メルマガ:【マスコミが伝えない事実】
タイトル:るいネットメールマガジン 【 る い 】[2006.2.21]  2006/02/21


  るいネットメールマガジン【 る い 】[2006.2.21]

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        メルマガ 【 る い 】  [2006.2.21]
            http://www.rui.jp/

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1  今週の注目投稿
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★ 社会板より、「次代の活力源は?(みんな期待⇒答えの供給者)」
  についての議論をご紹介します。
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◇ 「供給者」として社会の中にいる、私。 
         【中瀬由貴  (23 東京 社会人)  06/02/09 PM05】  
 
  るいネット初参加は、学生の時だ。

  最初の投稿は、投稿しなきゃいけないから投稿した。
  けど、投稿するためにたくさんの投稿を読んだ。何度も国語辞書を引いた。
  「収束」や「不全」、当たり前のように使っていた「期待」や「実現」の
  意味も調べた。
  その中で、みんなの投稿に感動した。「こういうことを聞きたかった、知
  りたかった、伝えたかった!」ってすごく嬉しかった。物語じゃない、事
  実を伝える言葉を見て涙が出たのは初めてだったと思う。

  2つ目の投稿からは明らかに違った。「投稿しなきゃ」から「私も伝えたい」
  に変わった。みんなの投稿からもらった充足感を繋げたいと思った。投稿
  を読んで「実はこうだったんだ!」と気付いたことを素直に伝えた。いつか、
  この人やあの人みたいに、役に立つ投稿が出来るようになりたいなぁって
  思った。

  投稿を介した期待⇔応望の充足を体感してから、2年くらい経った。
  今、「感動した」「私も伝えたい」に加えて、もっとたくさんの想いが生
  まれている気がする。

  まず、仕事で、仲間関係で、生きる中で、るいネットで紡がれてきた認識が
  役に立った。今はこれらの認識群を知らない自分が想像できないくらいだ。
  「みんなにもっと伝えたいな」って思う。
  そして、実感だけでは掴みきれなかった「社会」が、どう動いているのか
  把握できるようになってきた。サル・人類の原基構造にまで遡って、現実を
  対象化し、構造化した認識=構造認識に対する感謝の念が湧いている。
  「人類が歩んできた道のりも、今も、しっかり見つめたい」と思った。

  そして、何より、「答えを出したい」という想いが強くなった。身近にある
  些細な事から、社会を覆う閉塞まであらゆる所に「なんで?」がある。
  逃げたり、諦めたり、誤魔化したりしたくないって本気で思った。「もっと
  新概念を使いこなしたい」って思う。

  投稿や認識仲間に同化できていなかったり、「自分」の中から何か生み出そ
  うとしてしまったり、結局言葉に出来なかったりと、未だに投稿するのには
  時間がかかる。だけど、やっぱり、伝えて、しっかり見つめて、答えを出し
  たい。みんなで。

  るいネットの中の、「みんな期待の中で答えを供給する」という大きくて力
  強い活力を感じて、今、投稿している。「感動した」「私も伝えたい」とい
  う参加者だった私は、「供給者」として社会の中にいる。そんな気がしている。  
  
  全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=105412  
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◇ 活力の有無は当事者意識の有無 
         【山崎許子  (28 札幌 OL)  06/02/17 PM11】  
 
  仕事の不全、人間関係の不全、「何なの?」「何でなん?」と文句だけは湧
  き出てくる。それでエネルギーを出すこともできるけど、むなしいし持続し
  ない。しかし、私の思考はいつもそこで止まっている。何とかしようという
  当事者意識はなかなか湧いてこなかった、というのが本音だ。

  当事者意識が湧かないのは、おそらく昔からで、良くも悪くも冷静で熱くな
  らない性質であると、他人からもよく言われていた。当然、元気いっぱいな
  人間ではないし、腰も重い方だと思う。

  いつも活力がある人に聞いてみると、自身の活力不全はなくても、「あれを
  何とかしなきゃ」「どうしたら改善できるだろうか」と思いをめぐらしては
  みんなに発信していくことが常のようだ。そこには当事者として立ち回る姿
  がある。

  批判ばかりで人任せでは、活力は出ない。自らも「何とかできないか」と思
  ったら、その瞬間から活力が沸いていることは私にも経験がある。当事者意
  識を持てることが、活力再生の重要な第一歩なのではないかと思った。

