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るいネットメールマガジン【 る い 】[2005.11.2] □━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□ メルマガ 【 る い 】 [2005.11.2] http://www.rui.jp/ □━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□ ─┬───────────────────────────────── 1 今週の注目投稿 ─┴───────────────────────────────── ★ 社会統合お題より、「共認形成の場を作ってゆく活動こそ、真の社会活動」 についての議論をご紹介します。 ====================================================================== ◇ 「統合」をしらない私達 【関谷啓太郎 (25 千葉 会社員) 05/10/31 AM04】 私自身、仕事でも私生活でも、何か物足りない、仲間との結集軸が 見つからないと感じている。それが自らの不全となり、活力は低下 し、まともな思考ができなくなってくる。そしてその感覚はドンド ン強まってきている。それは収束不全からくることだと思うのだが、 じゃあ、どうしたらよいのか?どういうものがよいのかというとこ ろで、いつも思考が止まる。 私達の世代は、社会の統合軸が定まらない中で育ってきた。そのた め、社会全体でも、自分の身の回りでも、活力を持って、一つの方 向に向かっていくという「統合」された状態を経験したことがない。 自分の身の回りを振り返ってみると、スポーツや学校でのグループ 課題を通して、共認原理らしきもので集団がまとまって、なんとな く充足感を共有できた経験はある。 しかしながら、共通の課題→目的となっていたものは私権追求の延 長上のもので、自己満足の範疇を超えることができず、いまいち収 束し切れなかった。従って、これを「統合」といえるのかどうかは 甚だアヤシイ。 「統合」というものがいまいち掴めない。当然、経験したことがな いのだから、潜在思念から導かれる可能性をイメージするしかない。 >しかし、無意識の認識収束には大きな限界がある。無意識に留ま る限り、いつまで経っても認識収束が(引いては社会収束が)顕在化 してこない。認識収束を顕在化させるには、答えとなる言葉が必要 である。答え(に近い言葉)を与えられて、初めて潜在思念の認識収 束(全的な答え欠乏)が顕在化する。例えば、「認識仲間」という言 葉が与えられて初めて、解脱仲間から認識仲間への転換が顕在化し、 一気に進行してゆく。 (参照 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=28102 ) 社会不全を捨象しきれなくなり、諦めにも似た目先収束の色合いが 強まってくる現在、この目先を突破するためにも、潜在思念から湧 き上がってくる可能性が実現に結びつくような、具現化された言葉 が必要だと痛切に思う。 一方、すでに提起されている新しい認識「期待と応望」「認識仲間」 「認識形成の場」「需要から供給へ」そして「共認」。これらは新 たな統合の実現形態の一部なのだと改めて気が付いた。 そして、それらはすでに実現している。 統合軸の不在に気付いている私達が、上記に上げたような新しい統 合の実現形態をつなぎ合わせ、実践していく中で感じる充足・可能 性の中で、次代の「統合」をリアルに感じ、伝播していくことが重 要だと思った。 全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=100085 --------------------------------------------------------------- ◇ マスコミそのものも構造化する 【内藤琢 (28 京都 会社員) 05/10/29 AM01】 最近、なんで屋に足を向けてくれる人の多くは、「○○ってどうな ん?」「○○ってどうなってんの?」と言う違和感を携えながら来 る人が多い。 このような違和感の持ち方は、マスコミ報道への違和感と直結する 事が多い。マスコミがワイドショーやニュース番組等で総力を挙げ て(?)報道する事件に対して、「何が根本の問題になっているの ?」「考えないといけないようだけど、何をどう考えたらいいの?」 という違和感を持っているようだ。確かに、基本的にマスコミ報道 からは、「何の問題が騒がれているか」が非常によく分かる。また、 そればかり報道され続けると、考えないといけないような気分にさ せられる。 一方、人間と言うのは、どんな問題であれ、その「仕組み」が分か らないと、モノを考え始めることすら出来ない。(イデオロギー= 価値観念=旧観念を振りかざして、)「主張」することは出来るが、 普通の人はそんな行動に走らない。 マスコミは問題を列挙しつづけ、「考えること」を強制するような 言説を吐く一方で、庶民は「考えることができない」という。この ギャップは何なのか? それは、庶民の違和感の本質が、「マスコミがある問題をあげつら って、声高に主張しつづけるのは、なぜなのか?」という部分にあ るからだろう。つまり、(マスコミによって社会問題化された)問 題は、「マスコミがなぜそこまで拘るのか」を含めて「仕組み=構 造」を提起されないと、庶民は「考える」ことすらできないのだ。 しかし、マスコミ自身は、自らの存在を含めて構造化することはで きない。それは、この時代にあっては、マスコミ自身を構造化する ということは、彼ら自身の存在を否定することに繋がりかねないか らだ。 これからのあらゆる時事問題は、マスコミそのものの意識を含めて 構造化し、仕組みが分かって初めて、「考える」ことが出来る。あ る問題に対して、マスコミを含めた「仕組み=構造」を提示できる 場が、マスコミに代わる「共認形成の場」となり、「答え」を紡い でいく「共認形成の場」となる。 全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=99967 --------------------------------------------------------------- ◇ 官からみんなへ 【小松由布樹 (40 岐阜 農業) 05/10/30 PM08】 >国家と云っても掴み所がないが、その実体は官吏をはじめ、国家 によって肩書きを与えられた学者や教師や弁護士や税理士etcの統合 階級が棲息する場or機関と考えれば良い。 (参照 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=32086 ) なるほど、国家をそのように捉えてみると、郵政民営化に代表され る“官から民へ”というキャッチコピーが、ゴマカシそのものであ るとあらためて認識できる。 要するに、官とは国家から与えられた肩書きに過ぎず、官から民へ とは、その肩書きがあるか無いかの違いしかないということであり、 市場の住民(私権追及の主体)という意味では何も変わらない。し かも市場がここまで冷え込んでいる以上、市場原理に委ねたところ で、活性化するはずが無いことなど明らかだろう。 しかし、私権原理から共認原理への大転換に伴い、肩書きや身分は、 もはや人々の活力源たり得ず、社会統合の役目を終えた。役に立た なくなった肩書きや身分など、解体されて然るべきだろう。だが、 単に肩書きを解体するだけなら、私権追及の主体(=バラバラの個 人)が姿を現すだけで、何の答えにもなっていない。では、どうする のか? やはり、私権原理から共認原理への転換という認識が、決定的に重 要なのだと思う。社会は、みんなの共認に委ねられる時代になった のだ。みんなが課題や役割を共認することで社会は統合され、みん なが共認した課題や役割⇒評価が、みんなの活力源になる。 従って、みんなの共認形成の場こそが何よりも求められており、そ れが統合階級やマスコミに牛耳られていることが、何よりも問題な のだ。つまり、官から民へなどと言うゴマカシの改革ではなく、共 認形成の場を“官(マスコミ)からみんなへ”解放する(取り戻す)、 という本物の改革が求められている。 全文 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=100062 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ※【 】内は投稿者名・プロフィール・投稿日時です。 ※投稿は一部要約しています。 ※配信アドレスの変更、配信中止は、以下のページにて可能です。 http://www.mailux.com/mm_dsp.php?mm_id=MM3E9C2C446CC9D ※お問い合わせは「るいネット編集部」ruinet@rui.ne.jp まで。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇るいネット⇒ http://www.rui.jp |