メルマガ:青い瓶の話
タイトル:「青い瓶の話」 No.54  2003/11/24


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 ■■■                  青い瓶の話
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 ■■■                                                     言葉の温度。
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                                                2003年11月24日号 No.54
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■追悼、倉本四郎。


○「はじめに」・渡邉 裕之
●「ポスト・ブックレビュー始発前」・唐沢 大和
●「倉本四郎の穴」・渡邉 裕之
○青瓶 2493「天草の四郎」・北澤 浩一

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■倉本四郎追悼特集


 作家の倉本四郎さんが亡くなったのは夏の終わり、8月23日のことだった。あ
れから随分たってしまったが、「青い瓶の話」に追悼記事を2本載せさせていた
だく。

 倉本四郎さんは1943年生まれ、九州・天草で少年期を送った。約20年間続けた
「週刊ポスト」(小学館)での大型書評で評価を得た。著書に『妖怪の肖像―稲
生武太夫冒険絵巻』(平凡社)、『恋する画廊』(講談社)、『往生日和』(講
談社)、『恋情は思い余って器官にむかう』(筑摩書房)などがある。

 青瓶の編集部のメンバーと昨年の夏、葉山の海岸で会った時、たまたま同じ海
の家にいたのが倉本さんだった(その時の様子は本誌2002年8月29日号で書いた)。
倉本さんとはここ数年、お酒の席に時々誘ってもらうようなつきあいをさせてい
ただいていたので、なんだかうれしくも誇らしい気持ちで、北澤さんやデスクの
面々に紹介できた。これも何かの縁だ、倉本さんにいつか青瓶で書いていただこ
うと、その時秘かに思ったりしていた。

 勝手な思いつきではあったが、夏の海岸で願ったことは実はかなり正解だった
ような気がする。週刊誌で鍛えられた倉本さんのシャープな文体とそれが描きだ
す幻想世界は、本誌が目指すところと重なる部分はかなりあったはずだ。しかし、
その願いはついに叶えられなかった。

 悔恨の気持ちが伝わったのか、葬儀から数日後、北澤さんは私に追悼記事を載
せましょうといってくれた(これはLANDSCAPE  BAR青瓶の大森・天祖神社のこと
だ)。しかし、あれから随分時間が流れてしまった(原稿の掲載がここまで遅れ
たのは、すべて渡邉の責任である。)。

 追悼文の1本目は、倉本さんの葬儀で知り合った小学館の編集者、唐沢大和さ
んの原稿である。唐沢さんは1974年から97年まで「週刊ポスト」編集部に在籍し
ており、20年以上、ずっと倉本さんとコンビを組んでいた編集者ということにな
る。唐沢さんには、あの「ポストブックレビュー」の開始前後の倉本さんを書い
ていただいた。

 2本目の原稿は渡邉が書いた。倉本さんとのおつきあいでは楽しませていただ
き、またいろいろなことを考えさせてもらった。ここでは初めにお会いした時の
ことをモチーフに、私なりに思っている「ポスト・ブックレビュー」についての
文章を書かせてもらった。

 2本とも倉本さんの書評に焦点を当ててみたのは、「ポスト・ブックレビュー」
の再評価を望む気持ちを込めている。どこかの出版社で、あの書評をすべて纏め
た全集などを出すことができないのだろうか(渡邉)。


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●「ポスト・ブックレビュー始発前」・唐沢 大和


 その日も対談のデータを三鷹台に届け、シローチャンと構成を相談していた。
 一段落したのか、あるいは煮詰まってしまったのか、無駄話で時間を潰してい
た。
 その当時の「週刊ポスト」は、最後発の成人総合週刊誌としては善戦していた。
「ビジネスマンのミドルパワーとヤングパワーとの断絶を埋める雑誌」というコ
ンセプトで、「よく働き、よく楽しむ人間らしい生き方をしよう」と読者に訴え
ていた。

「ヤマト、もう対談という文化は終わりかもしれないな」
 対談のアンカーとして、構成の名手として業界に名高い シローも、いささか
疲れたらしい。ひとつに梶山季之、川上宗薫という、おのれをバカにみせて、相
手をもちあげ、とっておきのエピソードを吐き出させるという、サービス精神旺
盛なタレントが枯渇してきたとも云える。
「シローチャン、ポストに無いモノって何だろう。本の紹介や、映画の紹介がな
いというのは総合雑誌として、いかがなものか、と思うよね」
 
