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タイトル:609studio No.380◆現代時評:「NHK放映 JAPANデビューアジアの一等国」  2009/04/14


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【609 Studio 】メール・マガジン 2009/4/14  No.380
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「現代社会を斬る!」をコンセプトに論説委員Ken氏の論説「現代時
評」をはじめ、政治評論家、本澤二郎氏の政治評論、また、ロシア唯一
の韓国語新聞サハリンの「セコリョ」日本語版、その他、寄稿記事など
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───────────◆◆◆INDEX◆◆◆───────────

◆現代時評:「NHK放映 JAPANデビューアジアの一等国」Ken

◆本澤二郎の「日本の風景」: <会見すっぽかし大統領>

◆[セ・コリョ新聞日本語版] :2009年4月10日号

◆コラム・EYE「わんぱく通信から」:片山通夫

◆コーヒーブレイクから

◆編集長から

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◆現代時評:「NHK放映 JAPANデビューアジアの一等国」Ken
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◆◆ NHKオンライン  1895(明 治28)年、日清戦争に勝利
した日本は、台湾を割譲され、初の植民地統治を始める。英のインド統
治やフランスのアルジェリア統治にならい、植民地をもつことで“一等
国”をめざした日本。1910年、ロンドンで開かれた日英博覧会では
、台湾のパイワン族を“展示”し、統治の成功を世界に誇示する。日本
は「格差と同化」という矛盾した台湾統治を続け、1930年代後半か
らは「皇民化運動」で日本文化を強制する。半世紀におよぶ統治はどの
ように変遷していったのか。2万6千冊におよぶ『台湾総督府文書』、
近年発見されたフィルム、欧米に埋もれていた文書などを手がかりに近
代日本とアジアの関わりの原点を探っていく。 

■■ この4月5日と7日にNHKスペシャル番組「アジアの一等国」
が放映された。ボクはもともとNHK番組が好きで、いまだかってNH
Kの番組をけなしたことなどない。 だが今回ばかりはどうも納得がい
かない。 あまりにも大陸中国寄りの放映ではないかと思う。 しかし
そういうボクも知らず知らずのうちに台湾人贔屓に偏向しているかも知
れない。 だから以下、なるべく私見を交えず、今まで親しかった台湾
の友人たちの言動を列記するに留めるから、読者諸賢はそれなりに判定
されたい。

■■ 先ず最初に故人の何樹木氏。 台湾楊梅のある会社の社長だった
人。 娘さんはボクの仲人で、大阪豊中の青年と結婚し、すでに日本に
帰化している。 何氏(彼の一人称は「うち」)曰く、「うちは少年の
頃、台北日本人街の雑貨屋で働き、名前を三郎とつけてもらった。 よ
く働き店主に可愛がられたが、日本軍人にあこがれ、戦争たけなわのこ
ろ、陸軍が募集した台湾第一回の志願兵募集に応じ日本陸軍の軍人とし
て入隊した。 そのときの台湾全土からの志願者は無慮数千人、うち6
00人が合格。 名誉ある帝国軍人になり嬉しかった。 台湾最初の志
願兵であったから、後々の模範になるべく、ものすごい猛訓練を受けさ
された」。 

 「初年兵訓練が終わると同時にフィリピン戦線に送られ、そこで日本
からの兵隊に混じって軍務についた。 そのときの合言葉は「軍人精神
まっすぐいっぽん」と、ぜったい敵に後ろを見せるなと教えられた。
 終戦直前には、フィリピン・マニラ近郊で米兵捕虜収容所の監督をし
ていた。 あるとき俘虜収容業務の総監督だった洪という温厚な高級軍
人に呼び出され、「俺は朝鮮からの志願兵だが、貴様はどこの出身か」
と訊ねられたことがあり、「台湾からの志願であります」と答えたとこ
ろ、それ以上に何の話もなかった。 戦後に戦犯としてフィリピンで処
刑された陸軍中将洪思翊閣下ではなかったかと思う」。 

