メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:[参考情報]2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/オランダ編1  2006/09/19


[参考情報]2006年、夏のフランドル(オランダ・ベルギー)旅行の印象/
オランダ編1
2006.9.19

<注>お手数ですが、画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060918

【画像の説明】

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一枚目は、あまりにも有名なレンブラントの大作『夜警』(1642/Oil on can
vas 359ラ438cm Rijksmuseum、Amsterdam)です。この画像はオランダの宝で
あり門外不出なので、ここ「国立アムステルダム美術館」を訪ねなけれ鑑賞す
ることができません。

今、当館は当美術館史上で最大の改修工事を行っているところですが、『夜
警』を含めた主要な収蔵作品は本館併設の「フィリップス棟」に展示されてい
ました。レンブラントは、この作品で17世紀にオランダ国内を風靡した集団
肖像画に決定的な記念碑を打ちたてます。少し古い記事ですが、この作品への
オマージュのつもりでtoxandoriaが過去に書いた記事の一部を若干見直して下
記[◆]に転載しておきます。二枚目、三枚目はこの「国立アムステルダム美術
館」の外観です。

◆「2004.4.15、『オランダの光』の伝説(6/6)-1」http://d.hatena.ne.jp/t
oxandoria/20050324、より部分転載(一部記述を修正)

既述のことですが、17世紀に入った頃のオランダで、後世に大きな影響を与
えたという意味で注目すべき風景画家が現れます。実景に即しつつ抑制的な単
色に近い色調で、かつ恰も写真のようなリアルさで描く「単色様式(単色色調
様式)の風景画」を確立したサロモン・ファン・ライスダール(Salomon van R
uisdael/ca1600−1670)とヤン・ファン・ホイエン(Jan van Goyen/1596-165
6)の二人です。

しかし、この二人のうちヤン・ファン・ホイエンは、チューリップ・バブルに
首を突っ込んだ不運な画家です。画家として成功したホイエンは、稼いだ金を
チューリップ相場に投資しますが、結局はバブルの崩壊で破産していたので
す。そして、ホイエンはチューリップ・バブルの崩壊から20年後の1656年に世
を去りますが、その時点でも未だ897ギルダー(現価換算で約1,800万円)の負
債が遺族に残されていました。気の毒にも、それまでの間、ホイエンは巨額の
負債の返済のために優れた風景画をせっせと描き続けたことになるのです。

チューリップ・バブルが発生したのは1634年ですが、この頃のレンブラントは
“サスキアとの結婚、アムステルダムの市民権獲得、聖ルカ組合(アムステル
ダムの画家組合)入会”と順風満帆でした。その2年前には、彼の名声を一気
に高めた『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』(http://www.abcgallery.c
om/R/rembrandt/rembrandt114.html)を完成させています。そして、1639年に
レンブラントは1.3万ギルダー(現価換算で約26,000万円)の大邸宅(現在の記
念館「レンブラントの家」(Rembrandthuis))を購入しています。

しかし、この邸宅を買ってから14年後、レンブラントが47歳になった時に8,470
ギルダー(現価換算で約17,000万円)の未払い金を請求されて、更に9,180ギル
ダー(現価換算で約18,000万円)もの借金をしています。ピーク時には年収が
0.5万ギルダー(現価換算で約10,000万円)もあったとされるレンブラントは、
どのように帳尻を合わせていたのでしょうか。レンブラントがホイエンのよう
にチューリップ相場に手を染めたかどうかは分かりません。

ともかくも、オランダのみならずヨーロッパ中に名声を馳せたレンブラント工
房の巨人(マイスター)は、破産状態で63歳の生涯を終えたのです。破産で
生涯を終えたということではフェルメールも同じです。彼の妻の証言記録によ
れば、晩年のフェルメールは兼業していた画商の仕事も「第三次英蘭戦争」の
余波を受けて不振となり、11人の子どもを抱えた生活が困窮したまま病で生
涯(享年43歳)を閉じています。フェルメール没後の一家は破産宣告を受
け、絵も含めたフェルメールの全財産は競売になりました。