 ビジュアルを含め、色っぽい路線は、“家にもちかえってもかろうじてOK”と
いう線でがんばっている。連載陣も、ポストでしか読めませんという作家を並べ
ていた。
「新刊書や封切り映画を紹介するのは、どこの週刊誌でもやってる。もっとユニ
ークな視点は------?」
「ヤマト、実はひとつ考えてることがあるんだが。動詞を切り口に本を列挙した
ら面白いと思わない?」
「“愛する”とか“殴る”とか“歩く”という動詞をコンセプトに、いろいろな
本を集めて、博物誌的に見せるんだよ」
「…………?」
「“愛する”本だったら万葉集、源氏からイターロ・カルヴィーノ、モラヴィア
まで、ドドーンと並べる」

 とんでもない企画だと思った。そんなことが可能な博覧強記な脳ミソは、どこ
にあるんだ。学問は細分化し、一チャンネルのスペシャリストばかり作っていて、
総合的な頭脳は変人扱いされていた。
「週刊誌だぜ、毎週月曜日に〆切りがあるんだぜ、誰が取材して誰が書くんだよ」
「オレ」
「…………」

 当時の「週刊ポスト」は割に自由な職場で、企画の出し入れに関しては寛闊
だった。
しかしさすがにこの企画は通らなかった。
「これは月刊誌の企画だよ。毎週これをやれたら、それこそすごいと思うけど、
体力的に続くわけがない」

 褒められたり腐されたり、上げたり下げたりのあげく、ご存知の形に落ちつい
た。いつまで続いたかさだかでないが、スタートの時点では倉本四郎が一冊の本
を五頁にわたって紹介した。シロー・ヤマト・コンビの暴走を緩和させるためそ
れに見開き二頁に三本の署名付依頼原稿、つまり世間並みの書評がついた。通常
前五(後に前三)の唐沢、後二の藤野と担当者が呼ばれていた。ついでながら、
この藤野先輩は、小学館の誇る博覧強記おやじ(博覧狂気ともいわれていた)で、
電話口で大声で「私共の書評は、ウィトゲンシュタインから赤川次郎まで、なん
でも載ります」と吠えまくった。

 企画が上陸すれば翌週には〆切りが来る。イラストに当時ユニークなペン画で
評価が高い徳野雅仁を起用した。第一回は深田祐介の『新東洋事情』だった。徳
野氏には、シローのコンセプトは必要ない。本を読んだ印象を絵にしてくれれば
良い。イラスト批評としてシローとパラレルに競作して欲しいと依頼した。
「ところで〆切りは?」
「あしたです」
「………」
 徳野氏は絶句していた。

 何はともあれ、始まった。一冊の本を五頁にわたって紹介する。紹介の対象は
本そのものであって、著者は製造物責任者としてのみ存在すると強弁して、笑い
をとった。
紹介する必要のない本は無視すれば良いのだから、ひたすら誉める。こんな読み
方ができる。こう読んでみたらどうだ。とつめてゆく。出版ニュース社の清田義
昭氏を煩らわせて、類書というコラムを作った。この本を読んで、興味をもった
ら、こちらへどうぞという仕組だ。
 
 当然評判をとった。当初の目論みである、“酒場の話題”としてしておおいに
盛りあがった。週刊ポストは読まないけれど、今週の書評を読んでおかないと、
呑み屋の話題についてゆけない----。ほとんど子供のTVアニメののりになった。
洛陽の紙価を高めるというのは、こういうことかと、実感した。
 反面、本読み仲間からはヒンシュクを買うこともあった。
「またポスト・ブックレビューにだまされたよ、面白そうに書いてあったから買
ったけど、本物のほうはどうもなァ、本代返せ」

