メルマガ:【マスコミが伝えない事実】
タイトル:るいネットメールマガジン 【 る い 】[2006.1.11]  2006/01/11


  るいネットメールマガジン【 る い 】[2006.1.11]

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        メルマガ 【 る い 】  [2006.1.11]
            http://www.rui.jp/

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1  今週の注目投稿
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★ 現代板〜若者と老人お題より、「なぜ勉強しなければいけないの?」
 についての議論をご紹介します。
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◇ 出来ない、覚えられない 
         【西知子 (30 京都 秘書) 05/12/27 PM03】  
  
  『目の前で計算のやり方を教える→その場では教えられたとおりに出来る
  →次に来たときにはきれいさっぱり忘れている(@o@)』
  これは、ある塾の先生から聞いた話です。そんな子が、特殊ではなくある
  一定の割合で存在しているとのこと。

  この現象だけ見てると「なんで??」と不思議に思うけど(これを話して
  くれた先生は理解に苦しんでいました)、私は、女の子が道を覚えれなか
  ったりor機械に疎かったりするのと同じだなぁ〜と思いました。
  出来ないのではなく、本当は出来るようになる必要を感じていないだけな
  んです(^^;)もっと言うと、出来るようになりたいとあまり思っていない
  (どっちかっていうと出来るようになりたくない?)。
  
  「いざとなれば、誰かが連れて行ってくれる、教えてくれる。」
  「出来たとしてもそんなにプラス評価ではない。」
  薄々と、でも確信的に、そんな風に思っている。当然、何回やっても覚え
  ないし、そもそも真剣に覚えようともしていない。

  そしてこれは、一向に仕事で成長しないのも、一向に答えが出せるように
  ならないのも、根は同じ。
  だから、たかが計算は得意だった(勉強は出来た)くらいで、冒頭の子供
  たちの事例を、傍観者的に安心したり心配したりしている場合じゃない。
  むしろ、現実に目の前で課題が山積していて誰かがやってくれているのを
  見ても、それでも自ら吸収しようとしない私たち大人の頭は、計算をすぐ
  忘れる子供よりもひどいんだと自覚すべきでしょう(>_<)  
   
   全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=103220
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◇ 「できない、覚えられない」を、どうする?(追究すべき課題とは、何か?) 
            【安西伸大 (32 岐阜 企画)  06/01/04 PM10】  
  
  >『目の前で計算のやり方を教える→その場では教えられたとおりに出来
  る→次に来たときにはきれいさっぱり忘れている(@o@)』
  これは、ある塾の先生から聞いた話です。そんな子が、特殊ではなくある
  一定の割合で存在しているとのこと。

  >たかが計算は得意だった(勉強は出来た)くらいで、冒頭の子供たちの
  事例を、傍観者的に安心したり心配したりしている場合じゃない。
  (参照 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=103220 )
  
  算数に限らず、全ての科目において「漢字や熟語が覚えられない」「歴史の
  年号が覚えられない」「地名が覚えられない」「生き物の名前が覚えられな
  い」「英単語が覚えられない」子も、やたら増えている。

  受験勉強を突破するという目的と、その旨み(私権的価値)が暗黙のうちに
  共認されていた一昔前なら、単に「試験に出るから覚えよう。合格するため
  に重要だから覚えておこう。」というトークだけで、大半の子どもたちはや
  る気になり、ひたすら暗記しようとしただろうし、それだけで授業が成立し
  たのかもしれない。

  しかし、私権的価値がとことん衰弱した現代では、「日常生活の場面であま
  り使わない・記憶しても現実と繋がらない知識」について、「現実とどのよ
  うに繋がっているのか?」「なんで覚えなければならないのか?」「覚えて
  おくと、どんな役に立つのか?」「どういう意味があるのか?」についての
  「答えを実感し共認」することができなければ、覚える気持ちが湧いてこな
  いし、できるようになりたい、というエネルギー=可能性収束力のエネルギ
  ーが湧いてこない。

  親や教師も、私権期待をかけると子どもに嫌われるし、実は、もはや勉強す
  るだけでは現実の役に立たない=仕事ができないことを薄々知っている=自
  らその意味を喪失しているから、昔のように、私権期待に直結するような強
  い期待をかけることは、できない。

  社会から子どもにかかる期待は、限りなくゼロに等しい現実がある。
  このまま放置すれば、子どもたちが自然にやる気になったり、本気で課題に
  取り組むようになるはずがない。

  しかしながら、私権価値が衰弱した=私権獲得の可能性収束力が衰弱した現
  象があるからといって、「現実=みんな共認社会で充足する・適応するため
  の」記憶や勉強の意味は、現実に存在している。
  みんな共認への可能性収束力をどのように作り出すか?こそ、追究すべき現
  実課題なのではないか?

