囲気が再び漂い始めています。喩えれば、それは「陰気な改憲」の空気とでも言うべき尋常ならざる異様な空気です。このことは、試みに全国紙5紙(日経・朝日・毎日・読売・産経)と地方紙8紙(北海道新聞・河北新報・東京新聞・中日新聞・信濃毎日新聞・京都新聞・中国新聞・西日本新聞)の「国民投票法案」にかかわる<報道・解説記事及び社説>を読んで実感したことです。


総じて見えてきたのは、大方の地方紙が「愈々これから日本国民が冷静に論憲すべき時がきた」という、いわば国民の立場に身を置く客観的で中立・公正な論調であるのに対し、全国紙5紙は「大方の地方紙と同様」の“冷静な論憲の立場”と、「戦後60年の無責任な政治体制を脱し、これで漸く改憲へ踏み出す条件が整った」(=戦後レジームからの脱却を完成させる条件が整った)という些か与党政権(と言うよりも安倍普三・首相)寄りで“前のめりの論調”とに二分されていたことです。このスタンスの違いは、恐らく全国紙の方が様々な意味で中央政治のバイアスを強く受け易い(例えば、国民投票に関するビジネスチャンスの大きさなど)ということがあると思われます。


ごく普通に考えれば、いやしくも日本が民主主義国家である以上は、未だ何をどうするかも決まっていないのに“お前は改憲か否か?”の踏み絵を国民一人ひとりへ迫るような、あるいは国民どおしが互いに顔色を窺い疑心暗鬼の心理に嵌るような、ある種のただならぬ「陰気な改憲論」の空気を意図的に作るのは余りにも理不尽(非民主主義的)なことです。その一方で、冷静かつ十分な論憲が行われて一定の改憲方向が定まり、中立・公正な国民投票の結果が「改憲決定」と出れば、それが国民の総意であるという結果が出たいじょうは、それに従わざるを得ないのは当然のことです。そして、この点は、toxandoria自身の“改憲は未だ早すぎる”という立場とは全く別次元の問題です。


最も危うい問題は、安倍普三・首相らが目指す“改憲のホンネ”が冷静な議論の俎上にのぼっている“部分的な”<改憲>などではなく、同じ信条の同志や特定の支援者集団の声に応えて「9条をいじることを根幹としたまるごとの新しい憲法」(=例えば、自民党が2005年に独自に作成した憲法草案の内容)であるということ、つまり、それこそが“美しい国”が掲げる「戦後レジームからの脱却」だという確固たる意図があることです。しかも、このことは今まで一部のメディアの報道で再三にわたり取り上げられ、論じられてきたことであり、ある意味で周知のことであるはずです。しかし、それを大方の国民が自分自身の問題としてリアルに認識しているかどうかは甚だ疑問です。この点こそが、今もっとも懸念されることです。


<注>この「それを大方の国民が自分自身の問題としてリアルに認識しているかどうかは甚だ疑問だ」というtoxandoriaの問題意識については、下記のブログ記事(★)を参照してください。


★日本人のカルト性」をめぐる対話
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070516


従って、いま最も肝要なことは、今回の「国民投票法決定」に関して大方の地方紙が論じているとおり、「愈々、これから日本国民が冷静に、かつ中立・公正に自分自身の問題として、主権在民の立場から論憲すべき時がきた」という認識を日本国民一人ひとりが凡ゆる偏見をかなぐり捨てて自分や家族の未来の運命に関わることとして現実的に自覚することです。これが全ての基本であり、スタートラインとなるべきことです。


このように見たとき、中立・公正で客観的な「論憲」のための参考となる、別に言うならば冷静で「陽気な論憲」のために参考となりそうな視点(記事★)がありますので、その要点を下に再録しておきます。


★堀田 力氏(元・東京地検特捜部検事)の提言『9条は分けて審議を、議論の誤導を避ける必要』・・・2007.5.15、河北新報


(運動の規制は問題)


◆最低投票率の不在


・・・憲法9条を改めたい安倍政権は、改正のハードルを下げるため、最低投票率を設けなかった。しかし、この改正は日本国民の<生命>そのものにかかわる重大事である。少なくとも「投票権者の半数以上」とすべきでなかったか(toxandoria注記/全国紙の一部にはフランスなど外国の例を挙げて“最低投票率の不要”を論じたものがある・・・しかし、これは他国の諸条件(例えば、過去の投票実績、歴史的経緯、民主主義の成熟度の違いなど)と統計学・科学的・中立的な観点を欠いた誘導的な記事である)。