 こんな具合に始まった。ほぼ休載することなく、二十年、二千回も続くとは。
シローチャンのお父上が亡くなった時にも、枕元で執筆していた。つくづく業だ
なァと思った。


唐沢 大和
編集者

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●「倉本四郎の穴」・渡邉 裕之


 私が倉本四郎さんと初めてお会いしたのは、今から7年前、雑誌「アサヒグラ
フ」の巻末記事「わが家の夕めし」の記者として、葉山の奥にあるお宅を訪れた
時だった。

 名の知れた人物とその家族の食事の様子を写真にとり、600字程度の原稿が入っ
た1ページものの記事を作る。それが私の仕事だった。

 倉本さんの仕事、「週刊ポスト」での書評「ポスト・ブックレヴュー」は、読
んだときから気になっていた。さらにフリーライターという職業に就くようにな
ってから、読んでいく言葉の感触に近しさを感じるようになっていた。

 その近しさだけで会いたいと思い、決めた取材だった。

 あの時、倉本さんの言葉の感触を確実な言葉にしていうことはできなかった。
しかし今なら言葉にすることができる。それは、この職業の者だけが体験する
「言葉の穴」をくぐり抜けた感触だ。

 「マルコヴィッチの穴」という映画がある。日本では2000年秋に公開されたス
パイク・ジョンズ監督の作品である。物語は人形使いの主人公が生活のためにあ
る会社に入社したところから始まる。ある日、彼は事務所の奥に奇妙な穴がある
のを発見する。中に入っていくと、不思議なことに実在の映画俳優ジョン・マル
コヴィッチ(本人が演じている)の体の中に入り込んでしまう穴なのだ。登場人
物たちは、こうして有名人マルコヴィッチの体を人形使いのように動かし、マル
コヴィッチの体感を体験できることに酔いしれるようになる。その快楽に溺れ奇
妙な悲喜劇が展開するというストーリーだった。

 フリーライター、あるいは雑誌記者たちの仕事の中心は、取材し、人の言葉を
とることである。方法には直接質問を投げかけ言葉をとっていくものと、誰かと
話しをしてもらってとっていく方法がある。倉本さんは「ポスト・ブックレヴュ
ー」を始める当時、対談原稿の最終的なまとめ役、アンカーの名手として業界に
知られていた。

 対談原稿を書く作業は、会話をテープに録音したものを書き起こした「テープ
起こし原稿」を読みながら行われる。
 このテープ起こし原稿を見ると、誰もが驚く。私もこの職業について初めてそ
れを見た時も、そうだった。取材の時にあれだけ「わかりやすかった」話が、紙
の上に並べられた文字で見てみるとまったく文章になっていないのだ。

 話し言葉と書き言葉の違いである。たびたび現れる意味の流れの中断、無意味
な言葉の突然の遮り、まったく違った話の強引な折衷、咳や笑いなどノイズさえ
もが思考の流れになってしまう荒唐無稽さ。

 しかし、このテープ起こし原稿の支離滅裂振りに目をつける者たちがいる。そ
れがフリーライターであり、編集者なのだ。話し言葉から書き言葉に変換される
時に現れる言葉のメチャクチャ振り、それらひとつひとつをマルコヴィッチの穴
と見るのだ。フリーライターはその人間の言葉を思い通りに操るために、その穴
に入っていく。

 新聞や雑誌に載っている人の発言、その人自身が書いたもの以外、それは99%
言葉の穴に入り込んだ者が内側から操作した言葉によってできている。

 倉本さんは、川上宗薫など70年代のマスコミの寵児たちの言葉の穴に入り込ん
だ人であり、その優れた技術者だった。そして1976年、穴潜りの技術の対象を人
物ではなく、書物に向けた。それが「ポスト・ブックレビュー」だった。

 その頃はわかりにくかったろうが、今ならアーティスト森村泰昌がいるからイ
メージしやすいかもしれない。泰西名画に潜り込み内側から日本人の目つきで鑑
賞者を見つめ返すことによって、日本人論を含む美術論を美的に見せた森村のよ
うに、倉本四郎さんは書物に潜り込むパフォーマンスを書評の場で演じた。

