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タイトル:[参考情報]2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編1]  2007/04/19


[参考情報]2007年春、ドイツ旅行の印象[ベルリン編1]
2007.4.19


(当記事の周遊都市:Berlin、Kleinmachnom bei Potsdam、Potsdam)


<注>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070418


■ベルリン中心部の俯瞰図
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■(博物館島/Museumsinsel)


◆ベルリン、博物館島の俯瞰図、案内板
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首都ベルリンは、ドイツ東部のシュプレー河畔に位置し約750年の歴史をもつドイツ最大の都市(人口、約350万人)ですが、1990年10月の東西ドイツ統合後に本格的な美術都市の個性づくりに着手しています。


19世紀にプロイセン王国の王宮があった地域、つまり「博物館島」と呼ばれる地区(分断時代は東ベルリンに属した)はベルリン大聖堂、市庁舎などが点在するベルリンの中心地でした。1830年にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の命によって旧博物館が開設されてから、1世紀以上もの歳月をかけて整備されてきたものです。


この「博物館島」(Museumsinsel)は、ベルリン市内を流れるシュプレー川の中洲で、この北半分にペルガモン博物館、ボーデ博物館 (Bodemuseum)、旧国立美術館 (Alte Nationalgalerie)、旧博物館 (Alte Museum)、新博物館 (Neue Museum) の計5館(いずれも国立)が集中しています。


英仏に対抗するため、プロイセン王国とドイツ帝国は威信をかけてこの大事業に取り組みました。ところが完成するやヒトラー政権の特異な美術政策による美術品の選別・没収・売却、第二次世界大戦による建物や作品の損傷・破壊・散逸、その後の東西ドイツの分断による混乱などの厳しい試練に晒されることになります。 


しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌年、東西ドイツが統合すると東西の博物館に半世紀近く分散されていたコレクションの全貌が 明らかになったため、それらの統合計画が始まります。大きく見れば、ここには先史時代から19世紀までの約6千年以上に及ぶ人類の文明史を形成する作品が集積しているため、「博物館島」は1999年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。


現在、「博物館島」は2015年の完成に向けて未完部分の修復・再建が進められていますが、すべてが完成するとパリのルーブル美術館、イギリスの大英博物館などと肩を並べる膨大なコレクションの「美の殿堂」が甦ることになります。


◆ベルガモン博物館(Pergamonmuseum、http://www.smb.spk-berlin.de/smb/sammlungen/details.php?lang=de&objectId=3) 
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ベルガモン博物館は「博物館島」にある最大の建築物で、1930年に完成したものです。所蔵の美術品は第二次世界大戦中には疎開のため西ベルリンのダーレム美術館(Dahlem Museums/現在、ここには古代アメリカ、オセアニア、アフリカ、南アジアなどの民族美術が所蔵されている)など各地に分散していました。今のペルガモン美術館には、ペルガモン出土の「ゼウスの大祭壇」を含む古代ギリシア・ローマ美術(古都ミレトスの市場門ほか)をはじめ中近東の古代美術(古都バビロンのイシュタル門と通りの復元ほか)、イスラム美術(8世紀から19世紀のイスラム美術の変遷ほか)、東アジア美術などが収められています。


◆ボーデ博物館(Bode Museum、http://www.museumsinsel-berlin.de/index.php?lang=en&page=2_5_1)
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ボーデ博物館は皇帝フリードリヒ博物館として1904年に開館し、その後、開館当時の館長Bodeにちなみ1956年に「ボーデ博物館」と改称されました。ドイツ国内では最大級のコレクションを誇っており、中世ヨーロッパ彫刻、ビザンチン美術、コイン・コレクションなどを所蔵します。


◆旧博物館(Altes Museum、http://www.museumsinsel-berlin.de/index.php?lang=en&page=2_2_1)
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1830年、ベルリン博物館島の中で最初に建設されたのが、このAltes Museumです。プロイセン王室の美術コレクションを初めて一般に公開した博物館として有名になりました。この建物は、ドイツ古典主義建築の代表者とされる建築家シンケル(Karl Friedrichi Schinkel/1781-1841/ロマン派的な風景画家でもある)が設計した古典主義建築の傑作の一つです。ギリシャ・ローマ美術を収蔵していますが、現在は改築中であり2015年に完成予定です。


