メルマガ:toxandoriaの日記
タイトル:“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”からの反照 ]へのコメント&レス(続)  2006/06/11


[2006-05-30“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”からの反照 ]http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060530へのコメント&レス(続)

#kaisetsu 『海舌
リアリズムという『倒錯』「錯覚」「アイロニカルな没入」について
http://blog.kaisetsu.org/?eid=395829

⇒2006-05-30 “形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”からの反照
⇒これを踏まえての論考

(以下、論考)

 絵画世界は、メデイアであり、それは、「本物」ではない、という固定観念
の上に、絵画芸術が成立している。

 この倒置的概念として、「絵画は『本物』を写すのではなく、「本質」(不
連続的差異論でのイデア)を描いているのだ、という説明も成立する。

 しかし、「本質」とは、「描けない」ものであり、「描かないと伝えられな
いもの」であるというジレンマが生まれる。

 そこで、このジレンマを強調する手法として、度の過ぎた「具象化」、リア
リズムが生まれる。リアリズムは、倒錯であり、リアルに見せかけることで、
「リアル」デハナイことを強調し始める。
(これが、近代の開始である。)

この倒置が、シュール・リアリズムである。超リアル、という手法で、超現実
的な世界を描いて、逆に、「本質」を描いているように、主張可能と言うトリ
ックだ。(近代からポスト・モダンへの移行期である。)

では、「“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”」とうテーマ
は、何を意味するのか?

やはり、これは、「⇒」(矢印、指し示し)であろう。
Kaisetsuは、イデア界を、単純に「方向性」のみの世界と定義したいと考えて
いる。

(参照)
2006.06.06 Tuesday
思うに、世界で始めて『イデア』を数学的に定義する。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=394731

この定義を考案するまでは、この「“形象不可能なるものの形象への降臨、受
胎告知図”」は、深遠ではあるが、曖昧模糊としていた。
しかし、「イデア界」が方向性のみの世界で、例えば、「善」への方向性のみ
の世界で、「善」という本質を含まない世界で在る、と定義することで、明快
な解法が生まれる。

つまり、「“形象不可能なるものの形象への降臨、受胎告知図”」とは、
「神」への「方向性」という「形象不可能なるもの」を、徹底的なリアリズム
によって、リアルに描くほどに、現実から遠退く手法によって「形象への降
臨」を図ることだと考える。

不連続的差異論の用語の使用を許せば、これは、「現象世界を徹底的に足掻く
こと」つまり、「形象への降臨」によって、絵画とう「メデイア」を通じて、
「イデア界」(「神」の世界。「神」への方向性のみの世界)を『描く』作業
である。

 これは、「倒錯」の活用であり、これを描く者は当然に、この「秘密」を知
っているが、見る側のレベルによっては、これが「倒錯」とは理解できず、
「神」への方向性を『失い』、「現象世界」を正確に写す技術力にのみ関心を
持つことで、現象世界を彷徨い始める者が生まれる。「アイロニカルな没入」
の一つである。

 これらの「夢遊病者」は、「一般の記録写真」と「リアリズム」の区別が分
からず、「方向性」を失い彷徨う。
by Kaisetsu』


# toxandoria 『kaisetsuさま、コメントありがとうございます。
(あまり時間が割けないので、簡単なレスとなります)

この倒錯(=近代の開始)は同意できます。それは、例えば渦中の「贋作者
(ペテン師画家)に対する芸術選奨(文部科学大臣賞)の授与」、「村上ファ
ンド」、「小泉詐欺政治」に共通するものだと思います。

また、かつて(1980年代)に独文学者・中野孝次氏が名著『ブリューゲルへの
旅』を出版したとき、高階秀而、中村雄二郎、山口昌男らの絵画アカデミズム
によって罵倒に近い批判を受けたことを思い出します(これは、ブリューゲル
の絵画を厳密に検証しつつ、そこへ自らの半生を重ね合わせた生きた内面の告
白です)。

これは、そもそも近代芸術アカデミズム自体が、ご指摘の『倒錯』の上に成立
している証拠だと思われます。アンチテーゼとして東洋美学の原理を探るのも
面白いのではないか、と思います。』


# kaisetsu 『東洋美学の原理!

まさに、御指摘の通りです。
「東洋の精神構造」と考えることができます。

座右の書である、
新編 東洋的な見方
鈴木 大拙, 上田 閑照

目次

東洋文化の根柢にあるもの
東洋的見方
東洋「哲学」について
禅と漢文学
東西雑感
自由・空・只今
このままということ

現代世界と禅の精神
創造の自由―『荘子』の一節〔ほか〕

の目指すところも同じと思います。』


# イオン 『このところ引越やら原稿書きやらでレスポンス大幅に遅れ恐縮で
す。Toxandoria様、renshi様の、小生の駄文に対する丁寧なコメントに感謝申
し上げます。

「それから、renshiさまも触れていますが、ブッシュ大統領のような世界の覇
権を握る王的な存在(つまり、謙虚さに欠けたプロテスタントのマッチョな
王)が聖母(マリア)の真理を理解(信仰)できないことが現代世界を“現象
リアリズム傾斜”の方向へ向かわせているような気がします。」

成る程、現象リアリズムへの傾斜とは言い得て妙かもしれません。私は「結果
を(何でもいいから)形で出せ」というアメリカニズムの最も悪しき現れがア
メリカのイラク攻撃であると思っています。テロリズムの根源を取り除くべ
く、貧困の除去や政治的・社会的公正の確立、差別主義の排除という地道な努
力ではなく、イラク戦争は文字通り「目に見える形」でテロリズムとの戦いの
戦果を挙げるための戦争となってしまいました。今度はイランかと思うと甚だ
憂鬱です。アメリカは中東全体を不安定化させるつもりでしょうか。軍産複合
体を利するだけでしょう。

