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タイトル:[参考情報]2007年春、ドイツ旅行の印象[マイセン編]  2007/04/29


[参考情報]2007年春、ドイツ旅行の印象[マイセン編]


<注>お手数ですが、この記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070428


ドイツの河川図(ウイキペディアより)
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エルベ河畔から望むアルブレヒト城(Arbrechtsburg)
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(二番目の画像はウイキペディアより)


この後期ゴシック様式のアルブレヒト城は、1471〜1524年にかけて建てられました。当初の設計を手がけたのは建築家アルノルド・フォン・ヴェストファリア(Arnold von Westphalia/ ? -1481)で、築城を命じたのは兄であるヴェッティン家(Hous of Wettin)・エルンスト系のザクセン選帝侯エルンスト(Ernst/1464-1486)と弟のアルブレヒト系のザクセン選帝侯アルブレヒト・ヴィッテン(Arbrecht Vetting/1486-1500)です。


実は、この城が完成する前にエルンスト系のザクセン選帝侯エルンストは、ヴィッテンベルク(Wittenberg/聖マリーエン教会(St.Marien Kirche、http://www.stadtkirchengemeinde-wittenberg.de/index.htm)があるマルティン・ルターゆかりの都市/シェークスピアのハムレットは、デンマークのクロンボー城(Kronborg Castle)に戻る前に、このWittenbergで学問に励んでいたことになっています)へ、アルブレヒトはドレスデン(Dresden)へ移っていたため彼らがこの城に住むことはありませんでした。しかし、1676年にアルブレヒト系のザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグ2世(Johann Georg 2/1656-1680)がこの城を修復します。そして、1710〜1864年にかけてヨーロッパで最古とされる「王立マイセン磁器工房」がこの城の中に存在することになります。


現在のマイセン市は、エルベ川河畔に位置する、特にマイセン磁器で世界的に有名な人口約3万のザクセン州の都市(マイセン郡(Landkreis Meissen)の郡庁所在地/ドレスデンの北西約25km)です。中世時代の都市マイセンは次第に発展して1316年には市参事会を持つに至っています。アルブレヒト城( Albrechtsburg)と隣接するマイセン聖堂( Meisener Dom)は、マイセンのシンボル的存在ですが、同じく後期ゴシックの市庁舎、聖アフラ教会などの古い建築物も見逃せない歴史的観光都市です。

 
磁器研究のためアルブレヒト城に幽閉された錬金術師ベドガー(国立磁器工房・掲示、説明図の撮影)
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18世紀初め頃までのヨーロッパには軟磁器(1200℃位までの比較的低い温度で焼成される)の技術しか存在しませんでした。このため、中国の景徳鎮の五彩磁器や日本の伊万里焼(有田焼)など東洋磁器の収集家であったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王、Friedrich Augst 1/1694-1733)は、1705年に19歳の 錬金術師のJ. F. ベドガー(Johann Friedrich Bedgar/1686-1719)に硬質磁器の開発・研究を命じ、漸く1709年にヨーロッパで最初の硬質磁器焼成を成功させました。この時から、機密保持のためベドガーはアルブレヒト城に幽閉(軟禁)状態となっています。


その翌年、アウグスト王はマイセンのアルブレヒト城内に「王立マイセン磁器工房」を創設して、ベドガーのもとで3年後にはカオリン(長石類岩石の風化によって生成される鉱物)を用いた白磁器の焼成にも成功し、1717年には染付磁器の焼成技術も完成させます。しかし、アルブレヒト城に軟禁され続けたベドガーは過度のストレスからアルコール中毒となり37歳の若さで命を落としてしまいました。


ともかくも、マイセン磁器の絵皿、テーブル・ウェア、置物などはロココ時代(1730年頃〜1770年頃のヨーロッパの美術様式/バロックからルイ16世様式への転換期にあたる様式/バロックの荘重・活気がロココでは典雅・軽快・優美へ変わる)の典雅な製作様式が受け入れられてヨーロッパ各地へ輸出されるようになります。


その後、マイセン窯は「七年戦争」(1756‐63)やアウグスト2世(1836-1854)の死去とともに一時衰退します。更にマイセンは幾多の盛衰期を経ますが、1864年に工場をアルブレヒト城から現在地であるトリービッシュタール(Triebischtal)へ移し、最盛期の様式を踏襲しながら今日に至るまでヨーロッパで屈指の磁器窯として高級磁器を製作しています。


国立磁器工房(Staatliche Porzellan-Manufaktur Meissen GmbH、http://www.meissen.de/)の光景
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マイセン市街の光景、アラカルト
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現在のザクセン州の一部であるマイセン地方は、中世ドイツの辺境伯領( Markgrafschaft )の一つで都市マイセンがあるエルベ川中流域を本拠としています。古くから、この地域はエルベ川を通じての通商の要衝であり、人口が比較的多く、葡萄栽培とワイン醸造、各種手工業が盛んで、南のエルツ山脈には多くの鉱山をもつ豊かな地域でした。


ザクセン朝・東フランクの初代国王ハインリヒ1世(Heinrich 1/位 919‐936)は、スラブ地方への出兵の時(928〜929頃)に、この辺りのエルベ川に面した丘の上に城塞を築きますが、この城塞は近くを流れるエルベの支流マイザ川(Meisa)に因みミスニー( Misni )と名づけられました。これが都市マイセンの名の起こりとされています。965年に神聖ローマ皇帝オットー1世(Otto 1/位 936‐973/ザクセン朝・第2代のドイツ国王)がマイセン辺境伯ウィグベルト(Wigbert )を任命したとされ、この城が築かれた丘は司教座ともなります。


