メルマガ:青い瓶の話
タイトル:「青い瓶の話」 No.45  2003/08/20


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 ■■■                  青い瓶の話
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 ■■■                                                      街の底で。
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                                                2003年8月20日号 No.45
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○青瓶 2488
○青瓶 1949
○「夜の魚」(yoru-no-uo)
○青瓶 2489
 北澤 浩一

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青瓶 2488
                街の底で。




■ 今年は梅雨が長かった。
 冷たい夏だともいい、遠隔地から戻る際には、高速の轍が小川のように溢れて
いた。峠を越えてから、ずっと霧と雨なのだ。
 半車線ほども流れる。
 私はハンドルに、撮影の時に使うベルクロのテープを巻いていた。
 そこに指をかける。三リッターのセダンに標準で付いているハンドルには、親
指を置く場所がないからである。
 二十年来使っていたナルディのウッドに換えようかとも思うのだが、となると
エアバックを外さねばならず、ただでさえ保険の利かない日々を送っている者と
しては、いささかの勿体無さがある。



■ 梅雨のあいだ、私は吉行淳之介さんの「街の底で」(角川文庫版)をぱらぱ
らと捲っていた。
 何時買ったものか覚えていない。十数回は読み返したのだろう。カバーが取れ
かかっている。カバー絵はパウル・クレーの「子どもが描いた髑髏」のような顔
つきの作品が使われている。「いかめしい顔」
 小説の内容それ自体は、取り立てていうこともない。
 コピーライターが娼婦と知り合う。始めはそこで精神衛生を保ってもいるのだ
が、次第に形勢が逆転してくる。じたじたとムゴーイ目にあってゆく。
 主人公は傾いた姿勢で街を逃げ廻る。そこで見聞きするものの断片。
 この当時、大学出の青年はまだある種独特の階層に属していた。
 友人は新聞記者で、時々呼び出しては酒を飲んだりする。
 コピーライターも、俄かには信じられないだろうが新聞記者も、今よりは遥か
に不安定な職業であると考えられていた時代である。
 親戚の家にはお手伝いさんがいて、主人公は「佐竹のお坊ちゃま」と呼ばれて
いた。かといって、彼の下宿は小間物屋の二階である。風呂はない。
 吉行さんの作品の中には、風景小説ともいうべきジャンルがあって、それが何
処なのかはっきりとはしていないのだけれども、確かにあの辺りだろうか、とも
いうべき独特の色がある。
 多く、それは灰白色を基礎としているが、例えば濁った運河の中に、手首がひ
とつ浮かんでいて、それが夕方である。重い夕陽の赤と運河の黒色。
 手首かと思ったのは、捨てられたゴム手袋の片割れであった。
 だが、これが本当の手首であってもそう驚きはしない、というような気分がこ
ちらにもある。



■ この作品が書かれたのは、昭和三十五年。
 市民社会とそうでないものとの境界が、今よりは明白ではあったが、次第にそ
の輪郭が曖昧になりつつあるだろうか、という頃合いであった。
 高度成長はもう少し後。赤線が表向き廃止されたのがその二年前である。
 これに続く系譜として、開高健さんの「ずばり東京」や、山口瞳さんの「世相
巷談」などが、広い意味での風景を描いた作品として私の記憶にはある。

 文庫版解説で、奥野健男氏がこのようなことを書いている。

「昭和三十五年、一九六〇年は、いわゆる六○年安保闘争の時期であった。五、
六月は殆どすべての文化人が岸首相退陣をもとめ、安保デモが怒涛のごとく渦巻
いた時であった。しかし吉行は安保のアの字にも触れず、はなはだ気勢のあがら
ぬ裏街の女や男の、グロテスクな風俗に沈潜した小説を、この時期、新聞に連載
した。そこには紅旗征伐わが事に非ずという作者吉行淳之介の斜に構えた姿勢が
あきらかに感じられる。
(略)この小説全体を覆う疲労が、虚無感が、この『街の底で』を単なる風俗小
説、私小説、社会小説に終らせなかった。世の中の全てが、千切れた無意味でグ
ロテスクな風景に映じるのだ」
「そして、安保反対闘争について一言一句も触れていないにもかかわらず、この
作品は六〇年安保世代の青年の挫折的心情を、深いところから的確に、切ないほ
ど表現していることを、今日、読者は見出すに違いない」
(『街の底で』角川文庫:299-300頁:奥野健男)