17世紀「オランダの光」の代表者といえるレンブラントとフェルメールが、
ともに経済的バランスを失ったまま生涯を終えていますが、このことによって
彼らの作品の芸術価値が貶められることは考えられません。それどころか、神
の領域に入ったかと見紛うほどの高い精神性と優れた表現力の水準まで到達し
ながら、一方では万人を射すくめるほど冷静な視線で現実を直視し続けたレン
ブラントとフェルメールの個性的な至高の美の造形は、モノカルチャー化する
一方で混迷と不安の現代に生きる我われ人類に対し、未知の希望の「光」を未
来から照射しているのです。

レンブラントとフェルメールが、このように世界中の多くの人々の心の襞に今
も限りなく浸透し続ける至高美とアウラの創造を求めながら、自らの芸術家と
しての孤高な精神環境のバランスのために悲惨な格闘を続けたという現実、そ
して、その自らの決して幸せとはいえぬ人生を真摯に生き抜ぬいたという現実
と比べれば、意地汚く私腹を肥やすことと権力と家産(私的財力)の保守・継
承だけにしか関心が向かず、しかも拝金原理主義(マネタリズム原理主義)の
デミウルゴス(demiurgos)を絶対唯一神として崇める、まるでカルトのような
「市場原理主義」に嵌った現代社会の寄生的エリートたち(薄っぺらな見栄
え・見かけ・パフォーマンス・口先三寸で善良な国民を誑かしつつ、まるでリ
フォーム詐欺師のように無垢な国民一般を荒稼ぎの道具と見做し、あるいは自
らが恰も世襲的・絶対専制君主でもあるかのように錯覚し見苦しく振舞う悪徳
政治家・悪徳官僚・御用学者・御用芸術家・御用マスコミ人・御用商人ら)の
軽薄・酷薄で悪辣な魂胆こそ貶められるべきです。


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四枚目は、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh/1853-1890)
の世界最大のコレクションを有する「アムステルダム・ゴッホ美術館」(VAN 
GOGH MUSEUM/http://www3.vangoghmuseum.nl/vgm/index.jsp?lang=en)の新館
のイメージです。これは専ら特別展示に使われる建物ですが、日本の黒川紀章
氏の設計で1999年にオープンしたものです。

たまたま、今は『日本の季節展/日本帝国の不思議、カリリ・コレクションの明
治美術』(Japanse Zomer/http://www.holland.or.jp/nbt/holland_feature_a
rticles_2006.07.htm)が開催中です。イラン出身の富豪でケンブリッジ大学
(ニューカレッジ)教授でもあるカリリ博士の膨大な日本コレクションの中か
ら厳選された200点が展示されており、まさに圧巻です。幕末〜明治期の日本美
術がゴッホへ与えた影響が大きいというだけでなく、オランダを始めヨーロッ
パ諸国が日本の伝統美術へ向ける並々ならぬ関心が窺えます。

<参考>The Khalili collection was assembled by Professor Nasser D. Kha
lili. ?orn in Iran in 1945, the scholar, patron and businessman has a
ssembled several impressive art collections in the last forty years, fr
om Islamic art and Spanish metalwork to Swedish and Indian textiles. ?
His collection of Meiji art comprises some 2,000 items. ?he entire Kh
alili collections comprise more than 25,000 objects.
http://www.orinst.ox.ac.uk/nme/nesp/visiting.htm

五枚目は「国立アムステルダム美術館」の遠景ですが、左の建物はこの「ゴッ
ホ美術館・別館」の裏手部分です。六枚目は、『日本の季節展/日本帝国の不思
議、カリリ・コレクションの明治美術』のポスター・イメージで、七枚目は
「ゴッホ美術館」所蔵のゴッホが描いた『花咲く梅ノ木(広重作品模写)』(1
887 oil on canvas/Japonaiserie: Plum tree in Bloom (after Hiroshige). S
eptember-October 1887. Vincent van Gogh Foundation, Rijksmuseum Vincen
t van Gogh.)です。ジャポニスムへ大きな関心を向けたゴッホですが、浮世絵
の明るさ、鮮明な色彩、ユーモラスな滑稽味が感じられる細部の描写が特に気
に入っていたようです。

八枚目は、「ゴッホ美術館」の方から名高い「コンセルトヘボウ」(Concertge
bouw)を望む景観です。これは、1888年に開設された世界で最高の音響設備を
誇るコンサートホールです。当然ながら、世界三大オーケストラ(ウイーン、
ベルリン、コンセルトヘボウ)の一つである「ロイヤル・コンセルトヘボウ管
弦楽団」の本拠地です。

