メルマガ:青い瓶の話
タイトル:「青い瓶の話」 No.56  2003/12/15


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ■■■                  青い瓶の話
 ■■■
 ■■■                                          あらかじめ湿度ある沼。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
                                                2003年12月16日号 No.56
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■特集「夜の魚」

○青瓶 2496「出船」
○「夜の魚」(yoru-no-uo)
 北澤 浩一

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
青瓶 2496
                出船。




■ 昨日、月がふたつ出ていた。
 私は深夜の坂道をくだり、ウィスキーを買いにいこうとしていた。
 飲まなければいいものを、微熱がひいたばかりだというのを。
 科学的に幸福になれるという宗教団体の本堂のガラスに、満月が写っている。

  磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃかえる
  波浮の港にゃ 夕やけ小やけ

 野口雨情の作詞になる「波浮の港」は昭和三年に発売されている。
 発売はビクター。佐藤千夜子と藤原義江の吹き込みである。
「大学は出たけれど」が昭和四年。巷では女給のサービスが次第に過激さを増
していった。



■ 永く住み慣れた坂道から、すこし離れたところに移ろうとしている。
 今度は外国人向けの建物で、廊下の暗さと飾られている掛軸が分かりやすい。
 エレベーターの内部は、アメリカ大使館近くのホテルにも似ている。
「一時、住まいには思い窮した」で始まる小説があるという。
 確か山口瞳さんの随筆で読んだ。窮するのは住まいだけではないけれども、東
京にいるとその言葉には実感がある。
 いつだったか、物件の下見で麻布狸穴町の辺りに迷い込んだ。深夜である。
 港区の地図と不動産屋から送られてきたそれとを見比べ、車の窓を開け、立っ
ている警官に尋ねた。よほど詰まらなかったのだろう、眼鏡をかけた若い警官は
丁寧に教えてくれた。この辺りでその建物は見たことがある。それで、警邏では
ないことが分かった。考えてみればロシア大使館の脇道をうろついているのだ。
 急な坂道を下ると目的の建物はあった。左側に大きな石垣があって、坂道は湿
っている。
 風情としては好きなのだが、仕事場にするにはすこし旬を過ぎている。
 東京の街は絶えず動いているものだから、この兼ね合いを眺めるのが難しい。



■ 旅のつばくろ 淋しかないか 俺もさみしいサーカスくらし
  とんぼがえりで今年も暮れて 知らぬ他国の夢をみた
  (西条八十作詞「サーカスの歌」)

 こうした歌を低く歌いながら、100円の缶コーヒーを買って戻った。20円安い。
 酒屋にゆくと床が濡れていて、内部が清掃中である。買えなかったのである。
 自動販売機の下部に手を突っ込むとき、いつも少し不安な気分が沸く。多分、
そこにある鉄のざらついた感触からくるのかもしれない。
 結局のところ、この秋撮影にはゆけなかった。雨の降る日光であるとか、裏磐
梯とか、目的地よりもその途中、高速を降りてからの脇道が記憶にある。
 暮れの慌しい時に引越しで、日本の軍隊は外国へゆこうとし、残った仕事はま
だメドが立たない。

  今宵出船か お名残り惜しや
  暗い波間に 雪が散る
 (勝田香月作詞「出船」)

 この歌を吹き込んだのは藤原義江。同じ年「叱られて」などを歌う。
「のらくろ」が昭和六年。「ルンペン節」(徳山漣歌)「女給の歌」(羽衣歌
子)も同じ年。
 翌七年、上海事変勃発。満州国が建国されている。


03_12_07
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●「夜の魚」一部 vol.33

二〇 一月.2




■「すこし飲みましょうか」
 晃子が棚から背の高いグラスを取り出した。バカラではなく、国産の最も硬質
な種類のグラスだった。脚に色がついていないところが晃子らしい。
 麻のコースターを引きその上にグラスを置いた。手際よくコルクを抜き、白い
ワインを注いだ。
「あなたはウィスキーの方がいいのよね」
 小さなグラスを取り出してその横に置く。後は自分でやれというのだ。
「このコースター、自分で作ったのよ。接着剤で張り付けたの」
 女ってのは面白いもんだな、と私は思っていた。どれが本当の姿なのか簡単で
もない。
「倉庫に寝てた時ね、彼女がいたでしょ。話してみると案外素直なのよ」
 吉川が撃たれた夜のことだ。晃子と葉子はビジネスホテルのような倉庫の管理
人室で眠ることになった。
「どういう関係なんです、って聞かれたから正直に答えたわ。遠い昔の男、って
言ったの」
「遠い、ね」
「十年も前のことだわ」
「するとね、今でも好きなんですか、とこっちを向いて言うの。その眼がね、挑
戦的という訳でもないのよ」


