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────────────────────────────────────── 【609 Studio】メール・マガジン 2015・11・13 No.733 ────────────────────────────────────── フリージャーナリスト片山通夫のメールマガジン。Lapiz編集長・井上脩身氏 の現代時評、ロシアやサハリンの話題、編集長のコラムなど多彩な話題満載! ────────────────────────────────────── 重要なお知らせ《セコリョ新聞掲載終了》 セコリョ新聞読者の皆様。 サハリンで発行されてるロシア唯一の韓国語新聞・セコリョ新聞を2001年よ り毎週掲載してまいりましたが、私ども以外のサイトでもセコリョ新聞の掲載が 始められておりますので、私どもが掲載を続ける必要性が低下してまいりました。 今後は以下のサイトに集約するということで、当サイトでの掲載は、2015 年10月30日号をもちまして終了することとなりました。 長い間のご愛読、有難うございました。皆様の今後の発展をお祈りいたします。 http://cafe.naver.com/sekoreasinmun (word file) http://arirang.ru (pdf file) ────────────────────────────────────── 電子雑誌 Lapiz 秋号ただいま発売中! お買い求めは http://lapiz-international.com/ 2015 冬号は12月10日発売予定です! ────────────────────────────────────── 日米かけはし物語 緒方馨 著 特集 Lapizが見た戦後70年 Lapiz2015Summer 6月1日同時発行! 詳しくは http://lapiz-international.com/ ────────────────────────────────────── ◆現代時評《テロの世紀がやってきた》:片山通夫 ────────────────────────────────────── テロの応酬が始まっている。ISISが犯行声明を出した13日のテロに対し て「戦争状態だ(仏大統領声明)として、15日にフランス軍はISIS「首都 」とされるシリア北部の都市ラッカの指令本部や訓練施設を大規模空爆した。 少し話を戻す。2001年9月11日にアメリカ合衆国内で航空機等を用いた 4つのテロ事件が起こった。その報復としてか、2003年にはイラク戦争が起 こり、その後現在に至るまでイラク国内の治安は不安定で、テロの脅威にさらさ れている。そして12月にはアメリカ軍がサダム・フセインイラク元大統領を拘 束した。このあたりから中東や北アフリカ諸国の動きが不安定になってきている。 2010年末よりはじまった「アラブの春」はシリアにも飛び火、批判の矛先は シリアの国家元首であるアサド大統領にも向けられることとなった。 シリアやイラクではISISが勢力を伸ばしていた。ロシアの旅客機が爆発・ 墜落し多数の犠牲者が出た。そして今回のパリでの事件である。20世紀が「戦 争に時代」と言われていた。 そして今21世紀は「テロの時代」となりつつある。 ミャンマーではアウン・サン・スー・チー氏率いる野党NLDが、このほど行 われた選挙で過半数獲得し政権交代が行われようとしている。それまでの軍事政 権の圧政を覆す選挙での野党勝利だ。 ここでふと思い起こすことがある。「反政府勢力antigovernment forces」と 「テロ集団Terrorist group」との差はどこにあるのだろうか。報道の現場では 前者は「反体制としてとらえ、例えば先に述べたアウン・サン・スー・チー氏率 いる野党NLD=国民民主連盟」をいうのだろう。 そして後者だが、非合法な暴力的手段で恐怖を与え、最終的に相手側を従わせ ることを目的とする人々のことをいうようである。目的がなく、ただの暴発でし かないケースもある。 ただ除法の受け手として、我々が注意しなければならないのは、報道機関や政 府はしばしば、自分たちにとって「目障りな武装勢力をテロリスト」と決めつけ ることがある。中国におけるチベット、ロシアのチェチェン、米国や日本が言う 北朝鮮、その他このケースには枚挙にいとまがない。 どの国の政府でも自分に都合の悪い勢力を「テロリスト」と決めつける。はた してそれだけが正しいのか、見極める必要があるのは事実だ。ちょうど安倍首相 が「サヨク」と我が国で言っているようにである。 ────────────────────────────────────── 【著書案内】 「追跡!あるサハリン残留朝鮮人の生涯」 片山通夫 著 日本の植民地統治が生んだ一家離散「二重徴用」「急速転換」「樺太 への逆密航」を語る貴重な証言!! 凱風社 刊 http://www.gaifu.co.jp/index.html 定価 1900円+税 ────────────────────────────────────── ◆「ふろむ京都山麓」抜粋抄 《伊藤若冲の天井画》:みなみうら・くにひと ────────────────────────────────────── (原文は一回の掲載でしたが本誌では二回に分けます) 若冲天井画のことは、ずいぶん前にこのブログで連載したことがあります。 2008年6月から9月まで、8回掲載でした。 若冲の天井画はふたつの寺に現存しています。京都東山区の信行寺と、大津 の義仲寺です。ところで信行寺天井画ですが、これまで一般公開されず、観た方 はほとんどいませんでした。それが初めて公開されます。10月30日からの観覧が 待ち遠しいですが、先駆けて、かつての連載を書き改め読み切り1回で掲載します。 朝日新聞が秋の「京都非公開文化財特別公開」を報じました。まずこの新聞記 事のダイジェストから紹介します。後の<石峰寺>からが本文です。 千年の都に伝わる秘宝を紹介する、秋の「京都非公開文化財特別公開」を京都 古文化保存協会が発表した。10月30日〜11月8日(一部を除く)に、京都市内の寺 社など21カ所を公開。「奇想の画家」として注目され、来年生誕300年を迎える江 戸中期の絵師、伊藤若冲(1716〜1800)の天井画も初公開される。 天井画は信行寺(しんぎょうじ)(左京区)本堂の「花卉図(かきず)」。格 天井(ごうてんじょう)に計168個の正方形の格子面(縦横約38センチ)があり、 円形の枠(直径約33センチ)中に一つずつ花を描いている。ボタンやキク、ユリ などのほか、サボテンやヒマワリも。最晩年の作で、19世紀後半に有力な檀家( だんか)から寄進されたという。 若冲の天井画は極めて珍しく、信行寺と義仲寺(ぎちゅうじ)(大津市)に伝 わる。「穏やかな雰囲気をたたえながらも、何としても描き上げようという若冲 の強い意思を感じさせる」と信行寺の本多孝昭住職。公開は今回限りの予定で、 貴重な機会となりそうだ。 <石峰寺> 伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初 年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[ かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていたとされる。しかし明 治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしま った。 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・ 信行寺の本堂外陣天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一 括して古美術商から買い取って寄進したと伝わっている。 石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江戸時代、同寺の檀家はわず か数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗 [おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、 年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であ った。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、 合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、 そして天井画や石造物の売却であった。また当時、廃仏毀釈の嵐も吹き荒れた。 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、 現在は京都市深草墓園になっている隣接地だったと考えられる。 