 「収容所には言うことを聞かぬ米兵捕虜も居り、たまには平手でビン
タも打ったことがあり、それが災いして終戦後、軍事裁判に呼び出され
、俘虜虐待罪でシンガポールのチャンぎー刑務所へ送られ6ヶ月の刑に
服した。 刑期が終わり台湾へ送り返されると、いつの間にか名誉ある
帝国軍人が中国人に早変わりしていたのには驚いた。 誰がいったいう
ちの国籍を勝手に日本人から中国人に変えたのか、不思議だった」。

「仕事が無いので台北警察の警官になったが、ある日、台湾の若い連中
と大陸中国から進駐していた蒋介石政府軍との間で大騒動が起こった。
これが有名な2・28事件で、巻き込まれるのは嫌だから、腹痛と称し
て数日間、警察を欠勤していたら、騒動も治まっていた。 こちらは烏
合の衆、太鼓を敲いて騒ぐばかりで、相手はいちおう国民政府の軍隊だ
から、武器の差で最初から負けることは明白だった」。

 「熊本野戦郵便局の軍事郵便貯金に2500円ほどの軍隊時代に預け
た貯金通帳があり、1ドル・1円の換算で日本政府が貯金の払い戻しを
するという噂があり、戦後20年ほど経ってから熊本貯金局へ行き、引
き出そうとすると「カネは預かっているが払い戻しできるのは1円は1
円そのままです」という。 あれほど戦地で苦労したのに2500円だ
けとは怪しからぬ、と窓口で押し問答していると、奥から局長という人
が出てきて、「お気の毒ですが規則だから致し方ない。僅かな預金通帳
は記念にしまっておいて、今夜は私が接待するから、飲んで帰って下さ
い」といい、豪勢な食事を奢ってくれたのは嬉しかった。 ということ
で、軍隊時代の郵便貯金通帳はいまなお保存している。 うちは名誉あ
る日本陸軍伍長、あの第一回に軍人になった600人中、下士官に任官
したのはうちを含めて二十名ほどに過ぎなかった。」。

 「うちは生まれたときからの日本人、それがいつの間にか中国人にさ
れてしまったが、子供たちだけはどうしても日本人に戻したい。 長女
の月雲を日本へ送るから、お宅から日本の学校へ行かせ、日本人と結婚
させ、日本籍を取らせたいからよろしく頼む」。

 「うちは後日、台湾の警察官を辞め、大陸系の人と組んで商売をはじ
めたが、どの中国人たちも商売がうまくいかなくなると早々に逃げ出し
てしまう。 日本軍隊のいろはカルタの「に」の札の文句が「にげ足の
速いシナ兵」だった。 たしかに中国人は逃げ足が速いですな、梅さん
」と、居合わせたボクの相棒の梅氏に何樹木氏は言った。

■■ 「立場が違うから、逃げ足の速いのは当たり前ですよ。 われわ
れ中国人は4000年の昔から戦乱で逃げまくり、そのうちもっとも逃
げ足の速いのが戦後に台湾へ逃げてきたのです。 あんたがた台湾人は
曲がりなりにも日の丸を背負い、そのお蔭で逃げなくてもよかった。
 われわれ5億の中国人は過去4000年、逃げに逃げてここまで来た
。 もし逃げ足が遅ければ捕まって、どうせ殺されるか奴隷にされるか
の二つに一つ。 逃げ足の速いのも生きる知恵、こうして台湾でいっけ
ん安穏そうに暮らしているが、腹ではいつ何処へ逃げようか、どの国の
パスポートが取り易いかと考えながらその日を暮らしている。 私が最
近カナダのパスポートをとったのもそのため。 じつは日本のパスポー
トを取りたいのだが、これは世界でもっとも難しいパスポートだから諦
めるしか無い。 そのわれわれの悲しさなど、貴方たち台湾人は知らな
いから逃げ足の速いシナ人などと私たちを貶す。日本人も、年中どこの
国へ逃げようかと考えている中国人の苦衷を解ってくれない」と、梅氏
は答える。
 梅玉麟氏は、台湾に於ける当時のボクのパートナーで、蘇州生まれの
上海系実業家。 もと台湾随一の嘉新産業グループの大番頭で、益新紡
織、中国力覇などを経営し、いっとき台湾財界の知日派ロビーストとし
て有名であった。

