メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[Intermission]妄想&迷想、ヒトラー的なものについて  2007/04/21


[Intermission]妄想&迷想、ヒトラー的なものについて
2007.4.21


<注>お手数ですが、このこの記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070420


正義を量る天秤『リブラ』(libraのラテン語・イタリア語読み、英語ではライブラ)、フランクフルト、レーマー広場にて
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ドイツのどこかで飲んだリースリング(白ワイン)
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ヒトラーの生誕地、オーストリアのBraunau am Innの街並み(ウイキメディアより)
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・・・上の画像(三つ目のBraunau am Innを除き)は今回のドイツ旅行で撮ったものですが、当記事の内容とは“殆んど”関係がありません。


・・・・・・・・・・


『 1938年3月、ヒトラーはオーストリアの合併を行った。オーストリアでは保守派の首相シュシュニックがムッソリーニ独裁下のイタリアに近いファシズム体制をめざし、議会制を否定しつつナチスをも排除するという独特の方法でヒトラーに抵抗したが、ヒトラーはその抵抗を捻じ伏せてオーストリアを合併した。


しかし、この時のオーストリアではこの合併を否定するよりも歓迎する人々の方が圧倒的に多かった。1938年9月に行なわれた国民投票では、なんと99.9%のオーストリア国民が賛成に回ったとされている。ヒトラーは、「ミュンヘン一揆」の失敗での獄中で書いた『わが闘争』の冒頭で「ドイツ=オーストリア合併」の自らの歴史的使命について熱烈に語っているが、漸くここで、その使命が達成されて「大ドイツ帝国」が出現した。 』


・・・以上、『〜 〜 〜』は下記(◆)を下敷きとしつつ部分的に加筆したものです・・・


◆坂井栄八郎著『ドイツ史10講』(岩波新書)p192-193、ヴェルサイユ条約の「修正」


●“1938年9月に行なわれた国民投票で99.9%のオーストリア国民がナチス・ドイツによる併合に賛成した”という事実は驚くべきことに見えるかも知れませんが、これこそが“我われ自身の中にあるヒトラー的な成分”から目を逸らすような油断をすべきではないということ”の例証だと思われます。


●その意味するところは、既にhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070418の中で書いていますが、特に関連がある部分だけを下に再録しておきます。


『 考えてみれば、「美と醜の間」にも「善と悪の間」にも明快な区切りはあり得ないはずです。敢えていうならば、それは流体化した成分の緩慢な分布のように捉えどころがないものであり、だからこそ、そこには「ヒトラー的なもの」がヒッソリと隠れているのではないかと思われます。しかも、それこそが我われ人間も含めた“生命のリズムの実相”ではないかと思われてきます。


従って、我われは「美と醜」ないしは「善と悪」の審級のために必要な“粘り強い意志に基づく永遠の対話”及びそこで体験する“その都度の一回かぎりの意味体験を重視するという習慣”を身につける必要があります。これは、民主主義国家としての国民教育の根本でもあると思われます。


それは“我われ自身の中にあるヒトラー的な成分”から目を逸らすような油断をすべきではないということです。そのためには我われもヒトラーも同じ性質、同じ成分、同じ感受性を持つ人間であることを理解することが大前提となるはずです。我われは、“ウヨだ、サヨだ、ワシズムだ”の類の記号言語的なレベルの議論から早急に抜け出さぬと手遅れになる恐れがあります。ヤスパースの言語哲学流に言うならば、“美しい国”などという意味不明な「記号言語」でお遊びをしている閑はないのです。


今、わが国では嘘と偽善と厚化粧のゴシップなどで塗り固められたテレビ・新聞・雑誌などのマスメディアよりも口コミ的なインターネットに信用をおく人々が増えつつある一方で、グローバリズムの深化と経済格差拡大などを背景とする深刻な凶悪犯罪の多発、批判勢力としての左派勢力の没落、議会政治に対する国民の失望などの諸条件が、我われ一人ひとりの内心で「ヒトラー的成分」を凝固させつつあるように思われます。 』


●また、同じことについて、ドイツ在住のpfaelzerwein氏はhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070417に対するコメントの中で次のように述べております。これは、これらの多発する凶暴がもたらす悲劇をただ局所的な事件と見做すだけでなく、このように凶悪なテロ行為が多発し続ける社会環境問題の根本についての考えを、より深めようとする習慣が現代の多くの日本人の内心から急速に失われつつあることへの警告と捉えるべきです。