 女ふたり、男のことを話す以外に何がある。あのとき私は吉川と倉庫の階段に
腰掛けていた。小さなステンレスのカップでウィスキーを飲み、吉川の話を聞い
ていた。はじめ、葉子は晃子に会うことを嫌がった。
「彼女は他人の心が読めるようだわ」
 晃子が三杯目を注いだ。
「どうして別れたんだ」
「だから、わたしが浮気をしたのよ」
「シャクだから傍にいた男と寝たの」
 シャク、という言葉を今日はよく聞く。便利な言葉のような気もする。恨みが
ある訳でも流しているのでもない、その合間を縫ってサラリと言う。
「気持よかったか」
「すこしね」
 晃子の前の夫は真面目な勤め人だった。杉並に部屋を買い、週に一度は夫の実
家に戻って食事をするのが習いだった。
「べつにね、マザコンって訳でもないの。大事にしてくれたしね」
 小さな灰皿を机の脇に置き、晃子が細い煙草を吸った。
「寝室があってね、そりゃ新婚だから。彼が念入りに手を洗っているの、済んだ
後でね」
 手くらい洗うだろう、と思ったが黙っていた。
「白いセダンを買ったわ、あなたの嫌いな小さなベンツ。それで買い物にゆくの
よ」


 今のように世の中が変わりそれに馴れてしまう前、私たちは何か夢のようなも
のが目の前にあるのだと思っていた。それは小奇麗なマンションだったり、女子
大を出た妻であったり、イタリアのダブルのスーツであったりした。様々なもの
が膨らみ、私の仕事もそのお零れに預かっていたのだ。膨らみきった後、内蔵の
ようなものがはみ出し始めている。
「ある時ね、高いスーパーの喫茶店でお茶を飲んでいたのよ。隣に同じ歳くらい
の奥さんが何人かいて、話しているのが聞こえたわ」
 霜降りの牛肉は旨い。遠くから外車に乗ってその店に買い物にゆくのが結婚に
成功した女の証のように思われていた時がすこし前まであった。駐車場には守衛
がいて、車を値踏みしながら丁寧にお辞儀した。
「帰りに車をぶつけて、二週間入院したわ。退院してから、隣の病室に入ってい
た若い営業マンに誘われたという訳」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●「夜の魚」一部 vol.34

二一 湿度ある沼




■ 晃子はワインを半分以上あけていた。次第に酔いが廻ってくるのがわかる。
結局、まともなことはなにひとつ話さなかった。
 葉子のこと、奥山のこと、フィリピン共産党の武装集団、遠く連なっている赤
軍やそれと結びついている様々なボランティア組織のこと。北沢とは何者なのか。
ひとつひとつは別々なのだが、それらは細い糸で繋がっている。
「泊まってく」
 晃子が唐突に尋ねた。時計をみると十二時に近い。寝ましょうか、と聞かれて
いるのかと思った。
「ベット、ひとつしかないんだろう」
「どうかしら」
 すこしだけ心が乱れた。振幅が顔に出たかも知れない。
「やめとくよ」
「彼女に悪いから」
 そうじゃない。別に悪いとも思わない。その気がない訳でもない。ただ、なん
だかモラルに反するような気がするのだ。そんなことを口にするのが嫌なので、
黙っていた。
 その時、電話が鳴った。晃子が椅子から立ち上がり受話器を取る。
 晃子の顔色が変わる。カーテンを開けて外を見ようとする。
「北沢がきてるわ」
 黒い瞳が大きく見開かれている。私は受話器を晃子から受け取った。耳にあて
ると低い声が笑った。
「はじめまして。いつぞやは連れが大変失礼しました」
 北沢の声だ。テロリストと話したことは一度もない。声には知性が出ると、あ
る写真家が言っていたことを覚えている。北沢の声にはある程度の教養が滲んで
いるかのようにも思える。錯覚だ。一度に酔いが醒めてゆく。カーテンの影から
下を覗こうとした。通りの向こう側、僅かに離れたところにスモールを付けた車
が一台停まっている。
「そう、車の中からなんですよ。あなたとは始めてですねえ。これからそこに泊
まるんですか、いや、彼女はいい女ですよ」
 何を言っているのか、女のことだ。
「それで、何の用だ」
「いや別に、唯の挨拶ですよ。ああ、そうそう、葉子が大変お世話になったそう
で、これから連れて帰りますから」
「なんだって」
「わたしの元に戻りたいというものですからね、今傍にいるんですよ」
 北沢の声は低い。ゆっくりと、そして深い。その深さの中に濁ったものが混ざ
っている。
「ところで、明日お時間ありますか。あなたの持っているフロッピーを持ってき
てくださいよ。葉子の顔が薬で溶けてしまったのをみるのはあなたも嫌でしょう。
場所はまた電話します」
 そこでプツリと電話が切れた。窓を開けベランダに出るとハイビームにした車
が加速するのが見えた。奴はその中にいたのだ。
 恐らく葉子がさらわれた。藤沢の外れの実家には母親だけがいると葉子は言っ
ていた。その番号は手元に無い。フロッピーだって。なんのことかわからない。
私は椅子に座り、ウィスキーをグラスに注いだ。
 窓から風が入り、髪を乱した晃子が立っていた。