◆公務員や教育者の地位利用による運動の規制


・・・これは、労働組合による運動を嫌ったもののようであるが、あまりにも政治的な発想である。ことは、選挙でどの候補者を当選させるかのレベルの投票ではなく、現在および未来の国民の生き方(toxandoria注記/例えば徴兵制の導入、無制限な戦線拡大への参加など)を決める問題である。


・・・従って、あらゆる場で、少しでも多く情報が提供され、意見の陳述や交換が行われるべきある。ところが、国民投票法の規則は、その内容が曖昧なため、憲法についての学校の授業や議論を萎縮させる恐れがある。


◆9条問題と、それ以外の問題の混同の回避の必要性


・・・次の国会から施行される憲法審査会の論議では、9条問題と、それ以外の問題を混同させてはならない。施行60年、日本国憲法は人類普遍の原理(toxandoria注記/平和への意志、普遍性、寛容など)に基づき国の形を定め、国民の権利と生活を守ってきた。


・・・いくつか補正・追加した方が望ましい事項が出てきている。例えば、環境権やプライバシーの保護、共助の仕組みの取り入れ、地方自治体の独立した権限などである。そういう改正を望む人たちを入れると、「改憲派」は多数を占める。


・・・しかし、安倍普三・首相が問う「改革の争点」は「9条問題」である。この問題になると、国民の多くは現状維持に傾く。これこそが「日本国憲法の基本原則」に関わるものであり、また「国民の生命」に関わる極めて深刻な問題であって、国民の意見もこのことを巡り激しく分裂している。


・・・従って、これを他の問題と同じプロセスで扱うことは、重大な問題の議論を誤導することになる。憲法審査会は、議題を完全に分別して審議すべきである(toxandoria注記/安倍普三・首相の独特な曖昧さと分かりにくさの演出の中には、むしろ、この問題の誤導への戦略的な意志が浮き出ている)。


◆民意との隔たりをどうするつもりか?


・・・「9条問題」で危険なのは、国会議員が国民の意向を正しく反映していないという現状があることだ。各種の世論調査を見ても、「9条改正反対」が国民の多数派であるのに、「自民党議員は改正でまとめられ」ており、民主党にも改正派が少なくない。


・・・このような中で、「自衛隊を実態に沿って軍と認めるか」、「固有の権利である集団的自衛権を認めるか」という問題提起をすると、答えは形式論でイエスに引きずられやすい。


・・・しかし、問題は形式論にあるのではなく、「現在の世界情勢の下、いかに平和を維持するか、そのために日本はどうすべきか」という実質論にある。


・・・選択肢は、(1)アメリカと軍事的にも協調するか、(2)国連軍に参加するか、(3)現行の武力不保持・不行使路線を貫くか、であろう。この論点を正直に真正面から提示し、国民の熟慮と判断を求めるべきである。


(toxandoria補足)


米本昌平著『バイオポリティクス』(中公新書)によると、堀田氏が指摘している、「国民の生命」に関わる極めて深刻な問題はバイオポリティクス(biopolitics/生―政治学、 生物政治学 )の問題だと見做すことができそうです。そして、[池田光穂、医療人類学辞典/http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060630biopolit.html]によると、この『バイオポリティクス』には4つの用語法があります。


<注>関連内容として、下記ブログ記事★も参照してください。


★日本政治の「カルト&バイオポリティクス」化への懸念
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070513


(1) 後期ミッシェル・フーコーによる、アナトモ・ポリティーク(権力構造を解体する意味での解剖政治学)の対語としてのバイオポリティクス(人口管理の政治学)


(2) 政治学的現象を説明する際に社会生物学や進化生物学の理論を援用する議論としてのバイオポリティクス


(3) ヴァンダナ・シヴァが提唱する先進国の多国籍企業が開発途上国の住民をもつ「豊かな生物多様性」をさまざまな技術や法的手段を行使して搾取するバイオパイラシーを正当化させる、グローバルな政治的枠組みを指示することばとしてのバイオポリティクス


(4) 先端医療や生物技術を行使する政策としてのバイオポリティクス


この分類からすると、今の日本で特に懸念されるのは(2)と(4)であることが分かります。例えば、そこには、超高齢化社会における医療・福祉のビジネスツール化の問題、多発する薬害・臓器移植や遺伝子操作に関連する問題、あるいは戦争と平和の問題など人権・ヒューマニズムなどの価値観を十分に視野に入れながら、より慎重に対応すべき深刻な政治課題が山積しています(なお、私見では「教育問題」もバイオポリティクスの範疇に入ると思っています)。


