メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[Intermission]妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)  2007/05/04


[Intermission]妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503


ドイツ語のAzur(英語のAzure) → 青空、希望などの意味がある。


英語のBlue(青) → 青色、憂鬱、猥褻などの意味がある。


ドレスデンのAzur(フラウエン教会の前に立つマルティン・ルター像)
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フュッセンのAzur
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ローテンブルクのAzur
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◆[2007年春、ドイツ旅行の印象/ドレスデン編](http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070501)が、一つの記事としては些か長くなりすぎたので、その「エピローグ」と「コメント&レス」の部分を再録し、特別記事[妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)]としてUPしておきます。


◆また、この「エピローグ」に関連すると思われる【下記】のようなニュースがあります。そこで、「ドイツの青と日本の青」の違いを感覚的に捉える試みとして「ドイツの青空」の画像を貼ってみました。が、特に深い意味はありません。


【 5月1日、安部首相は、クウェートの空自隊員の前で“日本の最高司令官”として古式ゆかしく“美しい国”にふさわしい言葉で訓示を垂れています。


「私は、“日本国の最高司令官”として諸君がイラクの“青藍(せいらん/深みを帯びたブルーのことだが王政復古、万世一系国体論、特攻隊などを連想させる用語)の天空を貫き”イラクの復興に引き続き大きく貢献してくれると確信している」


(5月1日15時1分配信 時事通信 ネット記事、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070501-00000077-jij-pol)による) 】


<参考>


ヒトラーは、1889年4月20日にオーストリアのブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn/オーストリアのザルツブルクから北へ約60kmにある小さな都市/その起源はAD810年まで遡る/http://www.braunau.at/)で生まれています。


ブラウナウ・アム・インは1989年にヒトラーの生家の前に「戦争とファシズム」に反対する石碑を立てました。また、ドイツでは「ホロコースト記念施設での奉仕活動の為の会合が、1998年からこのブラウナウ・アム・インで行われるようになっています。


・・・・・・・・・・


(エピローグ=立憲意識が希薄な“日本社会の危機”の深層)


ドイツ全体の歴史とオーバーラップするザクセン史の概観が示唆するのは、日独戦後史を比較・考量するとき、特に我われ日本人は「ドイツにおける有力王朝の歴史(神聖ローマ帝国からドイツ帝国に繋がる)はドイツ革命(1918/皇帝ヴィルヘルム2世の退位によるホーエンツォレルン家の崩壊)で消滅したこと、ヒトラー・ナチズム体制の公式名称が「(ドイツ)第三帝国」(Drittes Reich)であったこと、戦後の日本国憲法下では平和裏に象徴天皇が存続していること」が示す「歴史的な意味の重さ」を俯瞰的・通時的・客観的・形而上学的・倫理的・哲学的・法理的に捉えるべきということであるように思われます。


ドイツが日本と根本的に違うのは「人道に対する罪の意識」を戦後のドイツ国民が共有することに成功し、今もその状態が持続している点だと思います。もちろん、これはドイツでの国際軍事裁判のために連合国側が規定した「平和に対する罪」、「戦争犯罪に対する罪」、「人道に対する罪」のなかの一つです。しかし、ドイツの場合にはこれが単なる消極的な受身の意識に終わらず、この三つの罪についての反省的な思索を深めドイツ国民へ大きな影響を与えたカール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers/1883-1969/ハイデルベルク大学の実存主義哲学者、精神医学者)の存在があります。ヤスパースは、その妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りでは自宅に2人で立て籠もり通したというエピソードがあります。


ヤスパースの偉大な功績のポイントは「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせて主体的・積極的に考えるべきだ」という前提を明快に示したことです。そして、ヤスパースはナチス・ドイツが行った侵略戦争やホロコーストなどの「罪」を四つの次元に分けて考えます。それは、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪の四つです。つまり、これで「政治的・法的な責任」(前者二つ)と「内面的な責任」(後者二つ)を区別して考えることが可能となったのです[出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』(光文社新書)]。


