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タイトル:[情報の評価/Souvenir Ser.] アーカイブの役割とは何か(4)  2007/03/04


[情報の評価/Souvenir Ser.] アーカイブの役割とは何か(4)

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<注>お手数ですが、画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070304


映画『スタ-ウオーズ、エピソ-ド2』(http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Wars_Episode_II:_Attack_of_the_Clones)の中に「銀河系公文書館」のエピソードがあります。ジエダイの騎士が、ある星の存在についての証拠を求めて「銀河系公文書館」を訪ねますが、そこのアーキビストは次のように返答します。・・・この公文書館に証拠記録(データ)がないということは、その星は最初からこの銀河系には存在しなかったということです・・・ところが、ジエダイの騎士がおおよそ目星をつけた場所へ行ってみると、なんと、その星はシッカリ存在していたのです。この物語は、独善的な政治権力の道具と化した「銀河系公文書館」の憐れな姿を描写しています。 


ここから連想されるのは、逆説的な意味合いとなりますが、2004年の国会で小泉首相が使った・・・大量破壊兵器が存在しなかったからといって、フセイン大統領が存在しなかったことにはならない・・・という詭弁です。これは、そもそも無関係な言説を強引に結びつけて一見意味ありげな言説を装う常套的な詐欺師の手練手管であり、人を欺く小細工的な修辞法です。このような小泉首相の詭弁を弄する言動から臭い立つのは、“自分にとり不都合なエビデンスは強引(強権的)に消去(または廃棄)し、もともと無かったことにしようとする奢り高ぶる権力者の邪悪で傲慢な意志です。 

このような悪徳商法まがいの政治手法が堂々とまかり通るのでは、とても今の日本が先進民主主義国家の一員であるとは言えません。「公文書館の存在」が「主権在民」の民主主義を守るために必須であることを一刻も早く全国民が理解できるようになるため一般国民の意識改革が急務であり、同時に「アーキビスト倫理綱領」及び「文書基本法」の整備を急ぐ必要があります。さもなければ、いずれ日本のアーカイブ制度は『スタ-ウオーズ、エピソ-ド2』の「銀河系公文書館」のように悲劇的な役割を担わされることになります。 


また、 2004年5月12日の朝日新聞(海外文化関連記事/国際資料研究所代表・小川千代子氏への取材記事)によると、ブッシュ大統領が「アメリカ合衆国アーキビスト」を交代させると突然発表したため、米国アーキビスト協会(SAA/Society of American Archivists/http://www.archivists.org/)、図書館、歴史家などの九つの諸団体が懸念を表明して公聴会を要求する騒ぎとなりました。


合衆国アーキビストという役職は、国立公文書館を擁する国立公文書館記録管理庁(NARA/National Archives and Records Administration /http://www.archives.gov/)のトップのことです。NARAの仕事は、合衆国連邦政府の公式な記録を包括的に管理し、その「公共のための歴史資料」を後世のアメリカ国民に伝えるという重要な役割を担っています。 


従って、そのトップの交代人事は特に慎重に行われるべきであることをアメリカ国民は理解しており、その交代の必要性がある場合にはアーキビスト、図書館及び歴史関連の諸団体と事前に十分な打ち合わせを行うことが慣例となっていたのです。ところが、ブッシュ大統領は、この慣例を一方的に破って突然の人事交代を通告したのです。結局、一般国民の理解に支えられた関連諸団体からの猛反発を受け、この問題については流石のブッシュ大統領も引き下がりました。