 彼、梅氏は言う、「蒋介石氏は中国共産軍に追われ、はじめ海南島に
行くつもりだったが、調べてみるとそこには水が無い。 旧日本領の台
湾はいわば敵国だが、覚悟を決めてそこへ行くという。私も蒋介石氏に
続いておっかなびっくりで台湾へ移るべく飛行機に乗った。 飛行機が
台湾の島へ差し掛かると驚いたことに緑の山が見えた。 じつは私は生
まれて初めて山に木が生えているというのをそのとき知った。 山が緑
なら水もあり、食物もあるだろう。 600万人の台湾に、軍人を含め
て200万人の人がそのとき大陸から台湾へ移ってきた。 600万人
の土地に200万人がとつぜん移住してきて、それで食べ物は有り余っ
た。 驚くべき豊かさで、 われわれ大陸から来た外省人たちはほっと
した。 ここで十年ほど生き延び、そのうち次に行く土地を探そうと思
った。共産党に支配された大陸へはもう2度と帰れぬだろうが、やむを
得ぬ。 とにかく台湾本省人たちと争いを起こすまい。 だから遠慮し
ながら今までやってきて、台湾人とのトラブルはさいわい無い。 先ず
は安心している」。

■■ 次に邱壬芳氏。ボクの関係する台湾の会社の社長だったが、いま
はもう故人。 彼は言う「国民学校の高学年のとき戦争が終わり、大陸
から自分たちの軍隊がやってくるから全校生徒は迎えに出ろという。
 紺色の晴天白日旗を持たされて行って見ると、腰にこうもり傘を差し
た浮浪少年の集団みたいなのが続々とやってくる。 いままで日本の軍
隊の凛々しい姿をニュース映画などで見て憧れ、軍隊とはそういう堂々
としたものとの先入観があった。 その期待とすごくかけ離れた浮浪者
集団のようなのを見せられ、コレが自分たちの軍隊であると教えられた
とき、激しい嫌悪感で泣きたくなった。 手に持つ晴天白日旗の紺色が
、美しい日章旗に比べて不吉に見え、心の底に違和感を感じていたのだ
が、その上に浮浪者集団同様の軍隊というのを目の当たり見て、これが
今後の自分たちの軍隊であると教えられたとき、泣きたい衝動がもう抑
えられなくなってしまっていた。泣いた。 台湾の少年たちの、このと
きの切ない気持を今の日本人は果たしてどれだけ知っていただろうか。
 戦争に負けるというのは、こうした屈辱を忍ばなければならないもの
だった」。 

 「私は孫文やリー・クァンユーと同じ客家の血を引くとはいえ、生ま
れたときからずっと日本人だった。 名誉ある日本人と学校で教えられ
たその私が、あるときとつぜんにシナ人になる。誇りもナにもあったも
のではない、ただ歯を食いしばるだけだった」。 

 「私は大学を出てすぐ商社の日商岩井台北支店に就職した。 いわゆ
る現地雇用社員として、台湾人として初めて襄理(課長?)という名刺
の肩書も数年後にもらった。 その名刺を貰ったとき、日本から来てい
る支店長が言った言葉が忘れられない、「念のために言っておくがこの
襄理という肩書きは、現地台湾限りで顧客との商談に使用するものであ
り、日本本社では通用しないから左様心得るよう」と。 私は支店長の
この一言で、日商岩井の社員を辞職した。屈辱と引き換えに給料をもら
うわけにはいかない。これでも元日本男児なのだ」。 

