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タイトル:夢幻出版社『多津蔵物語 夢幻とは』  2004/04/15


”夢幻 ”について書き込まれた。少し異議があり此処に反論を述べる事と成った。
夢幻とは、自覚的な事象なのであろうか?私どもの「夢幻出版社」の夢幻は自覚的である。
然し、普通の人が思い描く夢幻は、寧ろ、儚い夢であったと、後で認識するものと考えられる。ならば、虚実とか虚像とは言い切れないのではないのか?
結果は、虚かもしれないが、辿り着くまでは、幻とは自覚し得て無いのである。
では、幻と自覚していたら虚実なのか?
此れにも反論がある。
私どもの「夢幻出版社」は、虚実の世界を描くのでは在りません。実際の姿を、虚の空間として掴み取ることをしているのです。虚の空間とは、今は暮していない場を描く事なのです。過ぎ去った時空間を現実に引き戻したり、来るであろう出会いの時を先取りしたり、過去と未来を此の場に同居させたり致します。
この事を、虚実な世界だと決め付けてしまったなら、豊かな空想力や、創造的なイマジネーションは育ちません。
ものを生み出す力は、現実の世界の中に、虚成る世界観を持ち得るのか?なのです。実像しか見えなければ、其れは、くそリアリズムの世界でしか在りません。
尤も、「薩摩の夢」で言いたかった事は、夢の大切さでしょうし、幻の大切さも認めてはいます。
此処で反論をした力点は、批判ではなく、幻の本質的認識を補足したかったからです。夢幻は、儚い日本の美学なのです。ハラハラと散る桜の花びらに、実像の花を見る人はいません。寧ろ、姿を失った花を其処に認識をし、其の姿に虚の世界観を感じるのです。詰まり、花の姿が花びらになった事で、異なる世界を見ることが出来るのです。此の認識こそが日本の情緒といわれる美なのです。
夢幻出版社は、此の和の暮らしの味わいを、実像のごとく捉え返す切り口で、語り続けたいと願っています。
                     文責 編集長 田鶴彦乃蔵人

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