これによって、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合った自覚レベルに応じて「人道に対する罪の意識」を具体的に表わすことが可能となり、是非とも自分はそうすべきだという人道に関する実践的な心と意志をドイツ国民が共有できるようになったのです。このように見ると、ドイツの人道に関する戦後の責任意識が日本とは比較にならぬほど高い地点に到達していたことが理解できます。このことはドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因ともなって長い尾を引くことになり現在に至っています。ともかくも、「日本の国会議員の品性の低劣さ」と「ドイツの国会議員のモラルの高さ」はあまりにも対照的です。


ところで、「ドイツ連邦共和国基本法」(Grundgesetz fuer die Bundesrepublik Deutschland、http://www.datenschutz-berlin.de/recht/de/gg/)は2000年末までに48回もの改正が行われており、その改正要件は「連邦議会議員数の三分の二及び連邦参議院議員の表決数の三分の二の同意を必要とする」ことです(同基本法79条)。これによって、NATO加盟のための再軍備・徴兵・国民の環境権など国民の人権にかかわる重要な改正が行われてきました。だから、日本国憲法も改正すべきだという議論を持ち出す政治家や識者が存在するようですが、ことはそれほど単純ではないと思われます。


何よりもまず、周辺諸国との歴史的・外交的関係を始めとしてドイツと日本が置かれた戦後の冷戦体制下での状況が全く異なることを前提としなければなりません。それに加えて、初めから「ドイツ憲法は政治権力に制度的な枠組みを与えるものである」こと、つまり“ドイツ憲法の授権規範性(立憲主義の視点)”が、先ず権力的立場に立つ者たち自身によって明確に意識され、かつ国民一般もこの立憲主義の意味を正しく理解してきたということです。もう一つ、ドイツ憲法の特徴的な性質をあげておくなら、それはナチズムをもたらした過去の歴史と厳しく対峙(ナチズムを完全否定)しているということです(この意味で過去のファシズム的感性への親近性を窺わせる妖しげなフレーズ“美しい国”には危険な匂いが付き纏っています)。そして、このことは主に同基本法の第1条、第20条、第79条の条文内容に明確に書かれています。


(第1条)人間の尊厳は不可侵なので、すべての国家権力はこれを尊重し保護することが義務づけられる。


(第20条)ドイツ連邦共和国は民主的な連邦国家であり、このことは第1条の規定とともに「憲法改正の手続き」によっても変更できない。(憲法改正の限界を明記)


(第79条)第1条、第20条で定められた原則は、憲法の番人たる「ドイツ連邦憲法裁判所」によって厳しく監視される。


このように置かれた環境条件の違いからドイツは明快な形で再軍備を実現してきましたが、一方で根本的には憲法の中で侵略戦争を明快に拒否しており、その意味では「平和主義」に徹しています。もう一つ見逃すべきでないのは、ドイツも「フランス革命」に相当する「ドイツ革命」(1918)で明確に重い歴史に繋がる帝制を政治的な次元から消滅させたということです。冒頭で述べたとおり、ナチス・ヒトラーはこの帝制を復活して自らが皇帝となるつもりであった訳です。この点に関して言えば、日本が進んできた道は「太平洋戦争を経験した戦後の日本」しかできなかったという意味で掛け替えなく世界中でもユニークなものです。それは「象徴天皇制の下での平和主義の徹底」ということですが、このこと自体は決して恥ずべきではなく、むしろ世界に向かって堂々と誇るべきことだと思われます。


仮に、「国民の総意」が「ヤスパースの反省」のような観点を十分に理解できていたとすれば、そして立憲主義の意識が日本国中に満ちているとするならば一般国民の総意に基づいて「ドイツ型の憲法運用体制」へ移行することは形式論理的に(“人間の尊厳と歴史経験の一回性ということ”を無視して)捉える限りでは可能かも知れません。しかし、今のように政治家も一般国民も立憲意識がきわめて希薄(軽薄)な社会・政治状況のなかで「日本国憲法の授権規範性」を安易に緩めることは甚だ危険だと思われます。なぜなら、比喩的な意味で今のドイツが歴史から真っ当な知恵を学ぶことが可能な「正統保守政治」とするならば、日本の現況は過去の歴史から何も学ばない「衆愚ポピュリズム政治」だという違いが歴然としているからです。このような日本の社会・政治環境下で、これから“日本のヒトラー”が絶対に出現しないという保障はないのです。


