メルマガ:歴史上人物意外史
タイトル:歴史上人物意外史 Vol.8  2005/11/17


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          歴史上人物意外史         Vol.8

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  ■冬将軍の足音が足早に近づいて来るのを感じます。
  北海道や中部山岳方面からは雪の便りが舞い込んで来ました。
  
  私の住む地域は中部地方の太平洋側に近く、今年は例年に比べると
  暖かな晩秋と言っていいかもしれません。

  暖かな日が続くことは寒がりの私にはありがたいことですが、喜んで
  ばかりいるわけにもいかないようです。例の地球温暖化の影響で、気
  温上昇により豪雨や洪水、森林火災、台風やハリケーンなど気象災害
  が世界各地で発生し、関連性があるかどうかはわかりませんが、世界
  各地で大地震も相次いでいます。

  まるで大気を汚染し、自然を破壊してきた人類が造り出した文化や
  文明に対する地球と大自然の報復のような気さえします。

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 ■明智光秀冤罪説≪その5≫

  さて、八切止夫氏や友人の直感によれば、徳川家康により仕組まれた
  本能寺の変ですが、謀反の主役ということで濡れ衣を着せられた明智
  光秀の当日の行動とはどんなものだったのでしょう。

  八切説では本能寺の変直後に何も知らずに坂本城を発ち京都に入った
  明智光秀軍は治安の維持に努めたのですが、羽柴秀吉や一向宗の本願
  寺側から謀反の張本人のレッテルを貼られたのだと言います。

  友人の説の方では、信長の忠臣であった光秀は、信長が少数の人員しか
  連れていなかったことや家康の不穏な動きを察知していただろうと言う
  わけです。
  
  そのため、中国遠征に向けて軍を率いて坂本城を出立時、かの有名な
  「敵は本能寺に在り」との号令を発して軍を急遽京都に向け、信長の
  警護に当たろうとしたのではないかと推理をしたのです。

  信長の宿泊地本能寺から見えた光景というのは、明智光秀軍の旗印で
  ある桔梗の紋をあしらった幟がひしめき合っていたに違いないから、
  信長の身辺に在った者が光秀の謀反と思い込んだとしても不思議では
  なく、光秀のライバルや敵対勢力はまたとないチャンスを利用して、
  すべて光秀になすりつけたというものです。

  信長暗殺で権力の空白を埋めるものとして、以下の諸勢力が存在した
  と八切氏は言います。

  一、明智光秀:天皇から征夷大将軍に任命されてこれを受諾したものの
    この時に朝廷側の人質になってしまって、身動きの出来ない立場に
    わが身を追い込んでまったと言うわけです。

  二、天皇、公卿側:律令体制の大枠死守のために滅亡寸前の足利幕府
    第16代征夷大将軍の跡継ぎを物色中でした。

  三、カトリック側:信長爆殺クーデターに一役買ったものの、報復を
    恐れて当日九州口之津へ逃げたオルガンティーノ神父をインドへ
    異動させ、マカオ→堺航路は閉鎖。少なくとも信長艦隊による
    マカオ襲撃の危険だけは回避できたのだそうです。
    それ以降はポルトガルはスペインの支配下に入り、フランシスコ派
    に取って代わられました。

  四、羽柴秀吉:中国の毛利一族と事前に約束して和睦を結び、逆臣光秀
    を討ち取り、天下を握ることになります。

  五、徳川家康:信長による殺害計画を察知して先制攻撃を企て、自身は
    堺に逃れてアリバイ作りをしながら、刺客を本能寺に送り込むも
    クーデター計画は失敗し、本能寺の変直後に大慌てで世に言う「大
    逃げ」を打って駿府に帰り、大軍を率いて再び尾張の津島まで押し
    出して状況をうかがっていましたが、秀吉軍が光秀勢を長岡の勝竜
    寺城で騙し討ちにして滅ぼした後は、やむなく兵を引き上げざるを
    えなかったとのことです。

  ここで友人の推理を付け加えますと、家康がほかに逃げ道があったとい
  うのにわざわざ大回りして伊賀経由で伊勢の白子浦まで辿り着いたこと
  自体が不自然でであり、よほど報復措置が恐くて命からが逃げたのでは
  ないか、やましいところがなければそこまでする必要はないはずだと言
  っていました。

  光秀は12日間行方知らずであったともいわれていますが、友人説では領
  民の間を回って身の潔白を説明していたのではないかと推理し、さらに
  光秀は最後土民に捕らえられて殺害されたとなっているのも領民が領主
  に対してそんなことはするとは思えない、きっと土民に偽装しった武士
  の手によって捕われ殺害されたと言うのです。

  それから小牧・長久手の戦いで秀吉軍と家康軍が対峙して、長期間にわ
  たり睨み合いを続けていたということについても、多分秀吉は家康に対
  して「俺はお前が真犯人だと知ってるぞ」と脅しをかけ、家康は狸親父
  振りを発揮して「わしは知らんぞ、ちゃんと下アリバイもあるしな」と
  のらりくらりとぼけていたからではないかとも推理していました。
  今も昔も「記憶にありません」と言い逃れをする偉い人は後を絶ちませ
  んからね。
  
  光秀をめぐっては、実は生き残っていて家康の計らいで天海僧正となっ
  て家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕え、権勢を誇ったという説があり
  ます。

  ロシアの宮廷をほしいままにした快僧ラスプーチンや日本の女帝との
  関係があったとされる弓削の道鏡などが連想されます。

  光秀の末裔を名乗る明智滝朗氏を始めとしてほかいろいろな人が主張し
  ていますが、光秀自身も前半生、本能寺の変以降の消息はよくわかって
  いないし、天海僧正の素性も判明していないため、両者が結び付けられ
  たものとも思われます。

  参考までに光秀天海変身説に興味のある方は、インターネットで「天海
  僧正」を検索すれば詳しいことがよくわかります。

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 ■明智光秀と本能寺の変について、長々と八切止夫説、今は亡き友人の
  直感説を交えて書いてみました。

  八切止夫氏独自の八切史観とも言うべき数々の著作は、小説という形を
  とっていても歴史を再検証して真相を明らかにしようとしており、巻末
  には著者自身の解説が掲載されています。

  今後とも八切氏の著作の中で面白かったものを紹介していこうと思って
  います。

  なお、八切作品は最近復刊されて書店の棚にも並んでいます。興味のあ
  る方は一度読んでみてください。最初は奇想天外と思っても読み進むう
  ちに納得してしまう部分がかなりあります。

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  ◆メルマガ名:「歴史上人物意外史」
  ◇発行者:纐纈智恵郎 kouketsu@yahoo.co.jp

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