2003_08_17
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青瓶 1949
                    海鳥たち。




■ かもめは雑食だという。
 窓を開けていると、一羽のかもめが入ってきていた。
 絨毯の上が白い羽だらけになっている。
 おまえどこからきたんだ。
 ばさりと羽を広げると、思ったよりも大きい。
 くちばしは湾曲し、眼の廻りは赤みがさしている。



■ わたしは眼鏡をかけ、壁にもたれた。
「仲間はどこにいるんだ」
「おれに仲間などいない」
「どうしてここに入ったんだ」
「埋め立て地で一匹の雌犬が死んだ。それを喰っていたらここにいることになっ
た」
 わたしはかもめと会話できる。



■ マンションの中庭で小学生が携帯で話をしている。これから誘いあって塾に
ゆくらしい。
「海に戻る気はないのか」
「海、海だって」
 かもめは広げていた羽を交互に揺さぶった。
「どうせくたばるなら海の傍がいいだろう」
 わたしは窓の先を親指で指した。
「海は遠いのか」
 ここから海は見えない。潮見坂の辺りまで出ても、ここ数十年は海の匂いなど
しない。
「むかし、おれには女房がいたんだ」
 かもめは唐突にわたしに言った。わたしは黙っていた。
「いい女だった。流れの若い奴と出ていった。それからおれはひとりで飛ぶこと
にしたんだ」
 上空でヘリの音がした。高層ビルの窓ガラスが金色に光った。
「身の上話をしにここにきたのか」
 わたしは背中から改造銃を出した。
 ベレッタのモデルガンを改造した、銃身だけが金属製のものである。
 六本木の外れの焼肉屋で、外国人が5万で買ってくれと置いていったものだっ
た。弾は実弾を使う。生き物を撃ったことはまだない。
 かもめの眼が赤く光った。
 それが本当の敵意に変わるまで、わたしはその眼を眺めていた。
 引き金を二度引いて頭が砕けるのを確かめると、羽を折り、カルシュウムの袋
に押し込んだ。台所横のダストシュートに流し込む。地下のゴミ捨て場に落ちる
仕組みになっている。
 絨毯の血は暫く匂っていたが、泡のクリーナー一本を使うとわからなくなった。
 わたしはかもめに同情はしない。女に逃げられるのもあたりまえだと思った。


2000_10_25(初出:読売新聞社 yominet)
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●「夜の魚」一部 vol.33

二〇 一月 2.




■「すこし飲みましょうか」
 晃子が棚から背の高いグラスを取り出した。バカラではなく、国産の最も硬質
な種類のグラスだった。脚に色がついていないところが晃子らしい。
 麻のコースターを引きその上にグラスを置いた。手際よくコルクを抜き、白い
ワインを注いだ。
「あなたはウィスキーの方がいいのよね」
 小さなグラスを取り出してその横に置く。後は自分でやれというのだ。
「このコースター、自分で作ったのよ。接着剤で張り付けたの」
 女ってのは面白いもんだな、と私は思っていた。どれが本当の姿なのか簡単で
もない。
「倉庫に寝てた時ね、彼女がいたでしょ。話してみると案外素直なのよ」
 吉川が撃たれた夜のことだ。晃子と葉子はビジネスホテルのような倉庫の管理
人室で眠ることになった。
「どういう関係なんです、って聞かれたから正直に答えたわ。遠い昔の男、って
言ったの」
「遠い、ね」
「十年も前のことだわ」
「するとね、今でも好きなんですか、とこっちを向いて言うの。その眼がね、挑
戦的という訳でもないのよ」


 女ふたり、男のことを話す以外に何がある。あのとき私は吉川と倉庫の階段に
腰掛けていた。小さなステンレスのカップでウィスキーを飲み、吉川の話を聞い
ていた。はじめ、葉子は晃子に会うことを嫌がった。
「彼女は他人の心が読めるようだわ」
 晃子が三杯目を注いだ。
「どうして別れたんだ」
「だから、わたしが浮気をしたのよ」
「シャクだから傍にいた男と寝たの」
 シャク、という言葉を今日はよく聞く。便利な言葉のような気もする。恨みが
ある訳でも流しているのでもない、その合間を縫ってサラリと言う。
「気持よかったか」
「すこしね」