『 この話題をヤスパースなどに関連させて、今回の米国や長崎の銃撃事件を見ますと、市民自らの存在の問題としてみなければいけないでしょう。直ぐに平和的な意味で行動に示さなければいけない事象であり、これに比べれば直接国民投票などは遥かに下位に位置するものでしかありません。その生存のシステムが危機に面している訳ですから。


こうしたものの温床を許す土壌では、残念ながら「現世解脱」はその平行関係にあり、尚且つ「絵に描いたような美」も観念的な虚構に、「調和の美」も刹那な心象に留まるのでしょう。


要するに、こうした蛮行に対して、自らの存在を自らの社会に投影させないとすれば、その存在そのものが確立されないこととなります。社会において市民の所見が行動として現れないとすれば、その市民社会も虚構でしかないのでしょう。自然美も人工美もその存在が危うくなるところです。 』


(注記1)ヒトラーのミュンヘン一揆について


1923年11月8〜9日、政権奪取をめざしてヒトラーがミュンヘンで起こした一揆のことです。武装した600名の突撃隊員とともにヒトラーはミュンヘンのビアホール(ビュールゲルブロイケラー/Buergerbraeukeller/このビアホールの建物は現存しない)に突入し、そこで演説中のバイエルン州総監グスタフ・フォン・カールとその側近たちを捕え、 ルーデンドルフ将軍をともなって、グスタフ・フォン・カールの名で国民革命を宣言し、ドイツの新政府樹立を宣言しました。しかし、この一揆(クーデタ)は失敗し、ナチス党は解散させられたうえヒトラーは裁判にかけられることとなり、1924年4月に5年の要塞禁固刑を言い渡されます。


(注記2)ファシズムについて


ファシズムの語源はラテン語のファスケス(fasces)で、それは共和制ローマの統一シンボルである「束ねた杖」のことです(参照/ 下記画像)。ここから、ファシズムの特徴は過去における国家の栄光と民族の誇りのようなものを過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化する、つまり一定の目標に到達した「美しい国」を熱烈に希求する、ある種の強烈なロ マンチシズム的情念であることが理解できます。注意すべきは、いつの時代でもこのような意味での情念は人間であれば誰でもが普通に持っているという現実です。


また、ファシズム (fascism)という言葉が生まれたのはムッソ リーニを指導者とする「イタリア・ファシズム運動」の台頭によるものです。ヒトラーのナチズムは、このイタリア・ファシズム運動の刺激を受けたと考えられます。しかし、ムッソリーニのファシズム運動にはナチズムのような余りにも激しすぎる人種差別主義は見られません。それどころか、1930年代の初め(ドイツがジュネーヴ軍縮会議と国際連盟を脱退した)ころにドイツを訪ねたムッソリーニは“ドイツは狂った人種差別主義者が作った収容所だ”と言ったとされています。


共和制ローマの統一シンボルfasces
[f:id:toxandoria:20070420213510j:image]http://www.legionxxiv.org/fasces%20page/より


●なお、米国の「銃社会」の根底にあるリバタリアン(リバタリアニズム)の「客観主義哲学」についても注視する必要があると思われます。これも、見方によってはヒトラー的なもの(=ヒトラー的な性質の暴力の芽)といえると思われます。このため、古い記事になりますが下記(◆)の内容を“そ(2005-03-26付)のまま”以下に再録しておきます。アメリカ社会では、少なくとも過半を超える人々がこのリバタリアニズムの影響を今も大きく受けているという現実を忘れるべきではないでしょう。


●アフォーダンス理論に言及するまでもなく、視覚をはじめとする人間の知覚は、脳内で立てた仮説から実像(=確固たる認識)を組み立てるという作業を繰り返しているはずです。従って、人間は生きる限り、この作業を繰り返さなければならないのです。生きた人間である限り。これで森羅万象の真理を究めたということにはなり得ないはずです。それが“生きる”ということの意味ではないかと思われます。


●このような前提からすればファシズムのように“過去における国家の栄光と民族の誇りのようなものを過剰なまで誉め讃え、それをこの上なく美化し、遂には「美しい国」のような“ヤスパース流で言えば無味乾燥な『記号言語』で国民(人間)の未来の精神環境を縛る”のは極めて危険なことです。敢えていうならば、そのようなものに取り憑かれた人間は命を失ったも同然なのです。