時代の違い、政治体制の違い、洋の東西を問わず、最高位にある政治権力者の「内心に沈潜する根深い宿痾(しゅくあ)」は『エビデンス(証拠)がなければ、そのエビデンスさえ抹消できれば、一般国民を騙しつつ歴史は自らの意志のままに創作できる』 という驕り高ぶる邪心です。そして、近年の各種メーカーや大手ゼネコン等の談合事件、あるいは耐震構造擬装事件などでの摘発が、せいぜい末端に位置する民間企業のトップか地方の首長止まりで絶対に中央政界まで捜査の手が伸びないのは、日本の支配権力の中枢における腐敗部分の構造が揺らいでいない証拠です。
それは近年の<構造改革>が、実は国民不在のまま擬装されたモノであり、むしろ国家中枢の権力クラスター(政官財の根深い癒着構造)は、温存どころか却って強固に偽装構築されたということであり、その背後にはわが国の「アーカイブの脆弱性」の問題が潜伏しているのです。


別の角度からの考察ですが、多くのメディアが“同じブッシュの犬仲間”(小泉・ポチ、ブレア・プードル)と揶揄してきた、英国ブレアの『国民本位の電子政府』の一端(日本のポチとは段違いの功績)を見ておきます。まず、ブレアは平等や国民の利益を重視するという“国民第一主義”の意識から、EU(欧州連合)で生存権と労働権を強めるために作られた「ヨーロッパ社会憲章」(http://eu-info.jp/law/so-pu.html)と「EU基本権憲章」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/FE5.HTM)へ参加し、「最低賃金法」(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/sssp/111taikai/tanakasoichiro.pdf)を制定します。また、予算なしで政治の変化を印象づける改革の柱として「地方分権」と「上院世襲議員の廃止」を着実に実行しています。


<注>「EU基本権憲章」(2000年12月7日)には次の条項があることに注意


第二章 自由


第8条 個人的な情報(data)の保護 


 1 人はすべて、自分に関する個人的な情報の保護に対する権利をもつ。


 2 個人的な情報は、一定の目的のために、かつ当人の同意に基づいて、もしくは法律に定められたなんらかの他の合法的な裏付けに基づいて、公平に取り扱われなければならない。人はすべて、自分に関して収集されている情報にアクセスする権利があり、かつその情報を訂正する権利をもつ。


 3 こうした規則が遵守されるように、自立的な公的機関(authority)が管理しなければならない。 


第五章 市民権


第41条 良き行政に対する権利 


 1 人はすべて、自分の用件が、EUの諸施設や諸団体によって、不偏不党、公平、時宜をえた仕方で、処理される権利をもつ。


 2 この権利には、次のものがふくまれる。


  --- すべての人が、本人に不利な結果をもたらす恐れのある個別的な方策が執られる前に、自分の言い分を聞いてもらえる権利。

  --- すべての人が、信用、職業や事業の秘密といった合法的な利益を重んじつつ、本人の記録書類にアクセスできる権利。


  --- 行政が、みずからの決定理由を明らかにする義務。


 3 人はすべて、EUの制度・施設によって、もしくは職務を遂行中のその職員によって引き起こされた如何なる損害に対しても、構成国の法律に共通な一般原則にした がって、EUに弁償させる権利をもつ。


 4 人はすべて、諸条約の公認言語***の一つを用いて、EUの制度・施設に手紙を書くことができるし、また同じ言語で回答を得ることができなければならない。


第42条 文書にアクセスする権利 


  EUのすべての市民および構成国の一つに居住するか、もしくは登録された事務所をもつすべての自然人ないしは法人は、ヨーロッパ議会、理事会、委員会の文書にアクセスする権利をもつ。


このような前提の下で、ブレア政権は「新しい福祉政策」の一環として、利用者本位でとても使いやすいHP『DirectGov』(http://www.direct.gov.uk/en/index.htm)を作っています。これによると、国民は自分に関係がある政策分野の検索が可能です。つまり、英国民は誰でもが情報にアクセスする人の属性などに応じて手軽に自分はどんなサービスを利用できるか検索できるようになっています。ここでは“顧客満足度の重視”と“市民本意の情報提供”という根本思想が実現しています。重要な情報(不都合な真実?)ほど隠そうとする、日本政府と日本の役所のHP作りのスタンスとは大違いです。