 その文章には、批評家が本を値踏みするために眺める広がりも、文化人が知識
を開陳するために書物の積み木をする空間も欠如していた。言葉の身振りだけが
あった。

 このパフォーマンスは何を示していたのか。書評の初期の頃は、人は「書物の
中=読書体験の中」でならどこまでも自由であることを示すためだった。巨匠た
ちの書物に潜り込み内側から見せた青年の瞳は、若いライターらしく傍若無人
だった。「大先生や好きな先生の作物を前にしても、人物に対して払う敬意や愛
情と、作物に払う敬意や愛情とはちがうのだ」(1)といってのけて「作物」に
入り込む身振りは、70年代のまだ元気な週刊誌の読者、若いサラリーマンにはと
ても共感ができるものだったはずだ。
 
 書評も時代も少し落ち着いてからは、パフォーマンスの意図は確かに森村泰昌
に似てきた。近代的認識によって書かれ編集された書物の内側から見せるまなざ
しは、意図的に江戸の戯作者のようだった。さまざまな物事を軽妙洒脱に見立て
今の書物の不自由さを笑うようなところがあった。

 それを過ぎると最終的な段階に入っていった。書物への潜り込み方ではなく、
どのようにして出てくるかに主眼は置かれるようになってきた。小説に書きあげ
て作家になるのではなく、できあいの書物を通り抜けることによっていつのまに
か作家になっているところを見せること。絶対に出られぬ箱から脱出して見せる
縄抜けのマジシャンのような具合である。

 澁澤龍彦や種村季弘が意識されていたろう。彼等はフランス語やドイツ語が日
本語に変換される時に生じる穴を、こちらはテープ起こし原稿に生じている穴を
マルコヴィッチの穴とした。独自の穴潜りだった。技芸は洗練を極めていった。
それを見てフリーライターの自分はドキドキしていた。自分も作家になれるので
はないかと勘違いしたのかそのパフォーマンスに熱い声援さえ送るような読み方
までした。

 それは確かに調子のよい声援だった。人物と書物は違う。テープ起こし原稿に
は、どんなライターでさえ見出せるマルコヴィッチの穴があるが、作家が印刷間
際まで言葉をコントロールしている書物のどこにそれはあるというのか。映画の
フイルムを巻き戻すように、印刷された文字を作家の書斎机の原稿用紙の上の文
字、書かれている途中の支離滅裂な言葉の状態に戻すことが必要なのだ。しかも、
その作業の前提として徹底的に他人の言葉である書物の言葉を扱う勇気が必要な
のだった。その勇気さえあの頃の私は考えていなかった。ただ言葉の質感に近し
さだけを感じていた。その近しさだけで会いにいった取材だった。

 秋の始まりの葉山のお宅でお会いした倉本さんは、ピンク色のタテ縞のシャツ
を胸をはだけて着ていた。なかなかの色男振りだった。有名人とその家族の食卓
というテーマの1ページ記事。食事は、倉本さんのお父様が彫った木彫りのマリ
ア像がある庭に置かれたテーブルで行われることになった。奥さんと隣に住む妹
夫妻を紹介された。義弟の鍋倉孝二郎さんは、家郷のすすき野原に月とうさぎが
立っている懐かしい絵を描く人だった。奥さんの雅枝さん、妹さんの典子さんも
帰るべき家の庭に待ってくれたような人だった。

 ブルーのペンキで塗られたテーブルに料理が並べられていった。パスタのアサ
リ白仕立て、骨つきラムのロースト・ローズマリー風味、モッツアレラチーズの
入ったトマトのサラダ……。それを見ながら倉本さんに話を聞いた。取材記者で
ある私はインタビューをしてその話を私がまとめようと思っていた。

 だが、それは拒否された。自分で原稿を書くといった。

 その時、私は何を思ったのだろう。取材した相手が自ら原稿を書く場合の仕事
の流れを、すぐさま考えたのだろうか。それとも倉本さんと私の間にある遠さ、
勇気をもたなければ触れえない相手への距離を思ったのだろうか。

 それから写真撮影が始まった。こちら側の段取りの悪さも重なり、奥さんや妹
さん夫妻とともに納まっていただく写真のために、倉本さん自身が料理したアサ
リの入ったパスタはのびてしまった。

 倉本さんはその記事の原稿でこう書いていた。
「しかし、この夜の献立は失敗だった。撮影時間を考慮に入れず、タイミングが
命のパスタを選んでしまった。アサリの風味があっけなく飛んだ。ローストした
骨つきラムのローズマリー風味も、温めかえしているうちにバカになった」(2)