若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒 書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年 夏(一七九八)、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵 が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、 この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた畸[き ]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、 新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。 観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返 ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動 植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が 親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大 典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作があ る。 また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐ う]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五 百羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵 がある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[か きず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えは ないであろう。 <大津義仲寺> 不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県 大津市馬場の義仲寺に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五 枚である。 義仲寺は名の通り、木曽義仲[よしなか]の墓で知られる。元禄のころ、松 尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって 彼は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。 木曾殿と背中合せの寒さかな 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、 明和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつ とめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲 寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五 升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年 (1795)六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分 のところにある。寺には同時代の文人、京都文化ネットワークの中心人物とされ る皆川淇園の墓もある。 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和 三年(1766)に俳僧蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉 翁の真蹟短冊を贈られたことによる。 春立や新年ふるき米五升 若冲の斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763) に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が 尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年 (1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策 が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯 無く、竹筒は空であった。 話が若冲の天井画から横道にそれてしまったが、近江の大津馬場・義仲寺の若 冲花卉図に戻す。 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂か ら流出したものの片割れであろうとする。 (来週に続く) <20015年11月3日> 「ふろむ京都山麓」 http://blog.goo.ne.jp/0000cdw ────────────────────────────────────── ◆「スプートニク」 >>> 引用元 http://jp.sputniknews.com/ ────────────────────────────────────── ◆情報通信・ラジオ「スプートニク」(HOME) http://jp.sputniknews.com/ ◆日本関連 http://jp.sputniknews.com/japan/ ◆国際─────────────── http://jp.sputniknews.com/world/ ◆ロシア国内─────────────── http://jp.sputniknews.com/russia/ ────────────────────────────────────── ◆一口メモ 【ミャンマー】 ────────────────────────────────────── ミャンマー連邦共和国、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部 に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。 ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口5,142万人、首都はネピドー(2006年まで はヤンゴン)。 南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北 東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。 多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占める。他に、カレン族、カチン族、 カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族、北東部に中国 系のコーカン族などの少数民族がいる。 詳しくは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC ────────────────────────────────────── ◆編集長から: 片山通夫 ────────────────────────────────────── ミャンマーのアウンサンスーチー氏率いる野党国民民主連盟(NLD)が選挙で 圧勝した。軍事政権を選挙で倒したのはいいと思われるが、筆者には少し気にな ることがある。複数の報道によると彼女は次のように述べたという。 《総選挙前の5日(11月)の記者会見では、憲法で国家元首とされる大統領 の「上位に立つ」と発言。選挙後に優勢が伝えられた10日にはシンガポールの テレビ局のインタビューで「私が党のリーダーとしてすべての決定を下す。大統 領には何の権限もない」と言い切った》と。 このニュースが事実ならば、ミャンマーは新たな独裁者にとって代わるだけで はないかと思うのは筆者だけではあるまい。そしてそんな彼女の性格(言動)を 見越して現政権は「民意に即して政権は譲る」が、早晩行き詰まると読んでいる のではないか。 ミャンマーが中国、インドという周辺の大国や、米国やその尻馬に乗る日本に 翻弄されず、国民民主連盟を勝利に導いた国民のための政治をすることを望む。 ──────────────────────────────────── 発行 2015年11月17日 No.733 発行 毎週火曜日 購読料無料 FB https://www.facebook.com/michio.katayama.5 配信 まぐまぐ配信システム ID:0000052236 MailuX配信システム ID:MM3E1B97842E020 contact us http://www.609studio.com/html/mailform.html website http://www.609studio.com/ 投稿 http://www3.ezbbs.net/06/609studio/ 購読 解除 http://archive.mag2.com/0000052236/index.html ◇禁・無断転載◇ ──────────────────────────────────────────────── |