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文化の秋が、多津蔵にも一杯在りました。 京の花会・福岡の花展・名古屋の花展・八代の花会・スタッフの卒業展等です。 来月には、藤元の文化祭が在ります。 主宰も、仲の良い知り合いさんと、お花の出品を致します。 花と関わりが深い訳は、工芸の館の空間を、お花で切り取りたいからです。 ”お花で切り取る”此の手法が、工芸なのです。 工芸は、立体空間を占めるものです。 染色や織りは、平面のように見えても、空間を飾るものなのです。 故に、空間の処理のセンスが問われ続けます。 お花は、此の意味で、日常的な、センスの訓練のようなものなのです。 暮らし向きのなかで、常日頃、磨かれる事が肝心なのです。 生活から遊離した工芸は存在し得ないと、多津蔵は考えています。 大名には大名の生活があり、町人には町人の生活が在りました。 どちらにも関わるには、職人と企画する者が、同時に存在せねば成らないのです。 多津蔵は、大名の生活は出来ませんが、大名の文化の形を学ばねば成りません。 其の為の試みの一つの形が、お花を生ける事なのです。 文化は、一夜漬けでは出来ないものです。 多津蔵が、豊かなものを作り出すには、豊かな感性を持たねば成りません。 豊かな感性は、毎日の感動で育まれるのです。 感動の無い生活では、豊かな感情は生まれません。 生きる喜びや、儚さや、逞しさなどを受け止めて、育つのです。 多津蔵の目標は、此の豊かな感情を、表現できる人の集まりなのです。 工房は、人で形作られるのです。 人が育たなければ、豊かなものは出来ません。 多津蔵物語が、人の話で語られる所以が、此処にあるのです。 ものは、結果でしか無いのです。 結果しか見られない構造こそが、問われ無ければ為らないものなのです。 構造改革と世間では騒がれていますが、結果オーライでは、何も変わりません。 其の過程こそが問われ、真摯に改革を迫らねば何も出来る筈も無いのです。 多津蔵は、何処かの政治家より一足早く、新しい形を生み出します。 人が豊かな生活を為す姿を、多津蔵は実現し、工芸を楽しみます。 当たり前のことを、当たり前にする事なのです。 そんな事が、難しくて出来ない、奇妙な国に、誰がしたのでしょうか? 総選挙が始まると、寝ていた疑問が、ふつふつと沸き上ってきます。 工房「多津蔵」デザインルーム |