 あの時、自分が原稿を書くことになったら、どんなことを書いていたろう。倉
本四郎の穴に潜り込んだ私は、どんな言葉を操ったのか。温度を失っていった料
理のことは書かなかったのではないだろうか。

 取材者としてはそれは些細なことだったが、倉本さんが亡くなった今、その料
理のことが気にかかる。家族とともに笑顔で撮影された瞬間、ゆったりと温度を
失っていた麺の1本1本、消えていくローズマリーの香り……。徹底的に遠い距
離の間にあるものが。


(1)『本の宇宙あるいはリリパットの遊泳』(平凡社)
(2)「アサヒグラフ」1996.10.25号(朝日新聞社)

渡邉 裕之:hiro-wa@qa2.so-net.ne.jp
ライター

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青瓶 2493
                天草の四郎。




■ 十二月になろうとする。
 渡邉さんから、倉本さんの追悼号の原稿をいただいてから、しばし時間が過ぎ
てしまった。どうまとめようか、考えあぐねていたからである。
 私は倉本さんには一度しかお会いしたことがない。
 そのときの事情は渡邉さんが書かれている通りである。渡邉さん、榊原・平良
デスクを前に、葉山の小洒落た海の家で闊達に話をされていた。
 そのとき倉本さんは既に療養中。夕方の散歩に出られたのだろう。
 私はしばし席を外し、妙齢に囲まれたその姿を記憶に留めた。
 その後、青瓶MMに「往生日和」(講談社刊)が出版されたとのメールがあり、
青瓶本編で紹介をさせていただいた。
 装丁が綺麗なんだよ、と行間が嬉しそうであった。



■ 今これを書くために、倉本さんの書籍を本棚から引っ張り出そうとして、そ
してすることをやめた。手が「美空ひばり」の追悼号に伸びる。
 平凡社から出ていたそれである。温い風呂に入りながら、暫く上向きに眺めて
いた(1989:マガジンハウス刊)。
 風呂から上がって仕事場にゆき、手元にあった文庫を捲る。
 色川武大さんの「怪しい来客簿」(文春文庫版:1989)
 中に「したいことはできなくて」という短編がある。私はことあるごとに、こ
の作品をぱらぱらと捲る。
「女郎と編集者は、年をとるとどうなっちまうか、謎だなァ」(前掲:57頁)
 この台詞は、もしかすると言ってはならないことなのかも知れない。
 だが、こちらがそれに近い立場にいるときにはずっしりと身に堪える。
 それを表に出すか出さないか。どうシノいでゆくか。稀有な例外。
 時代は変わってきているけれども、そう本質は違わないのではないかという疑
いが濃い。
 ハマの新名所、ひばり御殿の写真を見た。
 800坪の敷地の中にプールがある。プールとは言っても、ほぼタイル張りの大
型浴槽のようで、周囲には土の色が見えている。昭和28年、江里チエミとひばり
が水遊びをしている写真が雑誌「平凡」に載っていた。



■ 倉本さんのある本の後書きの中に、「天草の闇」という言葉があることを覚
えている。
 あるいは力士の異形の姿が、ある種祝祭のためのものであり、相撲は決してス
ポーツなどではないと対談で力説されていたことも記憶にある。
 倉本さんと私あるいは青瓶は、夏の海辺でたまたますれ違い、一杯の酒を呑ん
だだけの間柄である。淡い交際だったと、そこまでも至ってはいない。
 仮に何度かお目にかかり、お話を伺う機会があったなら、私は「大菩薩峠」
(中里介山)のことを聞いてみたかった。
 そして天草の夜の闇がどれほど甘く深いものであったのか、語られるのを待っ
ていたかった。
 海辺で少年のように笑われていた、倉本さんの姿を覚えている。


03_11_23
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■「青い瓶の話」                                2003年11月24日号 No.54
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□編集長:北澤 浩一:kitazawa@kitazawa-office.com
□デスク:榊原 柚/平良 さつき/三浦 貴之
□「青い瓶の話」BBS:http://bbs.melma.com/cgi-bin/forum/m00065121/
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