メルマガ:歴史上人物意外史
タイトル:歴史上人物意外史 No.11  2005/12/23


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          歴史上人物意外史         Vol.11

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 ■今年も押し詰まってきました。
  師走の寒波の襲来で、日本列島全体が冷蔵庫に入ったような寒い日々が
  続いています。

  北日本ばかりでなく、東海地方にも何十年ぶりかの大雪が降ったりして
  暖冬化傾向に慣れていた人々に冬将軍の厳しさをこれでもかと見せ付け
  るような真冬日の到来です。

  皆さん、風邪など召されないように健康に気をつけてください。

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 ■上杉謙信は女だった?

  さて、今回は川中島で武田信玄と渡り合った一方の雄、上杉謙信が女性
  であったという説を八切止夫氏の著作から取り上げてみることにします。

  皇室の皇統をめぐって女帝を容認するか否かで、大勢は女帝容認の方向
  に向かっているようですが、日本人の先祖は天照大神であり、これが原
  始女性は太陽であったと女性運動家が呼びかけたほど、女性統治が当た
  り前であったのかもしれません。

  また卑弥呼なども古代日本の女王であり、意味のほどはよくわかりませ
  んが、女ならでは夜も日も明けぬ国とかという言葉もあるほど、女性の
  地位も高かったのかもしれません。

  多分、武士が台頭し出したあたりから男尊女卑の風潮が強くなってきた
  のではないかと愚考するのですが…。

  八切氏が新潟県を訪れた折に、白山神社系の神官から御神体なる掛軸を
  見せてもらったことがそもそもの発端で、上杉謙信女人説が登場するわ
  けです。

  白山神社系の御神体は新潟県以外では、男女二柱の神が描かれているそ
  うですが、新潟県では馬に乗った女性が描かれていて、古くは鎧を身に
  着けた姿で描かれていたそうで「鎧姿の女武者」の画像も他の神社で見
  ることができたと言っています。

  新潟地方には盲目の女性たちが瞽女(こぜ)唄を歌いながら、暗く冷た
  い北陸道を流し歩いていたそうですが、その一節に
  「白虫赤虫十二匹、まんじ巴とくるうなか、とらどしとらずきとらの日
  に、うまれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために赤やりたて
  てご出陣、男も及ばぬ大力無双」とあり、唄の主人公の「とら」という
  言葉が引っかかったと言います。

  「とらどしうまれの、まんとらさまは……」の主人公の母は、袈裟御前
  とか「虎}または「於虎御前」となっていて、この人の娘も「虎」また
  は「阿虎」と呼ばれていたそうです。

  この阿虎は兄春景の後を継いだ時、亡父の名から一字とって「景虎」と
  名乗ったが、のちに鎌倉八幡宮へ詣でて北条政子の碑にぬかずいた時か
  らは自らを「政虎」と称し、署名用に使っていたとのことです。

  政虎がなぜ「まさとら」ではなく「まんとら」となったのかは、政子の
  役宅であった「政所」を「まさどころ」ではなく「まんどころ」と呼ん
  でいたから、まんとらで差し支えないと八切氏は結び付けています。

  また、川中島の合戦についても、武田方の資料と上杉方の資料とでは食
  い違いがあり過ぎて、後世の講釈師が見てきたような嘘を言い式のもの
  として重要視してはいませんが、永禄4年9月13日付で残る政虎の感状
  には同年9月10日に川中島で合戦があったことが記されており、武田方
  の資料とも一致するとのことです。

  『甲陽軍鑑』には「前半上杉方大勝利、後半武田方大勝利」となってい
  るのに、負けてもいない合戦にもかかわらず、のちになって上杉はなぜ
  か隠すようになったと八切氏は疑問を呈します。
  
  政虎は前線には出ていず、怪我もしていないのにこの時の感状だけを
  「血染めの感状」と言い伝えるのかとさらなる疑惑を深めます。

  『二木寿斎記』などの記載によると「毎月十日頃になられると腹やみと
  なり馬に乗られず、戦休みをなされて」とあり、旧暦に直してみると、
  「毎月十日から来潮」つまり生理日に当たると推測するのです。

  「血染めの感状」というのは経血の隠喩ではないかと解釈して上杉謙信
  女人説を補強しています。

  戦国時代には結構女城主や合戦に参加した女傑がいたようで、岐阜県に
  ある岩村城などは女城主の町として有名で、「女城主」という銘柄の日
  本酒まであるようですが、江戸幕府は「跡目の儀はこれ男子をもってな
  し、女子の城主は法度なるべきこと」という条文があり、上杉家として
  は一族の先祖に中に女城主が存在してはまずいというわけで、男に仕立
  て上げて、お馴染みの髭を生やした謙信像が画かれたのではないかと推
  理するわけです。

  明治に作られた「皇室典範」の原型は徳川幕府を模したものかもしれな
  いと、ふと思いました。

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 ■おそるべし作家の炯眼と言いたいところですが、八切氏も異端作家とし
  て売り出した経緯もありいささかこじつけ気味の嫌いも感じられます。

  しかし、八切説は独自の八切史観をもって歴史を洞察している面があり
  上杉謙信女人説は比較的初期初期の作品でもあるにもかかわらず、根底
  にはすでに確固たる八切史観が流れています。

  もっと書き込みたい箇所もありましたが、あえてカットしました。興味
  のある方はぜひ原書を読まれるといいと思います。

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  ◆メルマガ名:「歴史上人物意外史」
  ◇発行者:纐纈智恵郎 kouketsu@yahoo.co.jp
  

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