例えば、このDirectGov』は働く市民、特に夫婦共稼ぎの家庭に対して減税(所得税の還付)、子育て支援などの政策を展開しています。つまり、英国民は、所得税還付や保育施設を利用するにはどんな資格条件やどんな手続きが必要かがHP上から即分かるように配慮されているのです。また、自分が「50歳以上の人」(Over 50s)であれば、その見出し「Over 50s」をクリックすると、自分がどんなサービスを政府から受けられるかが即分かるようになっています(出典:山口二郎著『ブレア時代のイギリス』(岩波新書)、p26〜27)。


・・・・・以下、本論(当シリーズ本文の続き)・・・・・


[3]−2 現代社会におけるアーカイブの役割(ガバナンス正統(当)性維持の意味)
 

ところで、8世紀後半頃になると北部フランス(フランク王国の一地方)で一般の人々が使う言葉は、もはやラテン語とは言えず古フランス語と呼ばれる言葉の段階まで変化していたと考えられており、このような時代に古フランス語で書かれた最古の文献とされる『ストラスブールの誓約書/Sermets de Strasbourg』(842年)が残っています。ストラスブールはドイツ国境(シュバルツバルトの森)に近いフランス東部・アルザス地方の古都です。それはカール大帝の孫たちが領土を争ったときの出来事ですが、統一国家を主張する長兄ロタールに対して分割統治を主張する二人の弟たち、つまりルードヴィヒとシャルルは兄に対抗するため同盟を結び、842年2月14日にストラスブールで誓約書を作りました。 


それが『ストラスブールの誓約書』と呼ばれる古文書(大変に古い公文書)ですが、その文書の内容はルードヴィヒとシャルルが同じ文章を古ドイツ語と古フランス語で交互に述べ合いながら誓約した形となっています。そして、この誓約を交わした後、東フランク(ドイツ側)と西フランク(フランス側)双方の軍指揮官が、交代で相手側の軍勢が理解できる言葉で誓約書を読み上げました。つまり、ルードヴィヒ(東フランク)側の指揮官は古フランス語で、シャルル(西フランク)側の指揮官は古ドイツ語で読み上げたわけです。 


この古文書『ストラスブールの誓約書』から教えられる重要な点が三つあります。一つは、8〜9世紀頃のフランク王国では、王族等の支配層の人々(恐らく彼らは、当然のこととしてバイリンガル以上の言語能力が求められた)は別として一般の民衆が古フランス語圏と古ドイツ語圏の領域でそれぞれ生活する棲み分けがかなり進んでいたと考えられることです。因みに、9世紀〜14世紀頃までのフランス語は古フランス語、14世紀後半〜1600年頃までのフランス語は中期フランス語と呼ばれます。 


およそ8〜9世紀頃に成立したと考えられる古フランス語は、ロアール川を境として、その北側の地方では「ハイ」(yes)のことを「oui」(ウイ)と言い、ロアール川の南側の地方では「oc」(オック)と発音したため、ロアール川以北の方言は「オイユ語」(Langue d’ouel(オイユ)/ouelは後のoiu(ウイ))、ロアール川以南の方言は「オック語」(Langue d’oc)と呼ばれてきました。現在、フランス語の方言としての「オック語」は南フランスのラング・ドック地方(カルカソンヌ、ナルボンヌ、モンペリエ、ニームなど)を中心に残っています。一方、ほぼカロリング期に重なる750年頃〜1050年頃の東フランクの住民を中心に使われていたドイツ語は古高ドイツ語、1050年頃〜1350年頃までのドイツ語は中高ドイツ語と呼ばれます。 


もう一つ、これはカール大帝の時代から始まっていたことですが、カロリング朝・フランク王国で最も重視された行政の仕事が「文書局」(cancellaria)と呼ばれる部門でした。そして、既にルードヴィヒ1世の時代にはフランク王国の行政文書の形が高度に洗練され「カロリング王文書形式」と呼ばれる正統な形が整っていたのです。ここに見られるのはヨーロッパの行政が中世初期の揺籃時代から、外交・戦争などの約束事を記録文書化し、それらの行政文書(公文書)を厳重に保管・管理するという意味での「文書中心主義」による国家統治の考え方が根付いていたということです。 