■■ 葉光武氏(仮名)は台湾の国立大学工学系教授である。彼は言う
「私の亡父は戦時中日本へ留学し、旧制二高在学中は寮の室長を務めて
いた。 ときたま仙台警察の特高が訪ねてきて、台湾・朝鮮から来てい
る寮生の中で不穏な言動をするものが居ないかなどを父に聞いたそうで
す。 父は当時日本名を名乗っていたので特高の巡査は父が台湾出身と
は知らなかったのです。 二高を卒業して東大医学部に進学したころ日
本は戦争に負け、父は已む無く台湾へ帰り旧台湾大学医学部に転入学し
た。 大陸から来た国民政府の悪行に反発し、共産党に秘密入党した。
共産党台大医学院オルグとして動いたが、台湾国民政府に捕らえられ銃
殺刑に処せられた。ときに父28才、私はまだ母の胎内に居り、父の顔
を知りません」。 

 「父の残した私宛の日本語による多くの遺書類は幸い母が秘匿してい
て、それを糧として私は成長し、阪大に進学して工学博士号を得た。
 日本留学中はおおぜいの日本人のお世話になった。特に父の関係から
仙台旧制二高同窓会に、あたかも同窓会名誉会員のように遇され、何度
かスピーチする機会も与えられた。 私は阪大に留学したお蔭で日本語
による文献渉猟などに不自由せず、欧米留学してきた他の同僚教授連中
より、現在の台湾の状況下ではずっと得をしているし、現に私の大学と
日本の諸大学との学術交流の幹事役を仰せつかっている。 私は日本の
風俗習慣に馴染んでいて、休暇さえあれば今後も必ず日本に行きたいと
思っている。日本は私の第二の故郷です」。

■■ 旧制仙台二高と特に親しい葉教授のことについては、ときに新聞
記事にも載ることがあり、読まれた諸兄もいらっしゃるだろう。 新聞
以外にも、司馬遼の「街道を行くー台湾編」の、最初の第1章はこの親
子のことにすべてのページを割いている。 そのなかで司馬遼氏は言う
、「このまだお目にかかったこともない青年が、私との電話の向う側で
旧制二高の寮歌を堂々と歌ったのには感動した」と。

■■ 最後に蘇邦夫氏(これも仮名)、同じく台湾の国立T大学経済系
研究院教授のことである。 「私が特に日本の大学を留学先として択ん
だのには、勉強の他にもう一つ大きな目的があった。私の父は基隆炭鉱
に勤めていたが、戦時中に日本軍がフィリピン・レガスピーの炭坑を接
収し、その経営要員としてフィリピンに渡航、終戦前に日本軍人として
召集され、現地で戦死しました。 その戦死のときの状況を日本で調べ
たかったからです。 数年間の日本留学中に、暇を縫って旧復員局の文
書を漁り、フィリッピンに関す記事を隈なく調べ上げ、ついに父の戦死
した記録を見つけ出しました。 判ったのは、父の日本陸軍における身
分は兵補であったということです。 たとい兵補でもいい、戦死証明書
を発行してくれるよう厚生省と掛け合い、ついにそれを入手しました。
 間違いなく父は帝国軍人として名誉の戦死をしたのです。 それさえ
証明されれば、私の5年に及ぶ日本留学の目的の半分は達せられました
。 学位などはその次ぎのことです」。 
 その2.3年後、蘇教授は阪大経済学部より学位を授与され、台湾に
おける今日の地位にある。

