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タイトル:609studio No.736 ◆現代時評《「琉球処分」糾弾の辺野古訴訟》:井上脩身  2015/12/08


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【609 Studio】メール・マガジン 2015・12・8 No.736
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   フリージャーナリスト片山通夫のメールマガジン。Lapiz編集長・井上脩身氏
の現代時評、ロシアやサハリンの話題、編集長のコラムなど多彩な話題満載!
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◆現代時評《「琉球処分」糾弾の辺野古訴訟》:井上脩身
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 国が翁長雄志・沖縄県知事に対し、名護市辺野古の沿岸部埋め立ての承認取り
消しの撤回を求めた代執行訴訟の第1回口頭弁論が12月2日、福岡高裁那覇支
部で開かれ、翁長知事は「日本政府は軍隊を伴って琉球王国を併合した」と陳述、
明治初期の「琉球処分」以来、一貫して沖縄を差別し続けてきた政府を糾弾した。
琉球処分は1879年である。140年近くにわたる日本支配下の沖縄の悲痛の
歴史が法廷であぶりだされれば、沖縄史に新しい一ページを刻むことになるだろ
う。
 私(筆者)はたまたま、沖縄出身の芥川賞受賞作家、大城立裕氏の小説『琉球
処分』を読み終えたばかりである。その前半は1959年から60年にかけて連
載され、後半は68年に講談社から単行本として刊行されるに際して、加筆され
た。政府から派遣された内務大丞・松田道之の「清との関係を断て」との命令の
前で、なお清政府の支援を期待する琉球王府高官の苦渋に満ちた表情を描いた大
作だ。

 明治政府は、琉球王国という独立国の尊厳を打ち砕いて1879年3月、「琉
球処分」を断行、琉球を併合した。先の大戦では沖縄は「本土の捨て石」とされ、
戦後は米軍の「太平洋の要石」にされた。米軍は「銃剣とブルドーザー」で沖縄
の人々の土地を事実上強奪し、軍事基地に。1972年、本土に復帰したが、現
在も日本の0・6%の面積に米軍軍事施設の74%が集中している。

 こうしたなか、96年、日米両政府は普天間基地について、県内移設を条件に
全面返還に合意。06年、政府は移設先を辺野古に決定した。政府が基地建設を
強行する根拠をこの日米同意に置いている。しかし沖縄県民は昨年の知事選をは
じめ、衆院選でも反基地派を当選させた。「辺野古ノー」が沖縄の民意であるこ
とは明白だ。

 翁長知事が、前任の仲井眞弘多氏が行った辺野古沖埋め立て承認を取り消した
のは、こうした民意を考えれば正当な行政行為だ。これに対し、政府は「建設で
きないと日米関係に亀裂が生じる」と、あくまでアメリカ従属姿勢をとり、沖縄
県民の意思を葬り去る構えである。「琉球処分」以来、日本政府は何も変わって
いない、と沖縄の人々が失望感を抱くのは当然であろう。

 実際、元外交官の佐藤優氏は『琉球処分』(講談社文庫)の解説で「普天間の
県内移設は平成の琉球処分」と指摘。「(沖縄の人たちが)抵抗を繰り返すうち
に、かつて自らの国家であった琉球王国が存在し、それがヤマトによって、力に
よって滅ぼされたという記憶がよみがえってくる」と書く。心の奥底に潜む琉球
処分に対する憤まんが表にでつつある、というのだ。

 冒頭に述べた訴訟の第1回口頭弁論で、証言台に立った翁長知事は約10分余
り、ゆっくりとした口調で語りかけたという。報道によると「歴史的にも現在も、
沖縄県民は自由、平等、人権、自己決定権をないがしろにされていきた。私はこ
のことを『魂の飢餓感』と表現する」と述べたうえで「沖縄にのみ負担を強いる
今の日米安保条約は正常といえるのか。国民全てに問いかけたい」と、沖縄差別
安保の不合理性を訴えた。

