メルマガ:歴史上人物意外史
タイトル:歴史上人物意外史 Vol.9  2005/11/30


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          歴史上人物意外史         Vol.9

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  ■一年の経つのは早いもので、すでに師走です。
  
  時間というのは齢とともに早まる傾向にあるそうで、子供の時の時間と
  四十代、五十代の人との時間の感覚は同じ時間を共有しながらも、全く
  違うのですね。

  私も齢を重ねるたびに「歳月人を待たず…」とか「光陰矢のごとし…」と
  いう言葉を痛切に感じるようになりました。

  いかに気持ちは青春時代と変わらないと思っていても、体は正直なもの
  で歳相応になっています。「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽ん
  ずべからず」私の好きな漢詩(作者は日本人だったかな?)の一節です。

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 ■徳川家康は二人いた?<その1>

  先回、明智光秀天海僧正変身説を最後に付け加えましたが、これについ
  ては八切氏も一応触れてはいるものの大勢に影響はないといった感じの
  ものでした。
  しかし、八切氏も友人も大した興味も持っていなかったようです。

  亡くなった友人は、光秀天海僧正説について、こんなことを言っていま
  した。

  もし、これが事実とするならば、自分の説を大いに裏付けてくれるもの
  なのだが…と前置きをして、家康は光秀に弱みを握られており、当然
  光秀にしてみればお前のせいで俺はこんな目にあったんだ、どうしてく
  れるんだよと脅しをかけたとしても不思議ではないし、家康も己の犯し
  た罪滅ぼしの償いとして、学者としての才能を利用することも考えて、
  名前も身分も変えて天海僧正に成りすまさせたのかもしれないと言って
  いました。

    話は変わりますが、八切止夫氏は徳川家康の出生や生い立ち、その後の
  家康に疑問を持ち、家康は二人いたのではないかと推理をしています。
  
  この作品は明智光秀ほどの衝撃も反響も与えてはいませんが、八切史観
  の面目躍如の一端をうかがわせるものではあります。

  家康の出身履歴は上州在の次郎三郎という者だったと言います。
  以下に八切氏の説を引用しながら話を進めて行きましょう。

  当時の秘書役に当たる「物書き方」だった人が『寛永系』という文書に
  採録されている『本多元孝譜』には、
  「永禄4年11月1日には元康の御名で、手紙類を出されていたが、翌5
  年8月21日付よりの送信文書からは家康と改められた」と書き残してお
  り、この文書は徳川家公認の指し出し系図を集めたもので、さらに
  「まだ徳川初期の寛永年間にあっては、上州新田郡世良田村の次郎三郎
  という者が、神君東照権現に成らせ給うまで、初めは元康と名乗られた
  が、すぐ翌年夏からは松平家康。そして次に、上下とも変えて徳川家康
  と成らせられた」というのは公認されていた事実だとのことです。

  徳川姓は上州新田別所出の新田義貞の生き残りの一族が、世良田、新田
  徳川、日光と分かれ、元禄年間よりは本家は、新田姓を蔭姓として岩松
  と変わったが、代々徳川家へ系図を貸してやって手当を貰っていたとい
  います。

  また、元禄以降に編纂された徳川家の歴史では「松平清康――弘忠――
  元康――」となっているが、岡崎の大樹寺に葬られている弘忠には「瑞
  雲殿広政道幹大居士」となっていたのが慶長16年の寺の過去帖では、弘
  忠の供養のために建立された寺だから「大樹院殿大居士」となっており、
  一人の松平弘忠に二つの法号があるのも変だし、同じ岡崎の松広寺にも
  弘忠の墓があって、そこでは「成烈院大林寺居士」とあり、別に弘忠に
  は内葬の時に法蔵寺院主が贈り名をしたという「慈光院大林居士」の法
  号もあるそうです。

  唯の一人きりの死者に、同じ狭い岡崎で、4つも戒名があるというのは
  複雑過ぎると八切氏は述べています。

  多分これは松平元康が徳川家康になったという元禄以降の仮説をもっと
  もらしくするためには「元康の墓や戒名があってはまずいから、4つの
  戒名を1つにして弘忠にしてしまった」のではなかろうか、つまり本物
  の松平元康は家康の前身とされてしまったばかりに、死んでいるのに戒
  名も墓も判らなくさせられてしまったと推理するのです。

  ということは、元康は殺されて元康に成りすました家康、つまり二郎三
  郎なる者にに入れ替わったということでしょう。

  巻末の資料には弘忠の墓といわれる写真なども掲載されています。

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 ■奇しくも新聞に、尾張徳川家21代目当主で徳川美術館館長をされていた
  徳川義宣氏の訃報が掲載されました。
  
  同氏は家康文書研究家としても知られ、有名な家康の「御遺訓」とされる
  「人の一生は重荷をおうて遠き道をゆくが如し」とする言葉も本人のもの
  ではないという研究を発表されているそうです。

  ご冥福をお祈りします。

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  ◆メルマガ名:「歴史上人物意外史」
  ◇発行者:纐纈智恵郎 kouketsu@yahoo.co.jp 
  

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