 晃子の前の夫は真面目な勤め人だった。杉並に部屋を買い、週に一度は夫の実
家に戻って食事をするのが習いだった。
「べつにね、マザコンって訳でもないの。大事にしてくれたしね」
 小さな灰皿を机の脇に置き、晃子が細い煙草を吸った。
「寝室があってね、そりゃ新婚だから。彼が念入りに手を洗っているの、済んだ
後でね」
 手くらい洗うだろう、と思ったが黙っていた。
「白いセダンを買ったわ、あなたの嫌いな小さなベンツ。それで買い物にゆくの
よ」


 今のように世の中が変わりそれに馴れてしまう前、私たちは何か夢のようなも
のが目の前にあるのだと思っていた。それは小奇麗なマンションだったり、女子
大を出た妻であったり、イタリアのダブルのスーツであったりした。様々なもの
が膨らみ、私の仕事もそのお零れに預かっていたのだ。膨らみきった後、内蔵の
ようなものがはみ出し始めている。
「ある時ね、高いスーパーの喫茶店でお茶を飲んでいたのよ。隣に同じ歳くらい
の奥さんが何人かいて、話しているのが聞こえたわ」
 霜降りの牛肉は旨い。遠くから外車に乗ってその店に買い物にゆくのが結婚に
成功した女の証のように思われていた時がすこし前まであった。駐車場には守衛
がいて、車を値踏みしながら丁寧にお辞儀した。
「帰りに車をぶつけて、二週間入院したわ。退院してから、隣の病室に入ってい
た若い営業マンに誘われたという訳」


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青瓶 2489
                街の底で 2.




■ 深夜のコンビニで、ホストの顔写真が載っている雑誌を買った。
 風俗嬢が並んで顔をさらしている雑誌は多いが、男性のそれがあるのだとは知
らず、部屋に戻り暫く眺めていた。
 読者層は、風俗に転職しようとしている若い女性である。巻末に消費者金融、
レディス・ローンの広告が並んでいる。
 男女雇用均等法が施行されて四年、例えば深夜のコンビニにも若い女性店員の
姿がみられる。



■ 本青瓶MMは、やや独特の編集である。
 これには編集部内部の薄い事情もあるのだが、たいしたことではなく、表現の
形式を変えてみようという気分の方が強い。
 吉行さんの「街の底で」という小説は、一般には高く評価されていない。
 ある種の風俗小説として捉えられているのか、「すれすれ」「浮気のすすめ」
などの粋筋、通人的文脈で理解されることの方が多かった。
 吉行さんは粗筋やプロットで読ませる作家ではなかった。感覚的な拒絶反応の
カラクリが、ある種生理的な規範にまで高まってゆく。その姿勢に共感するかど
うかが、読者としてひとつの分岐点に繋がっていたようにも思える。
 自然食や有機農法を過剰に信奉するフェミニストやジェンダーの方々には、あ
る部分で評判が芳しくなかったことも事実である。
 名誉なこととも言えるのだが。



■ 二〇〇〇年の九月、NYのテロがあった後、私は「毎日が薄い戦争の時代がき
ている」と書いたことがある。青瓶のNoは忘れた。
 世界はそれから推移し、遠く離れた砂漠の国に、ホーワのアサルトライフルを
持った公務員が曖昧な形のまま派遣されようとしている。
 名称やその理解はともあれ、これは昭和の始めの構造とほぼ同じであって、日
中戦争たけなわの頃合い、本土ではごく普通な暮らしが営まれていたと山本七平
氏は繰り返し指摘している。
 広義の歴史的区分で言えば、戦前というよりも既にして「戦中」であろうか。
 いずれホーワの64式や89式から出た弾は誰かを殺す。そして眼鏡をかけた青年
の何人かが、砂漠の地でAKやARの弾に倒れるのだろう。
 私はコンビニで買った雑誌を眺めていた。
 ホスト達は誰もが同じような髪型であり、高価な腕時計をしている。
 No.1と呼ばれている彼は、確かに美しいのだが、例えば頬の線と口元が鈍い。
 有体に言えば、歯並びと骨格に、数年後のベッカムのような品のあるなしがあ
る。これを今日的な意味でグロテスクと感じるかどうか。
 六十年は、その後の日本の社会構造の枠組みを方向付けた、ある意味で分水嶺
の年であったとされている。
 それから四十余年を経て、何処が変りそして変らなかったのか。
 漠然としながら、とりとめのないことを考えている。
「めがねとかげ」
「しまうま」
「カンガルー」


2003_08_18
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■「青い瓶の話」                              2003年 8月20日号 No.45
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