  >『実現論』を読んで、頭で理解しただけでは、答えの供給者になることは
   できない。
  >新しい供給者に成るためには、新概念を自在に使いこなせるように成る必
   要があり、そのためには不断の研修と実地演習が不可欠になる。
  (参照 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=79803 )

  問題の核心にせまる(=当事者になる)ためには、従来の否定からの思考法
  で臨むのではなく、新しい切り口、思考が不可欠になる。それこそが新概念
  であり、新理論体系である。

  ただただ言葉(認識)を吸収するだけでは、壁は越えられなかった。思考方
  法そのものを転換しなければ、活力を再生させることも、供給者になること
  もできない。今日あらためてそれに気がついてしまった!  
 
  全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=105908
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◇ 巨大な課題の持つ短期分散力を長期高密度反転させる(現実課題=共認課題) 
         【佐藤英幸   (43 新潟 塾長)  05/11/25 AM00】  
 
  下からの圧力を形成しようとしたとき、期待したような成果が現われないと
  きは、その期待の内容が間違っているか、序列原理が残っていて共認圧力を
  上回っているか、共認媒体の封緘(ふうかん)、などが考えられる。

  「形だけ序列原理」の場合には、課題共認によって大抵のことは突破できる
  が、「形だけ共認原理」の場合には認識形成の時間がかさむばかりで会議が
  長引く。そして会議(参加)への期待そのものがしぼんでゆく。

  「形だけ序列原理」。例えば私は塾長の肩書きを持っている。しかし、これ
  は対外的に、集団の代表者は誰かと聞かれたときに答えるだけで、塾の中身
  は課題共認以外には見つからない。
  ただ、その課題共認の中身が、受験勉強であったり、学校の定期テストであ
  ったり、日頃の補習であったりして、個人課題や私権課題と結びつきやすい
  から、社会的な共認課題を意識的に上位の課題として持って来ることを心が
  けているにすぎない。それが私の(集団での)役割であると考えても矛盾は
  ない。

  そして社会的な共認課題が、生徒の「本当に知りたかったこと」とイコール
  になったのは、生徒の世代の多勢の仲間収束が、人をいじめても面白くない、
  ただ遊んでいても面白くない、他に仲間でできることはないのか、社会って
  なに?というふうに、外向収束を追求しはじめたところに、るいネットで認
  識形成を続ける大人としての私が彼らのえさのように目の前に現われたこと
  による。
  私という人が社会に興味を持ち周囲の人よりも詳しいし正しそうなので、人
  物に収束してみているという感じである。(そういうとカッコいいがえさは
  毎日ついばまれているのだから毎日新鮮な認識を仕入れるか創造するかしな
  ければならない。)

  供給者が毎日答えを供給することによって、昨日聞いた生徒と今日授業を受
  けた生徒とはたった一日だがされど一日の違いが生じる。それが生徒たちの
  話し合いの中では最先端の一歩の違いになるので、必然的に出席率や通学日
  数は増加する。

  (もしくは生徒の中の供給者が出現する!)

  そしていつのまにか、受験勉強、定期テストの勉強、日頃の課題、という臨
  戦課題と、肩を並べるくらいの臨戦課題に社会課題がのし上がってきた結果、
  課題と課題が一体化されて、強い対象認識力をその子の段階に応じて各自が
  持ち始めているという状況なのだと思う。その場合「漢字テスト」と「最先
  端観念」はイコールに近づく。

  言い換えれば、数ヶ月の努力で突破できる軽い課題から、数年を要する重い
  課題に転換され、次にその重い課題の臨戦度が上昇することで、塾にいる数
  年間の貴重さが、期限を共認するに至ったという感じである。

  学校であれ塾であれ、「卒業」という期限のある集団では、課題共認と期限
  の共認(=臨戦性)が生命線でもあり、限界でもある。そこで、生命線を強
  化し、限界を突破するためには、いかに(集団や人が)外の社会と繋がって
  いて、集団の卒業を超えたところでも仲間でいられると思ってもらえるかが
  重要になってくる。

  それが「人収束」であり「共認媒体収束」だと思うし、長大、巨大な課題の
  持つ短期分散力を長期高密度反転させる鍵だと思う。このことは有期限の集
  団以上に無期限の共同体のほうが難易度の高い課題であることは言うまでも
  ない。しかし、確実に「実り」は大きいのである。  
 
  全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=101385
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