このため、まず日本国民は、「お坊ちゃま型寄生・世襲議員」と「メロドラマ型チンドン屋議員」を安易に“自分の好みのタイプで選ぶ”という下劣な選挙意識を改革しなければならないでしょう。また、日本の殆んどの国会議員はノーブリス・オブリージュ(高い身分に応じた義務感)以前の下劣な存在であるので、日本はこの辺りの改善についてもドイツから学ぶべきです。それは、今でもドイツの連邦議会議員・連邦参議院議員らはモラルとノーブレス・オブリージュを持ち続けているからです。


また、「新ドイツ憲法」(ドイツ連邦共和国基本法)下のドイツ大統領の位置づけは、ワイマール時代と異なり国民から直接選ばれることがない仕組みとなっており、連邦議会(第1院)と各州議会の代表者(連邦参議院議員)によって間接的に選挙されます。ここには、ワイマール時代にヒトラーを総統(第三帝国皇帝)に任命してしまった大統領の地位の危うさへの反省の思いがあり、同時に大統領の地位が国民による“美人投票”のような一時の激情(又は憤怒)の感情に流されることを防ぐ意図があると考えられます。そして、このように精妙な政治システムが可能となるのは、ドイツの連邦議会議員・連邦参議院議員らがモラルとノーブレス・オブリージュを自覚・実行してきており、一般国民がそのことに対して信頼を持っていればこそです。


ともかくも、日本のように低俗なワイドショーやバラエティ番組に出まくって売れ筋の芸能人たちとイチャついたり、弱い立場の者や利害が対立する人々を高圧的に恫喝したり、手品師かペテン師のように政治資金をチョロまかしたり、あるいは破格の袖の下を薄汚く集め捲くったり、あるいはアメリカにとってはプラス・マイナスゼロの問題と見做せる集団的自衛権のような政治課題で一般国民の不安心理を煽ったりするような、謂わば「国営泥棒&暴力組織の組員のような国会議員」(それでも国民の代表か?/参照→下記“参考”)の恥ずべき姿はドイツでは見られないようです。


<参考>


一部の報道によると「与野党を問わず、国会議員の公設秘書が採用される条件として給与の一部を議員へ寄付(上納)するように強要されていたこと」が明るみに出ています。おおよその金額は分かっているだけで「過去3年で205人、総額約3億円」となっています。


このことからも、日本の国会議員たちが国民の代表としてのノーブレス・オブリージュを意識するどころか専ら暴力団組織かヤクザ集団の“恫喝、脅迫、ゆすり、たかりのノウハウ”を政策運営の手本としてきたことが分かります。


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pfaelzerwein 『主張として拝読致しました。更なる議論のために、書き加えます。

隣の芝生は青く見えるではないですが、ここ十年の連邦議員や政治の実態は、上の主張を覆すに足る事件が幾つも発覚しました。コール時代の不正政治資金問題、国会議長らの軍用機の私用利用など事欠きません。特に前者は現在の内務大臣が失脚してそれを批判した女性首相を生み出すことになります。「まさかドイツでこうした不正行為があったとは思わなかった」と言うのが、純なドイツ庶民の声でした。後者もその生い立ちなどから人気があり選挙民を大きく失望させました。


さて、問題はこれからです。上のような破廉恥な不正行為は断じて許せ無いのは当然ですが、実際にはその後も選挙の審判を受けて低下させながらも権力を維持している者も多いです。それはなぜでしょう?


一つは、不正の質と政治家としての公益性が天秤に掛けられ、清濁併せ呑むことを選んだからでしょう。もう一つは、選挙によってこれらの不正への審判を手に握っていると言う自覚が市民に有るので、こうした選択を自主判断とする納得が存在するからです。(大衆から高級までのジャーナリズムの果たす役割も大きい)


そこで気がつくのは、ここで基礎になっているのは、ヴァイマール憲章で起こったような、システムへのどちらかと言えば過剰な信頼感です。こうした信頼感は大変危険なので、絶えずシステムを検証して(飛行機の整備のように)鍛え直していく事が必要になります。カールスルーへの憲法裁判所への過剰な判断の委譲は、こうした政治気候が背景にあるからでしょう。


