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□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□ メルマガ 【 る い 】 [2004.04.20] http://www.rui.jp/ □━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□ ─┬───────────────────────────────── 1 今週の注目投稿 ─┴───────────────────────────────── ★「社会統合」の会議室から『「勉強」の変化〜密室空間から路上へ』 についての議論をご紹介します。 ====================================================================== ◇ 反序列(=学級崩壊)を超えた小学生の活力の兆し 【小圷敏文 ( 壮年 大阪市 建築士 ) 04/04/17 PM02】 先日、都市部の小学校を2校訪れた。 そこは、PTA活動や地域コミュニティ活動が活発なこともある かも知れないが、平日に突然お邪魔した私達数名が校内を視察し て回っても、生徒が緊張したり、怪訝そうなそぶりを見せること なく、元気に駆け回って遊ぶ子や、数人のグループで仲間遊びを していたり、淡々と勉強していたりで学級崩壊、イジメなど、ど こ吹く風の雰囲気であった。 「現代の就労期の若者の無表情は、母子関係での親和不全とイジ メの影響」 (参照 http://www.rui.jp/message/06/57/87_8f02.html) など微塵も感じないほど、子供たちの表情は豊かで明るい。そこ で、「何でだろう?」と考えてみた。 1校は、100年以上の歴史ある昔ながらの形態の小学校。思い 当る違いといえば、PTA活動や地域コミュニティ活動をしてい る母親達が数人、校内で授業を自由に覗き込んでいる光景に出会 うことぐらい。もう一校は、それに加えて新築間もない学校のつ くりがオープンであること。教室に接する廊下に相当する部分が 幅広で多目的利用が可能になっている。必要に応じて可動間仕切 りで区切れるが、開け放したままで一般教室は区切られていない。 ともすると、教室間の仕切りが無ければ、隣の教室の声が筒抜け で授業にならない、などと思われがちだが、よくしたもので、自 分達が騒げば相手に迷惑をかけることを学んで、落ち着くところ に落ち着くそうだ。仲間との共認が規範を形成していくらしい。 学校は極めて人工的な集団で、かつ閉鎖性が高かった。廊下側の 扉を閉めれば、先生は一国一城の主(=王様)として振舞える空 間となり得た。その昔、貧困圧力が働き、私権獲得競争の目標を 共有していた時代は勉強課題も社会全体の課題の一部であり、そ れゆえに、「先生〜生徒」の序列もゆるぎないものであった。 ところが、 「1970年代に貧困を克服するや序列原理は崩壊し、反身分(=序列) 意識が顕在化した」 (参照 http://www.rui.jp/message/05/87/92_e3e4.html) ことと、学級崩壊は同根ではなかろうか? 世間知らず(=現実を直視できない)の代名詞のような先生が密室 空間で囲い込むことに対する、子供たちの「反序列」の叫びだっ たのではなかろうか? 物理的な空間構成でも運営面でも学校が開きだされることで、 理不尽な序列(=強制共認)の押し付けが解除され、仲間達の 共認の場が再生されることで、子供たちが元気になり表情豊か になってきているように思う。 さらに、仲間関係での親和を母体に、仲間集団を超えた(=社 会へとつながる)課題を取り込む機会を設定できれば、それを 達成するための勉強課題も顕在化してくるだろう。 全文 http://www.rui.jp/message/07/05/17_c42c.html ------------------------------------------------------------------ ◇ 路上という勉強空間 【 浅野雅義 ( 36 滋賀 不動産 ) 04/04/16 PM10】 >勉強したがっている・・・直感的に感じた。 けれど、彼ら若者にとっての勉強は、あの学校で展開されるつ まらない教科教育しかない現状。 (参照 http://www.rui.jp/message/07/02/98_0f5f.html) たしかに学校のと社会における勉強は大きく違うと思います。 例えば、 (1)学校でのテストは参考書持ち込み不可で暗記中心 ⇔社会でのテストは何でも持ち込み可で知識よりも答え (=可能性方針)が中心 社会では参考書を見るのも、カンニングペーパーを作るのも、 人に聞くのも何でもあり。むしろ、使えるものを使わないこと はマイナス評価。何よりも出した答えの中身が問われる。 にも拘らず、社会に適応するための学習の場である学校は全く 違う内容の「学校勉強」を何十年も教え込む。これでは、社会 に出て役に立たないのも当たり前。 (2)学校では問題(課題)は受動的に与えられるもの ⇔社会では問題(課題)は主体的に認識するもの 学校の試験問題はすべて、役所や教師が決める。生徒はその決 められた問題(課題)に受動的に取り組むだけ。しかし、現実 の社会では問題(課題)というのは、与えられるものは少なく 自ら問題(課題)を設定していかなければいけない。と言うよ りも、「何が問題(課題)なのか?」を構造的に認識できれば、 答えは半分以上出たともいえる。 過去の方法や常識が通用せず、様々な機能不全現象(国家、企 業、家庭。個人の意識がガタガタになってきている)が蔓延す る現代においては、複雑な要因が絡む現状の問題(課題)を認 識できなければ、何も解決には向かわない。 >「勉強の必要」が日々流産していている… 今はまだ実感レベルかもしれないが、彼らはアンテナをビンビ ンにして「勉強の必要」を充たしてくれる何かを探している… 彼らの気持ちに応えたい。心底思う。 にも関わらず、若い世代は現実の社会とは全く異なる「学校的 勉強」を強いられる。しかし、現実の勉強の必要性というのは、 現実の社会に生きる中で芽生えてきているものであって、当然、 現実の社会的勉強でなければ、その勉強欠乏に答えることには ならない。 >人々の意識=社会が変わりつつある。 しがらみの無い路上から… もしかすると路上と言うのは、本来の勉強空間なのではないか と思う。というのは、まず近代社会の都市空間というのはすべ て何らかの機能を設定(限定)されて設計された空間(場)だ といえます。 (会社は仕事・生産の場、学校は勉強する場、家は休息と家族 団欒の場、公園は遊ぶ場、映画館は娯楽の場、etc)。 当然、それらのハードは人々の意識にも影響する。しかし、あ くまで旧いパラダイムに則って機能分化された場であるため、 現在の実感や意識とのズレが大きくなり、それら既存の場は居 心地の悪いものになってきているように思います(路上=脱近 代的空間)。 かたや、路上と言うのは、通行する場以上の機能は設定されて おらず、そこで人々が集う場が成立するためには、純粋にそこ での中身(ソフト)に規定されます。またカタチ(ハード)か ら受ける意識のしがらみも無く、みんなでその場を自在に構成 していける。 おそらく、勉強の面白さとは自ら主体的に参加すること(問題 や課題の設定、場への参加)にあるのではないか。 ということは、「みんなの意識を探る」「現実に使える構造認 識で答えを紡ぎ出していく」ことは、これからもっとも必要な 勉強の要素をすべて兼ね備えているように感じます。私も、ぜ ひともその可能性をもっと多くの人に体感してもらえるように なりたい。 全文 http://www.rui.jp/message/07/04/99_7528.html ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ※【 】内は投稿者名・プロフィール・投稿日時です。 ※投稿は一部要約しています。 ※配信アドレスの変更、配信中止は、以下のページにて可能です。 http://www.mailux.com/mm_dsp.php?mm_id=MM3E9C2C446CC9D ※お問い合わせは「るいネット編集部」ruinet@rui.ne.jp まで。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇るいネット⇒ http://www.rui.jp |