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九枚目は、「アムステルダム中央駅」のイメージです。あいにくの悪天候で撮
影に失敗したためフリー画像を借用しました(by フリー画像http://www.h3.di
on.ne.jp/~aqua21/kabegami.htm)。建てられたのは1889年(明治22年)で、東
京駅・丸の内駅舎のモデルになったとされています。ここから「旧証券取引
所」(Beurs van Beritage/現在は、「オランダ・フィルハーモニー管弦楽団」
の本拠地となるホール)を通り、観光の拠点となる「王宮」(Koninklijk Pale
is/17世紀のオランダ連邦共和国・独立の時に建てられた市庁舎を王宮と呼ぶ/
代々の国王の使用を経て、今は迎賓館)がある「ダム広場」まで徒歩で10分位
です。

十枚目は、「聖カタリナ教会」の別名を持つ、14世紀末に建てられた後期ゴシ
ック様式の「新教会」(De Nieuwe Kerk Amsterdam)で、「旧教会」に次いで
造られたためにこう呼ばれます。1814年以降、この教会では国王の戴冠式が行
われています。未だに塔の一部が未完成のため工事中の姿です。十一枚目は、
同教会周辺の景観です。十二枚目は、この新教会のすぐ西側を流れる運河の風
景です。なお、「ダム広場」(Dam)の北東約500m位のところに「旧教会」(Oude 
Kerk)があります。13世紀から建設が始まり、途中に都心での「新教会」の建設
で遅れ、完成するには15世紀頃までかかりました。また、最後の修復が終わっ
たのは1998年です。ルネサンス期のステンドグラスやパイプオルガンなどが見
所となっています。

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age
十三枚目の右手前で人ごみが見える建物は「アンネ・フランクの家」(Anne F
rank Huis)の“入り口”付近の風景です。アンネ・フランクは、第二次世界
大戦中にナチス・ヒトラー政権の迫害を受けたユダヤ人の一人です。彼女の一
家8人は、ナチスの目を逃れ1944年7月から1944年8月までのあいだ、この一角
の建物に潜んで生活しました。隠れ家のある建物は「後ろの家」にあり、「前
の家」は父オットー・フランクの会社のオフィスでしたが、1941年以降はユダ
ヤ系市民は会社経営も禁じられていたため、オットー・フランクは別人の名前
で会社を登録していたのです。しかし、1944年8月4日、何者かがゲシュタポ
(秘密警察)へ密告したため、一家はアウシュヴィッツへと送られることにな
ります。

13世紀頃、ザイデル海(今はエイセル湖となっている)の入り江に注ぐアムス
テル川の河口の湿地帯に漁師たちが定住するようになります。彼らは海岸に堤
防を造りますが、やがて海水の逆流を防ぐため河口にダムを築きました。これ
がアムステル「ダム」の始まりとされており、十四枚目は、その初めてダムが
築かれた場所と言われる辺りの風景です。やがて、この小さな漁村は発展を続
け、1275年には領主ホラント伯から都市の特許状を受けています。ここは「ダ
ム広場」にも近く、アムステルダムの名も、この最初のダムに始まるとされて
います。

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十五枚目は、「ダム広場」から更に徒歩で10分ほど南下したところにある「ム
ント塔」です。この「ムント塔」は、15〜17世紀までは市内の見張塔でした
が、1620年の大火で防壁が消失して塔だけが残りました。現在は、アムステル
ダム中心の交差点のシンボル的な存在です。なお、“ムント”(硬貨の意味)
と呼ばれる訳は、1627〜1628年頃、ここでネーデルラント連邦の硬貨が鋳造さ
れていたためとされています。

この「ムント塔」と運河を越えた西側には、有名な「シンゲルの花市」(花屋
は、すべて運河に浮かぶ船の上にある)があります。この花市と反対に、「ム
ント塔」の東へ向かうと直ぐに「レンブラント広場」に出ます。この広場の東
側の運河を越えたところに「レンブラントの家」(Rembrandthuis)がありま
す。十六枚目は、アムステルダムの運河クルーズをするボートが並んだ船着場
の風景です。