主旨である主体的・積極的を考察しますと、「議会制民主主義自体は最低のシステムであっても最もマシな選択」であるとする多肢選択である認識から、選挙民自体がそのシステムを壊すも育てるにも責任を負わされている自覚が同義となるのでしょう。』(2007/05/02 13:48) 


toxandoria 『pfaelzerweinさま、コール時代の不正政治資金問題などドイツの現状をお知らせ頂きありがとうございます。


それにしても、“選挙によってこれらの不正への審判を自らの手に 握っていると言う自覚がドイツの一般市民とメディアに有る”という現実は羨ましいかぎりです。そのような意味でドイツの民主主義は健全だと思われます。


今の日本では(実は、この点は同じ日本国民でも人によりけりの感じ方だとは思うのですが・・・)、“不正の質と政治家としての公益性を天秤で審決することそのもの”の意義についての自覚が希薄すぎるのではないかと思われます。別に言うと、これこそが“日本人の立憲主義の視点の欠落”(=基本法(憲法)の授権規範性の役割を甘く見すぎている)ということではないかと思っています。


政治家の不正についての該当事例を列挙するときりがなくなるというお寒い日本の現実があります。恐らく、国民もメディアも余りにも目まぐるしく政治スキャンダルが多発するため、それらとスキャンダラスな芸能娯楽ニュースとの区別がつかぬほど神経が麻痺しているのではないかと思われます。


また、時おり“間歇泉”のように噴出するのが「政治と暴力団(ギャング)」との“癒着の影”です。今回の長崎市長の銃殺事件でも共犯者がいたことが次第に分かってきており・・・・やはり、この事件もこのような“闇の支配の流れに逆らったことが事件の核心らしいこと”が次第に明らかになりつつあります。実際には、どこまで明るみに出るか定かでありませんが・・・。


更に、これは一部のメディアが時々取り上げていますが、“ギャング経験者”又は“ギャング世界と一般社会の仲介者”が「国政の領袖クラス有力政治家の選対責任者となって差配している」という現実もあります。国民の中に、このような異常な現実を容認する感覚が些かでもあるとすれば、もはや日本の民主主義は「平衡感覚」を維持できるだけのホメオスタシス機能を失っているのではないかと懸念しています。


つまり、日本の場合の問題の深刻さは、まさにこのようにリアルな“国政とギャングの癒着”が強く疑われるにもかかわらず、メディアも一般国民もこのような政治権力者に対して、更に基本法(憲法)を変えてまで「白紙委任状」(=主権にかかわる全権委任状)を渡そうとしている点(=ファシズム政治化への危機意識の欠落)にあると思われます。


イギリスでは、“国民の目線に立った一定の改革の実績”があるにもかかわらず、“イラクの失敗”に対するメディアと国民の厳しい審判が下されたため、ブレア首相が来週にも退陣表明を出すように聞いております。イギリスの政治・国民・メディアも健全であるようです。』(2007/05/02 16:32) 


toxandoria 『pfaelzerweinさま、追記です。


この記事で懸念した「日本の政治権力者に対して、更に基本法(憲法)を変えて「白紙委任状」(=主権にかかわる全権委任状)を渡す」ための橋渡しの動きが、予想以上に早く現実化しつつあるようです(下記、毎日新聞の報道を参照)。


このような動きを見ると、ドイツと日本の民主主義のレベルと質の違い(日本の右傾化、戦前レジームへの志向)が、ますます拡大しつつあることが分かります。恐るべきことです。


(毎日新聞/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070502-00000082-mai-pol、日本経済新聞/http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070503AT3S0200T02052007.html)ネット記事によると・・・


『自民・民主・国民新党らの保守系議員が憲法改正に関する独自提言を発表した』


5月2日、超党派の保守系国会議員で作る「新憲法制定促進委員会準備会」は憲法改正に関する独自提言を発表した。そのポイントは下記のとおり。


●象徴天皇制を維持はするが・・・


●そして9条1項の平和主義の理念も堅持はするが・・・


●天皇を元首として皇位継承にかかわる規則を憲法に明記し・・・(帝制復古か?)