ところで、(2)の意味でのバイオポリティクスについて敷衍すると、つまるところ「政治権力の本質的な暴力性」の問題になります。戦争のみならず、犯罪者を探索(捜査)・逮捕・拘束・取調べを行うような行為ができるのは、当然ながら、このような性質を帯びた国家権力があればこそです。このことを、堀田氏は元検事であったからこそ強烈に経験的に自覚されているのだと思われます。無論、このような司法行為の一環として行われる権力的行為は、日本が法治国家であるいじょうは刑法などの厳しい制限下で行われています。


ところが、戦争の暴力は「イラク戦争」でも分かるとおり、事実上、国際法は有って無きが如くに取り扱われるものです。ことの如何を問わず、これが厳しい現実(国際関係のリアリズム)であることを我われは先ず理解しておく必要があります。そして、実は国際関係のみならず国内でも「本質的な暴力性が剥き出しの世界」があり、それはヤクザ・暴力団などの犯罪集団の世界です。


そして、この「戦争の暴力」と「ヤクザ・暴力団などの犯罪集団の暴力」には何ら本質的な意味での違いはありません。その意味でヤクザの喧嘩や恐喝行為と戦争の暴力は、まったく“平等”なのです。片方の暴力が高貴またはお上品で、もう一方の暴力が下品で非人間的だなどということはあり得ません。そこで作用するものは只一つ、それは「あるトポス(場所)を支配するガキ大将の論理」です。つまり、体力と武器の装備に支えられ「暴力的体力としての腕力・暴力・怒声と武器・武装力」が全てを制圧するという訳です。(2)の意味でのバイオポリティクスの恐ろしさは、ここにある訳です。


(その他の目に付いた論点・問題点/各紙の記事より)


●ビジネスチャンスとしての国民投票・・・CMを流す腕力の差(カネの力)、つまり資金力が投票の結果を左右する不条理のことである(今回のフランス大統領選挙でも、この問題が分析されている)。


●論憲、国民投票をナショナリズム高揚や人気投票、あるいは忠誠心計量の場とすることは危険で不条理なこと(ヒトラー現象、小泉劇場の事例)である。


●国民投票関連の過剰なメディア規制の問題・・・これはメディア自身の堕落問題とも絡み深刻化している。


●短兵急な「成年条項の見直し=18歳引き下げ論」の弊害・・・段階的な検討が必要ではないか。訳が分からない若者、知識がない若者らをドサクサ紛れに洗脳し、味方にするという淫(みだら)な邪心がないか?


●「60年以上放置された憲法体制の欠陥論」の危うさ・・・「戦後レジーム体制からの脱却」に呼応する論であるが、この発想自体の中に歴史を軽視するという危ういイデオロギーが隠れている。そもそも、色々な政治プロセスを経た結果として今があるのではないか? このことを無視する精神構造の中にこそカルトの種が存在するとも考えられる。


●国民投票法は首相だけの道具ではない・・・これは安倍普三・首相が憲法の「授権規範性」(憲法の役目=権力への一定の縛り、国家の主権者=国民)を無視していることを指摘したもの。宣(むべ)なるかなである。


●政党と異なり、「改憲を目指す内閣」がそもそも憲法違反ではないか?・・・発議は国会と定められ、首相以下の内閣が行政機関であるという根本からすれば、あり得る議論。


●改憲への動き(国民投票法の整備)と「9条の解釈変更(集団的自衛権の絡み)を検討する有権者懇談会設置」の矛盾・・・これは、矛盾というより、是が非でも戦争条項を解禁したいという安倍普三・首相の強い意志の表われである。つまり、何としても「安倍方式の改憲」へにじり寄りたいという強力な意志(あるいは支持勢力の強固な意志)が存在する。


●改憲手順を示さずに「自分たちで書いた憲法」をという思い(情熱、情念?)ばかりをメディアでぶち上げる無責任政治の指摘・・・たしかに、このような傾向が強すぎる。これは、今夏の参院選にテレビ朝日の美形・局アナを立てて国民を誑かすような魂胆とさして変らぬ「人気取り、美人投票型の改憲運動」に堕してしまう恐れがある。このようなムード先行の方法で「国民の生命を自在に左右するバイオポリティクス」を実現するという非人権的な意識を些かも見逃すことは危険だ。

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