●つまり(これは直前の記事(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070418)でも書いたことですが)、我われは「美と醜」ないしは「善と悪」の審級のために必要な“粘り強い意志に基づく永遠の相互批判的な対話”及びそこで現実的に体験する“その都度の一回かぎりの意味体験を重視するという習慣”を身につける必要がありそうです。そして、このような心的態度と習慣を身につけさせることこそが民主主義国家としての国民教育の根本でもあると思われます。


<付記>


4月22日に第1回投票が行われる、注目のフランス大統領選挙ではサルコジ国民運動連合(UMP)総裁とロワイヤル元環境相(社会党)が接戦(1、2位)となり、決選投票に進むだろうとの見方が支配的です。そして、テレビ・新聞などの各メディアは「サルコジ=米国型市場原理主義、ロワイヤル=フランス伝統の社会主義」の対立構図のいずれをフランス国民が選ぶかというパターンを煽って、この選挙の行方を面白おかしく解説することにやっきとなっています。


しかし、仮にサルコジが新フランス大統領に選ばれたとしても「フランス→完全な米国型市場原理主義の国」の変化(日本と同じように?)が劇的に実現される訳ではないという本質を的確に押さえておくべきです。フランスが大統領しだいでフランスの伝統的な価値観をかなぐり捨ててアメリカと同じになるなどということは起こりえないことです。同じアングロサクソン系の「ブレアのイギリス」でさえ、アメリカ型の市場原理主義とは一線を画しているのが現実です。


・・・・以下は、リバタリアニズムに関する記事(toxandoriaの日記)の再録・・・・


◆2005-03-26付toxandoriaの日記/作家アイン・ランド、米国ユニラテラリズムのもう一つの『源流』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050326


『 今まで日本では殆ど知られていなかったアメリカの女流作家であり政治思想家でもあるアイン・ランド(Ayn Rand、本名Alisssia Zinovieva Rosenbaum/1905-1982)の翻訳・刊行されたばかりの小説、『水源』(アメリカ文学者・藤森かよこ訳、原書名The Fountainhead、1943)と『肩をすくめたアトラス』(同訳、原書名Atlas Shrugged、1957)が注目されつつあります。アイン・ランドは、ミーゼス(L.E.von Mises/1881-1973/オーストリアの経済学者、社会主義経済システムを徹底批判した)、ハイエク(F.A.von Hayek/1899-1992/オーストリアの経済学者、後にシカゴ大学でM.フリードマンらの師となる)、M.フリードマン(Milton Friedman/1912-  )と並び、自由市場原理主義経済を主張する超個人主義的な自由主義(超自由原理主義、リバータリアニズム/Libertarianism/なお、同じ語幹・Libertyから派生したLibertinismには宗教と政治の関係における自由原理主義という意味のほかに放蕩・乱交・同性愛の意味がある)の提唱者の一人として知られる人物です。


 彼女はユダヤ系ロシア人としてサンクト・ペテルスブルグに生まれましたが、ロシア革命後の混乱を避けて1926年にアメリカに単身亡命し、生活苦と闘いながらハリウッドでシナリオ作家をめざし、漸く1943年に小説『水源』を発表して注目を浴びることになります。更に1957年に出版された『肩をすくめたアトラス』によって文名を確立し、それ以来、これらの二大長編小説は、アメリカの知的な若者たちにとって必読書となり、アメリカの一般国民の精神にも大きな影響を与え続けているということです。


 日本では、政治学者など一部の人々を除きアイン・ランドはほとんど知られていなかったようですが、日本アイン・ランド協会(http://www.aynrand2001japan.com/index1.html)の情報によると、彼女の小説を貫く政治思想の根本には「客観主義」(Objectivism)と名付けられる個性的な哲学が存在します。これらの小説の文学作品としての評価はともかくとして(国語力の問題もあるので・・・)、同協会等の説明を手掛りにこの「客観主義哲学」のエッセンスを抽出してみると次のとおりです。 