◆旧国立美術館(Alte Nationalgalerie、http://www.alte-nationalgalerie.de/)
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Alte Nationalgalerieは、ベルリン有数の銀行家であったヴァーゲナー氏のコレクションを基に1876年開館しました。このギリシア神殿風の建物は2001年に再建されたものです。当館はドイツ最高峰の19世紀西洋美術コレクションを誇っており、フリードリヒ、シンケルなどドイツロマン派の作品のほかにモネ、ルノワール、ドガなど印象派の画家の傑作があり、彫刻ではラウホ(Christian Rauch/1777-1857/ドイツの彫刻家)、ロダンなどを収蔵しています。


◆新博物館(Neues Museum、http://www.museumsinsel-berlin.de/index.php?lang=en&page=2_3_1)
Ruine des Neuen Museums 1984, Blick in den S醇・kuppelsaal、Wikipediaより
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元の建物は、シンケルの弟子シュトゥラーによって旧博物館の次に建てられ1850年に一部開館したものです。しかし、第二次世界大戦で大きな損傷を被ったため、現在は修復中であり、完成は2009年の予定です。古代エジプトとヨーロッパ先史時代の美術品・考古品などが収蔵されています。


■その他の美術館・博物館


ベルリンには、この他にも見るべき施設が数多くありますが重要なものを二つだけ取り上げておきます。


◆国立絵画館(Gemaeldegalarie)
GemaeldegalarieのHP、http://www.akademiegalerie.at/より
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この美術館は1998年6月に開館したベルリン最大の美術館で、その向かい側にはベルリン・フィル(Berliner Philharmoniker)の本拠「コンサートホール・フィルハーモニー」、楽器博物館、美術工芸博物館などが集まっているため、このポツダム広場(Potsdamer Platz)の西側一帯は「文化フォーラム」と呼ばれています。ブリューゲル、レンブラント、ボッティッチェリ、フェルメールなどの作品が、ダーレム美術館(Dahlem Museums/http://www.museum-location.de/dahlem.htm)や旧国立美術館(Alte Nationalgalerie)などからこちらに集められたため、ここでは十分に余裕がある広い空間の中でイタリア、フランドル、オランダ、フランスなどの傑作をまとめて鑑賞することができます。


所蔵作品の中からフェルメール(Johannes Vermeer/1632-1675)の作品を取り上げておきます。


『真珠の首飾りの女』 ca1664 「Woman with a Pearl Necklace」 Oil on canvas. 51.2×45.1cm Staatliche Museen zu Berlin、 Gemaldegalerie、 Berlin、 Germany
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この絵はフェルメールの全作品(とはいっても、いま存在するのは37作品のみ)の中でも最高傑作の一つとされています。左側の方から射す光が室内で多様に反射するモチーフはフェルメールの他の作品(例えば「青衣の女(Woman in Blue Reading a Letter/Rijksmuseum、Amsterdam)」)と共通しますが、室内を眩いばかりの明るい金色の光が満たしているのは唯一この作品だけです。


近年、フェルメールの絵画には想像以上に多くの寓意が隠されていることが分かってきていますが、この角度から有力視されているのは「真珠の首飾りの女=受胎告知」説です。受胎告知という特別の奇跡の瞬間をフェルメールが創作した静寂な絵画空間の中に固定したという訳です。


なお、受胎告知図のアーキタイプはゼウスに見初められ身ごもったダナエ(ギリシアのペロポネソス半島にあったとされるアルゴス国の王アクリシオスの娘)の逸話とする論がありますが、そこでゼウスは黄金の光となってダナエの全身に降り注いでいたことが想起されます。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」(イタリア・フィレンツェから東京国立博物館へ来日中/参照、http://www.leonardo2007.jp/)と見比べると想像力が豊かに広がってくるはずです。


『ワイングラスを持つ娘』 ca1659-1660年 「The Glass of Wine」 Oil on canvas. 77.5×66.7cm Staatliche Museen zu Berlin 、Gemaldegalerie、 Berlin、 Germany
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Gemaeldegalarieの同じ部屋にある『ワイングラスを持つ娘』は、『真珠の首飾りの女』より前の、フェルメールのより若い時代の作品と見做されています。そして、この絵にも様々な寓意が仕掛けられています。例えば、手前の椅子の上に横たわる楽器(愛の小道具とされる)は男女の愛を意味しており、光が差し込む左側のステンドグラスには馬を操る道具(過度の飲酒と性愛に対する戒めの意味)が描かれています。


しかし、画面全体を覆う静謐なフェルメールの絵画空間から伝わるものは、これら伝統の小道具類が示す直接的で生々しい人間ドラマではありません。この辺りの飛躍がフェルメール絵画の謎とされるところであり、これを17世紀オランダで流行ったヴァニタス画(Vanitas/人生の儚さ、時の移ろい易さの象徴とし描かれた寓意画)の一種だと単純に見做すことはできないようです。