●戦力の不保持と交戦権の否認を定めた2項を削除し、「防衛軍」を保持する


●これに先立つ憲法改正の要件は現行の「衆参各院の3分の2以上」を緩めて「5分の3以上」とする


・・・・・


一方、5月1日に安部首相はクウェートの空自隊員に“最高司令官”として下記のような“古式ゆかしい飾り言葉”で訓示を行っています。


(5月1日15時1分配信 時事通信 ネット記事、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070501-00000077-jij-pol)によると・・・


「私は、“日本国の最高司令官”として諸君が“イラクの青藍の天空を貫き”イラクの復興に引き続き大きく貢献してくれると確信している」


・・・・・


なお、”この記事で懸念した”ことの具体的内容は【下記の部分】です。念のため再録しておきます。


【 もう一つ見逃すべきでないのは、ドイツも「フランス革命」に相当する「ドイツ革命」(1918)で明確に重い歴史に繋がる帝制を政治的な次元から消滅させたということです。冒頭で述べたとおり、ナチス・ヒトラーはこの帝制を復活して自らが皇帝となるつもりであった訳です。この点に関して言えば、日本が進んできた道は「太平洋戦争を経験した戦後の日本」しかできなかったという意味で掛け替えなく世界中でもユニークなものです。それは「象徴天皇制の下での平和主義の徹底」ということですが、このこと自体は決して恥ずべきではなく、むしろ世界に向かって堂々と誇るべきこと(「象徴天皇制の下での平和主義の徹底」の原則に関する限り、それは現在のドイツ政治のあり方と全く同格・同等だという意味で)だと思われます。


しかしながら、仮に「国民の総意」が「ヤスパースの反省」のような観点を十分に理解できていたとすれば、そして立憲主義の意識が日本国中に満ちているとするならば一般国民の総意に基づいて「ドイツ型の憲法運用体制」へ移行することは形式論理的に(“人間の尊厳と歴史経験の一回性ということ”を無視して)捉える限りでは可能かも知れません。が、今のように政治家も一般国民も立憲意識がきわめて希薄(軽薄)な社会・政治状況のなかで「日本国憲法の授権規範性」を安易に緩めることは甚だ危険だと思われます。なぜなら、比喩的な意味で今のドイツが<歴史から真っ当な知恵を学ぶことが可能な「正統保守政治」>とするならば、日本の現況は<過去の歴史から何も学ばない「衆愚ポピュリズム政治」>だという違いが歴然としているからです。このような日本の社会・政治環境下で、これから“日本のヒトラー”(“帝制復古”を目論む! → より厳密に言えば、“無辜・中立の<皇帝>を担ぎ上げつつ、<権力亡者>自らが摂政または重鎮(御前会議的な取り巻き)として思う存分の実権を行使する擬装独裁体制”)が絶対に出現しないという保障はないのです。】


更にもう一つの懸念を述べれば、今回、憲法改正に関する独自提言を発表した自民・民主・国民新党らの有志保守系議員(彼らは正統保守のつもりらしいが、実態は決してそうではなく、むしろ彼らの心性は歴史から何も学ばないギャングの組員レベルに等しいという可能性が高い)を始めとする“美しい国を目指し青藍(せいらん/blueのことだが王政復古、万世一系国体論、特攻隊の悲劇などを連想させる用語)の天空を貫くつもりで前のめりになっている国会議員たち”は、この【〜 〜 〜】で指摘した問題点に気づいていない全くの戯(たわ)け者か、あるいはそんなことは百も承知の上で“衆愚政治に甘んずる日本国民”の油断と隙を狙って「ひたすら戦前レジーム型の王制復古=擬装独裁体制」を狙う確信犯であるか、いずれかの可能性が非常に高いということです。


このように見れば、この“確信犯の可能性が高い国会議員たち”は、日独両国民の主権にかかわる意識レベルの違い(=ドイツ国民一般の立憲意識の高さと比べた時の日本国民の立憲・主権意識の低さ、その民主主義体制の脆弱さ=国民自身が日本の民主主義の主人公であるという自覚の足りなさ)を意識的に悪用する可能性があるという意味で信用できぬ、まったく信頼するの値しないゴロツキかギャングの仲間のような人物たちです。』(2007/05/03 09:27) 