▲社会など或る集団の上に立ち、人々の上に君臨する「共通善」なるものは「偽善」に過ぎない 
▲歴史的に見ると平和主義・博愛主義・利他主義の宣言によって行われた革命の行く末は血の海であった 
▲他人に対して行い得る唯一の「善」は「触れるな!干渉するな!」ということである
▲人類の歴史は、人間が独創(創造)したものを自然に対して付け加えることで進歩してきた
▲この人間の独創は“良きものを創造したい”と願う人間の「個人的欲望」から生まれる
▲自分中心主義は「偽善に満ちた利他主義」より優れている 


 この「客観主義」の哲学は、最も過激なリベラリズム(超自由原理主義=リバタリアニズム)の言わば啓典のような位置づけとなっており、アメリカではアイン・ランドの死後から現在に至るまで「ユダヤ教徒右派のサロン」や複数の「ランド教徒カルト集団」(Ayn Rand Cult)と呼ばれる形で離散と集合を繰り返しながら踏襲されています。また、このような形で隠然たる勢力を持つアイン・ランドの「客観主義」信奉者(ランディアンと呼ばれる人)たちが、ネオコン一派やキリスト教原理主義者とともに世界の声の大勢を無視して「イラク戦争」に踏み切ったブッシュ政権の「ユニラテラリズム」(米国一国主義)を後押ししていることが容易に理解できます。 


 「テキサス・政治学留学生活(日記)」(http://members.aol.com/mnkctks/)というHPの筆者は2004年3月3日付の日記で、米国アイン・ランド協会での勉強会へ参加した体験を次のように紹介しています。


<注>現在、このhttp://members.aol.com/mnkctks/はリンク切れとなっています。


・・・(以下は同HPの一部の抄録)・・・


アイン・ランドは危ない右翼として知られ、一部の支持者はカルト化している。しかし、アインランドは未だにアメリカ人全体の思考様式に影響を与えている作家である。今回はオハイオ州の大学の歴史学の教授を招いてのレクチャーであった。テーマは「The Failure of Homeland Defense Lessons from History」で、 国土防衛のあり方についてギリシア、ローマ、アメリカ南北戦争からの例をとりつつ、それにアイン・ランドの哲学である「客観主義」の立場から解釈を加えるというものであった。大切なこととして、「自らの利益を的確に把握する」、「国土の外を防衛しようとしてはいけない」ということが強調された。それでは、イラク占領反対か!?と思いきや必ずしもそうではなく、アメリカは必要ならばどこへでも兵力を派遣する権利をもっている、と主張する。


そして、それによって例えば外国を攻撃し、その国土を荒廃させたとしても、利害を見出さない限りその国の復興を支援する義務は無いということであった。それは例えば、アパートの自分の部屋の隣にマフィアが住んでいて自分の命が脅かされている場合、その脅威を取り除く目的でそのマフィアの部屋に乗り込んでマフィアを殺したとして、そのマフィアの残された妻子の面倒を見る義務は自分には無いというのと同じことであった。つまり「自らの利益を的確に把握」し、必要とあれば他国を攻撃する一方で、その後は利害も無いのに「国土の外を防衛しようとしてはならない」ということである[注1]。このような主張がアイン・ランドの「美徳としての利己主義」という観点から正当化される訳である。


さすが右翼である。とはいえ、ブッシュの考え方にも異議は大いにあるようで、ブッシュが「自由は神からの贈り物だ」という主張(これはキリスト教原理主義者の主張!)に対しては「(本当の)自由は政治的概念だ!」と反論している[注2]。またイラク占領に関して、日本占領とオーバーラップして考えている部分があるようで、イスラム原理主義者の自爆テロを神風特攻に対比させてみたり、民主憲法と宗教的な政府は相反しないことを説明するのに、神道の神としての天皇が日本国憲法に組み込まれた例を挙げたりしていた。このようにイラク占領を「ジャパンモデル」としてとらえる立場は、日本史学者ジョン・ダワー(John W. Dower/1938− /アメリカの歴史学者、MIT教授)によってことごとく批判されているが、案外アメリカ人の平均的な考え方としてはこういう感じなのであろう。・・・ 


 この日記の文章は、驚くべきほど的確にアメリカでのアイン・ランドの影響の大きさを捉えています。例えば[注1]の部分を言い換えると、“その外国の防衛をタダでやる必要はない”ということであり、ここには「日米安保条約」や「イラク戦争」におけるアメリカ人の“偽善的な本音”が述べられています。また、[注2]の部分で述べる「自由」の概念は“<自由の権利>をマキャベリズム的な政治の<道具>にする”ということであり、これは正にカルト的な狂気の信念であるとさえ言えるでしょう。それは、徹底的な利己主義(自己中心主義)を前提としつつ自分の欲望にすべての価値を収斂するということであり、異常な「欲望原理主義」と表現することもできます。さらに厳しく言えば、これは“犯罪心理学”か“精神病理学”の対象とさえ言えるのではないでしょうか? 