◆マルティン=グロピウス美術館
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これはマルティン・グロピウス・バウという美術館です。しかし、厳密に言えば元・国立装飾美術館でしたが戦争で全壊し、その後に復元されて今は展示会場として使われているものだそうです。その場所はポツダム広場から東南へ約4〜500mです。


この建物を設計したマルティン・グロピウス (Martin Gropius/1824-1880) は19世紀ドイツの建築家で、バウハウス(1919年、工業技術と芸術の結合を目指してワイマールに創設された総合造形学校兼研究所/パウル・クレー、モホリ・ナギ、カンディンスキーらが教授陣に加わったが、後にナチスによって閉鎖された)の初代校長となった建築家 ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius/1883-1969)の大伯父にあたる人物です。


なお、このすぐ南側には「一部残されたベルリンの壁」を挟んで「Topography of Terrors」(恐怖政治の地誌)と名づけられたナチスの凶暴な爪痕を忘れないようにするためのメモリアル施設があります。また、この辺りはかつて「ナチス党本部」があったところでヒトラーは、そこで自殺したことになっています。


<注>「Topography of Terrors」などについては後述します。


[付記1]  ヒトラーの「頽廃美術」(Entartete Kunst/Degenerate Art)について


1933年に政権を獲得したヒトラーは、大方の前衛的と見做す芸術を政治的・文化的なアナーキーであるという理由で抑圧・追放する方針を打ち出します(この年は、古代エジプトのピラミッド建設に倣ってアウトバーン建設事業が開始された時でもあります)。同年3月、国民啓発・宣伝担当大臣となったゲッベルスはナチスの文化統制を強化し、ユダヤ人の美術館員追放、近代美術の押収、押収作品のみせしめ展(=ドレスデンでの“芸術の堕落の反映展”、マンハイムでの“文化ボリシェビズム展”、ニュルンベルクでの“芸術お化け屋敷展”などが相次ぎます。


1933年9月には、アーリア人の証明書をもつ文学者・芸術家・ジャーナリストのみが登録される一方で、あらゆる芸術・文化的な表現を検閲する「帝国文化院」が発足します。やがてその院長となった A. ツィーグラーは押収美術作品による「大規模な退廃芸術展」の巡回を企て、1937年に第一回の「退廃美術展」がミュンヘンで開かれ、それは後にドイツ中を巡回しました。


この「大規模な退廃芸術展」の巡回目的は、モダニズムの退廃ぶりを多くの国民に見せて、これに影響されて堕落せぬように警告することです。そして、退廃芸術家に指定されたのは、ムンク、ノルデ、フランツ・マルク、シャガール、ココシュカ、カンディンスキー、マックス・ベックマン、キルヒナーなどでした。


ところで、1938年にオーストリアを併合したヒトラーはイタリアでムソリーニに会っていますが、この時ウフィツィ美術館を訪ねたヒトラーはイタリア・ルネッサンス美術に大いに感銘したそうです。そして、自分が計画していた「ヒトラー美術館」を完成させるにはドイツの所蔵作品だけでは不十分であることを悟り、ウイーンからの名品の収奪とともに、最もお気に入りであったフェルメールの作品を少しでも多く手に入れようとしたとされています。


ヒトラーがどのような意味で異常であったのか、あるいはどの部分が正気であったのかについては専門家による分析が色々ありますが、このような美術作品についての趣味の感覚を見る限り、そこには我われ一般の人間となんら変わった点はないように思われます。


考えてみれば、「美と醜の間」にも「善と悪の間」にも明快な区切りはあり得ないはずです。敢えていうならば、それは流体化した成分の緩慢な分布のように捉えどころがないものであり、だからこそ、そこには「ヒトラー的なもの」がヒッソリと隠れているのではないかと思われます。しかも、それこそが我われ人間も含めた“生命のリズムの実相”ではないかと思われてきます。


従って、我われは「美と醜」ないしは「善と悪」の審級のために必要な“粘り強い意志に基づく永遠の対話”及びそこで体験する“その都度の一回かぎりの意味体験を重視するという習慣”を身につける必要があります。これは、民主主義国家としての国民教育の根本でもあると思われます。


それは“我われ自身の中にあるヒトラー的な成分”から目を逸らすような油断をすべきではないということです。そのためには我われもヒトラーも同じ性質、同じ成分、同じ感受性を持つ人間であることを理解することが大前提となるはずです。我われは、“ウヨだ、サヨだ、ワシズムだ”の類の記号言語的なレベルの議論から早急に抜け出さぬと手遅れになる恐れがあります。ヤスパースの言語哲学流に言うならば、“美しい国”などという意味不明な「記号言語」でお遊びをしている閑はないのです。