村野瀬玲奈 『toxandriaさん、こんにちは。親欧州ブロガー(?)として尊敬しておりました。コメントを書き込むのは初めてです。トラックバックありがとうございました。


欧州を多少は知る者として感じるのは、欧州の民主主義や人権尊重は制度と実践の分かちがたい結びつきに沿って発展しているということ。制度はあってもそれを骨抜きにしようと制度設計者が自己のみの利益のために画策しているという印象が、日本とはちがって欧州にはあまりありません。


もちろん欧州にも政界に脱法やスキャンダルはいくらでもあるのですが、(極右を除く)右派も立憲主義や民主主義や人権に対する最低限の尊重は持っているように思います。極右と支持層が重なり、私がフランスの有権者であったら絶対投票しないであろうニコラ・サルコジーも死刑には反対してます。数々の疑惑を抱えていたジャック・シラクも1995年7月16日、第二次世界大戦中のフランス警察によるユダヤ人狩りについて、初めて「フランス国家による誤り」だと認めていたわけです。


日本をかえりみると、日本の政治家はtoxandriaさんおっしゃる通りの状態ですから、日本国民の課題は日常生活の中から立憲主義意識、主権者意識をどう掘り起こしていくか、人間の尊厳を語ることによって人々の中にどう肯定的な感情を呼び起こすかということであるように思います。
これからもよろしくお願いいたします。』(2007/05/03 15:03) 


村野瀬玲奈 『それから、toxandriaさんの記事を私の秘書課広報室でも紹介させていただいておりますのでご了承もあわせてお願いいたします。』(2007/05/03 15:05) 


toxandoria 『村野瀬玲奈さま、記事のクローズアップとご紹介、そして懇切なコメントを頂きありがとうございます。


「人間性の尊重、立憲主義の意義、主権者としての自覚と責務」に関する日本人一般の意識の薄弱さについて危機感を持っている訳ですが、このような形で同様の思いを共有できる方々と共感できるようになるのは素晴しいことだと思います。


実は、多くの日本国民の日常的な感性の中には一種の“日本伝統の性善説のような感覚”が滲みこんでいると思われるので(平たく言えば、決して好戦的ではなく、穏やかで、良い意味での仲間意識を大切にする善人たちが多いと思われることです)、それほど険悪あるいは邪悪な人々が日本人の多くを占めているとは思っておりません。


が、だからこそ、ヨーロッパの成熟した制度に比べて遥かに未成熟な日本の民主主義そのものを「一定の世襲的な政治権力者側の都合だけで弄(もてあそ)んだり、あるいは信仰する狂信グループ(極右or暴力組織?)の狭く特別なン利益への橋渡しのために「王政復古レジーム」(=日本のアンシアン・レジーム)を利用するなどして、本来は「国家の第一の僕(しもべ)ならぬ宝」であるべき、これら善良な日本国民を“美しい国”や“青藍(せいらん)の天空”のような呪文で体よく誑(たぶら)かそうとする意図」は厳しく批判されて然るべきです。


<注>


「朕(ちん)は国家の第一の僕(しもべ)である」は、啓蒙専制君主(ヴォルテールらの啓蒙思想の影響を受けて、上から国家の近代化を図った君主)としてのプロイセン王・フリードリッヒ2世・大王(参照/当ドイツ・シリーズ記事『ベルリン編2、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070423』)のモットーであった。


近年の与党政治は、このような意味での横暴さ、傍若無人さが露骨に出てきており、対照的にマスメディア一般は“自己中心的に解釈した安泰な世の中”で自己満足的にまどろんでいるようにしか見えません。


更なる危機は、このような意味で健全なノーブレス・オブリージュ感覚を失った政治家・高級官僚・経営者・学者などのエスタブリッシュメント層が拡大傾向にあると思われることです。


その意味では、仮に現在の政権が予想外にあっけなく潰え去ったとしても、正すべき課題はその後に残(先送り)されると思われます。そして、日本の民主主義がヨーロッパの良い側面と反面教師的な側面の二つの局面からetwasを学びつつ、日本がより良い民主主義の成熟へ向かうことを願っています。


今後とも、どうぞよろしくお願いします。』(2007/05/03 18:46)

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