メルマガ:歴史上人物意外史
タイトル:歴史上人物意外史 Vol.10  2005/12/14


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          歴史上の人物の異説奇説         Vol.10

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  ■もういくつ寝るとお正月…そんな童謡が聞こえてきそうなどというの
  は、昭和も中頃生まれの人たちのノスタルジーになってしまったよう
  ですね。

  嗚呼、昭和も遠くなりにけりです。

  そんなわらべ歌の世界にある子供たちの身辺に凶悪な犯罪者の蔭が忍び
  寄り、親も教師も戦々恐々とした状態で、子供たちの外出もままならな
  い異常な事態になっています。
  
  人を見たら○○と思え…という言葉が不信感と猜疑心とによって当然の
  ようになってしまった実に嫌な時代です。

  21世紀がこんな暗くておぞましい事件の頻発する時代になろうとは想像
  だにしませんでした。

  せめて来るべき歳は、少しはましな世の中であってほしいと毎年年の瀬
  にはいつも願うことなのですが…。

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 ■徳川家康は二人いた?<その2>

  八切説によれば、俗史では家康が三河へ入ると、一向一揆が起きて三河
  武者の大半がそれに加担して、家康に反抗したとなっているが、この真
  相も「他所者の家康を追い払おうとした当時のレジスタンスであろうと
  言っています。

  なにしろ家康になってからの二郎三郎は、松平一族の長老松平蔵人信孝
  を始めとして鵜殿康孝、松平好景らを殺害し、本来の松平一族は全滅さ
  せられ、全く無縁の連中に改めて「松平姓」を付けて糊塗したり、やが
  て「岡崎三郎信康」が成人すると、これに三河一国を返すのが惜しくな
  って、武田方へ通牒していたという理由で、うるさい築山御前と共に始
  末してしまったとのことです。

  俗史では、信長がわが子と比べて三郎信康が利口なのをやっかんで、家
  康に命じて殺させたことになっているが、本当の妻子なら家康も殺すは
  ずはないし、信長にしてもそんな命令を出すはずがないと言います。

  あまり知られていない話だが、岡崎三郎信康は信長の猶子、つまり養子
  身分になって信の字を付けてもらっているくらいだから、これを信長が
  殺せと言うわけがない。天正2年に家康は長子秀康をもうけ、天正7年
  にはのちの2代将軍となる秀忠も誕生していた。そうなると、信康やそ
  の母親の築山御前は邪魔者になり、産後の肥立ちもよくて秀忠がよく育
  つと見極めが付くや、その年の8月19日に築山御前を殺させ、9月15日
  には信康を始末してしまったのだそうです。

  もちろんいろいろと体裁を作ってごまかしたものの、これが信長に知れ
  やがて「永禄4年に取り交わした誓紙の松平元康名が詐称だったこと」
  まで明るみに出かけた。そこで驚いた家康は5千両の黄金を持って天正
  10年5月15日に安土城へ命乞いに行き、半額だけでも受け取ってもらえ
  てその場は治まったもののこれからが面白くなります。

    家康が京へ行くと、5月29日に信長は小姓30騎だけを連れて、突然上京
  して来たので、家康は慌てて船便を求めにその日に堺へ逃げましたが、

  堺取締の松井友閑は1隻の船も自由にさせず、家康の一行を軟禁状態に
  してしまいました。

  3日目の6月2日、本能寺の変が起きました。
  『フロイス日本史』によれば「三河の王(家康)を討たんとして信長は
  兵を集めた。しかし集まった者は裏切って信長自身を髪の毛一本残さず
  吹っ飛ばせた」とあるそうです。

  伊賀山中を越えて逃げ戻った家康は、すぐ兵を出して尾張の鳴海に本陣
  を前衛を津島まで出したが、秀吉が13日、山崎円明寺川でライバル明智
  光秀軍を全滅させてしまいました。

  ところが家康はその5日後に至るまで鳴海で頑張っていたそうで、勝っ
  た者向かいといった勝ち抜き戦の有様の中、家康は秀吉を討ちたかった
  らしいと推測されます。

  しかし、スパイ網を張り巡らせていた秀吉に<信長殺しは家康のさしが
  ね>という弱点を掴まえられていたので、やむなく20日に陣払いして戻
  っています。<他へは知られたくない急所>を握られていたばっかりに
  家康も秀吉の在世中は諾々とその命令下に身を甘んじていなければなら
  なかったというわけです。

  なにしろ用心深い秀吉は、三河衆の筆頭石川数正を引抜して、いざとい
  う場合の生き証人にさえしており、さらには亡き岡崎三郎信康の娘を妻
  にした<長女の夫=小笠原兵部少輔秀政、侍女の夫=本多美濃守忠政>
  の2人も、同行して秀吉の臣下となってしまっていたので、家康として
  は「信長殺し、信長殺し」と続けてぼろが出てしまうことになりかねず
  鳴くまで待とうホトトギスと時節到来までひたすら辛抱していたことに
  なります。

  秀吉が死ぬと昨日の忠臣も今日は逆臣とばかり、大阪城を陥して天下を
  取りました。

  その間に信長殺しをさせた斉藤内蔵助の娘福が他へ嫁して4人まで子が
  あるのに、これを伏見へ引き取って子供を産ませ、やがて生まれた子と
  共に江戸の秀忠の許へ送り込みました。

  家康としては、信長の異母弟妹於市の方の産んだ達子の子の国松には、
  織田の血脈が流れているから「あれに徳川の家を継がせるなどは以ての
  外」と春日局の子の竹千代をもって3代将軍家光としたとのことです。

  秀忠も自分の生まれた年のことなど知りようもなかったのだが、老いた
  る父の家康から、信長殺し、そのためにやむをえなかった信長殺しの顛
  末を聞かされて「徳川家の恩人斉藤内蔵助の娘の子」つまり異母弟にあ
  たる家光が二十歳になるのを待って、直ちに将軍職を譲ってしまったそ
  うです。

  4代将軍家綱の時も跡目を異母弟の綱吉に継がせており、家康は己の晩
  年の子の家光を3代将軍に指名して、駿府に戻ると安心したのか翌年に
  大往生を遂げました。

  しかし、三河の人間ではないから駿府の久能山へ葬るように遺言しまし
  た。ところが家光は「自分を将軍家にしてくれた父家康の恩に報いるた
  め」にまず織田家の血を引く名目上の弟(実際は甥)の駿河大納言忠長
  を上州高崎で殺させ、その母の達子(江与)を押し込め同然にして、や
  がて死ぬと「崇源院」と諡名したが、自分は葬式にも出ず、生涯墓参も
  しなかったと三田村鳶魚の考証にもあるとのことです。

  ついで家光は世良田村の奥に昔ながらの日光別所があるのに目を付け、
  ここへ有名な日光東照宮を建て、戒名も墓も判らぬ松平元康に比べると
  二郎三郎家康は幸せ者であったと結んでいます。

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 ■明智光秀の冤罪説から徳川家康の詐称人生までの流れは、さすが八切
  止夫氏の面目躍如たるものを感じます。
  思わずこれが事実かもしれないと思ってしまうほどです。
  
  歴史の闇の中から浮かび上がってくる真相、それは現代の世界でも常に
  存在しています。先日のテレビのワイドショー番組で、ダイアナ王妃殺
  害の首謀者はチャールズ皇太子ではないかというニュースが流れてきま
  した。

  果たして事件は解決するのでしょうか。
   
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  ◆メルマガ名:「歴史上の人物の異説奇説」
  ◇発行者:纐纈智恵郎 kouketsu@yahoo.co.jp 

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