十七枚目は、アムステルダムで最も古い伝統を誇る「ガッサンダイヤモンド工
場」(Gassan Diamondsd、http://www.holland.or.jp/nbt/holland_amsterdam_
no2_gassan_diamonds.htm)の建物です。ガッサンダイヤモンドは「ファイヤ
ー」と呼ばれるダイヤモンドの炎の様な輝きを引き出す最高峰の研磨技術を育
てた19世紀の旧蒸気駆動式研磨工場を持っており、今もその伝統の技術が生き
ています。なお、ベルギー(アントワープ)編で触れませんでしたが、加工ダ
イヤ取引の中心地としてのパワー(取引量)は、今はアントワープの方がアム
ステルダムを凌駕しているようです。いずれにしても、オランダ・ベルギー両
国の加工ダイヤモンドの取引量は合わせると今でも世界の90%を超えるようで
す。

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十八枚目は、アムステルダム中央駅から南下すること徒歩で約20分の距離
(ローキン通りとレンブラントの家の中間辺り)にある「アムステルダム大
学」(University of Amsterdam HP、http://www.uva.nl/index.cfm/la=en/th
=main)のロゴマークです。「アムステルダム大学」のすぐ北側には、今は同大
学の施設の一部となっている「東インド会社の建物」(Oostindisch Huis/16
〜18世紀のオランダが東インド植民地や日本からの茶・銀・香辛料などを扱っ
た独占的特許会社)があります。

アムステルダム大学は1632年に「Athenaeum Illustre」(アテナイオン学園)
として出発し、1877年に現在のようなアムステルダム大学となりました。現在
は、7学部で学生数が2万人強の総合大学となっています。なお、オランダで
最古の大学はライデンにある「ライデン大学」(1575年創設)です。ライデン
大学(Universiteit Leiden、http://www.leidenuniv.nl/)は、「オランダ独
立戦争」(1568-1648)で、長期にわたりスペイン軍に包囲されましたがよく耐
えて、オラニエ公ウイレムの救援で漸く解放されます。このため、ライデン市
民たちの勇敢な抵抗運動を称えて「ライデン大学の創設」がオラニエ公から許
されました。

その後、ライデン大学はカルヴァン派の中心となりますが、一時、アルミニウ
ス派(予定説を認めない立場)の拠点となったため激しい宗教論争と学者らへ
の迫害などが起こりますが、カソリック側の対抗宗教改革に対する学術保護の
ために17〜18世紀には人文学・天文学・解剖学・植物学・物理学・化学などの
部門をもつヨーロッパで有数の大学となります。1885年(明治18年)には「日本
学科」が設立されたこともあり、今やライデン大学はヨーロッパで屈指の日本
研究(及び日本語教育)の拠点・窓口となっています。

幕末には西周、榎本武揚、津田真道らが留学(1862-1865)し、1851年にライデ
ン大学で最初の日本語教授となっていたJ・J・ホフマン(Johan Joseph Hoffma
n/1805-1878/シーボルトの大作『日本』の編集・刊行に協力/日本書のオランダ
訳の刊行にも尽力し、特にその著書『日本文法、Japansche Spraakleer』》(18
67)は画期的な労作)は彼らから日本語を学んでいます。ライデン大学の文学部
に所属する「日本学センター」(スタッフ約25名、学生数約350名)には膨大な
量のシーボルトが持ち帰った貴重なコレクションがあります。

1600年(慶長5年)の「リーフデ号の豊後(大分)漂着」から数えると、延べ40
0年を超えることになる「日蘭交流史」の重みを我われ日本人は真正面から受け
止めるべき時代になったと思われます。なぜなら、今、オランダの日本学研究
者たちの中では、近年における日本の宗教・文化・社会・政治を巡る研究姿勢
が内向化(右傾化)していることに懸念を表明する向きがあるからです(<注
>近年はドイツでも極右(ファシスト)シンパの台頭傾向が見られる)。彼らの
日本研究方法の特徴は、徹底した“原資料主義・原典主義・現地言語主義”の
伝統に則っていることです。この意味で、オランダの日本研究は今でもヨーロ
ッパの窓口であることを侮るべきではないと思われます。

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十九枚目は、1639年から1658年までレンブラントが住んだ家で(大作『夜警』
もここで描かれた)、今は記念館として公開されているの「レンブラントの
家」(Rembrandthuis)の外観イメージ(by ARTNET NU de Site voor Kunstm
innaars HP、http://www.galeries.nl/mngalerie.asp?galnr=1624&vane=1&ses
sionti=683186241)です。

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