今、わが国では嘘と偽善と厚化粧のゴシップなどで塗り固められたテレビ・新聞・雑誌などのマスメディアよりも口コミ的なインターネットに信用をおく人々が増えつつある一方で、グローバリズムの深化と経済格差拡大などを背景とする深刻な凶悪犯罪の多発、批判勢力としての左派勢力の没落、議会政治に対する国民の失望などの諸条件が、我われ一人ひとりの内心で「ヒトラー的成分」を凝固させつつあるように思われます。


このように考えると、現代ドイツ(ベルリン特別市)の美術都市ベルリンの個性作り政策は、とても一筋縄の考えによるものではないことが理解できるはずです。


[付記2]  当記事の内容と関連する部分があるので、「pfaelzerweinさま → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070417」のコメント&レスを下に再掲しておきます。


pfaelzerwein 『興味津々で引き続き拝見しています。ルフトハンザの北よりルートは風向きなどで決定されていると思います。臨機応変かつ緻密に対応している感じです。確か離陸前にパイロットから趣旨説明がある筈です。逆向きでも、航空燃料即ちエネルギー消費量が大きく異なります。


「徹底的復元を人工美として、自然と歴史的建造物の調和を自然美」とするかは、表現として色々と意見が分かれそうです。


しかし、この話題をヤスパースなどに関連させて、今回の米国や長崎の銃撃事件を見ますと、市民自らの存在の問題としてみなければいけないでしょう。直ぐに平和的な意味で行動に示さなければいけない事象であり、これに比べれば直接国民投票などは遥かに下位に位置するものでしかありません。その生存のシステムが危機に面している訳ですから。


こうしたものの温床を許す土壌では、残念ながら「現世解脱」はその平行関係にあり、尚且つ「絵に描いたような美」も観念的な虚構に、「調和の美」も刹那な心象に留まるのでしょう。


要するに、こうした蛮行に対して、自らの存在を自らの社会に投影させないとすれば、その存在そのものが確立されないこととなります。社会において市民の所見が行動として現れないとすれば、その市民社会も虚構でしかないのでしょう。自然美も人工美もその存在が危うくなるところです。』 (2007/04/18 17:03)


 toxandoria 『pfaelzerweinさま、コメントありがとうございます。


早速、米国や長崎の銃撃事件の背景についてはもっともらしく分かり易い意味づけ(論評など)がなされ始めていますが、根本には一般国民の多くが、ご指摘のような点に気づいていない(気づいていても口に出せない?)という問題が存在すると思います。


米国の銃社会について見ると、その根底にあるのはリバタリアン(リバタリアニズム)の問題だと思われます。これは又聞きのことなので正確な統計データの裏づけはありませんが、アメリカ人の約1/3(約1億人)のリバタリアンが選挙権の行使に直結する存在(具体的に言えばライフル協会の政治的パワー)となっていることが米国で銃社会を放任する根本原因であるようです。


また、この問題は現代の世界全体へも大きな影響与え続けておりイラク戦争のように非人道的な暴力の正統性を支える根幹ともなっていると見做すことができます。まさに、日本政府などは、このリバタリアニズムにひれ伏していることになるようです。なお、リバタリアニズムについては下記の記事(●)を書いたことがあります。


●作家アイン・ランド、米国ユニラテラリズムのもう一つの『源流』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050326


長崎の銃撃事件の根っこにも似たような問題があると思われます。マスメディアでは、この事件が近年多発しつつある暴力団等の非合法組織による「行政襲撃事件」(行政対象暴力)の一環と見做すべきとする解説が主流となっていますが、またまた何か(美しい国?)に迎合した意識的論点外しが始まったように思われてなりません。問題の矮小化という常套的な現象です。


過剰な陰謀論などに与する考えは毛頭もっておりませんが、「2001.9.11NY同時多発テロ」にせよ、「長崎の銃撃事件」にせよ、結果的に凶暴な暴力の政治的利用の問題が見え隠れしています。そんなことは内心の何処かで感じていても、とても大人気ないので口に出せないというコモンセンスがあるのでしょうか?


しかし、それこそが“我われ自身の中にあるヒトラー的な成分”(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070418)から目を逸らす油断ということであるように思われます。この観点からすれば、アメリカも日本も“我われ自身の中にあるヒトラー的な成分”から意識的に目を逸らしている、もっと言えば“自らのヒトラー的な成分”に妥協し、それを利用するという誤った民主主義に甘んじていることになるような気がしています。』 (2007/04/19 07:32)

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