 翁長知事のいう「魂の飢餓感」とは、独立国であったころの沖縄人の魂を喪失
させられた、という意味であろうか。この裁判は沖縄の島人固有の魂を取り戻す
闘い、と知事は言おうとしたように思える。そうした沖縄魂を理解しようとしな
い安倍晋三首相。「地方創生」は全くのまやかしであることは言うまでもない。
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◆「ふろむ京都山麓」抜粋抄 《伊藤若冲の天井画》:みなみうら・くにひと                                                
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 若冲天井画のことは、ずいぶん前にこのブログで連載したことがあります。
2008年6月から9月まで、8回掲載でした。
 若冲の天井画はふたつの寺に現存しています。京都東山区の信行寺と、大津
の義仲寺です。ところで信行寺天井画ですが、これまで一般公開されず、観た
方はほとんどいませんでした。それが初めて公開されます。10月30日からの観
覧が待ち遠しいですが、先駆けて、かつての連載を書き改め読み切り1回で掲載
します。

 朝日新聞が秋の「京都非公開文化財特別公開」を報じました。まずこの新聞記
事のダイジェストから紹介します。後の<石峰寺>からが本文です。
 千年の都に伝わる秘宝を紹介する、秋の「京都非公開文化財特別公開」を京都
古文化保存協会が発表した。10月30日〜11月8日(一部を除く)に、京都市内の寺
社など21カ所を公開。「奇想の画家」として注目され、来年生誕300年を迎える江
戸中期の絵師、伊藤若冲(1716〜1800)の天井画も初公開される。
 天井画は信行寺(しんぎょうじ)(左京区)本堂の「花卉図(かきず)」。格
天井(ごうてんじょう)に計168個の正方形の格子面(縦横約38センチ)があり、
円形の枠(直径約33センチ)中に一つずつ花を描いている。ボタンやキク、ユリ
などのほか、サボテンやヒマワリも。最晩年の作で、19世紀後半に有力な檀家(
だんか)から寄進されたという。
 若冲の天井画は極めて珍しく、信行寺と義仲寺(ぎちゅうじ)(大津市)に伝
わる。「穏やかな雰囲気をたたえながらも、何としても描き上げようという若冲
の強い意思を感じさせる」と信行寺の本多孝昭住職。公開は今回限りの予定で、
貴重な機会となりそうだ。


<石峰寺>

 伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初
年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[
かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていたとされる。しかし明
治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしま
った。
 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・
信行寺の本堂外陣天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一
括して古美術商から買い取って寄進したと伝わっている。
 石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江戸時代、同寺の檀家はわず
か数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗
[おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、
年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であ
った。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、
合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、
そして天井画や石造物の売却であった。また当時、廃仏毀釈の嵐も吹き荒れた。
 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、
現在は京都市深草墓園になっている隣接地だったと考えられる。

 若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒
書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年
夏(一七九八)、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵
が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、
この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた畸[
き]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの
絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。

 観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返
ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動
植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が
親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大
典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作があ
る。
 また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐう
]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五百
羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵が
ある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[かき
ず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えはな
いであろう。

<大津義仲寺>

 不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大
津市馬場の義仲寺に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五枚
である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲[よしなか]の墓で知られる。元禄のころ、松尾
芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって彼
は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな

 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、明
和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつと
めたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺
を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升
庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(
1795)六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分の
ところにある。寺には同時代の文人、京都文化ネットワークの中心人物とされる
皆川淇園の墓もある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和
三年(1766)に俳僧蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭
蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升

 若冲の斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763)
に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が
尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年
(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策
が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯
無く、竹筒は空であった。

 話が若冲の天井画から横道にそれてしまったが、近江の大津馬場・義仲寺の若
冲花卉図に戻す。
 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂か
ら流出したものの片割れであろうとする。

 小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図
の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述してお
られる。
 辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面
が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付し
たものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部で
あった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板
地のままで、群青[ぐんじょう]が施してない点が信行寺のものと異なるが、こ
れは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの
判断である。
 狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉
ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群
青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いま
ひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が
一センチほど大きい。
 佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が
伝わるという。
 ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておら
れる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王
は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家
茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。
降嫁の最終決定は万延元年(一八六〇)、建物の古かった大津本陣は建て替えが
決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
 土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移さ
れたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。

 かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年(一八五六
)二月七日、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに
焼失してしまった。
 大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し
再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。西川太治郎編著『長等の櫻』(昭和
2年刊)に抄文が紹介されているが、参考までに義仲寺所蔵の全文を記載する。

  右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
  紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六 
  清六作 外ニ 青磁香炉 
  天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
  春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
  再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
  翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
  同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
  義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/

 これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということに
なる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外に
も気になる点が多い。

 まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村
五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リ
ーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵
屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であ
った。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
 維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治
二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れ
る人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
 鶯のはつかしそうな初音かな