ゲルマン民族の「特徴的な分割相続」の伝統ゆえに際限のない領土争いが引き続いたことも、その原因になっていると考えられますが、いずれにせよ、国家統治(国家のガバナンス)の正統(当)性が、このような意味での「文書主義の原則」によって裏打ちされていた訳で、その原点は、カール大帝がアルクインに命じて、トウールに学校付設の「書字施設」を開設して写本のコピーを制作させたことに始まっているのです。そして、驚かされるのは、カール大帝の「文書局」がフランク国王のガバナンス正統(当)性を記した行政文書(公文書)を作成・保管する業務を行っていたということです。つまり、それは“現用・非現用の行政文書の流れ全体”を視野に入れて管理する権限が付与された本格的なアーカイヴであったのです。


さらに驚くべきことは、このような視点が、近・現代におけるアーカイブの最先端を行くフランス、アメリカ、韓国(<注>韓国のアーカイブの先進性については別途に検討する)などのアーカイブ制度の理念(根本精神)を先取りしていることです。そして、このような観点から見る限り、残念ながら我が日本のアーカイブについての理解は、遥か1,000年以上も前のフランク王国のレベルにさえも到達していないお粗末さです。それどころか、省庁再編時の大蔵省等の無法な行為に見られるように、チャンスと隙があれば権力者(政治・行政)側にとって「不都合な公文書」はできる限り消し去り、初めから、そんなモノは存在しなかったことにしようとする意図が見え見えです。こkでは、まことに忌むべき政治・行政サイドの低劣な意識ばかりが目立ちます。 


アーカイブに関する、このように貧困なわが国の現状を改善するために必要なのが「アーキビスト倫理綱領」と「文書基本法」の制定ということです。これは前回((3)-1)でも述べたことですが、わが日本のアーカイブ制度は致命的ともいえる欠陥を抱えているが故に、これらの基本法の整備が提言されている訳です。つまり、現代日本の「公文書館法」と「国立公文書館法」には、約200年以上も前にフランスで創設された「フランス国立中央文書館」が謳う巨視的な歴史観と文化観が決定的に欠落しているのです。


従って、現用(現在の行政業務で利用中)の文書の管理までを視野に入れた、別に言うなら「記録のライフサイクル全体を広く見渡すという観点」から「行政の文書管理」を徹底するためには、アメリカ、フランス、韓国などの先進的な文書管理制度を是非とも見習う必要があり、これらの先進的な観点を取り入れた、アーカイブのあり方についての新たな法整備が必要なのです。 


因みに、国際資料研究所(http://djiarchiv.exblog.jp/)では、以下のとおり二つの法整備案を提言しています。
 

●アーキビスト倫理綱領(案)http://www.archivists.com/ica_moral.html 


●文書基本法(案)http://dji2.exblog.jp/ 


古文書『ストラスブールの誓約書』が示唆する三つ目の論点は、認識論における「エクリチュール」の問題です。エクリチュール(ecriture)とは“人間が書くという表現活動、生きた人間が残す生命の軌跡、書かれた文字や記号”というような哲学的・認識論的なフィールドの用語です。我われ一人ひとりの人間、地域社会あるいは国家でも同じことですが、もしエクリチュールの働きと助けがなければ一人の人間の死とともに、そのような人間、地域社会、国家などの存在は時間の経過とともに忽ち人々の記憶から消滅し、あるいはデフォルト(無かったことに)されてしまいます。


そして、恐るべきことに数年も経たぬうちに、そのような人間、地域社会、国家あるいは様々な出来事は始めから存在すらしなかったことにされてしまう恐れさえあるのです。 言い換えれば、人間の場合のそれは「人権概念の基礎」でもあるアイディンテティ(identity/自己同一性)の問題です。また、新しい認知心理学などの分野の研究(数学者ロジャー・ペンローズらの新しい理論/下記<注>、参照)では、エクリチュールと「人間の意識」の関係が注目(エクリチュールの働きがなければ“意識”は生まれない?)されています。