そして、ザクセンとチューリンゲンを支配し、後にザクセン選帝侯となったヴェッティン家 がこの地方で興隆の基礎を築きます。ヴェッティン家は辺境伯領を世襲し、ここを拠点として領土を拡張します。やがて、1423年にフリードリヒ1世(好戦公、Friedrich 1/1422-1428)はザクセン公国(公爵領)とザクセンにおける初代選帝侯の位を獲得します。こうしてヴィッテン家は15世紀からザクセン選帝侯となり、その領土全体に対してザクセン公国の名称が使用されるようになります。


1485年、ヴィッテン家はチューリンゲン(現在のチューリンゲン州はザクセンの西隣で州都はエルフルト(Erfurt/ドレスデンから西方約190km/マルティン・ルターはエルフルト大学で哲学を学んでいる))を本拠とするエルンスト(兄)系統とマイセン地方を本拠とするアルベルト(弟)系統に分裂しますが、その後、アルベルト(弟)系統が1547年にエルンスト(兄)系統から選帝侯位とかなりの領土を獲得し、その後は分裂することがなかったのでドイツの中で最も豊かな先進的領邦の一つとして発展します。


(エピローグ)


[2007.4.25付toxandoriaの日記/妄想&迷想、ドイツ・ナショナリズムの反省]http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070425へのコメント&レスの転載


pfaelzerwein 


『Raetesystemは、ソヴィエトの翻意から正しいかもしれませんが、逐語的には赤色・共産主義でなく、評議・委員会システムです。これに言及するならばこれを議会制民主主義と対比させなければいけないでしょう。


その点からすると、1918年11月革命の結果が議会制民主主義の共和制へと止揚されたことは、大日本帝国の基本理念維持に影響していないのだろうか? 天皇機関説発案などへの影響だけでなく、これらの事象と国体思想変遷との関連で興味を引きます。


もう一つ現在の連邦共和国に言及すると、上記の評議制にも纏わる「職業政治屋の排除のため代議士等の複数回当選を禁止」を訴える緑の党の主張もあります。


また投票率の上昇は、政権交代や連立構想が多様化しない限り、一般的に政権政党に有利に働くだけでなく、国民投票などでは政府案可決への道を開くのは技術的に当然でないかと思うのです。


そうした状況では、議会制民主主義の数の論理は、評議システムに比べてのその利点を失う。すると選挙制度や議会制民主主義は、その実機能しない機構だけのものに留まり、その国家の枠組みも含めて、絶えず考えて行く価値がありそうですが、如何でしょう? 』 (2007/04/27 14:09)


toxandoria 『pfaelzerweinさま、コメントありがとうございます。


ドイツで、「職業政治屋の排除のため代議士等の複数回当選を禁止」を訴える緑の党の主張があることは大変に興味深いことです。


大なり小なり政治とは代議士等の複数回当選によって地縁・血縁などの権益を保守しようとするダイナミズムが付き纏うものだとは思いますが、今の日本の状況はあまりにも異常(異様?)過ぎると思っています。


具体的に言えば、それは地縁・血縁・金縁・学縁などの繋がりのレベルを超えて「寄生・特権構造化」していることです。このことに不感症となってしまったメディアと過半の国民の“常識”(現実直視・論理・相対・客観・俯瞰・微視の視点の喪失)が問題だと思います。


従って、この「寄生特権化」のコピーが殆んど野放し状態で日本社会の凡ゆる構造の中で一定の割合を保ちつつ再生産され、複製され続けています。ここでは小泉劇場・安倍劇場などの「劇場型ポピュリズム政治」の効用が暗黙に利用されているようです。


目先の経済が少し上向きなので、小泉劇場の“構造改革”の成果が現れたという“常識論”が広がりつつあるようですが、このような観点からすれば、それは“改革”ではなく“擬装 or カムフラージュ or  巧妙な転嫁”だったと思われます。


正確な数字は持っておりませんが、ザッと数えるだけで与党だけで少なく見ても約150人程の世襲政治家(二、三代以上)が存在するようです。野党でもかなり多いと思われる上に、今後も、このような「政治の職業としての寄生化傾向」は蔓延るばかりと思われます。


ここに現代日本の大きな「危機の芽」(我われの自身のなかからヒトラー的な部分を呼び出す可能性)が潜伏しているように思われます。


つまり、それはヒトラーのホロコーストはもとより、それから遥かに遠ざかる14世紀にペストの猛威に怯えたヨーロッパの人々(民衆)がユダヤ人を自らの妄想がもたらす怨念(ルサンチマン)の生贄にしてしまった悲惨な歴史とイメージが重なります。


一 言でいうなら、これは「日本社会の腐敗」又は「日本社会の自家中毒」です。別に言えば、これは議会制民主主義への日本人の根本的な誤解であると思われます。我われ日本人の多くは、今も欧州の価値観と基本法(憲法)の根本を構成する “社会的”(かつてルソーが高々と掲げた)という言葉の真意をスッカリ忘却してしまったようです。


“戦後レジームからの脱却”を掲げる今の日本の姿、それを具体的に言うなら“対覇権諸国及び家門・一族郎党の利益に直結する勢力へは配慮を見せつつ対弱者等国民一般へ威圧的に臨むその姿”は、ヒトラーどころかビスマルクの「汎ゲルマン主義時代」から更に一気に歴史を遡る「金印勅書」(Die Goldene Bulle/1356年)発布直後の時代を、つまり“二枚舌、三枚舌に明け暮れたカール4世の家門権力拡大政策”時代の神聖ローマ帝国(≒ドイツ/14世紀)を想起させてくれます(このパラグラフはエピローグのために追記)。』

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