  例えば、記憶力がよいと、みんなが思い出せなくて困っている時にすごく役
  に立つことができる。
  特に、記憶力にすぐれた子ども時代にたくさん暗記してしまえば、いつでも
  それを思い出し、みんなの役に立つことができる。
  また、記憶の蓄積があると、後でその意味が深く分かるようになり、使いこ
  なせるようになる=暗記には(私権価値が衰弱しても)確かな普遍的価値が
  あるのも事実。

  一旦先生や大人という立場やしがらみから離れて、社会の地平や共認原理の
  地平から「できるようになる意味・覚える意味」をどうやって生々しく伝え、
  子どもたちに社会的な期待をかけ、「共認形成」していくことができるのか?
  信頼の基盤を獲得することができるのか?その答えを出すことが、教える役
  割を担う側に、突きつけられた課題である。

  また、例えば、百マス計算で有名な陰山氏は、『牛の心臓』を持ってきて、
  小学生に理科を勉強する意味を伝えたり、京都御所南小学校では、授業で
  『妊婦さんを招聘』し、生命の意味を実感させて、子どもたちのやる気を引
  き出している。

  こうした事例は、子どもたちに生々しい現実=社会を繋げ、新しい勉強の意
  味を実感させることによって、本気にさせているのだと思われる。

  現実と繋がる事例をどれだけ豊富に用意し展開できるのか?も、突破すべき
  課題であると思う。  
   
  全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=103617
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◇ 子供たちに『勉強の必要性』を語るのは難しい…?! 
         【吉国幹雄  (51 鹿児島 講師)  04/04/08 AM02】  
 
  露店で『勉強しないといけないのは、なんで?』のお題を選んだ学校の先生。
  子供たちに『勉強の必要性』を分からせるのにホトホト困っているらしい。
  「理科の授業で『オームの法則』を理解しても、ほとんどの子供たちは日常
  も、また将来も使うことはない。むずかしい数学なんかできなくても日常生
  活に支障はない。一体どのように『勉強の必要性』を伝えたらいいのか。」

  理科や数学の授業において子供たちがソッポを向いて授業が上手くいってな
  いのだろうか。それとも「先生、なんでこんなこと覚えなあかんの?」、と
  言われて返答に窮したのだろうか。

  昔なら、「子供の仕事は勉強。そんなこと言ってたら高校に通らないぞ」と
  か、「今一生懸命努力したそのことが、将来の壁を突破する力となるのだ」
  などと話せば、一定納得して勉強したものだが…しかし、今の子供たちにそ
  んなこと言っても子供の心に響かない。

  「勉強の必要性は、自分の将来役に立つかどうかではない。勉強は自分のた
  めにやるというのではなく、みんなのお役に立つため、みんなの期待に応え
  るため。」という店主の半答え。
  なるほどと頷きながら、でも実際に子供たちに話す場面を想定すると、必要
  性を納得させるのはかなり難しいと感じる。「お役に立つ」ことが将来へ保
  留されるので、子供に実感させにくいのか…。

  このお題、考えてみると結構奥が深い。

  「みんなのお役に立つ立派な社会人になれ」、というのは60年代から70年代
  にかけての学校教育においてよく言われたこと。学校が私権(社会)秩序維
  持のための教育機関であることを考えれば、その中身は、「私権規範の遵守」
  (これが教育でよく言われる「文化の継承」の意味)と「豊かさを追求」
  (これが「文化の創造」の意味)することに他ならなかっただろう。
  さすがに勉強することが、みんなのためだとは誰も思っていなかった時代だ
  し、みんな自分のために勉強していたのだが、しかし、「勉強の必要性」は
  「社会で役立つため」というのは、子供たちの心には観念的にはほぼ受け入
  れられていたように思う。
  もっとも、ほとんどの子供たちは、勉強しているより仲間といっしょに遊び
  回っていた方がはるかに面白いので、昔の子供たちの多くもいやいや勉強し
  ていたのは言うまでもない。

  何が違うのだろう。

  子供を取り巻く圧力構造が全く違うからではないか。60年代〜70年代は豊か
  さがどんどん実現され、私権獲得の可能性が開いていった時代。個人も家庭
  も企業も、そして社会全体が私権で統合されていた時代。だから、自分のた
  めであろうと、社会のため、みんなのためであろうと、どれも私権原理によ
  る圧力構造の下で一致していた。だから、豊かな「社会」の実現のために勉
  強は必要、と言われても子供たちは納得していたのだろう。

  ところが、現在統合原理が私権原理から共認原理へと移行しつつある。が、
  教育制度をはじめとする古いパラダイムの中で、人々の意識もまた完全に転
  換できていない。人々は統合不全を抱え、個人も学校も社会もイコールで結
  ばれていない。
  一方、子供たちは大人社会よりも先行する形でみんな収束し、より共認原理
  の働きやすい圧力空間を作ろうとしている。にも関わらず、お役に立つべき
  「新しい共認社会」はパラダイム転換途中であり、顕在化していない。その
  証拠にみなの期待に応えるというならば、大人たちは一体彼らにどんな「期
  待」をかけているのだろう。自信を持って彼らの社会における役割(出番)
  を語れるだろうか。

  もしかれらに寄せる「期待」があるとすれば、まさに君らの時代こそ、新社
  会=共認原理で統合される社会をいっそう実現してくれ、という期待しかな
  いのではないだろうか。
  だから、子供たちが「何のために勉強するの?」と問いかけているのなら、
  その問いの本質は「なぜ大人社会とこども社会の圧力構造、統合原理がずれ
  ているの?」という問いかけではないのだろうか。

  「なんのために勉強するの?」という子供の問いかけは、実は子供発なので
  はなく、むしろ、新しい子供社会と古い大人社会の矛盾のはざまに存在する、
  講師たち自身の発する葛藤の言葉ではないか。
  そうであれば、この問いを素直に言葉として発し、「勉強の必要性=認識の
  必要性」を共認すべきは、旧パラダイムから早期に脱却すべき講師達ではな
  いかと思う。そうしないと、子供たちは誰もついてこないだろうから。
 
  全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=69996
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