■■ 以上、ボクの身近な台湾の知人たち数人の言葉を纏め上げてみた
。 彼らの日本に対する心情はまことにアンビバレントとしか言いよう
がない。 彼らに対してボクは、つねにもと日本人として敬意をこめて
付き合いさせていただいている。 彼らはボクら日本人ともっとも親し
かるべき親戚である。 それをいま、わがNHK番組は、日本が「アジ
アの一等国」になるため犠牲にしてしまった中国人たちであるという。
そうかも知れない。 がしかしボクとしては、彼らをしてただの中国人
に戻すには大きな抵抗を感じざるを得ない。読者諸賢はどう思われるだ
ろうか。 
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◆本澤二郎の「日本の風景」 <会見すっぽかし大統領>
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 ベネズェラのチャベス大統領の記者会見が6日午後4時30分に決ま
っていた。彼の標的・ブッシュがいなくなり、これからはどうするのか
?南米の勇猛果敢な為政者の顔を拝もうとして日本記者クラブを覗いた
のだが、なんと中止になっていた。友人たちが怒ること怒ること。すっ
ぽかしは平気なのだろうか。南米の独裁者にはマスコミなどどこ吹く風
と認識しているものか。

 やむなく日比谷公園の桜見物としゃれてみた。気づかなかったのだが
、ここには桜の木が多くない。わずかな桜も散っていた。活力を喪失し
た白っぽい色になった桜花は魅力的でない。旧態依然の今の政治を見て
いるようなのだ。日比谷公園の交差点に出てみると、そこに屋根のない
二階建て観光バスを初めて見た。観光バスは衣替えして客を集めている
のだろう。
 有楽町駅前の新有楽町ビル1階の通路に人影は少なかった。

<金・小沢・小泉に助けられる麻生>

 麻生太郎は、日本国民は言うに及ばず世界からも尊敬を集めていない
。それでいて何とか総理大臣の椅子に座り続けている。なぜなのか。
 3人の人物が助けてくれているからである。金・小沢・小泉である。
 「金さんのおかげが大きい。人工衛星打ち上げに対して弾道ミサイル
と吹聴、国民に緊張を植え付けることができた。マスコミが応援してく
れて大いに成果を上げた。内政の危機を外に向けることができた。金さ
んがいい時に衛星を打ち上げてくれたことで、内閣の支持率が上がって
きている」という分析は、おおむね正確であろう。
 「北朝鮮に感謝したい気分ではないか」といえる。「金さんの長命を
一番祈っているのかもしれない」という。
 「小沢も代表を辞めようとしない。これで民主党も自民党並みに格下
げとなってしまった。野党から追いつめられることはない。本心から代
表を辞めないで、と念じている」というのだが、これもそうかもしれな
い。
 選挙をすれば、圧勝間違いなしといわれてきた民主党だが、小沢が君
臨しているかぎり、それはなくなった。小沢・さまさまというのが麻生
の心境なのだから。
 野党に追いつめられての早期解散はなくなってしまった。
 そして小泉による「麻生降ろし」もない。郵政疑獄の発覚である。悪
役は小泉に向かっている。竹中・宮内の3人組に捜査をさせる必要もな
くなった?しかし、国民は納得していない。

<悲願は安倍・福田任期を超える>

 麻生の悲願は、安倍と福田の二人の短命記録に打ち勝つことである。
経済危機や7月サミットも、麻生には味方してくれる。可能性は決して
低くはない。愚かな3人組に助けられる麻生なのである。ついている。
むろん、それで日本丸が息を吹き返すことはない。日本丸は船底に大き
な穴が開いたままなのだから。むしろ、穴を次々に開けている。
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◆[セ・コリョ新聞日本語版] :2009年4月10日号
              発行 ユジノサハリンスク市 翻訳 Kil Sang
◇詳細/写真、記事は関連Webへ → http://www.609studio.com
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反ファシズム国際大会