 ところで、ハーバード大学・哲学科のジョン・ロールズ(John Rawls/1921-2002)とロバート・ノージック(1938-2002)の「正議論」は、アインランドの「客観主義」や「リバタリアニズム」と全く立場が異なります。ロールズ、ノージック両教授の亡き後、ハーバード大学の「正議論」研究はチャールズ・テイラー教授(哲学科)とマイケル・サンデル教授(政治学部/公共哲学科)らによって引き継がれています。彼らの研究の特徴を列挙すると下のようになります。これらのテーマを見て驚くのは、ハーバード大学の「正義論」は明らかに現在の米国政府が押し進めるユニラテラリズム政策、環境政策などを真っ向から批判する立場であるということです。ブッシュ政権は、好戦的・差別主義的な「ネオコン」や「キリスト教原理主義」あるいは「客観主義の哲学」(ランディアン)に引きずられていますが、このハーバード大学の「正議論」は、まだまだアメリカの「精神環境」が健全であることを知らせてくれます。 


▼文化の差異や多様性を擁護する
▼異なった文明間の哲学的対話を志向する
▼多元的な民主主義思想のカギとして17世紀オランダのスピノザ哲学を見直す
▼グローバル市場原理主義に対抗するため「聖なるもの」と「公共性」の再結合とバランスを模索する
▼内向型研究でなく発信・交流型の研究を志向する
▼環境倫理、環境的公正、開発と環境など、正義論と環境問題を一体的な視野に入れつつある 


 このようなアメリカの健全な「知の伝統」の本流に加えて、隷属的で“特殊な日米談合の知の枠組み”(ジョン・ダワーは、このことをスキャパニズム(SCAP=連合軍司令部と日本政府の談合体制)と呼んでいる)を超えた歴史・政治学等の研究者たち、例えばキャロル・グラック(Carol Gluck/コロンビア大学教授)、テッサ・モーリス=スズキ(Tessa Morris-Suzuki/オーストラリア国立大教授)、ハリー・ハルトウーニアン(Harry D. Harootunian/シカゴ大学教授)等の、現役で活躍する「本格的な欧米の知」を日本の学会やマス・メディアが本気で受け入れる必要があると思われます。また、様々な「近代知」そのものの矛盾を抉ろうとするカルチュラル・スタディーズやフランクフルト学派のような欧米の伝統的「批判知」の研究についても、日本政府(文部科学省等)、学会及びマス・メディアは自らの誤謬に満ちた固定観念と偏見を取り払うべきです。カルチュラル・スタディーズやフランクフルト学派を引き合いに出すや否や、未だに“サヨクだ!マルクス主義者だ!”という全くお門違いの声が沸き起こるほどの“低劣なドグマの姿”を垣間見せるのが日本のアカデミズム周辺の現実です。



 未知のアメリカのリバタリアニズムの教祖(アイン・ランド)を積極的に紹介することで、アメリカ文化の多様性とアメリカン・ドリームあるいはユニラテラリズム(米国一国主義)の『源泉』を多くの日本人が理解することも大切だとは思います。しかし、未だに18〜19世紀の「啓蒙思想」でさえも大方の日本国民は正しく理解しているとはいえないのです。このことは、日本の国政選挙の度に見られる、異常なほど低い投票率にハッキリと現れています。ここには「国語力の問題」という、日本人にとって特有の“民主主義にまつわる慢性病”が存在します。このため、多くの日本人がアイン・ランドを曲解してカルト色に染まったジャパニーズ・ランディアンが雨後の竹の子の如く増加する怖れさえあります。今、終盤戦を迎えたアメリカの大統領選挙では“(自分の頭で考えて)選挙に行かない奴は死んじまえ!”という過激なテレビ・キャンペーンが行われていますが、アメリカにおける、このように過激な啓蒙の手法は大いに参考とすべきでしょう。 』

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