ところでアメリカが攻撃しようとしているイランでもマリアは崇敬されている
ように見える例を以下に紹介します。イランではシーア派で預言者ムハンマド
以降の霊的指導者とされるイマームたちの像を飾る宗教的慣習があります。い
わば一種のイコンです。私が2002年にイランを訪問したとき、そのような
イコンを売る店の店頭に聖母子像(マリアと幼児キリスト)が掲げられていた
のには驚きました。ガイドさんに聞いたところ、その頃聖家族をモデルとした
連続テレビドラマが放映され、ちょっとしたマリアブームだったそうです。ま
たテヘランから西に150km程行った古都ガズヴィーンのレストランで恐らくイ
タリアのルネサンス絵画の模写と思しき聖家族像が飾っていました。しかし店
の主人はモーセ一族だと思い込んでいたようです。もう一、二回、イタリア絵
画の模写と思しきマリア像をイランで見た覚えがあります。単なる美術鑑賞の
テーマなのか、本当に宗教的尊崇の一部として飾っているのか、確認の必要が
あります。

さてもう一つマリア像にまつわるエピソードがあります。インドネシア人のス
ーフィー(イスラーム神秘行者)から聞いた話ですが、預言者ムハンマドは反
対者の軍を打ち負かし、その故郷マッカ(メッカ)に無血入城し、カアバ神殿
に祀られている偶像をことごとく破壊しますが、マリア像(か聖母子像)(恐
らくイコン?)は破壊せず、大切に保存したといいます。聖母マリアはイエス
と並んで、イスラームとキリスト教の対話の糸口であるようです。

またイエズス会ですが、なかなかこの修道会は把握が難しく、18世紀の儒教
の風習に対して如何なる態度をとるかをめぐる典礼論争では、現在でいう諸宗
教の対話とそれ以上のことを主張しているようにも思います。(この辺り今引
越中で手元に資料がなく曖昧な書き方で恐縮です。)どうも新自由主義経済思
想の先駆としてのイエズス会と、現代「解放の神学」の担い手を何人も輩出し
ているイエズス会、同じ修道会とは言えない程です。何れにしても(諸宗教の
対話と新自由主義の先駆)、イエズス会は近現代の思想の先駆けの一つになっ
たのでしょうか。荒俣宏氏も何処かでイエズス会は(18世紀の段階では)ア
ンシャン・レジーム中、唯一近代化した組織であったという指摘をしています
が、イエズス会と近代の問題は検討の価値があります。

またrenshi様のコメントですが、これまた私なりに解釈しますとマリアはメデ
ィア界(=イデア・知性界)との境界線に立つということであると思います。
一つ付け加えますとこのような境界性は預言者に共通であるようにも思いま
す。(故井筒俊彦教授の解釈にならい)イスラーム的に言えば、「可視界」に
「不可視界」の有様を伝える(ガブリエルなど天使を介して)のが預言者で
す。するとマリアをマリアたらしめるものは何か、もう少し私も考えてみたく
思います。私がこのブログ内での議論に理解が足りぬかもしれず、もう少し前
の議論も勉強してみます。

またイスラーム哲学の十の知性体とユダヤ教カバラーの十のセフィロートの類
似性、もう少し勉強すればお答え出来るかもしれません。どこかでそれらを比
較している研究をみたような…

以上自分のヨーロッパ、イスラーム思想の理解の浅さを白状するような冗長な
コメントで失礼しました。』

# イオン 『お騒がせしています。訂正です。「マリアはメディア界(=イデ
ア・知性界)との境界線に立つ」は「マリアはメディア界(=イデア・知性
界)と現象界との境界線に立つ」と訂正致します。再び失礼しました。』


# toxandoria 『イオンさま、renshiさま、コメント&TBありがとうございま
す。

本来であれば認識論的かつ論理的説明から必然的に導かれる倫理的な手法で解
決に向けて地道に取り組むべきであるにも拘わらず、認識論的または論理的に
イディア界と実在界の関係を説明することに苛立ちを感じた(或いはアカデミ
ズムと科学が権力と癒着した)場合に、聖俗癒着の政治権力が嵌り易いのが
“分かり安さ”(現象リアリズム)というポピュリズムへの傾斜だと思いま
す。

これが、ブッシュ政権や日本の小泉・安陪など所謂『寄生政治家』たちに付き
纏う胡散臭さの背景であるような気がします。ブッシュは固より小泉・安陪ら
“世襲政治家”の中には狂信の臭いが巣食っています。これは、部族社会的・
家産制的原理と擬似宗教観による呪縛的な使命感で大量虐殺の残忍な歴史を刻
印した絶対王制時代の権力者たちの姿に重なります。この矛盾と葛藤したのが
イエズス会であったという見方も可能かも知れません。

ここで想い出されるのがディッケンズの『二都物語』が現代へ投げかける斬新
なテーマです。悪徳の巣窟と化したアンシャンレジームを打倒する原動力とな
ったフランス革命の高邁な理念も、暴徒化した民衆には十分理解され得なかっ
たという悲劇です。しかし、ディッケンズは、その混乱の最中にも拘わらず、
モデラートな感性を身につけた個々の人間には“愛”という真理を貫く勇気
(=希望)があることを謳い上げています。ここにも“形象不可能なるものの
形象への降臨”(マリア信仰的なもの)が現れているような気がします。』

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