 さる3日、ユジノサハリンスク市で「ファシズム収容所の元児童囚人
の目からみた第2世界大戦」というタイトルで反ファシズム国際大会が
開かれた。国内外から収容所生活を経験した元囚人たちや研究者、政府
関係者など数百人が参加した。本大会を主催したア・ホロシャヴィンサ
ハリン州知事は開幕の挨拶で「最近、ウクライナを始め世界各国でファ
シズム復活の兆候が見られる。しかし、被害を受けた人たちが亡くなり
つつあり、その実態と真実を正しく伝えることも日々難しくなりつつあ
る。サハリン州及びクリルは全地域住民が第2世界大戦を経験し、それ
を通じて戦争の悲惨さと怖さをよく知っている。だからこそ、我が州が
率先して平和を守るべきだと考え、本大会を呼びかけた」と開催の経緯
と目的を述べた。駐ロシアドイツ大使は開催に当って「大会のテーマは
我が民族の暗い歴史の一部分であり、我々ドイツ人はその歴史に対して
強い責任感を感じており、又、このような犯罪行為があったことを永遠
に伝えることと犯罪行為を否定するすべてに抗議することが我が民族の
義務であることを自覚している」とのメッセージを送ってきた。大会参
加者らは「人類は数百万人を犠牲にした第2世界大戦が与える教訓を未
だに十分に自覚していない。二度とこのような惨劇が起きないように若
者に広くその実態を伝えるべき」とファシズムの復活の動きを批判する
と共により積極的な反ファシズム活動を呼びかけた。大会が終わった後
、大会参加者たちと地元の学生や市民らを含め3500人が「ファシズ
ムに反対する」と書かれたプラカードを持って街を行進した。

若者の入隊を強行

 ロシア極東地域の軍参謀部は今年4月1日〜6月15日まで徴兵適齢
期の若者をすべて探し出し、今年春には入隊させると発表した。入隊対
象者数は1万5千人に達するとのこと。

サハリンと中国間で無ビザ協定締結

 今月15日からサハリン州住民は観光で中国を訪ねる場合、滞在期間
が14日間以内ならビザが要らないと、4月1日、サハリン州国際対外
経済及び地域間交流委員会が発表した。サハリン州の観光事業を発展さ
せるために取られた本措置で両国間の交流は一層活発になると期待され
ている。ロシア極東のハバロフスクや沿海州、ユダヤ人共和国、アムー
ル州などでは既に無ビザ協定が結ばれている。
旅行費が高すぎるサハリン

 先週、サハリン州で開催された観光フォーラムに参加したロシア連邦
スポーツ・観光発展担当局のア・シルチェンコ局長が4月1日、記者会
見を開き、「サハリン州は観光産業発展可能性が高いが、旅費が高すぎ
て観光客が来ない」と指摘した。当局によると、昨年、海外へ旅行に出
かけたロシア人は1、100万人で彼らが使ったお金は100億ドルに
達している半面、ロシアへの海外観光客は2、300人で、ロシアに落
とした金額は10億ドルに過ぎない。

秤を騙す

 サハリン州消費市場問題担当委員会が過去4カ月間・24カ所の商店
と市場を対象に販売行為調査を行った結果、秤で消費者の目を騙してい
るケースが少なくないことが分かった。商品を計ってから消費者が見え
ないように袋に入れる過程で量を騙したり、或いは事前に秤の目を有利
に調整して騙すなどの手法を使っているとのこと。委員会は「違反が摘
発されても2千ルーブルの罰金を払えば済む今の緩すぎる規制が問題。
より厳しい処罰が必要だ」と制度的問題を指摘した。

7人の若者犯罪組織団逮捕

 2005年〜2007年まで主にユジノサハリンスク市とポロナイス
ク市を中心に窃盗行為を続けてきた若者犯罪集団7人に先日5年〜17
年間の自油剥奪刑が下りた。18〜25歳までの青年7人が、住宅や機
関、倉庫などを回りイクラや車、現金など数万ドルに及ぶ金品を奪取し
てきたのである。