余談ですが、このようなことと関連するのが古来から伝わる地方の市町村名や地名の問題です。新しいところでは、中部国際空港(仮称:セントレア)の開港に因んで合併後の新市名候補を「南セントレア市」と決めたことで批判を浴びた愛知県美浜町と南知多町では、合併の是非を問う住民投票と新市名を決めるアンケートが行われました。その結果、住民投票では2町とも合併反対が上回り、合併そのものが白紙に戻りました。流石に「南セントレア市」の命名に対しては全国からも批判の声が届いたこともあり、この合併については実現しなかったことに胸をなで下ろした人々が多かったと思われます。市町村名や街の通りの名前など、いわゆる旧い地名を軽々に変えるべきでないことは、古文書『ストラスブールの誓約書』が示唆する三つ目の論点にかかわることです。 


<注>Rojer Penrose(1931〜  /イギリスの数学者・理論物理学者、 ケンブリッジ大学教授) 


ペンローズは宇宙の構造に関して、一般相対性理論と量子力学を統一した「Twisuter仮説」を提唱している。認知心理学・人工知能研究等の先端領域では、「Twisuter仮説」の“脳神経内で形成される抽象的なベクトル空間への応用可能性”が注目されている。このベクトル空間で出現するグラフ的な表象(身体全体の所与条件が一定の重み付けで分配されて生成される多次元関数的な分散表象の軌跡)こそがニューロン(脳神経細胞)内部のエクリチュールと定義できる可能性がある。 


従って、いつの時代でも、自らのガバナンス正統(当)性を誇示する意志と身勝手な政権維持の意図(少しでも長く政権を維持して歴史に名を残すとともに甘い汁を吸い続けたいという、権力者の自己中心的な野望と欲望)のために、政治権力者たちは、このエクリチュールの操作(公文書、歴史資料などの廃棄・消去)の可能性に目を凝らしていることを忘れるべきではありません。そこでは、「現実の出来事と事実(=不都合な真実?)の消去」だけでなく、政治権力者による積極的な「偽証の創作」(証拠のデッチあげ/イラク戦争・開戦の口実とされた“大量破壊兵器存在の問題”など、この類の事例の枚挙には困らない)さえ行われます。しかし、このような政治権力者による意図的な「エクリチュールの操作」は、主権在民の現代社会に生きる我われ一般国民の「人間としての尊厳」に対する冒涜であり、最も悪質な犯罪行為であると断言できます。このような訳で、「アーカイブの未整備問題」は実に深刻な一般国民(市民)への人権侵害の問題でもあるのです。 


また、政治権力者自らが属する国家の管理体制(国家ガバナンス)そのものにとっても、絶えず、このような意味で歴史的現実(=不都合な真実)が消去されるままに放置されることは、長い目で見た場合、「国家的なリスク管理」の脆弱さという「自己矛盾的な国家ガバナンス上の欠陥」を抱えることにもなるのです。なぜなら、リスク管理についての最重要な論点(公理)は「間違いを犯さぬ人間や組織は存在しない」という「リスク恒常性」の問題であるからです。その意味は「きわめて優秀な為政者が、どれだけ人間の英知を引き出し、それを活用・駆使・改善したとしても、これでもう万全というレベルには永遠に到達できない」というリアリズムを直視し、これを謙虚に受け入れるべきだという問題意識です。別に言えば、それは科学合理性を第一としながらも、一方で科学合理性の限界も率直に受け入れるという中庸な心性を重視すべきだという問題意識と同じことです。このような国家的リスク管理にかかわる万端の配慮からアーカイブ(文書局)を整備・充実したという意味で、先に述べたカール大帝の慧眼には恐るべきものが感じられます。

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