<魚屋通六>

 鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。「魚屋」は鮮魚問屋と料亭を商っていた。琵
琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から、
雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から、琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだ
であろう。冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南の
みでなく、京の街にも東海道の逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮
な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく
冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。大津の魚屋は京の錦市
場とも繋がりをもっていた。
 さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝
承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後
家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一歳。
おそらく彼の没後であろう。
 そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。

「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/
魚屋通六」
 花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(一八五九)のことであった。
明治初期の石峰寺観音堂破却と天井画の流出の十数年も前のことである。花卉図
十五枚はずいぶん早くに大津に着いた。寄進者は大津の魚屋の通六である。

 それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座
」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六
月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、
同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、
後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もは
め込まれている。
 「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失
地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も
据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。

 いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の
降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと
考えることには無理があろう。

 それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。
まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろう。若冲八十三歳のころ、観音堂
が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣の天井ではないかと思う。
観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収めら
れたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六が、新築する翁堂のために同家か
ら譲り受けた。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。
飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
 ちなみに若冲の次弟、白歳は家業にちなみ「白菜」のもじりであろうといわれ
ているが、描画のすきな俳人でもあった。ただ絵は兄に似ず、うまくはない。ま
た白は百から一を引いた九十九で、ツクモでもある。ユーモアのある、楽しいひ
とだったのだろう。
<2015年10月27日>

※追記:信行寺に行ってきました。はじめて観る若冲画に感動です。来観者は歩
道にも列をなし、人員整理の方に聞きましたら、「今日はまだ少ない方です。昨
日などずっと向こうまで行列が続きました」。大好評で何よりです。
 たくさんの観覧者といっしょに顔を天に、ずらりと並ぶ画をみながら、堂内で
解説を聞きました。そしてご住職のお話に驚きました。若冲天井画は明治期では
なく、幕末に信行寺におさめられたという。それらのことは、寄贈者の檀家総代、
井上氏の過去帳と、いまも同寺の檀家である井上氏のご子孫が所蔵されている書
状であきらかである……。
 当日のあまりの混雑のため、これ以上の質問とお答えをいただけませんでした
が、間違いないとのことでした。ショックです。
 これまで若冲天井画にかかわるひとのすべてが、信行寺には石峰寺観音堂から
明治期のはじめに流出したものだと、信じ切っていたのです。それが覆ってしま
いました。この謎解きがどう展開していくのか、大きな楽しみです。
<20015年11月3日>
「ふろむ京都山麓」 http://blog.goo.ne.jp/0000cdw
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 先週号の《伊藤若冲の天井画》が先々週号と重なったようです。
読者の皆様、執筆者のみなみうら様にはご迷惑をおかけしました。全文を今秋掲
載いたしますと共に、お詫びいたします。。
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◆「スプートニク」 >>> 引用元    http://jp.sputniknews.com/
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◆情報通信・ラジオ「スプートニク」(HOME)
 http://jp.sputniknews.com/

◆日本関連
 http://jp.sputniknews.com/japan/

◆国際───────────────
 http://jp.sputniknews.com/world/

◆ロシア国内───────────────
 http://jp.sputniknews.com/russia/
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◆一口メモ 【パリ11区のカフェバー「ボン・ビエール」】            
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  11月13日に起きたパリ同時多発テロで、テラス席が銃撃されて客5人が死
亡したカフェバー。4日、営業を再開した。3週間ぶりのことだ。壁を塗り替え
たり、窓ガラスやテーブルなどを取り換えたりしたが、天井近くのガラスに開い
た1カ所の弾痕だけは修繕が間に合わなかった。(朝日新聞)
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◆編集長から: 片山通夫
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 再稼働で揺れる薩摩川内市(鹿児島県)で今ひとつ暖かい話題が。
薩摩川内市・下甑(しもこしき)島の診療所長、瀬戸上健二郎医師(74)が、
来春以降も所長を続投する見通しになったという。瀬戸上医師はアニメにもな
った『Dr,コトー』のモデルとして知られている。
 下甑島は堀田善衛の小説『鬼無鬼島』(1957年)のモデルにもなったクロ宗
の存在する島でもある。

 ISISとの「全面戦争」に米欧並びにロシアが参加しだした。間にトルコを挟
んで、混とんとした状況の中で、米欧露の空爆が激しさを増す。
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  発行     2015年12月8日  No.736
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