■ ロシア革命の時のテロリストは、逡巡しながら人を殺したのだという。詩人
の魂とテロリズムが両立できた時代もあったのだ。
 ポーランドにあった工業的人種廃絶の強制収容所に、カポと呼ばれる囚人頭が
いたことを私はふと思いだした。彼等は仲間を統制するために選ばれ、時には本
当の看守よりも残忍な手腕で同じ国の人々を進んで殺していった。そうでなけれ
ば自分の身が危うくなったのだ。
 北沢がカポであると思っていた訳ではない。
 溶剤を使い、顔もわからなくする方法があることを何処かで聞いたことがある。
残った骨は粉砕器にかけるとただの粉になるのだそうだ。そうした方法が実際に
可能かどうか、私にはわからなかった。けれども、拉致されて国外に連れ去られ
ればそれで事は済んでしまう。
 北沢はそういって脅す。日常的なもの言いになっているところが不気味だった。
奴は生っ粋のサディストなのだろうか。どうでもいいことだ。
 恐らく葉子は拉致された。フロッピーには何が入っている。
 二杯目を注ごうとした時、晃子が遮った。座っている私の傍に立ち、腕を廻し
て頭を抱いた。私は柔らかいセーターの胸に顔を埋め、声を出さずに言葉を発し
た。
 誰が何を試そうというのだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●「夜の魚」一部 vol.35

二一 湿度ある沼 2.




■ そこからの自分の行動を私は旨く説明することができない。
 椅子から立ち上がり浴室に入った。するすると下着を脱ぎ捨てると、熱いシャ
ワーを長いこと浴びた。ポンプ式のシャンプーで頭から躯を洗った。垢すりのタ
オルが柔らかすぎる。ドアを開け、上着のポケットから煙草を取り出した。風呂
の椅子に座って漠然と吸っている。
 晃子が覗いた。何も言わないで眺めている。浴室から出ると、新しい下着があ
った。晃子のベットの脇に布団を敷いてもらう。髪は濡れているが、乾くのを待
つ訳でもない。
 恐らく、今夜は北沢からの連絡はない。葉子の実家に電話をしてもほとんど意
味もないだろう。さらわれた葉子がどのように扱われるのか、北沢の声で判断が
つく。それに対抗する手段がほとんどないこともわかっている。
 酒のグラスと灰皿を傍によせ、布団の上にあぐらをかいた。
「ともかく、寝よう」
 暫くして晃子が寝室に入った。灯りが消される。
 胸とその下の下腹に指を滑らせ、くぼんだものをかき分けた。
 あらかじめ湿度ある沼のような重さが指に伝わる。
 緩いものの中に入ってゆき、ただ動いた。まわすこともせず。
 押さえた声が高くなる。脇の下から薄い匂いが昇っている。
 懐かしいのかどうかわからず、暫くして眠りについた。
 悪い夢をいくつかみた。
 若い時の自分が、同じような過ちを繰り返している。その傍に今の自分が立っ
ている。夢が醒めるとまた夢に入った。それが夢なのだということはわかってい
る。眠っている自分の布団から長い髪の毛が細くはい出してきて、かけてある毛
布を持ち上げてゆく。それを鋏で切ってゆくおかっぱ頭の女の子がいる。その子
の眼はあいているが見えず、赤い着物を着ていた。



■ 眼が醒めると早い時間でないことがわかった。
 ドアの向こうで音がする。暫くうなってから起き上がる。晃子がコーヒーを入
れている。
「なんだかうなされていたわよ。その後イビキ」
 口紅をしていない。
「呑み込まれる夢をみたんだ」
「あら、そう」
 シャワーを浴び髭を剃った。剃刀が錆びている。すこし顎を切った。私は何を
しているんだろう。これから何をするんだ。
 晃子に、吉川と連絡をとるように言った。奥山の力も借りるように。
「あなたはどうするの」
「わからない」
 溜め息をついている。
「ちっとも変わらないわね。昨日、わたし危険日だったのよ」
「うん」
「銃は持ってるの」
「いや」
 後ろの頭が薄く痛かった。晃子は生理が重く、中の一日はほとんど寝てばかり
いたことを覚えている。コーヒーで薬を飲んだ。
「懐かしいって訳でもないわね」
「そんなに緩かったかな」
「なによ、下手な癖に」
 私は上着を着て外に出た。冬の空は明るく、すこし目眩がした。上着のポケッ
トからサングラスを出し、階段を降りた。低い屋根が続いている。十年前と同じ
眺めだ。交差点で車を待っていると、ふたつ向こうの路地に晃子が住んでいたモ
ルタルのアパートがあったことを思いだした。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■「青い瓶の話」                                2003年12月16日号 No.56
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
□編集長:北澤 浩一:kitazawa@kitazawa-office.com
□デスク:榊原 柚/平良 さつき/三浦 貴之
□「青い瓶の話」BBS:http://bbs.melma.com/cgi-bin/forum/m00065121/
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
登録/解除:http://www.kitazawa-office.com/aobin/ao_top.html
投稿募集/Press Release/感想問い合わせ:kitazawa@kitazawa-office.com
Copyright(C) 2003 kitazawa-office.All Rights Reserved.禁無断引用・複製
http://www.kitazawa-office.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ブラウザの閉じるボタンで閉じてください。