10年剥奪刑

 2008年10月12日、朝方4時30分頃、23歳の若い女性許某
氏が25歳の青年ユ・ゼボクさんとユジノサハリンスク市内のナイトク
ラブに出かけた。ところが、男の嫉妬で二人は口喧嘩になった。男は女
を外に連れ出し酷く暴力を振った後も、倒れた彼女を引きずりながら川
辺まで行き、そこで再び暴力を振い川に投げて家に帰った。専門家たち
は、女性は川に投げられる以前に既に死亡していたと結論づけた。裁判
の結果、ユ被告人には10年の自由剥奪刑が下りたが、検事はこの判決
に不服、より厳しい判決を下すように上告した。
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◆コラム・EYE「わんぱく通信から」:片山通夫
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 今朝(2009年4月10日)、朝日新聞を読んでいたら、「危うい
強硬論再び」―自民党内に北朝鮮攻撃論―という物騒な話が載っていた
。自民党内で北朝鮮の脅威から守るために核武装すべきだという意見が
再燃した形だと記事にある。

 昨日、和歌山に住む、「トンダ・モンタ 国連へ行く」の著者、本多
立太郎氏から「わんぱく通信」という同氏が発行する手書き・ガリ版刷
りのミニコミ誌が届いた。この6月にパリへ出かけ「憲法九条手渡し運
動」をするという報告。「わんぱく通信」によれば、「日本国憲法九条
を人の手から手へ渡す運動」を実践するとある。「あなたの国はこの法
律をお持ちになりませんか」と一言を添えて、95歳の本多氏が自らパ
リの街角に立ちビラを配るというのだ。

 本多氏は95歳である。同氏は先の戦争で2度召集され、中国の南京
では中国人を殺したという経験を持つ。その経験から、「戦争を起こし
てはならない」という強い信念を持っておられる。そしてこの経験を若
い人たちに知ってもらうために、「戦争出前噺」を引っ提げて日本国中
を歩かれた。そして今回、世界に「わが国が誇る憲法九条」を広めよう
と、最初の目的地にパリを選ばれた。

 戦争を知らない自民党タカ派を称する議員たちが、「北朝鮮の脅威に
見合った抑止力」という「核武装論」が党内で息巻いている。特にミサ
イル防衛の面で今回不手際が露呈しただけに、この不手際を覆い隠すた
めか、それともこの機に乗じてなのかはわからないが、物騒な連中が物
騒な議論を始めだした。

 「朝日の記事」と「わんぱく通信」の二つの記事に、今の日本の政治
の危うさと健全さを同時にみた。

 参考:「わんぱく通信」2009年4月1日号
     連絡先 info@journalist-net.com 
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◆コーヒーブレイクから         
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*コーヒーブレイク
http://coffeebraek.blog59.fc2.com/

*小説「ムンバイに消ゆ」
http://coffeebraek.blog59.fc2.com/blog-category-8.html

*備忘録
http://coffeebraek.blog59.fc2.com/blog-category-3.html

*セコリョ新聞日本語版
http://coffeebraek.blog59.fc2.com/blog-category-1.html
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◆[編集長から]              片山通夫
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  この所「夏日」が全国各地で続いている。桜も一気に咲き、そして散
ってゆく。「惜春」と言う言葉がある。逝く春を惜しむ。今年は惜しん
でいる暇がないようだ。桜前線北上中!

 民主党小沢代表が辞任すべきだと言う世論が高まっているようだ。毎
日新聞の調査では72%になると言う。ここは一気に「国会解散」か?

 「一気」と言えば、北朝鮮・ミサイル発射で国連安全保障理事会は一
気に合意。親分・アメリカには逆らえず「議長声明」で決着。
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発行     2009年4月14日   No.380
編集・発行  609studio   Michio Katayama
発行     毎週火曜日  購読料無料
配信          まぐまぐ配信システム       ID:0000052236
              MailuX配信システム        ID:MM3E1B97842E020
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投稿      http://www3.ezbbs.net/06/609studio/
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